なんか、令和時代って、アレですね。
変換できない。
礼和、例話、例羽、れいわ、レイワ、reiwa・・・・・
令和が、禾口→ネコ
という解釈がツイッターで話題ですね。もうネコの時代が確定らしい。
ところで「れいわ」って、たつやに似てますね。
・・・カオスな未来が浮かんで来ますよね。
令和と書いておいたほうが良いですね、ネコですけどね。
コレ書いてたら雷が、ピカッ!ドドドドーン!と鳴った。
雷の、お礼は(礼和)、要らねーですよ。本日も雨。連日のように雨。
○いつも助かっております
魚豢と卑弥呼
最初に卑弥呼のことを魏に伝えたのは、「魏志倭人伝」の陳寿という人じゃかったとか。
魏志倭人伝の元になった書物に「魏略」があり、これを記したのが魚豢(ぎょかん)なる謎の人物でした。魚の缶だと、サバ缶やサンマ缶が昔からの売れ筋らしいですね。
歴史的には劉表と顔見知りで、魏に仕えていた文官であった、裴世清が知っていた、倭について詳しく書いた最初の人だと、そのくらいしか情報が無かったりするのでした。
ところで卑弥呼という名は「卑しい」が使われているから、中国が倭を貶めるために「卑しいという忌み字を当てた」というのは定説のようでした。
しかし卑弥呼という名前は卑弥呼自身が考案したのではないかと、近ごろはずっとそんな気がしています。何故なら卑弥呼の名前からは、崇神天皇との共通点が見えてきたりするから。
そして何故かこの魚豢と卑弥呼の間には、因縁があるような感じがしました。
まず魚豢というのは、
魚・・・お魚
豢・・・豢う(やしなう、養う)
という意味なんですね。
魚を取って生活を養う人、それって「魏志倭人伝」に出てくる倭人の描写に似ているような気がする。
「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫(だゆう)と称す。夏后少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪分身、以て蛟竜(こうりゅう)の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、分身しまた以て大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)う。」
「魏志倭人伝」 石原道博編訳p45
メモ
蛟龍・・・海の害獣
魚蛤・・・魚やはまぐり
水禽・・・水鳥
この一文と、魚を養う魚豢さんが、倭と同じ「委」の編を持つ「魏」の皇帝に仕え、倭の記録を残したことは、良く整合している気がしますね。
魚豢が倭系の人だったとしてもおかしくないかと。
「魏志倭人伝」 石原道博編訳p108
卑弥呼と魚豢
あと、意外なことに、卑弥呼と魚豢の関連も伺えたりしまっす。
豢は「やしなう」であると書きましたが、下の部分は豕(いのこ)といって、猪や豚のことです。
それでなにが共通するかといえば、卑弥呼の名を見てみれば、
卑を「いやしい」と書いて「やし」を含んでいますね。魚豢と同じように。
「呼」は「お」とも読める漢字で、ようするに「弥呼」は澪(みお)とも読めてしまう。澪とは水の尾、水路のこと。「弥」は端から端まで渡ること。
まとめると、
魚豢
魚=おさかな(水の中)
豢(やしなう)→やし
弥呼=澪(水路)、弥=渡る
卑(いやしい)→やし
という風に、魚豢と卑弥呼の間には、水とやしの関係性が見えて来たりするのです。
ここで「やし」とは何かという疑問も出てきますが、2人の間には確かに共通点が見つかりました。
ここからは、卑弥呼という水路を泳ぐ魚が、魚豢といった印象を受けます。
魚豢が倭のことを詳しく書いてたり、卑弥呼の情報をいち早く「魏略」に書けたのかは、「魚豢が卑弥呼と繋がる倭人で、魏に出張していた」で説明がついたりするわけです。
中国の書物によれば、倭人は渤海の北から~朝鮮半島~日本列島まで広範囲に住んでいました。地中海のフェニキア人みたいな存在だったようでした。
フェ 倭 肥
ニ 奴 の
キア 国 国
「キア」とは国という意味
で、倭とフェニキアの関係は漢字の使い方からも読み取れます。
倭人はどうも大陸情勢を逐一収集していたようで、大陸の倭人コミュニティが活用されて、常に邪馬台国に情報が集結していたようですね。
ともかく魚豢はそうした情報網の統括的な役割で、倭人の代表として魏の中で情報発信役をしていたと。そんな想像はできたわけです。
これ美味しそうじゃないですか。玄米ごはんのお供に。