たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

皇極天皇(斉明天皇)が意識した女王卑弥呼と女王壱与

近ごろは疲労が抜けないし暇も無いので、ブログ更新がなかなか出来なくなってきますた。

ところで、未だ歴史作家も触れていない卑弥呼に纏わる真実は、まだまだ俺の頭の中に湧いてくるようです。・・・想像ですけれど。

史書では卑弥呼の人生について、ほんの数行しか書いてないけれど、実際には卑弥呼の人生は50年以上に及んだのだから、卑弥呼の手がかりは根掘り葉掘りすれば何かしら、あるだろうと思うわけで。

尤も探す方法が分からなければ、なんにも分からないわけなのですが・・・。

 

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諱からわかる皇極天皇卑弥呼の関係

 

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斉明天皇 - Wikipedia

 

手がかりの1つは、皇極天皇の記録から見つかったのは僥倖でした。

わかったのは、飛鳥時代皇極天皇って実は女王卑弥呼と女王壱与に信奉し、生き様もコピーしたんではないか、という突如頭を擡げた仮説なのです・・・。

それはまず皇極天皇の諱(いみな)、本名を見るところから、分かってきます。

 

皇極天皇重祚して斉明天皇

諱 寶女王(たからのひめみこ/宝女皇)

諡号 天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

年代 594~661年

斉明天皇 - Wikipedia

 

歴史上で重祚した天皇は少ないですが、そのうち1人が寶女皇でした。

重祚とは退位した後に同一人物がワンモアチャンスという、何かの拍子にもう一回やっちゃったという稀有な出来事。

35代皇極天皇(寶女皇)→36代孝徳天皇(弟)→37代斉明天皇(寶女皇)

 

この方、どうも完全に「卑弥呼+壱与」を意識していたと確信しますが。それがどうも「生まれた時から決まってた」的な、運命に従ったかのようです。

 そもそも「日本書紀」の皇極天皇の条の序文に、「古来の道に基づいて政治を行われた」(「日本書紀全現代語訳」p134)とあるので、その古来の道とは卑弥呼が行った政治なのかと考えました。

 

 

女王卑弥呼と寶女王

 

まずその諱(いみな)からして、卑弥呼的な印象が見て取れましたが、その理由はこれ。

寶(宝)

呉音・漢音:ホウ、慣用音:ホ

唐代以降は天子の印のこと

古訓:オコル、シルシ、タフトフ(とうとい) 

 

「学研漢和大字典」より

この漢字の意味も含めて、いろいろ気づくことがありました。

 

 

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女王と女王

 

まずすぐに感づいたのがこれですが。なにしろそのまんまなので。

 

卑弥呼は女王

皇極天皇は寶女王

 

というわけで、 皇極天皇の本名に「女王」が含まれるんですよね。普通は「たまたま女王を使っただけ」か「偶然同じ女王なだけ」、で終わってしまいますが。

女王の一致に気づいた時点で、女王卑弥呼を意図したんでは?という発想は湧いていました。

今でも過去の偉人から1字もらって命名するなんて、普通にあることなので。まず女王卑弥呼・壱与の女王を意図して、命名されているのではないかと。これが1つ。

 

 

天子の印

 

以前にも書いていましたが、卑弥呼の弥とは「古代中国の公用印」のことでした。卑弥呼の場合は魏の天子(皇帝)から授かった金印紫綬がそれです。

一方で寶女王の「寶」は、「唐代以降は天子の印のこと」(学研漢和大字典)なのです。皇帝は天子であったのだから、皇極天皇が寶の一字を名付けられたのは、卑弥呼を意図してのことだったようですね。

 

 

古来の道とは

 

すると皇極天皇は「古来の道」を元にして、つまり「古来の卑弥呼の主導した道」に倣ったと考えられるのです。すると皇極天皇の行動自体が、卑弥呼が行った政治に直結すると捉えられました。

 

じゃ皇極天皇の古来の道がどんなだったか見てみると。

天皇は工事を好み、やたら長い溝を掘らせ、狂心の梁(たぶれごころのみぞ)を作り、しばしば須弥山を作らせ、盂蘭盆会により蝦夷と大陸人を饗応し、都を造営し、神社を建てさせ、船に乗って移動し、蝦夷討伐を行い・・・といった感じですが。

こうした皇極天皇斉明天皇)の行動は、もしかすると全て、卑弥呼と壱与のやり方を踏襲したものなのでは?と、「古来の道」の言葉と、皇極天皇の名前から全てが想像されるばかりですが。

 

 

女王→男王→女王 

 

これは「魏志倭人伝」を何度も熟読した人なら、「あ」と納得できるところです。

女王卑弥呼が死去した後、倭国では男王を立てるも、国内は従わずに戦争状態となってしまったのです。そこで卑弥呼の後釜に、壱与という少女を女王として擁立することで、事態を収拾しました。

卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」

(中国正史日本伝(1)石原道博編訳)

要するに女王卑弥呼と女王壱与の時代、

①女王(卑弥呼)→②男王→③女王(壱与)

 

という流れになっていたのですが、一方で皇極天皇斉明天皇)は、

①寶女王→②孝徳天皇(男王)→③寶女王

といった形で、「魏志倭人伝」の卑弥呼・男王・壱与の間に繰り広げられた王位継承の流れを、再現して見せていました。

 

 

男王は卑弥呼の弟だったかも

 

ここまで寶女王が、卑弥呼の歴史を写し取るのであれば。

寶女王の後に即位した孝徳天皇が、寶女王の弟だったことにも、意味があるのではないかと閃くものがありました。

それを紐解けば、

・寶女王(皇極天皇)の後に即位したのは、実の弟(孝徳天皇)である

・だから女王卑弥呼の後に即位した男王とは、卑弥呼の実の弟である

まぁ、皇極天皇が「卑弥呼+壱与」を自分一人で再現するには、真ん中に男王の役割が必要だったわけです。

孝徳天皇は、皇極天皇を盛りたてるダシ、盛り上げる前座として、まんまと使われたんですね。

  ・・・

 

 ということで、皇極天皇摂政と生活をおこなった宮殿の場所もまた、卑弥呼・壱与を踏襲していておかしくなかったです。

皇極天皇の拠点がどこだったか、それを調べると、女王卑弥呼と壱与の居場所に繋がるのではないか、というわけですが。

これまたいつか。

 

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