たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

神武天皇ご一家のお名前が~何故かそのまんま中央アジアのキルギスで記録されてた件

f:id:kl117cr233:20180113141311j:plain

なんか「さっさと日ユ同祖論の記事かいて」みたいに、頭の中にリクエストが入った気がしたので、日ユ同祖論に関係ある話、書くことにします。

これは電子書籍化する予定に含まれてたのですが、まぁ発表しちゃいます。もう今から7年くらい前にはすでに研究がほぼ完成してたのですが、日々罵声を浴び続けるうち、発表の機会を逸していました。

 

f:id:kl117cr233:20180113141526j:plain

ちりとり持って踊ってる謎の猫さん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○いつも助かっております

 

 

神武天皇一家が中央アジアで記録されているだって?」

 

まぁこれは、ちょっと日本の歴史について保守的なかたには、耐えられないかもしれません。日ユ同祖論みたいな証拠もはっきりしない話は。

しかし俺の場合は、別に日本に対する愛国心も希薄な感じだし、しがらみも何もないので自由に発想しております。

天皇家古代イスラエルにいたのであれば、当然ながら、日本に到達する時には必ず「中継地点」が大陸各地に存在してるわけなのですよ。駅伝競争みたいに。

それがどうやら、中央アジアキルギス民族が中継地点として実在し、日ユ同祖論の真相に迫る情報を、ずっと保存記録しているのではないかと。

しかもその証拠は、思ったよりはっきりしたものだったんではないかと。これを7年以上前に見つけたわけなのです。

 

それを見せる前に、キルギス古代イスラエルの関係についてちょっとおさらいします。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

中央アジアキルギスイスラエルの失われた支族である

 

「日本の中のユダヤ文化」(久保有政)という本があるんですね。この本、もう10年も前にamazonで入手しました。

 

日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相

 

キルギスには昔から「マナス叙事詩」という伝承があったとか。日本で言う記紀神話みたいなものですね。それが近代になってから、書いてある内容が古代イスラエルの「旧約聖書」にある「マナセ族」についての内容とそっくりで、登場人物のマナスとヤコブも同一人物なのだと、判明したそうなのです。で、キルギスでは習慣も古代イスラエルと同じものが残ってたり、明らかにキルギス人は聖書的なのだそうです。

それに加えて不思議なことに、キルギス人の言葉は日本語に似てるものが多いとか。

 

こんな話も。

キルギスの方々の間では「大昔、キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚を好きな者は東に渡って日本人となった。」と言われていると伺っており、またキルギス人と日本人は顔がそっくりであるともよく聞いています。
出典 在京キルギス大使館の開館


キルギスの伝説
キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人となった。」


日本神話山幸彦と海幸彦
「弟の山幸彦(猟師)は獣をとり、兄の海幸彦(漁師)は魚をとっていた。」
兄弟は争いをするが、兄が弟に服従する事で仲直りする。

出典キルギス人と日本人 みんなのM君

日本人に瓜ふたつ!?「キルギス人」とは - NAVER まとめ

というふうに、古代イスラエルキルギス、日本は、繋がってるらしい。

ではコレを踏まえて本題に入ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

キルギスで記録されたった神武天皇ご一家

 

まず、以下の伝説的な高貴な一家の名前。これを見て欲しい。これが、神武天皇一家の名前によく似ているのです。

Бишкек

Баймурат

Манаккозу

Манапбай

Ырыскул

この方々は、紀元前にキルギスを支配して居た王家だとのことです。

あちらでずっと伝承されてきたとか。

 

キリル文字だとのことですが、普通の日本人は読めません。 

だからこれに、ローマ字とカタカナ付けます。

Бишкек Bishkek ビシケク

Баймурат Baimurat バイムラット

Манаккозу Manakozu マナッコズ

Манапбай Manapbai マナプバイ

Ырыскул Iryskul ウィリスクル

 

これが天皇家の名前?

なんのこっちゃと、これだけじゃ、わけわかりませんね。

 

次に、上記の謎のファミリーと、別のファミリーをローマ字で比較した表を見て欲しい。ここには父親と母親の名前というか関係する名称も入れてみました。

f:id:kl117cr233:20180118202356j:plain

 ( ゚д゚)ポカーン・・・

これもまぁ、良くわかりませんね。一見してなんの一致点も無いで寿司。

 

じゃあ、まずこの謎のファミリーの、子どもの名前の意味を解き明かしてみる。名前のひとつひとつの意味を調べると、分かってくることがありました。

f:id:kl117cr233:20180118205646j:plain

するとこうなった。グーグルのキルギス語の翻訳を使ったり、調べるとこんな感じになるのです。

ここで注目なのは、神さま、人体(目・耳・手)、ギリシャ神話の神の名前が登場すること。

あと、謎の言葉「bai」。

manaについて補足

manaというのは、神さまに関係しているのが明らかなのです。

旧約聖書」で、空から降ってきた神さまの食べ物をマナと言って、それをマナの壷に納めたという話があるんですね。

ハワイのほうでは「神秘的な力」のことをマナと言うらしい。

日本で「真名板」と言えば食べ物を調理する板なので、不思議と「旧約聖書」のマナに通じているんですね。一説に真名とは出雲の「建御名方神(たけみなかた)」の「御名」だとか。

要するにmanaとは、世界ではどう見ても神や神秘に関係しているような言葉なんですよね。

まぁこのへん、特に囲みや太字を記憶しておいてください。

 

では次に、日本のとある一家、というか神武天皇一家についても、意味を解読してみたのがこれ。f:id:kl117cr233:20180118211027j:plain

比較しやすいようにローマ字表記にしました。

まずは神武天皇一家のお子様のほうを、こうやって解き明かしたのです。

 

すると、やはりこちらでも神さま、人体(耳)が目立っていますね。あとはyai(八井)という謎の言葉が気になるところ。

それにしても、キルギスの高貴な一家と神武天皇一家は、似た意味の名前が、使われてることがわかるじゃないですか。 

 

これってもしかして、キルギスの一家と、神武天皇一家は、全く同じなんじゃないか?

そんな風に考えて研究を続けました。

そして同じ特徴同士で比較した表が以下のもの。

 

f:id:kl117cr233:20180118215452j:plain

この表についての解説。

( 1)baiと八井

日子八井のや神八井耳の「八井」は、「yai」と読ませている。だけれど、日本語の別の読み方をすれば「bai(八井)」ですよね。ここでbaiが一致しました。

 

(2)神さま系

manaは神さま関係、もう一方は神で、そのまんま神さま。どっちも神さまの意味が入っていました。

 

(3)人体のパーツ

不思議なことに、神武天皇一家は「耳」を多用するのです。コレの意味は不明でした。しかしキルギスの一家のほうも、人体パーツを含めているようです。耳っぽい名前も入っていたことで、神武天皇一家が耳を多用する理由が分かるかと。

 

(4)それぞれの対応が判明

manapbaiが神八井耳ではないか、だとすれば、残りの日子八井がbaimratに当てはまるみたいだ、そしてmanakozuは神沼河耳ではないか、すると残りの多芸志美美がIryskulに対応している・・・こんな風にして考えていったわけです。

 

(5)他の特徴も似てた件

IryskulのIryは、キルギス語で「歌」なのですね。

一方で多芸志美美の「芸」というのは、修練して身につけた技能、学問、技みたいなものなんですよ。

あと、「日本書紀」では「研」をつかってますが、この字は研ぎ汁の「togi」じゃないですか。トギといえば、「お伽噺」の「伽(とぎ)」だな、お話だな、とふと思ったんですね。

「 歌、伽(話)、芸」・・・これって、全部芸能のことを言ってる、ということはIryskulと多芸志美美の共通点が、更に補強されたようでした。

 

(6)さらに名前もそのまんまな可能性

manakozuと神沼河耳ですが、この方々、名前もほとんど一致しているのです。

分解したとき、

ma-na-ko manakozu

nu-na-ka 神沼河耳kamu nunakawa mimi

 こうしてそっくりだったのですね。そういえば「manako」って、日本語で目(まなこ)のことだし。キルギス語でkozが目だと言うのですが、manakozuさんで繋がってたようです。

 

「遠く離れた古代の王家と神武天皇一家の、名前の意味を調べると非常に似通っていた」、これって不思議じゃないですか。 

あ、これ、元々同一人物だったのが、大陸を縦断して年月を経て、内容が変化してるんだろうなと。それにしても原型をよくとどめてるなと。

限られた人数と文字数で、よくここまで一致するなと関心するわけです。

 

そんな感じしませんか。

 

参考文献 ビシケクの伝説

МИФЫ И ЛЕГЕНДЫ КЫРГЫЗСТАНА

 

Легенда о городе Бишкек

3Как говорят старые люди, в давние времена между реками Аламедин и Ала-Арча в прекрасной долине разбил свою ставку Курманбек-хан. Однажды, возвращаясь с охоты в сопровождении джигитов, хан услышал шум и крики женщины: «Бишкек! Куда же ты подевался, Бишкек?!».
(А «бишкек» у кыргызов — мешалка для взбивания кумыса — вкусного и целебного напитка, получаемого из кобыльего молока). В это время из ближайшей юрты раздался плач новорожденного.
Склонясь с седла, Курманбек-хан спросил: «Чего ты шумишь, женщина? Зачем искать то, что само отзывается? Слышишь, Бишкек тебе голос подает!». У юрты, одинокой и небогатой, возле кумысного сабаа (кожаная посуда, где постоянно находилась кумысомешалка-бишкек — самое чистое, всеми почитаемое, крепкое арчовое приспособление, с помощью которого доводят кумыс до кондиции) сидел и слушал их, улыбаясь, счастливый отец новорожденного.

— Прими подарок, — сказал Курманбек-хан родителю и бросил ему свою камчу. Не зная, как отблагодарить хана, счастливый отец произнес:
— Да будет имя моего сына Бишкек и пусть Ваша камча принесет ему удачу!
Так, с легкой руки Курманбек-хана, мальчик был наречен Бишкеком.

С малых лет Бишкек отличался богатырским здоровьем, был первым в единоборствах и в вооруженных набегах. Враги не знали, откуда ждать Бишкека, потому что тактика у него все время менялась. Рос Бишкек баатыр, как говорится, не по дням, а по часам. Вместе с ним росла его слава. Враги уже боялись его и, поэтому, со временем оставили род Бишкека и его крепость в покое. Однако, поссорившись с местной знатью, Бишкек баатыр покидает родной аил Майчоку и перемещается сначала в урочище Чункурчак, в верховьях реки Аламедин, а затем переезжает на возвышенность в среднем течении этой реки, где незаметно проходила заросшая тропа, ставшая потом знаменитым Шелковым Путем. Дальновидный Бишкек, с целью объединения разноплеменных кыргызов, последовал народной мудрости «Бери не жену, а родню» и женился на дочери знатного человека из далекой Таласской долины. У него родились дети, один краше другого: Баймурат, Манаккозу, Манапбай, Ырыскул. Кстати, потомки Бишкек баатыра ныне проживают в селе Тюз Сокулукского района и насчитывают 40 семей (более 300 человек). Китайские источники свидетельствуют, что в 60-х годах 18-го века в Чуйской долине кыргызы имели свое укрепление Бишкек, противостоявшее различным завоевателям. Много позже кокандцы, завоевав Семиречье, основали на этом месте свое укрепление, которое также назвали Бишкек… Впоследствии оно появилось в искаженном написании как Пишпек, хотя в восточных сочинениях известно как Бишкек.
В 1926 году город получил название Фрунзе в честь известного полководца времен Гражданской войны, который родился и жил в Бишкеке, и только в условиях суверенитета, в 1992 году столица Кыргызской Республики вернула свое первоначальное название.

 

 ビシケクの伝説

9昔から語り継がれているように、昔々、アラメジン川とアラアルチャ川の間にあるすばらしい谷に、クルマンベック・ハンは自分の陣営を構えた。
ある日、家来とともに狩りから戻ったハンの耳に、クムィスを作っている女性が騒々しく叫ぶのが聞こえてきた。「ビシケク(*1)よ、いったいどこへいってしまったの?」
ちょうどそのとき、近くのユルタから生まれたばかりの子どもの泣き声が、それに応答するかのように響いた。クルマンベック・ハンは馬から降り、尋ねた。「何を騒いでいるのだ。なぜ応答しているのに探しているのだ?聞いているのか、ビシケクは君に答えているではないか。」
クムィス・サバア(*2)の近くにひっそり立っている、裕福ではなさそうなユルタで、幸せそうな新生児の父親が微笑みながらそれを聞いていた。

「祝いの品を受け取りたまえ」クルマンベック・ハンはそう言い、彼に自分の絹の織物を放り投げた。ハンにどうお礼を言っていいのかわからず、幸せそうな父親はこう言った。
「息子の名前はビシケクにします。頂いた絹の織物が息子に幸運をもたらしますように。」
こうしてクルマンベック・ハンの一言で、男児ビシケクと名づけられることになった。

ビシケクは小さいころから抜きんでて力強く健康で、戦いや武装襲撃で負けることはなかった。敵はどこからビシケクを向かい討てばいいのかわからなかった。毎回戦術が変わるからだ。ビシケクはみるみるうちに大きくなった。ビシケクが大きくなるとともに彼の評判も上がっていった。みな彼のことを恐れるようになり、時とともにビシケクの一族と彼のいる要塞を攻めるものはいなくなった。ところが、その土地の族長と口争いをしたビシケクは、故郷であるマイチョク村を去り、アラメジン川の上流にあるチュンクルチャクへ行き、その後この川の中流にある、草の生い茂った小道がひっそりとある高地へ移った。この小道こそが後に有名なシルクロードになるのである。
先見の明あるビシケクは、多種族に分かれていたキルギス人を統一しようと、「妻ではなく、血統を取れ」という民衆の英知に従い、遠くタラス谷の族長の娘と結婚した。子どもたちは誰よりも凛々しく、バイムラット、マナッコズ、マナプバイ、ウィリスクルと名づけられた。ちなみにビシケクの子孫は現在、ソクルク州テュズ村に住み、40家族(300人以上)にもなっている。中国の歴史家によると、1760年代に様々な侵略者に対抗するビシケクというキルギス人砦がチュイ谷にあったと言われている。その後何年か経ってから、セミレチエを侵略したコーカンド人は、ここに自分たちの砦を築いた。この砦もビシケクと名づけられた。これが後に見つけられる書簡にピシュペクとして出てくるのである。東洋の作品にはよくビシケクという名が見られるのだが。
1926年、ビシケクはフルンゼに改名された。ビシケクに生まれ育ち、市民戦争で軍の司令官を務めたフルンゼに敬意を表してつけられた名前である。そして独立後の1992年、やっとキルギス共和国の首都は最初の名前を取り戻すことができたのだ。
(*1)キルギス人にとって「ビシケク」とは、馬乳から作られた、おいしくて体によい飲み物であるクムィスを作るときに使う、泡立てるための棒のことである。
(*2)皮からできた容器。いつもクムィスを混ぜる棒であるビシケクが置かれており、清く皆から崇拝され、杜松から作られた丈夫な器具で、これによってクムィスを作ることができる。

 

キルギス共和国日本センター

 

次回明らかになること 

 

 で、これだけじゃまだ終わらないのです。

神武天皇と奥様の特徴も、キルギスの高貴な一家と似てることもわかりました。

それに、「日本書紀」の神武天皇についての伝承、これもこのキルギスの伝承の中に入っているんではないか?これも判明しています。

それにしても、どうして遠くはなれているキルギスに、神武天皇一家と似た意味を持つ人名の記録が存在するのか?という疑問があります。

以下の3つの説が考えられました。

(1)ものすごい偶然で、キルギス王一家と神武天皇一家の、名前の意味が似てしまった

(2)キルギス神武天皇一家がいたから、両国に同じ意味を持つ一家の名前が残った

(3)日本の神武天皇を先祖とするキルギス人が、キルギス神武天皇情報を持ち込んだ

この辺は知りたいところです。

実はそこには、烏孫が深く関係していました。そしてこのキルギスの高貴な一家を記録していたのは、キルギス人だけじゃなく、漢人も記録してたみたいなのです。

このへんの答えは次回に。

 

 関連記事

ちなみに古代イスラエル・ユダの神武天皇の名前については、こちらの記事。

(日ユ同祖論)ユダ王朝の系譜がウガヤフキアエズと神武天皇に封印されてた

キルギスの関連記事はこちら

キルギス の検索結果 - たっちゃんの古代史とか

 

 

人気ブログランキング