たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

聖徳太子は東トルキスタン地域の亀茲から来たことの証明

聖徳太子のことで、重大なことに気づいた感じなので、このたびこの機会に少し。

 

聖徳太子といえば、最近蓄膿症が酷くなったので、鼻うがいで消毒しまくったら、かなり良くなっています。消毒しすぎて消毒太子と言われるほどになりました。

お医者さんというのは人生で幾度となく通ったのですが、ところが症状が酷くなってから、今まで蓄膿症だと診察してくれた耳鼻科も歯科もなかったのです。

それで過去に蓄膿症の悪臭が酷くなったりして、それは責められ迷惑人扱いされた経験もありました。

常にそうした出来事は世の中的には自己責任で片付けられて、猟奇的な感じで大規模かつ執拗に責め立てられたり嫌味を言われたりするのは、俺自身でした。

でも何十件・何十回と通ったはずの医者が、ちゃんと俺の症状の診察と治療をしてくれなかったではないか、という苛立つ気持ちがあるわけなのですが。

逆に言えばどうして医者は、何度通ってもちゃんと診察してくれなかったのか、治してくれなかったのかと。そこにどんな理不尽で陰謀的な理由があるとしても。

結果的に、俺が責め立てられる状況を招いたではないかと。そういう考えは決して間違ってないと考えるのですが。

そういうわけで、消毒太子になった今、聖徳太子のことが気になって仕方なくなりました。

  

 

先日書いた記事

石の宝殿は出雲と聖徳太子の矢印だった - たっちゃんの古代史とか

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聖徳太子の名前

 

聖(ひじり)とは宗教的にも道徳的にも崇敬された人のこと、あるいは日(太陽)を知るが如く物事を極めた存在。

「聖であり徳のある人」だから聖徳太子なのだと。普通はそう考えます。

しかし実は名前の由来が違いました。 聖徳太子は、色んな意味から、「遠くの海外からはるばる来た人」なのではないかと考えていました。

その海外から来たという出自を偽って、天皇家の中に養子的な感じで入り込んだのが聖徳太子こと厩戸さんなんだと。そこでこんな妄想をしてみました。

 

亀茲からきた聖徳太子

  

紀元前から西域と呼ばれていた、いまの中国新疆ウイグル自治区

ここは別名を東トルキスタンといって、古来よりタリム盆地とか、タクラマカン砂漠の名前もあったようです。しかしここ、実は元々紀元前4世紀の頃から、月氏の土地でした。

それで月氏の本体が、紀元前にタリム盆地から東の祁連山脈の周辺(アムド)に移動した頃。西域にはシルクロードに沿って、小国が林立したのです。ここはテュルク系諸民族が多く移住してきたので、東トルキスタンと呼ばれました。

亀茲も西域諸国の1つでした。別名に、丘茲、屈茲などがあったとか。

亀茲 - Wikipedia

亀茲とは、おそらく月氏の名前を変化させたものだと見ているのですが。月氏(ガッシ)→亀茲(キジ)と、音に共通性があるので。

いま中国人が月氏を「ユエジ」とか言ってるのは、本来とかけ離れている音で。本来の月氏は「ガッジ」「ゲッシ」みたいな感じで、日本人が古代の音をそのまんま保存しています。どうでもいいですけど。

亀茲は烏孫から妻を娶ったので、当初は烏孫と親しく、漢とも友好的でした。

 

西暦6世紀の頃、もしタリム盆地の亀茲人が、消毒しながら東へ行けば、数ヶ月~1年で倭まで到達していたんではないかと。

13世紀のマルコポーロは、イタリアのヴェネチアを出発して、わずか3年半でモンゴル帝国の夏の首都である上都(張家口市、北京の隣)まで達していました。6世紀と13世紀のシルクロードの交通手段が、そんな大きく変わるものだと思えません。

聖徳太子は、そんな亀茲から出発して、6世紀の日本に入ってきました。そういえば聖徳太子が起こした斑鳩寺(法隆寺) では、ペルシアのパフラヴィー文字と、イランのソグド文字が入った遺物があるとか。これも聖徳太子が持ってきたのかと、小一時間考えてみました。

 

聖徳太子が亀茲から来た証明

 

じゃここから、聖徳太子が亀茲から倭に入ってきたことの証拠の幾つか挙げて、日本の歴史を破壊して行こうと思います。

 

(1)・聖徳王と承徳王

 

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聖徳太子 - Wikipedia

聖徳太子は、実は消毒王・・・じゃなくて、「聖徳王」とも呼ばれてました。実はこの「しょうとく王」は、聖徳太子が最初じゃなかったです。

亀茲の紀元前1世紀に、承徳王という人物がいました。「しょうとく王」。この承徳王から名を取って、1字を変えて聖徳王と呼ばれていると考えられました。

これにより聖徳太子は、先祖が亀茲王であり、亀茲王族の子孫であることを、死後に表しました。

 

(2)・聖徳と亀茲

 

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亀茲 - Wikipedia

聖徳太子の「聖」を分解すると、「耳口の王」ってなるでないですか。これは、聖徳太子が同時に10人の言葉を聞き分けたっていう、伝説的な話にも通じているのは、偶然じゃないですね。

次に徳なのですが、「学研漢和大字典」の解字を見ると、原字は「目と心」を表してるのですね。

つまり聖徳の2字で、「耳・口・目・心」という、頭部の主要な機能を全部集約的に表してたんです。

しかも、聖徳太子の別名「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)」の「聡耳」を見れば、「耳心耳」が含まれてるので、聖徳と同一人物だとわかるようになってるんですよ。

 

これと亀茲に何の関係があるかって話ですが。亀茲という2文字を訓読みすれば、何になるかを考えてみればわかります。

亀茲とは「亀=かめ」、「茲=心=ここ」を合わせたもの。

亀茲を訓読みすると「かめここ」。

聖徳の意味「口(か)目(め)・心(ここ)」と一致します。

聖徳太子は、聖徳の2字に、亀茲との関係を込めていました。

 

ちなみに、亀茲は別名をクチャとも言って、口(クチ)に通じます。日本人が物を食べる音をクチャクチャと言ってるのは、知らず知らずに聖徳太子と亀茲(クチャ)を表していたとか。

 

(3)・亀は未来を占う 未来記の存在に一致する

 

以前に書いた記事で、亀は未来を占う動物だという話がでました。それに関係するのかどうなのか、西域の亀茲という国は、国名に亀を用いていますね。

亀というのは、古来より甲羅が占卜(せんぼく)に使われた動物でした。

それで、じつは「未来を予知する動物」と、紀元前の中国で言われてたのです。

袈裟襷文銅鐸の暗号解読すると出てくる神仙思想と易経の叡智

 

「亀茲が未来を占う」、そうした呪術的な能力に長けていた人たちだったとすると、亀は未来を占うという漢字に込められた本来の意味も、知ってたはずですね。

東の大国だった前漢とは仲良しな関係も築いていたし、対漢関係を重視して通訳や漢字の専門家を雇っていれば、当然漢字の字義みたいなものも知ってるはずなので。

 

それで、聖徳太子がなぜか、未来にやたら固執したというのも、頷ける話でした。

聖徳太子について、「日本書紀」にはこう書いてあります

 生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀

これを適当に訳してみると、

「生まれてよりすぐ言葉を話し、聖人の知識を有していた。十人の訴えを1度に聞き分け、まだ起きていない未来の事々を知っていた。高麗僧の慧慈に仏教を学び、儒教覺哿に学び、全てを極めて博識だった。父の天皇はかわいがり、南の上殿に住むように命じた。ゆえにその名を讃え、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と云う」

こんな感じです。

 

それで、ここで注目したいのが「兼知未然」。

聖徳太子は「未来記」という、謎の書物を残したとされるのですが、それは中世の武将、楠木正成が読んだという記録もあるとか。

しかも「日本書紀」で「兼知未然」と言ってるので、「未来記」があることを仄めかしてるんじゃないかと。そういった想像ができます。

 

兼知未然」・・・兼ねて未だ然らざるを知ろしめす

・兼=2つ以上のいろんなこと

・知=知ってる

・未然=まだ起きてないこと

 

兼知未然とは、「まだ起きてない色んなことを知ってた」「未来を知ってた」

 聖徳太子はこういう書物を書いてたというのです。

未来を見通す動物と言えば、「亀」、未来を見通すのは「亀の心」なんですよ。ここでも、聖徳太子は亀茲(亀心)に繋がってますね。 

 

 

シュライヒ ワイルドライフ ゾウガメ フィギュア14601                                                                                                                                                                                                                          

 

(4)・厩戸

 

厩戸(うまやど)は音読みしてみればキュウト。中央アジアから東アジアまで席巻した匈奴と似てます。馬とはそもそも紀元前の中央アジア原産の動物でしたので。これもアッチから来たことを表すのかも。

 

(5)・耳

 

「馬の耳に念仏」というのは「念仏唱えたって何の効果もない」ことの比喩的ことわざでした。しかし実はこれ、聖徳太子を示唆することわざだということに気づくのですが。

「馬の耳」というのが「厩舎で生まれた豊聡耳」こと聖徳太子を表していました。

念仏というのは聖徳太子も学んだ仏教のことで、「仏法を知り尽くした聖徳太子に、誰かが仏教を聞かせても何の意味もない」っていう意味が込められてるかもしれないと思ったのですが。

ほかに思いつくことがありました。

豊聡耳の「耳」はトルコ語とかキルギス語では、kulakと言って、クラが入ってます。

実は中央アジア東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のあたりは、古代にはカラ・クリ・クルと呼ばれる土地でした。

そもそもタクラマカン(クラ)地方として今も名前が知られてます。古代からはクルジャ(弓月)、カシュガル、カルルク、コラズム、トカラ。カラコルム、中世にはウイグルなどありました。これら全部カラ・クリ・クル系の地名なんですね。

それはなんでかというと、元々月氏がクル、つまり古代イスラエルからの流れを汲んでいて、その子孫の反映した土地が東トルキスタンタクラマカンだったからとも考えられるのです。

中央アジアは紀元前から仏教が発展した土地で、「馬の耳に念仏」というのは厩戸皇子が仏教の故郷、中央アジアから来たことも表すようです。

耳を備えた聖徳太子は、耳によって出自を表しているというわけです。

 

(6)・慧慈

 

聖徳太子の師匠に慧慈(えじ)という人がいました。このかた高句麗の仏僧だとのことでしたが、どうもこの人は聖徳太子と一緒に、亀茲から来た人だった気がします。

そもそも慧慈という字、聖徳太子と同じような意味合いを持ってるのです。

慧慈

・慧・・・聡い(さとい)

・慈・・・いつくしむ、めぐみ、(こころ)

聖徳

・聖・・・聡い

・徳・・・のぞましい(こころ)

豊聡耳

・豊・・・めぐみ

・聡・・・さとい

 で、慧慈って別の読み方すれば、亀茲と母音も子音も合ってますね。

慧慈 kei-ji

亀茲 ki-ji

 やはり慧慈は、高句麗経由で入ってきた亀茲人だったのではないかと。

 

(7)蘇因高

 

この名前を見て、あぁあの人ねと言える人はかなり歴史を学んでますが、蘇因高とは、「日本書紀」の推古天皇の十六年のところにでてくる、小野妹子の別名なのですが。

小野妹子は6~7世紀に実在した、聖徳太子に仕える、仲良しの弟分みたいな感じでした。小野妹子は当時の日本の外交のトップを任されていて、「「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)や」という文言を、東アジア世界の支配者だった隋の皇帝に言い放ったことで知られます。

ところで蘇因高が隋へ向かったのは6世紀のころでした。

このころ、亀茲のほうに目を移すと、興味深い事実が見えてくるのです。

 

6~7世紀の亀茲王

蘇尼咥(白蘇尼咥) 581年

蘇伐勃駃(白蘇伐勃駃) 615年

蘇伐畳(白蘇伐畳) 618年

亀茲王の姓は白氏で、このころは「蘇」の字を歴代の名前に使っている時代でした。。

蘇因高の蘇とおんなじでsu。しかも蘇因高と同じ時代の王、「蘇尼姪」は、男なのに尼で姪じゃないですか。

小野妹子(蘇妹子)が、男なのに妹だったのとにていますね。

そうすると、聖徳太子の仲良しな小野妹子もまた、亀茲の王族であり、当時の蘇尼姪とは兄妹か親子の関係だったのではないかと。

小野妹子が蘇因高とわざわざ名乗ったのは、亀茲の王族が隋の歴史書を後で読めば、蘇尼咥の親類である自分が、日本国にいることがわかるようにしたのかもしれないなと。

また、同じ時代の蘇我馬子の名前も気になってしまいますが、「蘇馬子」なので「蘇因高」にそっくりだし、もしかしたら、そーなのかもしれません。

 

(8)・歴史書

 

日本で古典三書と呼ばれている書物は、「古事記」、「日本書紀」、「古語拾遺」の3つです。

しかしコレ以前に「旧辞」、「帝紀」、「先代旧事本紀」、「未来記」みたいな書物がいろいろとあって、それらはドコかに隠されたり、焚書されてしまったり、散逸して一部が「日本書紀」に「一書に曰く」として残されているのみなのです。

 

で、これら記紀など古典三書以前の書物は、明らかに聖徳太子ら亀茲人のまとめた書物を元にしている、というのは、実は書物の名称からも見て取れたのです。

旧辞先代旧事本紀古事記日本書紀古語拾遺という名前を見ていると、どうも亀茲が浮かび上がってくるではないですか。

旧辞・・・亀茲(丘茲)

先代旧辞本記・・・先代亀茲本記

古事記・・・亀茲記 

なんで日本の最重要な歴史書は、亀茲の名を意図して含むのかと。これは不思議だと思いますが。

これがほんとなら、大陸の西域の亀茲人が、なんで日本の天皇大和民族の記録を残しているのか?と。

以前から神武天皇(昆莫)と大和民族が、中央アジア烏孫にいた」という記事をいろいろ書いてきました。

亀茲はお隣の烏孫と、兄弟国の関係でした。遊牧民で文字をもたない烏孫と違い、漢字やトカラ文字や文字など使いこなす文人が多かった亀茲は、歴史を記録したというわけです。

想像ですが。

そうすると記紀編纂の時代の天皇家も、太安万侶舎人親王も、日本の歴史が西域の亀茲で伝えられた歴史書の本文を元にしたことを、ご存知だったことになりますが。もし「日本書紀」に出てくる「一書」が見つかるなら、それはトカラ語やソグド語で書かれた、亀茲国の文書かもしれないです。

 

関連亀茲

 ・(前回の続き)神武天皇ご一家はキルギスで記録されていたとの調査結果  

 

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