こんにちわ、以前に書いたとおり、何も教えられず悪い方悪いほうに導かれて、フルボッコにイジメ抜かれて生きてまして愛国心も消失してしまった日本人です。
ちなみに家紋は鷹の羽の家でしたが、もうどうでもいいです・・・。
そんなこんなで不条理コースを突き進む中、ある時に天武天皇のことが頭によぎることがありましたので、死ぬ前にちょっと書き残しておきたいと思います。
それにしてももう死ぬとか言ってから25年は経っているので、なかなかしぶとい俺って。
○いつも助かっております
八色の姓(やくさのかばね)は何か変
脳裏をよぎった天武天皇。
このかた、7世紀に壬申の乱で先代の弘文天皇をぶち殺し、そのまんま皇位についちゃった・・・。そんなハイクラスな破天荒をぶちかました天皇でした。それでも狂ってたのかといえば、そうではなかったようです。
神道も仏教もどちらも基礎的なところから大切にして、いわば神仏習合の基礎を固めていった現人神といった具合でした。この方が最初に天皇という称号を使ったといわれています。
そして八色の姓という氏姓制度を新たに制定したことは、むかし教科書でも習ったことかもしれません。これは簡単に言えば、
「天武天皇以前まで雑多になっていた臣や連といった高位豪族を、皇族系貴族と地方豪族とに明確に分け隔てる制度」でした。
これにより皇族はヤマト王権の中で優遇度が格段に上がり、例えば官吏はみんな皇族出身者にするとか、なんかズルい待遇の変化が出るようになりました。
そこで誕生した八色の姓は以下の8種でした。
真人(まひと)朝臣(あそみ・あそん)
宿禰(すくね)
忌寸(いみき)
道師(みちのし)
臣(おみ)
連(むらじ)
稲置(いなぎ)
これはもう見る影もない制度です。しかしなにか奇妙な毛色を持っている、自分的にはそう感じ取るしかなかったです。
この八色の姓の何が変なのかと気になりますね。しかしそれはひとまずは置いといて、とりあえず天武天皇の諡号のほうを見てみます。
・・・と書いていたら、呪いをかけてくるおばさんが、いつものように玄関ドアをバン!とかやるのでイラっと来てしまった(2月13日)。
すると、天武天皇の諡号にはなにか不思議な漢字の羅列が見られたりします。ここに八色の姓が刻み込まれていることも分かるのです。
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
こんな名前の人がいたら、あま君としか呼ばれない感じがしました。どうでもいいですが。
「天渟」というのは、天地開闢のあとに伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)が天の浮橋の上から天之瓊矛(天之沼矛・あめのぬぼこ)により海原を掻き回してしたたる塩の塊が淤能碁呂島になったとかいう、あのときの矛の名前ですね。これにより天の創造神であるが如くの意味合いを込めたのかもしれないです。
淤能碁呂島(おのごろしま)が「自ずと転がる島=地球」であるとするなら、天渟中原というのは地上世界の真中のことです。
そもそも「中原」というのは中華思想における世界の中心、中国で言うところの黄河流域の華北平原のことでしたので。この当時の中原に当てはめられた日本の土地が、奈良盆地の明日香村の飛鳥浄御原宮のあたりでした。
それで「瀛(えい)」というのが道教でいう東方三神山のひとつ、瀛洲のことでした。この一字を以て「東瀛」とかも言って、それが日本の異名、雅称だったんですよ。
つまり訓読みの「瀛=おき(oki)」というのが日本の異名にあっておかしくないです。そう考えると、おそらく本州の本来の古名「秋津洲(あきづしま)」の「あき(aki)」に転訛している関係だろうと、考えたりするわけなのです。
そんでもって「真人」というのも中国由来の言葉だったのです。これは道教でいうところの「優れた道士」のことでした、というのは正直言えばウィキペディアで知りました。
「天皇」という称号についても中国由来でした。道教の思想のなかに三皇五帝という神話上の皇帝が出てくるそうです。
三皇とは天皇、地皇、泰皇、あるいは伏儀、女媧、神農の3人の神であるとか。
どうも天武天皇はこの天皇を気に入って、大王(おおきみ)の代わりに天皇を使いだしたとか。
というわけで、天武天皇という人は、完全に道教的思想の持ち主だったことは事実でした。このかたは道教に繋がる陰陽道や占星術なども取り入れていたので、まさに中国の思想で頭がいっぱいでした。
それを元にして一応は日本の伝統も守ろうとはしたようです。原初の神道に思い入れが強かったらしく、天照大神の信仰を重視していました。
そして天武天皇がどうしてやたら中国に傾倒したのか、そのへんは天皇家の本来の出自に関係しているのですが。そのへんは以前の記事でも読むとわかりますが。
秦人と始皇帝
どうして諡号の「真人」を、八色の姓の一番上に持ってきているかです。
真人を「まひと」とよめば 極めて日本的な印象を持てたりします。
しかし元々道教の「真人」に起源があるので、真人は「シンジン」と読むのが本来だったはずです。これがどうも大陸の「秦人」と同じ読みであることはたやすく理解できます。秦というのは秦の始皇帝が知られていたりしますね。
じつは始皇帝というのは、道教の大元である神仙思想を突き詰めて政治を行った人でしたので。そして始皇帝の元からは、東の蓬莱や瀛洲に徐福がたどり着いたりしていました。徐福とは方士であり、後に方士とは道教の使い手のことを指す言葉になっていました。
そうするとなぜ天武天皇の諡号に瀛洲の「瀛」が入っているかも、なんか関連が見えてきたりします。なぜならば始皇帝の本名が、「贏政(えいせい)」だったからなのです。
つまり、
日本 秦
2 中原 中原 居場所
3 瀛 贏 えい
4 真人 秦人 しんじん
5 天皇 皇帝 みかど
というふうに、天武天皇は思想の根幹に道教を置いて、すべてにおいて秦の始皇帝風な政治を取り仕切った。そういうホントのところが、天武天皇自信の諡号に込められてるという感じがします。
何しろ、自分の名前に始皇帝の贏を入れ、サンズイを足して瀛に置き換え、秦人と同じシンジン(真人)を入れ、中華の中心となる中原まで含めてしまっているくらいですので。
八色の姓のトップに真人があるのも、始皇帝=秦人の思想こそが一番であると、そのへんを暗に込めて居る気がします。
気がするだけですが、筆者のヤマカンは割と当たっていたりします。
これもネットを探しても出てこない話だったりしませんか。と思って検索してみたら、こんな記事が。。
・天武天皇は始皇帝を手本にした ( 歴史 ) - 歴史徒然:History Tsuredure - Yahoo!ブログ
言語学者の加治木さんが書いてたらしい・・・ただこの記事は天武天皇の諡号のなかにまで秦の始皇帝が隠されているとは書いていないので、ここはオリジナルだったようです。
秦の始皇帝の事績が、天武天皇に似ているとは知らなかったことでした。やはり今回想像できた天武天皇の道教崇拝と諡号のナゾは、真実に近いのではといった予感を受けました。・・・自己満足的ですが。
加治木さんといえば、著書のなかで烏孫起源説に言及している数少ない作家の一人です。天皇が烏孫から来ていると言う著書を出しているのは栗本慎一郎さん、卑弥呼が烏孫から来ていると書いているのが加治木さんです。
と、ここで話を終わらせても良かったのです。でも天武天皇の制定した八色の姓の真相は、もっと別のところにあったのではと、気づいたので次回に続けることにします。
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