何ということでしょう。毎日の膨大なストレスで、若干ハゲが加速してきました。
さて、前回の記事は鳥取県だったんですが、今回は福岡県の古墳から、古代地図を引き出して見たいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
○いつも助かっております
ちんしきつか
屋形古墳群
珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳の4基の円墳で構成される。現在、墳丘が残っているのは、古畑古墳と原古墳のみである。昭和61年(1986年)2月25日に国の史跡となった。
珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
奥壁と壁の腰石のみが残り、墳丘は古い時代に破壊されたと考えられる。壁画には点と線を多様に使った絵が書かれている。
最初は誰でも「ちんしきつか」と読んでしまうのが通過儀礼らしき珍敷塚古墳。ちんしきちんしき・・・とリズミカルに何度か口ずさんでいると、シーチキンになってきました。この古墳の年代は、古墳時代後期(6世紀)だとか。
何が一体珍しいのかというと、古墳石室の壁画です。
3時間くらいかけて描いた、壁画の写し。
これに何が描かれているのか、一般的な解釈を捉えてみたら、こんな感じ。
左から、太陽、船をこぐ人、烏(からす)、靫(ゆき)、靫、靫、蕨(わらび)、蛇、兵、盾、蛙、猪、太陽、烏、船着場
一般的にはこんな解釈がされています。
これはこの古墳被葬者にとって、思い入れの深いもの、動物、何らかの物語を描いたと言われています。いずれにしても昔の倭人が、倭の筑紫(福岡)あたりの思い出の光景を描いた、そういう認識が一般的。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、一番左側のここについては、別の解釈があります。
エジプト考古学の吉村教授が、珍敷塚古墳の壁画は、エジプトのセン・ネジェム古墳の壁画と全く同じテーマで描かれていると述べています。
『ファラオと死者の書―古代エジプト人の死生観 (小学館ライブラリー1994/05)吉村作治』
『ファラオと死者の書』 吉村 作治 | 考えるための書評集 より
確かに全く同じように太陽、船、右側の舳先の鳥という題材がすべて揃っているわけなので、納得できるところはあります。
じゃあ、
「珍敷塚古墳の左端は、エジプトなんだ」
と考えて、壁画を見ていったらどうですかね。ここからは珍敷塚古墳の左の船と太陽の部分はエジプトだという前提で話をススメます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
珍敷塚古墳の壁画で気になるのは、登場する人や動物の進行方向が、全部足並みを揃えて右向きという点にもあります。進行方向を矢印で示してみました。
こんな風に。船の人、船の烏、船の方向、蛇、兵、蛙、猪、船着き場の烏・・・すべてが右向きなんですよね。
左側の太陽と船の位置を出発地として、船着場のある場所が到着地であると考えていけば、壁画全体で何を表しているかは朧気に見えてきました。
つまり壁画の中で、太陽の船のある場所はエジプトです。
壁画の一番右側が到着した土地であり、現在の珍敷塚古墳の位置であるということ。
途中の靫(ゆき)は、ユーラシア大陸の途中の中継地点、国を起こしたのか、とどまったのかということです。弓矢や点々が、国に満ちた人の数を表しているでしょうね。
全ての人や動物が、右方向を向いているということは、左のエジプトが「西」であり、右の船着き場の到着地が「東」で、船着き場は倭の筑紫(福岡)の珍敷塚古墳のあたりなことを、意味していると読み取れますね。
前回は
鳥取県の梶山古墳の「イクトゥスの壁画」が表す、天皇家がユーラシア大陸を横断した記録
で、壁画のイクトゥスから古代天皇家と大和民族が中東から移住してきた、そんな結果を読み取れました。
今回のこの壁画も「珍敷塚古墳に葬られた倭人(の先祖)の移動を示しているユーラシア大陸の地図だ」っていうことが、なんとなく見えてくるわけなんですよ。
では1つ1つの要素を細かく見て行っちゃいます。
・蛇
蛇というのは古来から世界中で信仰対象となっていた動物でした。古代エジプトでは、ハヤブサの頭部を持って、図上に太陽円盤を乗せた太陽神ラー。太陽円盤を取り巻くのは蛇なのであり、蛇とは古代エジプトでは太陽と権威の象徴たる動物で、ファラオは王冠にヘビの頭のウラエウス(蛇型記章)を取り付けていました。
日本のイザナギ、イザナミは元々は蛇神だったのではないかという説があり。ナガとは蛇であり、ナミとはギザギザの波形(~~~~)だし、ミは巳ということで蛇を表しています。原初には天の沼矛をかき回し、天御柱の周囲を回転する様子があって、これらがギリシャの2匹の蛇がからまった蛇ケリュケイオン、シュメールのニンギシュジッダ、中国の伏儀・女媧と共通するモチーフでもあるのですよね。
参考記事
・本来は「翼ある蛇」だった斐陀国は、金印の委奴国と同一の民。のちに匈奴の攣鞮氏が入り込み飛騨になったかも
ということで蛇神信仰は、西のエジプトから、東の倭へ到達している可能性は、この壁画から見えるかもしれないことです。蛇の進行方向は西のエジプトから、東の倭となっているわけなので。
そういえばこんな記事も
・靫
弓矢を入れて背負う、ランドセルやリュックサックみたいな道具、それが靫。ゆぎ、うつぼ、箙(えびら)、矢筒(やぐない)ともいうとか。
壁画の中では3つの靫があって、東へと進むにしたがって靫の大きさも弓矢の数も点々の数も増しているようです。これは東へ進むごとに、エジプトから出発した勢力が増していったことを意味するでしょう。
エジプトから出発した民というと、やっぱりモーセの出エジプトをした、古代イスラエルの民ってことなんじゃないかと。だから珍敷塚古墳の一族の先祖はやっぱりアッチ系なんじゃないかと思ったりしますが。
靫の形状は何故か漢字の「月」形をしているのは、「月氏の土地を通った」ことを表しているようです。月氏は大陸の中央から漢の近くにまで、進出していました。
中央アジアのバクトリア(のちの大月氏の地)、タリム盆地の西域諸国(歴史的に月氏の地)、甘粛省や青海省土地(のちの小月氏の地)を経ていることが、壁画の靫=月で表されてるのではないかと。
そういえば思い出した。
日本の奈良県と、神武東征記録に月氏系の地名や人物名が、とにかく多いことについての記事はこちら。
・神武東征は「烏孫王の中央アジア東征だった」を、登場する人物名と地名から検証してみる
・蕨
蕨は縄文時代からある植物で、倭人やアイヌの絵柄にもよく使われています。蕨文、蕨手文と言われます。これは倭固有ではなくて、エジプトや中央アジアでも古くから用いられたデザインで、蕨文の模様は古代から世界共通だったのですよ。
で、この壁画に描かれているのは、実際には蕨じゃなくて、中央アジアの国を表すものかもしれません。
渦はウズで突厥が烏孫を呼んだ音が「ウズ」だったので、2つのウズがあることは、2つの烏孫を表していますね。烏孫は歴史上で、少月氏の土地に難兜靡が建てた烏孫が最初にあって、後にキルギスのイシク・クルのほとりに昆莫が烏孫を建てたということで、2つの渦がここで表されているのがひとつ。
もうひとつは、この蕨手文みたいな地形が、中央アジアに実在することから、正体が見えてくるのではないかと。これについてはまた今度。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
それで、出た結論がこれ。
(1)まずセン・ネジェムの壁画によって、珍敷塚古墳の被葬者の部族が、古代エジプトから出てきた(モーセ率いる古代イスラエル人の「出エジプト」の出来事?)ことをあらわしている。
(2)全ての人や動物を右向きにすることで、西のエジプトが出発地点であり、東へ向かったことを意味している。
(3)月の形をした靫により、月氏の領域=中央アジアに拠点を持ったことをあらわしている。
(4)渦によって烏孫(ウズ)をあらわしている。また蕨文の形状は中央アジアのタリム盆地、天山山脈、バルハシ湖の領域を表している。
(5)蛇は長い道のり。
(6)盾はトンであり、中国の唐(トン)と同じ。だから中国大陸を渡ってきたことを示している。またはトルコ系の遊牧民で、極東まで到達したタタルが倭まで来ているから、それを表している。盾の古語は「たた」なので、タタルを表すのに丁度よい。
(7)蛙は、中国に「月に蛙がいる」との神話があり、中国を通ったことを意味する。または扶余の金蛙王のことで、蛙は水棲だから海を泳いで渡ってきたことを意味する。
(8)猪は「いぬしし」で、倭の最初の国「委奴国」(いぬ国)に到着したことを示す。
(9)輪(◎)により「倭」をあらわしている。
(10)八咫烏が出発地点から船人の道案内をし、到着地である倭の船着き場にもいることで、はるかエジプトから渡ってきた民であることを表している。個人で渡ってきたというより、先祖代々を経ての記憶を描いているのだとおもう。
(11)セン・ネジェムの古墳の年代は、ラムセス2世(紀元前1314頃 - 紀元前1224年)の頃。月氏は紀元前3世紀から西暦1世紀。烏孫は紀元前2世紀から西暦5世紀。扶余は紀元前2世紀から西暦5世紀。委奴国は西暦1世紀。珍敷塚古墳は6世紀。
月氏、烏孫、扶余、委奴国と通ってきたとすると、紀元前5世紀~西暦1世紀頃の移住で、やはり居住期間に、かなり世代を重ねているのでは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というふうに、珍敷塚古墳の壁画から、色々な情報を読取ることができたわけなんです。
重要なのは、この珍敷塚古墳と全く同じテーマの壁画が、他にも複数存在しているということ。倭人のかなり多くがエジプト方面から端を発し、中央アジアを経て来ていることを、表していますね。
どうして古代エジプトのセン・ネジェム古墳の壁画を、左端に描いたのかの理由が分かってくるではないですか。壁画の真ん中と右側を、見るべきだったのであると。考古学の先生も、この壁画全体を見直してほしいですね。
遺伝子として残っていないのは、東アジアでの交配が、かなり進んだからということなのですね。あるいはよく言われるように、Y染色体のD系というのが中東系の遺伝子であるから、いま「縄文人の遺伝子」といわれているものが、実は「紀元前5世紀から弥生時代末期・古墳時代にかけて移住してきた倭人(モーセの古代イスラエル人→烏孫人・月氏人)の遺伝子」なんじゃないですかね。
とすると何で、弥生時代の大陸奥地から渡って来た遺伝子が、縄文時代に大陸から渡ってきた遺伝子だという風に言われているのか?という疑問が出てきてしまいますが。
まあ低学歴の仮説ですけど。
この記事と完全に整合する内容の記事を、先日書いてた。
こちらも合わせて読むと理解が早いです。
人気ブログランキング