たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

太陽と月と日本の139

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太陽 - Wikipedia

 

 

39はネガティブなだけじゃなかった

 

近ごろは人の運命っていうものの真相が、ちょっとだけ把握できるようになった。

人生は他人に左右され、生かされ殺され、時には人為的に犯罪者に落とされてしまうという現実が。・・・・と言っても信じない人はいるかもですが。

個人や集団に対する心理作戦、メディアによる大衆コントロール、電磁波的な科学のちから、それと結びついた呪術や魔術の行使。

そういったものが前提にあって、支配者の思い通り方向性の決定がされてしまう。それが世界の現実なのであろうと。

そしてその運命みたいなものは、ある程度は自分で抑えられる、変化できるということも、分かってきてるのですが。

 

ところで自分を取り巻いてる世界で、93や39というのが良く目立つ現実がありました。

それで何か93のイメージとして「臭(93)」が結び付けられて行ったんです。どうしても穢れやネガティブな方面の数字としてしか、感じ取れなくなるほどで。

39や93がやたら頻繁に自分の目の前にあらわれる現実があるのに、普通な解釈では「偶然そうなっている」としか言わないのです。

病院に何件行っても蓄膿を治されず、長年にわたり悪化していたので、93(臭い)。その臭いを揶揄して見せているのだろうと、そっちのほうに考えざるを得なかったです。

 

しかしやがてそんな穢れやネガティブの方向は、ごく一部の印象操作を受けた結果だったことに気がついたりしました。

そんなみみっちい出来事より、はるかに巨大な存在あることに気がついて。近頃は39から、ネガティブな意味を若干遠ざけることになりました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

太陽と地球と月の39、139

 

ネットの情報をあさっていたら、この39、93という数字は、太陽と地球に深く結びついているのだと、それを知りました。

とくに関連が強いと見られるのが、恒星である太陽、その惑星である地球、その衛星である月、という3つの星。

その太陽系の39の不思議とは、簡単に述べるとこう。

 

・地球~月の距離の390倍が、地球~太陽の距離

・太陽の大きさは、月の390倍(1億5,000万km)←何故か上と一致

・太陽の直径は139.1万km

 太陽の大きさは?

 

地上から見ると、太陽と月の大きさがまったくおんなじに見える。その理由が、この太陽~地球~月の3者間にある、偶然に一致した2つの390倍という数字にあったわけです。

それで地上からは完璧な皆既日食が見えたりするので、この太陽系自体が、得体の知れない知的生命、あるいは神の意思によって作られていると、そんな話もあったりします。

それでここに登場している139、39という数字ですが、これが何故か日本に関係していたりします。

 

 

東京の139

 

以前に緯度経度と運命の結びつきに気がついて、こんな記事かいてました。

緯度・経度から導かれる数秘術と運命的つながり 

 

それで日本を象徴する東京というのは、

・首都

・皇居

天皇

 この3つが揃っていて、東経139度に所在してたのですね。

ちなみに俺の育った土地もそんな139度線上にあったりしました。

こういう関連記事があります。 

俺にまつわる陰謀の証明

 

 

富士山と東京を結ぶ139号沿線の謎

 

あとは日本を象徴するといえば、「一富士二鷹三茄子」の富士山。この富士山も、何故か139が人為的に関連付けられていました。 

「国道139号」

この道路は富士山の真南の富士市に起点があり、そこから自殺の名所な青木ヶ原樹海を過ぎ、富士五湖を過ぎ、山梨の大月の関東山地を超えて東京都の奥多摩町までつながってるんですね。

東京がわの起点になっているのは奥多摩湖なのですが、その地点は深山橋で、この橋がなんと東経139度00分00秒でした。

しかもこの国道、総延長距離が139.1kmで、実際の距離は136.9kmで、延伸をした年が1993年だったり。なんでこんなに139で合わせているのだろう?

まるでなんかの陰謀みたいじゃないですか。

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そういえばこの富士山の樹海には、日本一の溶岩洞窟がひっそりあるらしいですね。その名も三ツ池穴。この洞窟の総距離が、何故か2139m。

ちなみに富士山は木花咲耶姫コノハナサクヤビメ)を主祭神とする、富士山本宮浅間大社があるのですが。

木花咲耶姫は、日向三代瓊々杵尊ニニギノミコト)の妻で、瓊々杵尊とは太陽神天照大神の孫神にあたるのですね、つまりニニギは太陽神です。

要するに富士山本宮浅間大社は、太陽神夫妻を祀っているということで、富士山が太陽の山であることを表していたりするんですよ。

あとはこんな気になるところも。

9087 39813

コノハナ サクヤビメ

九無八七 三九八一三

と、なんか語呂合わせが出来る神様なのが意味深ですね。

ここに39が含まれていました。

 

まとめると、富士~東京の国道139号にはこんな情報が入ってました。

 

国道139号線

・富士山(太陽信仰・日本の象徴)~大月~東京(日本の象徴)の間

・139.1km(総延長)

・136.9km(実延長)

・1993年(延伸の年)

・2139m(富士山の日本一の溶岩洞窟)

・39813(富士山の神サクヤビメ)

・東経139度00分00秒(東京都の起点奥多摩町の深山橋)

なんで国道139号は、日本の象徴で太陽神夫妻(39813)を祀る富士山のふもとから、月を象徴する大月を通り、象徴都市の東京を結びつけているのだろう。

なんで東経139度に通っていて、国道139号で、距離が139km(136.9km)で、1993年に延長されたんだろう。

なんで139号線の沿線には2139mの洞窟があるのだろう。

なんで太陽の直径や月との関係をあらわす139や39の数字に、富士~大月~東京がぴったり合うのだろう。

ともかくこの国道139号線が、首都東京と富士山、果ては太陽と月と日本を結びつけているものであるのは確実かと思いますが。

・・・などと疑問が湧いたりしました、どうでもいいですけど。

 

ちなみに日本語で931(きゅーさい・くさい)を解釈すると、「臭い」のほかに「救済(きゅーさい)」または「救世(きゅーせい)」が含まれているのも意味深なかんじがします。

あとは日航機墜落事故の舞台となった、高天原山御巣鷹山が、標高1,639mだったりするのは何故だろうと。

 

 

 卑弥呼と139

 

 この卑弥呼は日本で最初に大々的に記録されている女王であったりと、なにかと凄い存在感があったりします。

このかたどうも、高天原の太陽神である天照大神の、化身的な存在だったのではないかと。卑弥呼は日巫女、つまり日=太陽の巫女であることから、太陽神崇拝の中心的な人だったのは明らかですね。

ところで日本語の語呂合わせで、135(ひみこ)、あるいは139(ひみこ)になるのです。

ここで卑弥呼と太陽との繋がりには、天照大神という神を介したものだけでなく、科学的に計測した数字も含まれていたことが判明するのですね。

 

・地球~月の距離の390倍が、地球~太陽の距離

・太陽の大きさは、月の390倍(1億5,000万km)

・太陽の直径は139.1万km

・太陽の巫女である卑弥呼の語呂合わせは135、139

卑弥呼邪馬台国は北部九州(東経130度)奈良(東経135度)

邪馬台国の位置は、最初の邪馬台国筑紫平野、のちに奈良盆地に移ったという東遷説を支持)

 

こんなふうに、よくもぴったり。 太陽と卑弥呼に、39と139が結びついていますね。

これってやっぱり偶然合っているのかと。

はたまた2~3世紀の卑弥呼が、未来に計測される太陽のkmの数字や東経の数字を何らかの方法で知って、それを語呂合わせで暗示していたのかと。

能力的な、巫覡の力?

それともやっぱり卑弥呼は未来視をした?

未来を知る人物と接触をしている?

そんな過去と未来の接触が実際にありそうなことは、「東都名所絵図」を見れば分かってきたりしますが。

 

・・・

 

日本の象徴的な場所は太陽と地球と月のつながりと同じく、139、39に魅入られている。東京と卑弥呼には、何か得体の知れない仕掛けがある。

そう感じ取れた5月でした。

 

追伸・・・

そういえばこの記事を書いている途中だった昨日の早朝、近年稀に見るほど酷い金縛りに遭遇。前日から幽体離脱ポイ感覚があり、やはりかといった感じで起こりました。その金縛りは夢の中で動けないぞと言った夢として実感してたのですが、その夢が醒めてもリアルで金縛りが継続しているという具合。2つの世界での金縛りを連続で味わっていました。ひどかった。 

 

関連記事

歌川国芳の浮世絵に現れる未来視の暗号 

卑弥呼が135だったのと日本が東経135度の国なことの運命的な結びつき 

「東経ヒミコ度」が示唆する運命の存在 

 

 

  

魏略の魚豢は卑弥呼に近い倭人だったかも

なんか、令和時代って、アレですね。

変換できない。

礼和、例話、例羽、れいわ、レイワ、reiwa・・・・・

 

令和が、禾口→ネコ

という解釈がツイッターで話題ですね。もうネコの時代が確定らしい。

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ところで「れいわ」って、たつやに似てますね。

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 ・・・カオスな未来が浮かんで来ますよね。

令和と書いておいたほうが良いですね、ネコですけどね。

 

コレ書いてたら雷が、ピカッ!ドドドドーン!と鳴った。

雷の、お礼は(礼和)、要らねーですよ。本日も雨。連日のように雨。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

魚豢と卑弥呼

 

最初に卑弥呼のことを魏に伝えたのは、「魏志倭人伝」の陳寿という人じゃかったとか。

魏志倭人伝の元になった書物に「魏略」があり、これを記したのが魚豢(ぎょかん)なる謎の人物でした。魚の缶だと、サバ缶やサンマ缶が昔からの売れ筋らしいですね。

歴史的には劉表と顔見知りで、魏に仕えていた文官であった、裴世清が知っていた、倭について詳しく書いた最初の人だと、そのくらいしか情報が無かったりするのでした。

 

ところで卑弥呼という名は「卑しい」が使われているから、中国が倭を貶めるために「卑しいという忌み字を当てた」というのは定説のようでした。

しかし卑弥呼という名前は卑弥呼自身が考案したのではないかと、近ごろはずっとそんな気がしています。何故なら卑弥呼の名前からは、崇神天皇との共通点が見えてきたりするから。

そして何故かこの魚豢と卑弥呼の間には、因縁があるような感じがしました。

 

まず魚豢というのは、

魚・・・お魚

豢・・・豢う(やしなう、養う)

豢 - ウィクショナリー日本語版

 という意味なんですね。

 魚を取って生活を養う人、それって「魏志倭人伝」に出てくる倭人の描写に似ているような気がする。

「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫(だゆう)と称す。夏后少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪分身、以て蛟竜(こうりゅう)の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、分身しまた以て大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)う。」

魏志倭人伝」 石原道博編訳p45

 

メモ

蛟龍・・・海の害獣

魚蛤・・・魚やはまぐり

水禽・・・水鳥

 この一文と、魚を養う魚豢さんが、倭と同じ「委」の編を持つ「魏」の皇帝に仕え、倭の記録を残したことは、良く整合している気がしますね。

魚豢が倭系の人だったとしてもおかしくないかと。

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 「魏志倭人伝」 石原道博編訳p108

 

 

卑弥呼と魚豢

 

あと、意外なことに、卑弥呼と魚豢の関連も伺えたりしまっす。

豢は「やしなう」であると書きましたが、下の部分は豕(いのこ)といって、猪や豚のことです。

 

それでなにが共通するかといえば、卑弥呼の名を見てみれば、

卑を「いやしい」と書いて「やし」を含んでいますね。魚豢と同じように。

「呼」は「お」とも読める漢字で、ようするに「弥呼」は澪(みお)とも読めてしまう。澪とは水の尾、水路のこと。「弥」は端から端まで渡ること。

 

まとめると、

魚豢

魚=おさかな(水の中)

豢(やしなう)→やし

 

卑弥呼

弥呼=澪(水路)、弥=渡る

卑(いやしい)→やし 

という風に、魚豢と卑弥呼の間には、水とやしの関係性が見えて来たりするのです。

ここで「やし」とは何かという疑問も出てきますが、2人の間には確かに共通点が見つかりました。

ここからは、卑弥呼という水路を泳ぐ魚が、魚豢といった印象を受けます。

 

魚豢が倭のことを詳しく書いてたり、卑弥呼の情報をいち早く「魏略」に書けたのかは、「魚豢が卑弥呼と繋がる倭人で、魏に出張していた」で説明がついたりするわけです。

 

 

中国の書物によれば、倭人渤海の北から~朝鮮半島~日本列島まで広範囲に住んでいました。地中海のフェニキア人みたいな存在だったようでした。

フェ 倭 肥

ニ  奴 の

キア 国 国

 

「キア」とは国という意味

 で、倭とフェニキアの関係は漢字の使い方からも読み取れます。

倭人はどうも大陸情勢を逐一収集していたようで、大陸の倭人コミュニティが活用されて、常に邪馬台国に情報が集結していたようですね。

ともかく魚豢はそうした情報網の統括的な役割で、倭人の代表として魏の中で情報発信役をしていたと。そんな想像はできたわけです。

 

 

美味海鮮・漬魚セット 7種14切 おいしい漬け魚のセット 

これ美味しそうじゃないですか。玄米ごはんのお供に。

 

 

2019年の春散歩で気がついたこと

先日(15日)に久しぶりに散歩した。

心臓の動機が酷くなってたのであんまり無理してないですが。

それでこの世界について、ちょっと気くことがあったりしました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

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ナイスビューを実感できる数少ないポイント。

 

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樹々のトンネルみたいな感じになる林道。

 

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これまた空の青さと新緑。

 

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空を見上げると樹木の天井。

 

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木は上に伸びるという法則を無視して、ひたすら横に伸びていく樹木の枝々。

 

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道端にはワラビっていうかクサソテツ。太陽系のスパイラルな法則に従って、スパイラルに広がる。これの新芽がブラックホール的に渦を巻いたコゴミで、美味しかったりする。

 

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断崖の上にはこれまた芸術的な樹林。のぼって景色を確かめてみたいのだが・・・。

 

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夕方日が落ちて来たので引き返す。日光も、枝で遮られると直視ができる。何事も直視はしないほうが精神衛生上は良いのかもしれない。

 

と言った感じ。

 

この土地には昔からの寺院があるのに関係して、森のなかには古道も埋もれてる。

それで国土地理院の航空写真によってこの辺りの地図を見ると、戦後の頃までは誰かの土地で、山の上には広範囲に畑が広がってたようだった。いま通っている道は1960年代に作られたらしい。

ただ残念なことに、ここは上から下までゴミだらけ。なんでそんなにゴミを捨てたいのかわからないけど、この道はドコまで行ってもゴミだらけ。

サビた空き缶を見ると、それはもう1980年代頃に流行ってたジュースだったりする。レトロ大好きな人がそんなアンティークなゴミを見れば、拾ってみたくなるかもしれない。林道を歩けば、なんでそんなにゴミを捨てるのかと小一時間考えさせられたりする。

綺麗な写真には写せなかった、汚い風景。綺麗なものには必ず汚い要素が入ってる。

むしろ周囲を穢して意地悪な薄汚い世界にしないと、じょうずに進めない種類の人間が多いのかも知れない。

文化も、言葉遣いも、物質も、通りすがる自然も、人の精神すらも薄汚れた世界なのは、汚して生きやすさを求めた結果なのかもしれない。

この林道もそんな綺麗な風景と一緒に、人の息苦しい世界を表現して俺に見せてくれてるらしい。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

近ごろまた、卑弥呼のことも気づいたことがあったりしました。卑弥呼っていうのは、日の巫女とか解釈があるのですが、忌み子に関係している説です。

なんで卑弥呼のことがこんなに気になるのだろ~か。

これはまたいつか。 

 

 

崇神天皇の桑間宮と池から想像できた吉野ヶ里遺跡の正体

崇神天皇の話がしばらくなかったのですが、久しぶりにひとつ。

この前に佐賀の吉野ケ里遺跡の話をまとめていて、ちょっと気づいたことがあったんですよね。

いつも古典やネット情報をかき集めては、想像と洞察を繰り返して答えを導き出しています。当てずっぽうの作り話みたいですが。俺の当てずっぽうも意外と当たっちゃうこともありますのでね。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

1・崇神天皇というのは、卑弥呼が男装した姿

 

もう何年も前に思いついたこの説、流行ってませんが、いまも一貫しています。

その内容は、

 

(1)崇神天皇太安万侶がまとめた「古事記」の序文では「后(きさき)」と高貴な女性的な扱いになっている

(2)卑弥呼は日御子・日巫女で天照大神の生き写し的な女王となったが、天照大神素盞嗚命と対峙するにあたり角髪(みずら)と武装で男装した

(3)天照大神卑弥呼に倣った神功皇后も、新羅出兵で角髪を結い武装し男装した

(4)ならば卑弥呼天照大神神功皇后と同じく、角髪を結い鎧を着ることで男装したことになる。だから太安万侶は、崇神天皇のことを「后(女)」と書いている

(5)崇神天皇の和風諡号の「印」とは公用印であり、卑弥呼の「弥」と同じ意味を持つ。

(6)古事記崇神天皇諡号が「御真木入日子印恵」で「日子印」は並び替えると「日印子」で「卑(日)弥(印)呼(子)」になる。

 (7)「魏志倭人伝」に弥馬升の名が出ているが、これが崇神天皇の「御間城」であり、男装の姿かもしれない。

 

ちなみに魏志倭人伝に登場する邪馬台国の位置は、九州の第1邪馬台国畿内の第2邪馬台国=1つの邪馬台国としてしまっているようです。

だから文章の邪馬台国までの距離や方角の説明がおかしい具合だったりするのです。これは又別の機会に。

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神功皇后 - Wikipedia 

男装した神功皇后。「日本書紀」には、神功皇后卑弥呼とを同一視する解説がある。しかし実際の神功皇后の実在年代は、4世紀であることが判明している。

 

 

2・崇神天皇こと卑弥呼筑紫平野佐賀平野含む)にいた説

 

福岡の朝倉の平塚川添遺跡が卑弥呼の居城の可能性がある。この仮設は、安本美典さんが以前から提唱したものでした。筆者もこれは正解に含まれていると感じていました。

それで卑弥呼邪馬台国の範囲は、筑紫平野のかなり広範囲だったと考えるようになりました。しかも卑弥呼崇神天皇の同一性を踏まえると、思いつくこともあります。

 

(1)北部九州と奈良盆地の地名が、古代において全く同じだった。これは北部九州にかつて首都ヤマトがあったから(安本美典説)

(2)卑弥呼の居城というのが、個人的に言えば崇神天皇の、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)と同じ。

(3)瑞籬宮は「古事記」では水垣宮であり、水の垣根。つまり水の環濠を伴う居城だったのが明らか。

(4)それなら環濠のない奈良の瑞籬宮伝承地は、デタラメ。奈良と同じ地名を持つ福岡の、朝倉の平塚川添遺跡でしっくりと来る。

(5)当ブログの過去記事にあるとおり、卑弥呼の政治手法に倣った斉明天皇は、宮殿を筑紫平野の平塚川添遺跡に近い朝倉の高台に建てた。これは卑弥呼の居場所を知っていたがため。

(6)福岡に磯城瑞籬宮の「磯城」という地名は無いが、福岡は古来には筑紫城(ちくしき)だった。

(7)上座郡(かみつあさくらのこおり)と下座郡(しもつあさきらのこおり)の「座」は、古訓で「しき」だった。ので、これが磯城に対応してる。

(8)福岡の朝倉のあたりを上座郡というのは、そこが王の上座(かみざ)、つまり女王卑弥呼崇神天皇の居城だったから。

(9)奈良盆地邪馬台国をそっくり東遷した姿であり、三輪山も瑞籬宮伝承地も、写し。万葉集」には三輪山を移動したという、一見意味不明な一句が見つけられたりするのですが、これは三輪山を中心とする邪馬台国を東に移したことで説明がつく。

 

上記については、何回読んでみても整合する話だと、自分なりに感じ取ってます。

したがって元の邪馬台国卑弥呼崇神天皇の居城は、九州の福岡の筑紫平野にあった平塚川添遺跡なのだと。そんな具合に考えると、パズルのピースもあるべき溶け込んでいくわけなのですが。

そしてこれを裏付けるかのようにいたしましとぇ。「日本書紀」を読むと、崇神天皇の居た実際の場所は、佐賀や吉野ケ里と書いてるのではないかと、それを思い当たりました。

 

 

崇神天皇の3つの池 

 

崇神紀を読んでみると、このかたが居所の近くに3つの池を造ったとあります。

江戸時代以来の定説では、いずれの池も畿内奈良盆地や、大阪平野にあったのではとされていました。

A・依網(よさみ) 定説地は大阪府堺市池内

B・苅坂(かりさか) 定説地は不詳

C・反折(さかおり)別名を軽酒折池、定説地は奈良県橿原市大軽

この3つ。

 

しかし邪馬台国の地名が九州から畿内に移されているとすれば、これら3つの池も元々は、筑紫平野あたりにあったものだと考えられるんですよ。

するとこの前の吉野ヶ里遺跡の話が、リンクしてきたりする感じです。

 

 

崇神天皇のもう一つの宮殿「桑間宮」が吉野ケ里遺跡

 

日本書紀」の翻訳本によっては、記述が飛ばされてしまったりするのですけど、崇神天皇は実は2ヶ所に居城を構えていたことが書いています。

1・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)

2・桑間宮(くわまのみや)

 

最初の崇神天皇磯城瑞籬宮こそが卑弥呼の居城と同一で、平塚川添遺跡の可能性が高い説明はしました。

問題は崇神天皇のもうひとつの居城、桑間宮。

 

桑間宮というのはくわまですが、古訓にすると「くはま」だったりします。

桑はカイコの好物となる植物のこと。養蚕やら機織りなどの産業もあった土地なのだろうと。そんな感じも受けます。

桑という漢字は「又又又木」とあり、これは「ジャク」で、葉っぱの大きい木のことなんだとか。

桑間がジャクマだとすると、短縮して「ジャマ、邪馬」になって邪馬台国の一部なのかと思ったりしました。 

それから日本語の特性というのは大和言葉でもすでに顕著なのですが、音訓を入り乱れて使うのです。

たとえば古い地名にもある「筑」を参考にすると、筑紫(ちくし)だったり杵築(きづき)だったり。「大」の場合は大和(やまと)だったり大神(おほかみ)だったり。

そういえば天孫(てんそん)は大和言葉では「すめみま」、日本武尊(にほんぶそん)は「やまとたけるのみこと」で、読みはどっちでも使えるみたいな感じです。

 

だから桑間宮も、もしかすると訓じてくわまと読むのではなく、音読みが正解かもしれなかったりするのです。

桑間を音読みしてみると「ソーゲン(so-gen)」

でこれがおそらく「佐賀(sa-ga)」に対応するのであろうなと。

桑間 ジャクマ→ジャマ→邪馬→邪馬台国

桑間宮 ソウゲン(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮

 

吉野ケ里遺跡はアテネ=アシネ(吉野・エシノ)の写しでアクロポリスであり、倭名は桑間宮であったと。そう解釈してみました。

そうすると、「日本書紀」で桑間宮とワンセットになってる、3つの池の場所もやっぱり佐賀なんだろうなと。そんな発想が出てきておかしくなかったりします。

 

 

ゾンビランドサガ

 

 

3つの池の解釈

 

前回の記事でも、吉野ヶ里遺跡のあたりはやたら「ヶ里」地名が多いっていう話が出ました。これは佐賀の古代史のガリ勉ならばご存知らしいです。

そういえば、ここは古代には神埼郡でした。あと3つの池のうち2つまでが「サカ」を含むのは偶然じゃないですね。

佐賀というのは、古い地名では「サカ」だったと見られます。

さらに依網池というのは、これは実は吉野ヶ里の地名に関する名称なようです。

A・依網(よさみ) 

B・苅坂(かりさか) 

C・反折(さかおり)別名を軽酒折

 

 以上の情報から3つの池を解釈すると、以下のようになったりします。

 

・桑間宮・・・桑間(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮

これは発音的にも一致するはず。

 

A・依網池・・・依網(yo-sa-mi)池→吉野(yo-si-no)池

ヨシノがヨサモになってヨサミになったかも。いずれにしても「吉」に当てはまる「依(よさ・よし)を使ってるのは意味深なこと。

 

B・苅坂池・・・苅→ヶ里、坂→佐賀、神埼(kamu-saki)→苅坂(kari-saka)

カリ(ガリ)とサカ(坂・佐賀)のありえない一致。カムサキとカリサカは似てる。

 

C・反折池・・・反(さか)→佐賀

ここにもサカがあるのは、全部を佐賀に合わせているとしか思えない。 

 

というふうに、結局は4つとも全部、佐賀と吉野ケ里に対応していました。

これは偶然ではないだろうと。

あと反折については、恐らく反(そる)+折(おる)で、「高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」だとか、曾富理神(そふり・そおりのかみ)に関連があるのではと考えられたりもします。

 何しろ吉野ケ里遺跡の隣接地をよくよく眺めてみたら、辛上(からかみ)という集落があったりするので。朝鮮半島の倭地出身かもしれない卑弥呼が、加羅神、韓神を祀っていてもおかしくないなと。

 

 

3つの池は佐賀の吉野ケ里遺跡にあったのか

 

それでこの3つの池は、佐賀のどこにあったんだろうと言う話。

もう古い池なので埋まっていたり、田園に変えられていたり、名前が変わっていたりするのではと考えられました。

しかし、吉野ケ里遺跡を航空写真で眺めていると、気が付きました。

3つの池の場所は、吉野ケ里遺跡なのかもしれないと。

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吉野ケ里遺跡というのは、細部までも弥生時代の様子を復元しているらしいですね。なんか、おあつらえ向きに池が3つあったりするのは、古代のとおりに復元している結果なのかと、そう思ったりしたのですが。そのへんは確認が取れてません。

 

この記事で解釈した「崇神天皇の3つの池は吉野ヶ里のあたり」を示すかのように、運命的に吉野ヶ里に3つの池が揃ってたとでも言うのか・・・。

 まぁ全部、筆者の想像なんですけどね。

 

 

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アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

一見シテ無関係なところに関係性ヲ見いだせる・・・。これはたぶん潜在的な深い処では無関係ではなく、運命的繋がりもあるからなのだろうと。そんな感じもするのですが。

そう言えば新たな元号の「令和」についても、なんか同じようにして運命を感じさせる響きを持ってました。

今回は考古学者も見落としてしまうであろう、佐賀の吉野ヶ里遺跡ギリシャにあった、アテネの繋がり。ちなみにこの記事は2週間くらいから書いてますが、時間を掛けるごとに気づきが多くなるというのは分かっています。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

古代アテネアクロポリス

 

自分自身が高台に住んでいると、古代の人が高台を好んだ理由は分かったりします。

・高台は海のそばなら確実に津波や高波の様子もわかるのでもってこい。

・高台は樹木がなければ、かなり見通しが利いて防衛にもってこい。

・高台は敵襲があっても、敵の勢いを斜面で遮ることができてもってこい。

・高台は天の神を祀る人々にとっては、天に近い意味で祭祀用にもってこい。

 

 利便性のみを追求して平地を好み、戦闘も津波も警戒しないで過ごす現代人は、あまりしない発想だったりしますが。 

 

古代ギリシアアテネ(正しくはアテーナイだとか)はよく耳にする名前です。

イオニア人が住んでいたギリシアの中心都市がアテネだったとか。

その神域はキダテナイオンと呼ばれ、パルテノン神殿が置かれた丘はアレオパゴスの丘と言い、丘の上を含む都市がアクロポリスと呼ばれてました。

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これは手元にある「世界史年表・地図」という図録なのです。第1版が平成7年ということで、1995年当時の歴史的な情報と知識ですが、これ以上に使える書物は見つけてないので、時々眺めては新しい気づきを得ていたりします。

 

アテネのキダテナイオンのアレオパゴスの丘のアクロポリスパルテノン神殿・・・

日本でいうと、東京の23区の山の手の千代田区の皇居の宮殿みたいな感じ。

 

この遺跡、紀元前6,000年から街が築かれていたというから、始まりは縄文時代くらいです。

アクロは英語では「始め、先端、高い」みたいな意味だった。古代ギリシア語のakrosでも同じで、要するに高台、丘の意味だったとか。

それでpolis=ポリスというのは城や砦を意味しているので、要するにアクロポリスは直訳で「高台の城、丘の砦」を意味していたと分かりました。

 

日本語の方も無関係ではないようでした。なぜなら「丘」はokaなので。

英語 acro a-c

ギリ akros a-k

日本 oka  o-k

ak(アク)とok(オカ)は発音的にとても近いので、古代ギリシア語のアクロと日本語の丘は、深いところで繋がっているのであろうと。

ac-ro-po-li-s(丘砦)

oka-no-to-ri-de(丘の砦)

と書くと母音と子音が類似するところがあり、アクロポリスとはやっぱり「丘の砦」だったんだなと。

そう言えば日本語で、

・上がる(agaru)高い場所に行く

・崇む(agamu)高天の神を拝む

これらは明らかに丘に通じる言葉で、しかもアクロやアクロスに似てますね。

 acroとかakrosを濁って「アグロ・アグロス」と言えば、「アガル・アガム」になって、発音も意味合いも通じるものがあるかと。

ひょっとすると弥生時代に、倭語のなかに古代ギリシア語が入り込んだのかも。倭に入ってきている烏孫系や月氏系には、東征したバクトリアギリシア北部)のアレクサンドロス大王の軍団の子孫のギリシア系や、インドグリーク王朝の子孫が含まれたのだから。

 

 

古代佐賀の吉野ヶ里遺跡

 

一方で佐賀の吉野ヶ里遺跡ですが。最近劣化したとか言われてる、グーグルマップで航空写真をみました。ここは近年も遺跡の範囲が拡大していて、遺跡公園の拡張工事中らしいです。

それでグーグルマップの3D仕様や国土地理院地図のほうで拝見すると、この吉野ヶ里遺跡は高台にあることがわかったりします。

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吉野ヶ里遺跡の標高は、全体が10~20m台の小高い丘で、高いところでも25m程度。北側を調べると筑紫山地が広がっていますが、大高山から南に伸びる尾根上に、吉野ヶ里遺跡が位置するようにも見えます。

ところで弥生時代当時は海水面の弥生海進とかいって、海水面はいまより平均3~5mは高い状態だったことが知られています。 

 

すると吉野ヶ里遺跡は遠浅の海に囲まれ、岬の突端にあるような印象の城塞都市だったようです。 

フロードマップで吉野ヶ里遺跡を見ると、こんなふうに今と違って海沿いの遺跡が想像できやすくなります。たぶん近くに港もあったと考えられますが。

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新たな弥生遺跡が見つかるなら、この海抜2~3m上げた時の海岸線に沿ってる場所が、可能性が高そうな気がします。

 

 

吉野ヶ里遺跡の当時の名は古地名から推測できる

 

ところで吉野ヶ里遺跡がこの地域の権力者の居城・神殿と付き従う住人たちの居住地や商業の中心といった複合的な役割を持っていたことは分かっています。

だから弥生時代の当時には、都市名が存在していたはずなのですが、今までそれは伝えられていませんでした。

しかしこれは筆者の妄想によって、当時のリアル的な都市名に近づくことは可能でした。

 

この付近はいまは佐賀県と呼ばれてますが、江戸時代までは肥の国の北部にあたる、肥前国の名前で知られていました。

しかしそれより以前の名前が「古事記」にありました。

建日向豊久士比泥別(たけひむかとよくじひねわけ)

これが本来の地名だったとか、わけわからん。

つまり、

 建日向豊久士比泥別→肥の国→肥前国佐賀県

と変遷してたわけなんですね。南東部は日向国だったわけで、昔は九州全体が日向、ヒムカと呼ばれていたであろうと、「古事記」から推測できるわけなのです。

 

それで肥前国の頃にあった郡郷里制の地名は、今も残っていたりします。

吉野ヶ里遺跡のあたりは神埼郡で、佐賀藩の頃には40村以上があったとか。

江戸時代の国郡郷村制時代の佐賀藩の村

肥前佐賀藩33村

迎島村、柳島村、渡瀬村、箱川村、境原村、託田村、下板村、黒井村姉川村、横武村、本告牟田村、松隈村、石動村、三津村、大曲村、吉田村、豆田村、田手村、的村、城原村、鶴村、尾崎村、本堀村、神埼村、竹村、志波屋村、田道ヶ里、広滝山、腹巻山、鹿路山、杠山、三瀬山

 藤原山肥前蓮池藩5村

嘉納村、下西村、小松村、見島村、余江村

 佐賀藩蓮池藩5村

直鳥村、永歌村、姉村、崎村、古賀村

 

明治時代の合併推進後の自治

三田川村吉田村、田手村、箱川村、豆田村(現・吉野ヶ里町
東脊振村 ← 大曲村、石動村、三津村、松隈村(現・吉野ヶ里町

 

神埼郡 - Wikipedia 

これが江戸時代当時に残っていた細かい地名です。

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ここに吉野ヶ里という地名は含まれてないですが、江戸時代の肥前国の古地図を閲覧すると、西野ヶ里村、東野ヶ里村という地名も見えていました。たぶんこれらは吉野ヶ里を元にしていると見られ、古くから吉野ヶ里も存在した可能性があるようです。

肥前 佐嘉 筑後 久留米 柳河 筑前 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

 

佐賀の「ヶ里」は目立ってないですが、小字を含む地名として、古くから使われているようです。

 田道ヶ里、駅ヶ里、吉野ヶ里、乙南里、小津ヶ里、平ヶ里、枝ヶ里、野目ヶ里、石井ヶ里、東野ヶ里

神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」-展示室

 

 

アテネアクロポリスと吉野ケ里遺跡の形が似てる件 

 

遠く離れたアテネと佐賀の吉野ヶ里は、高台にある紀元前からの古代遺跡という意味では一致してますが、片や石造りの神殿、片や地面に木造家屋であり、表面的な遺跡の形態は異なっています。

ところがよく見ると、その形状は似通ったところがありました。以下の地図は、現在のアテナの古代遺跡と、吉野ヶ里遺跡の比較したものですけど。

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こうしてみると、いろんな一致が見えて来てしまうのですよね。

・中央・・・アクロポリスと吉野ケ里遺跡の環濠「南内郭」

・左側・・・アゴラ(広場の市場)と吉野ケ里遺跡の「市場」

・左下・・・オデオン劇場(イロドアティコス)と吉野ケ里遺跡の半円状の広場

・右側・・・ゼウス神殿(オリンペイオン)と吉野ケ里遺跡の環濠「北内郭」

・水路・・・ビシストラトスの水道と吉野ケ里遺跡の田手川

 

これほど位置関係が一致するということは、吉野ケ里遺跡のそれぞれの場所の役割も、市場だったり神殿だったり劇場だったりするかもしれないです。

実際、吉野ケ里遺跡の市場の位置は、「倉と市」という名前がついてたりするのであるし。

これが、吉野ケ里遺跡はアテネの写しだったのでは、という疑惑が出た理由のひとつです。

 

 

宛名職人(あてなしょくにん) Ver.25

 

 

 名前まで似通ってた件

 

さらに実はこの地形の一致を裏付けるようにして、もう一つ興味深い一致もありました。ちょっとアテネの古名を調べてみるとわかったことです。

 

アテネというのはギリシャ文字のほうでは、古名で「アシネ」と書いていたとか。ATHENAと書けばTHEがシの音になるというわけです。

それで吉野というのは奈良の地名でもありますが、「古事記」の方を見ると、古名では「エシノ」だったんです。

アテネ アシネ a-si-ne

吉野  エシノ e-si-no

 

アテネ→アシネ→エシノ→吉野→吉野ヶ里

という風に発音の違いは微々たるものでしかなかったです。方言や転訛による違いといってもいいほど。 

 

そうすると、佐賀にのこるヶ里地名も、ギリシアのギリとすればしっくりと当てはまったりするわけでした。

吉野 アシネ

ヶ里 ギリシア

 これが意味するところは、吉野ヶ里とは元の意味は「ギリシアアテネ」を模したアクロポリスだったと、言いたかったのではないかと。そんな勝手な想像を巡らせてしまいます。

 

 

 吉野ヶ里は女神を祀った神殿の都市

 

アクロポリスの中心にあったパルテノンは、処女宮という意味があり、これは女神アテナを祀る神殿でした。

すると吉野ヶ里遺跡には同様に、女神を祀る神殿があったと考えられるのですよ。

たぶんそこは、アテナに対応する女神天照大神の鎮座する社殿があったと考えますが。

もしかすると生ける女神として君臨した、女王卑弥呼の居城だったとしても、決して不自然ではないようです。

 アクロポリスはもともと、ミケーネ文明のメガロンという木造神殿が建ってたらしいですね。そう言えば神武天皇の幼名が「若御毛沼(ワカミケヌ」なのもアッチの血が入っていることを示すのかと、意味深な感じがしますが。アレクサンドロス大王が東征して、子孫が烏孫月氏に入り、倭へ流れてきているとすればまったく違和感がないですが。

吉野ヶ里遺跡で、ギリシャアクロポリス神武天皇が繋がってたんですね。

 

 

周囲の地名も一致する

 

最後に、吉野ヶ里遺跡の周辺の地名も、なんとなくアテネアクロポリス周辺に一致している点もまとめてみました。

 

アテネ=アシネ・・・吉野(アシネ)

・キダテナイオン・・・田手(キ田手ナイオン)

・ムーサ丘・・・神埼(カムーサキ)・三瀬山(ムーサ山)

・ヘリコン山・・・腹巻山(ハラカン山)

 

 まぁ全ては筆者の想像でしかないですが、奇妙な一致が出てきた場合、偶然と言ってしまうより関連を疑うのが必然かと。

 

女神アテナのアクロポリスが、女王卑弥呼アクロポリスとして、佐賀に再現されてたとして、決しておかしくない気もしてしまいます。

倭の卑弥呼の周辺には、古代ギリシアの情報もかなりあったかもしれんです。先祖伝来の記憶や大陸から収集した情報によって。

 

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天武天皇の八色の姓にはイエス・キリスト信仰と大和民族大陸起源に繋がる思想が隠されていたかもしれない件

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最近も日ユ同祖論を否定する傾向が高いようですね。

個人的には何でもいいですが、今後も日ユ同祖論支持の方向で行きたいと思います。

 

前回の記事

天武天皇がどれだけ秦の始皇帝を手本としたか分かる話

 

ワタスが助かります

 

 

 

耶蘇

 

例の犯人はヤスでした。

しかしむかしの日本では、キリスト教といえば耶蘇教なんて言われてました。

この耶蘇というのは「Jesus」の音写だったりしたのですが。

Jesus→耶蘇→ヤソ→YAS→YES→イエス」だったりしました。要するにイエス(jesus)に漢字を当てて耶蘇としたのです。

 

 

世界大百科事典内の耶蘇の言及

耶蘇会日本通信】より …1598年ポルトガルのエボラで出版された《日本シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡》,いわゆる《カルタス・ド・ジャポンCartas do Japão》の日本訳の書名。耶蘇会(イエズス会)の耶蘇はJesusの近代中国音訳語〈耶蘇〉を音読みしたもの。

耶蘇(ヤソ)とは - コトバンク

 

これは中国が清となった近代、イエズス会が中国に入ったときに、イエスという音を漢字にあてはめて耶蘇としたことに由来します。

日本でも江戸時代の頃、キリスト教は長らく耶蘇教と呼ばれていたとか。

蘇は現代中国語のピンインでsuなので、耶蘇はyasuですかね。日本語の呉音で「蘇=ス」、漢音で「蘇=ソ」というわけで。

すると、むかしの中国人が耳にしたJesusは、「ヤソ・ヤス」に近い発音だったと見られます。これ、どこの地域の発音なんだろうかと。気になりました。

 

 

ヘブライ語のJesusはヤシュだった

 

ヘブライ語でJesusの発音を調べてみると、こうでした。 

Jesus の発音: Jesus の 英語, ポルトガル語, スウェーデン語, ラテン語, ヘブライ語, タガログ語, ドイツ語, スペイン語, 北サーミ語, アフリカーンス語 の発音

ヘブライ語「Jesus=ヤシュ」

に聞こえてしまうんですよ、しってましたか。

つまり、驚くほどに、耶蘇(ヤソ)っぽい。

 

ということは、中国の清朝に入ってた宣教師は、ユダヤ人だった可能性が高いです。

なにしろ欧州人は、Jesusをイエススやジーザスと呼んでたっぽいからです。

 

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ちなみにこの絵は昨日てきとうに描いてた絵です。ほんとはイラストをもっと描きたいですが、時間がないので無理な感じがします。

 

 

耶蘇の意味

 

ここで興味深いのは、漢字の意味も整合させてることでした。

キリスト教のことはイエスの偉人伝を読んだ以外は詳しくシリマセンが、イエスのことを御父とか御子だとか表現していたりするのです。

そんでもってイエスと言えば「最後の晩餐のあとにとっ捕まって磔の刑となり、一度槍で貫かれて死んだのだけど、生前に予言した通りに棺の中でこっそりと甦った」とかいう話が伝わってたりしますね。

 

耶蘇の「耶」は、「父」という意味

耶蘇の「蘇」は、「よみがえる」こと

 

だからむかしの中国人は、イエスに「耶蘇」の字を当てたというわけだったりしました。

 

 

八色とイエス

 

そんでもって本題となる、「八色の姓(やくさのかばね)」ですが。

耶蘇とはまるで関係ない話のようですが、実はこれ、関係してました。

何しろ、八色を別の読み方にすると、ヤショクで、夜食?いいえ、「ヤショ」だった。

あるいは、八色はヤシキで「ヤシ」が入っていたんですね。

なんかヤショとかヤシとか、「耶蘇」に似てる。つまり、イエスに通じるものがあるんだなと。

 

 あと「旧約聖書」のあっちの世界では神のことを「ヤー」と呼んだりします。

八を「ヤー」と呼ぶのは日本語ですが。

日本では神様と関係する物や土地には、やたらと「ヤ」がついたりします。八百万神、八重垣、八千矛、八幡神八咫烏、八咫の鏡、八岐大蛇、八十神、ヤマ(山岳)、ヤマト(大和)。

 

あと「旧約聖書」では神の名をエルとか言って、エロヒムとも呼ばれてますが。これがどうもラリルレロで当てはめて、エラ、エリ、エル、エレ、エロという神様の五段活用が当てはまっていたりしますね。

で、騎馬民族のほうでは、エルからイリ、イルみたいなほうに転訛していたわけなのです。そのイリ、イルに一字を当てはめるとしたら、「色」もありだったりしたのかなと。

 そうするとこうなるのです。

八(ヤ) = yah=神

色(イロ)= iro=ir=el=神

 八色と並べると、意図的に「神神」となるように、八色の2字を選び出しているのではないかと。

 

それは前回の記事でも記したとおり、秦の始皇帝が神であり、自らを始皇帝の生き写しとし、道教の神を信奉しまくった天武天皇が、秦と神にやたら こだわったことに関係するのではないかと。

そうすると空海の作と言われる「いろは」歌が、なんで「色は匂へど散りぬるを」で色から始まっているのか、そしていろは歌を7文字7列に並べると隅っこに「イヱス」が出現し、一番下に「トカナクテシス(咎(とが)なくて死す)」が現れてくるのかとか、色々と関連を調べたくなってくるのですが・・・。

 

ところで、油性ペンの八色を思いついたので貼っときます。

 

 

ゼブラ 油性ペン マッキー 極細 8色 MCF-8C

 

 

八色の姓烏孫と西域諸国

 

さて、前回の記事のとおり、真人が秦人に掛けている言葉なのは、個人的には確実視するのです。それは天武天皇が秦の始皇帝道教の信奉者だったから。

 

もうひとつ、真人のあとに来る朝臣が、強烈な示唆を含むことがわかるのですが。

それは、朝臣と呼ばれている姓。

これがどうも、「烏孫」を元にしている言葉であるのではないかと。

何故かと言うと、真人が秦人ならば、国名を列記していておかしくないなと考えたからです。それは秦より西側の西域諸国が殆どを占める感じがしました。

 

真人・・・しんじん・・・秦人

朝臣・・・あそん・・・烏孫(うそん)

 これだけ見ると、もう確実視出来る感じがするのですが。この2つの国は時代は100年違っていますが、月氏の土地に隣り合うという位置関係でよく似ていました。

一説に秦の始皇帝月氏から出ているとされるし、月氏自体はコーカソイド系でイランとか地中海方面が出自だと言われます。

烏孫のほうは、西から月氏の土地に入り込んで常に隣り合う位置関係を示しました。個人的に烏孫古代イスラエル系だったと考えていたところなので、月氏と隣り合っていたのも必然に感じました。

それでほかの八色の姓についても、西域を中心に当てはめられる感じがしました。

つまり天武天皇八色の姓とは、秦系と西域系を優先する身分制度だったのではないかと、考えてしまいます。

 

朝臣(あそん)以下の、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲木(いなき)。

これらを八色と同様に、本来の読みとは違った読み方をすれば、

 

真人・・・シンジン・・・秦人

朝臣・・・アソン・・・烏孫(西域)

宿禰・・・スクネ・・・ソグド・サカ(西域)ソグドはユダヤ

宿禰・・・ヤドネ・・・ユダヤ(中東)ユダヤからソグドが出た

忌寸・・・キズ・・・危須・亀茲(西域)亀茲から聖徳太子が来た

忌寸・・・インキ・・・焉耆(西域)

道師 ・・・ドジ・・・タジク(西域)万里の波(長城)を超えた田道間守

臣・・・元々倭にあった(倭人

連・・・元々倭にあった(倭人

稲置・・・イナ国・・・委奴国(倭人

 

というふうに、秦・西域・日本の身分の高い人々を、「一番昔まで遡った先祖の出身ごと」区分けしたのが八色の姓」かもしれないなと。

この区分けが合っているかは分からないですが。天武天皇は筆者と同様に、「天皇大和民族烏孫起源・西域起源」を信じていた可能性がある予感。

中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ

 

 

八色の姓と 西域をつなぐ景教

 

で、ここに八色(ヤシュ・・・Jesus)が関わってきます。それは彼ら西域人や西域出身倭人が、5世紀のネストリウス派景教)か、それ以前の原始キリスト教を信仰に入れていたからではないかと。

3世紀以前、歴史的に倭国にはキリスト教は入ってないとされますが。

しかし「魏志倭人伝」では「持衰(じさい)」という人柱の風習で、吉凶を占ったとかいう話がありました。これがどうもジーザスではないかと、そんな解釈をしている人もいました。

天比登都柱から見えてくる倭国の人柱文化

 

日本書紀」では聖徳太子の項目に、明らかにキリストの死と復活を記したようなヶ所が登場してたりします。

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日本の古墳を掘ってみたら「双魚佩(そうぎょはい)」という謎の飾りが出たりします。これは2匹の魚がくっついていて、上になんかパンみたいなものが乗っかっているやつ。

2匹の魚っていうのは、実は中東や西洋では、イエスそのものを表すシンボルだったりするのですが。日本の歴史学者の人は、これはキリスト教の遺物だとかは言わないで、大陸系の護符だとか言っているようです。

 

つまり天武天皇のいた7世紀はもちろん、聖徳太子のいた6世紀はもちろん、卑弥呼のい・た3世紀には、既に原始キリスト教騎馬民族遊牧民の移動に伴い、倭人のなかにまで入り込んでいたのではないかと。

一方の西域の東トルキスタンのほうは、5世紀頃にはもう西域ではキリスト教が支配的な勢いだったといいます。

しかしじつはキリストの死の直後の1~2世紀の段階で、原始キリスト教騎馬民族の流れに乗って、西域まで入っていたんではないかと考えられました。

 

こうしてなんで「八色の姓」が、キリストを表す八色と、西域諸国の名前という、異なるキーワードで繋がっているのか、真相が見えてきたわけですが。と言っても、これも想像に過ぎないんですけどね。

 

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totoのAfricaを見てたら気づいた不思議な既視感

日常を過ごしていて、自分の運命を感じる出来事とか。
偶然に自分と状態や出自と重なりあうと感じる出来事とか。
あったりしませんか、なんとも偶然的なかんじで。

偶然というのは、意図せず物事が整合している状態のことですが。
しかし果たして偶然とは、こんなに都合よく練り上げられるものかと。
偶然なんか、この世界には1つもないという発想は、よく考えるようになりました。
世界は太古より一貫して、偶然や自然に見せかけられた作り物だという仮説が、頭をもたげてしまいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

https://youtu.be/FTQbiNvZqaYより


舞台はなにやら古びた建物。
怪しい装飾が壁を飾り、無数の本が棚に整列してる。
そこはジャングルの歴史研究所か、図書館らしい。
偉そうなメガネの女所長がいる。

男は謎の断片を手にしてる。
断片には謎の古そうな絵が描かれてる。
断片の元である本を探している男は、単なる歌手より学者のよう。
演奏するトトは、何故か積みあがった本の上にいる。

突如として何者かによる襲撃があった。
すると同時に、謎の絵を収めた本のページが開かれた。
絵はジグザグ模様の盾を手にした伝説の戦士だった。
偶然にも襲撃者の盾は、絵にある戦士と全く同じだった。
伝説の戦士が攻めて来たのだ。

倒れたランプの火が、偶然にも男が探し求めた本に引火した。
まるで伝説の戦士が、証拠を隠滅したかのよう。
男は何故か本が燃えるままにして、手の断片も燃やした。
謎解きが済んだからだろうか。運命に抗わない主義なのだろうか。

男は別の本に興味をもって、あらたな研究を始める。
まるで目の前で起きた戦士による襲撃や火災が、なかったかのように。
積みあがって傾いた本の上で、独り佇んで過ごしている男。

youtu.be



○いつも助かっております

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

普段は音楽なんかはあんまり話題にしないブログですが。
自分探しの過程で、とても気になる内容だったので取り上げることにします。
この曲はたまたま先日なんかのメディアの記事になってたのが、目に入ったのがきっかけですた。

以前から耳にした曲でしたが、pvは自分史上で始めて、じっくり観察してみました。

この曲の歌詞は「探し求めるものはそこで待ってるから、迷わず行けよ」みたいな内容になってるし。、また好き勝手に考えを巡らせます。



https://youtu.be/FTQbiNvZqaYより


totoの「Africa」が完成して発表されたのは1982年のことだそう。
これはアルバムの「Joe FM Hitarchief 1982」に収録されていたとか。
このころの自分は、夢遊病を体験し、夢か幻か地獄みたいな異世界を垣間見てしまった5歳のころでした。
とは言え、totoとか世界の歴史や陰謀なんかもまるでご存知ない年ごろでした。

このアフリカのpvは自分的にとても不可思議でたまらないのです。
取り上げざるを得ませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まず襲撃を仕掛けてきた盾の戦士は、不思議の塊みたいなやつさん。
この戦士がどうしてこの研究所を攻撃したのか?それはこのpvで最大の謎ですが。
pvの内容から推測すると、戦士が戦争を仕掛けた目的は「自分の姿を描いた本の消滅」でしたっす。

それ以外にあるとしたら私怨だとか、白人の奴隷制度の歴史に感化されての、民族的な怒りかもですが。
あるいは、偶然に本の中の戦士が登場して、怒りを見せて攻撃したのは、いわゆる「異世界からの召還」をあらわすのかと考えたり。
・・・

とにかくオカシイのは、以下のところ。

1・男が盾の戦士のことを調べてると、不意に偶然に本人が現れた

2・男は偶然に見つけた断片の本を探しているだけなのに、戦士は男に探されていることや、本の存在まで把握してる

3・戦士は槍を1回投げただけなのに、完璧に狙ったように、偶然にお目当ての本にランプの火を完璧に引火させ、証拠を隠滅させた

4・戦士が槍の手をちょっと動かすだけで、偶然にも本が崩れる描写がある。まるで超能力的なものを使っているよう

5・男はそんな無茶苦茶な目に遭いながらも、まるでなにも無かったかのように次の本を手にとる。それは襲撃と本の消滅により、記憶すらも失われたかの如くに。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そりゃこれは架空のお話だから変で当然だとか、思ったりします。
しかし、この世の中にはあらゆる事象、モノにすら2つ以上の意味があると考えてるのですよ。
このpvも何かの示唆的な情報が、入っていると見てしまいます。

何が奇妙で不可思議と感じ取れたかと言えば、簡単に言えばこれです。

「何か未来の俺を題材にしてる」的な目で見れたから。

今の自分に当てはまる要素ばかり盛り込まれているようで、ひょっとして自分の未来が暗示されていたのかもしれないなと。
ジャングル、古い家、古代史研究、傾いた床、謎の外敵による攻撃、偶然の出来事の連鎖、toto・・・

なんで有名な歌手グループが、見ず知らずの地球の裏の5歳の子供を取り上げ、しかもその子供が40台を迎えた未来を、ネタにしなきゃいけないんだと。
そういう突っ込まれるところはあるかもしれないですが。
何も意図せず、単に偶然に俺にとって意味ある映像が出来上がったんだろーかと。
それともtotoは1982年に映像を紡ぎだしているのだろうかと。
運命の存在、人生に対する他者の介入、未来視的な観点、かけられた呪詛。

何にせよ、俺とAfricaが合致する今この時に、何の意味があるのだろうかと考えてしまうわけなのです。

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天武天皇がどれだけ秦の始皇帝を手本としたか分かる話

こんにちわ、以前に書いたとおり、何も教えられず悪い方悪いほうに導かれて、フルボッコにイジメ抜かれて生きてまして愛国心も消失してしまった日本人です。

ちなみに家紋は鷹の羽の家でしたが、もうどうでもいいです・・・。

 

そんなこんなで不条理コースを突き進む中、ある時に天武天皇のことが頭によぎることがありましたので、死ぬ前にちょっと書き残しておきたいと思います。

それにしてももう死ぬとか言ってから25年は経っているので、なかなかしぶとい俺って。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

八色の姓(やくさのかばね)は何か変

 

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天武天皇-ウィキペディアより

脳裏をよぎった天武天皇

このかた、7世紀に壬申の乱で先代の弘文天皇をぶち殺し、そのまんま皇位についちゃった・・・。そんなハイクラスな破天荒をぶちかまし天皇でした。それでも狂ってたのかといえば、そうではなかったようです。

神道も仏教もどちらも基礎的なところから大切にして、いわば神仏習合の基礎を固めていった現人神といった具合でした。この方が最初に天皇という称号を使ったといわれています。

そして八色の姓という氏姓制度を新たに制定したことは、むかし教科書でも習ったことかもしれません。これは簡単に言えば

天武天皇以前まで雑多になっていた臣や連といった高位豪族を、皇族系貴族と地方豪族とに明確に分け隔てる制度」でした。

これにより皇族はヤマト王権の中で優遇度が格段に上がり、例えば官吏はみんな皇族出身者にするとか、なんかズルい待遇の変化が出るようになりました。

 

そこで誕生した八色の姓は以下の8種でした。


真人(まひと)

朝臣(あそみ・あそん)

宿禰(すくね)

忌寸(いみき)

道師(みちのし)

臣(おみ)

連(むらじ)

稲置(いなぎ)

 

 ・八色の姓 - Wikipedia

これはもう見る影もない制度です。しかしなにか奇妙な毛色を持っている、自分的にはそう感じ取るしかなかったです。

この八色の姓の何が変なのかと気になりますね。しかしそれはひとまずは置いといて、とりあえず天武天皇諡号のほうを見てみます。

・・・と書いていたら、呪いをかけてくるおばさんが、いつものように玄関ドアをバン!とかやるのでイラっと来てしまった(2月13日)。

 

 

 天武天皇諡号を見ると

 

すると、天武天皇諡号にはなにか不思議な漢字の羅列が見られたりします。ここに八色の姓が刻み込まれていることも分かるのです。

天武天皇の和風諡号

天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

 

こんな名前の人がいたら、あま君としか呼ばれない感じがしました。どうでもいいですが。

天渟」というのは、天地開闢のあとに伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)が天の浮橋の上から天之瓊矛(天之沼矛・あめのぬぼこ)により海原を掻き回してしたたる塩の塊が淤能碁呂島になったとかいう、あのときの矛の名前ですね。これにより天の創造神であるが如くの意味合いを込めたのかもしれないです。

淤能碁呂島(おのごろしま)が「自ずと転がる島=地球」であるとするなら、天渟中原というのは地上世界の真中のことです。   

そもそも「中原」というのは中華思想における世界の中心、中国で言うところの黄河流域の華北平原のことでしたので。この当時の中原に当てはめられた日本の土地が、奈良盆地の明日香村の飛鳥浄御原宮のあたりでした。

それで「瀛(えい)」というのが道教でいう東方三神山のひとつ、瀛洲のことでした。この一字を以て「東瀛」とかも言って、それが日本の異名、雅称だったんですよ。

つまり訓読みの「瀛=おき(oki)」というのが日本の異名にあっておかしくないです。そう考えると、おそらく本州の本来の古名「秋津洲(あきづしま)」の「あき(aki)」に転訛している関係だろうと、考えたりするわけなのです。

そんでもって「真人」というのも中国由来の言葉だったのです。これは道教でいうところの「優れた道士」のことでした、というのは正直言えばウィキペディアで知りました。

天皇」という称号についても中国由来でした。道教の思想のなかに三皇五帝という神話上の皇帝が出てくるそうです。

三皇とは天皇地皇泰皇、あるいは伏儀、女媧、神農の3人の神であるとか。

三皇五帝 - Wikipedia

どうも天武天皇はこの天皇を気に入って、大王(おおきみ)の代わりに天皇を使いだしたとか。

 

というわけで、天武天皇という人は、完全に道教的思想の持ち主だったことは事実でした。このかたは道教に繋がる陰陽道占星術なども取り入れていたので、まさに中国の思想で頭がいっぱいでした。

それを元にして一応は日本の伝統も守ろうとはしたようです。原初の神道に思い入れが強かったらしく、天照大神の信仰を重視していました。

そして天武天皇がどうしてやたら中国に傾倒したのか、そのへんは天皇家の本来の出自に関係しているのですが。そのへんは以前の記事でも読むとわかりますが。

 

天渟中原瀛真人天皇、この諡号を踏まえて次の話へ。

 

 

秦人と始皇帝

 

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始皇帝-ウィキペディアより

 

どうして諡号の「真人」を、八色の姓の一番上に持ってきているかです。

真人を「まひと」とよめば 極めて日本的な印象を持てたりします。

しかし元々道教の「真人」に起源があるので、真人は「シンジン」と読むのが本来だったはずです。これがどうも大陸の「秦人」と同じ読みであることはたやすく理解できます。秦というのは秦の始皇帝が知られていたりしますね。

 

じつは始皇帝というのは、道教の大元である神仙思想を突き詰めて政治を行った人でしたので。そして始皇帝の元からは、東の蓬莱や瀛洲に徐福がたどり着いたりしていました。徐福とは方士であり、後に方士とは道教の使い手のことを指す言葉になっていました。

そうするとなぜ天武天皇諡号に瀛洲の「瀛」が入っているかも、なんか関連が見えてきたりします。なぜならば始皇帝の本名が、「贏政(えいせい)」だったからなのです。

つまり、 

  日本    秦

1 天武天皇  始皇帝  

2   中原  中原   居場所

3    瀛  贏    えい

4   真人  秦人   しんじん

5   天皇  皇帝   みかど

6根幹に道教  根幹に道教 道教

 というふうに、天武天皇は思想の根幹に道教を置いて、すべてにおいて秦の始皇帝風な政治を取り仕切った。そういうホントのところが、天武天皇自信の諡号に込められてるという感じがします。

何しろ、自分の名前に始皇帝の贏を入れ、サンズイを足して瀛に置き換え、秦人と同じシンジン(真人)を入れ、中華の中心となる中原まで含めてしまっているくらいですので。

八色の姓のトップに真人があるのも、始皇帝=秦人の思想こそが一番であると、そのへんを暗に込めて居る気がします。

気がするだけですが、筆者のヤマカンは割と当たっていたりします。

 

これもネットを探しても出てこない話だったりしませんか。と思って検索してみたら、こんな記事が。。

天武天皇は始皇帝を手本にした ( 歴史 ) - 歴史徒然:History Tsuredure - Yahoo!ブログ

言語学者の加治木さんが書いてたらしい・・・ただこの記事は天武天皇諡号のなかにまで秦の始皇帝が隠されているとは書いていないので、ここはオリジナルだったようです。

秦の始皇帝の事績が、天武天皇に似ているとは知らなかったことでした。やはり今回想像できた天武天皇道教崇拝と諡号のナゾは、真実に近いのではといった予感を受けました。・・・自己満足的ですが。

 

加治木さんといえば、著書のなかで烏孫起源説に言及している数少ない作家の一人です。天皇烏孫から来ていると言う著書を出しているのは栗本慎一郎さん、卑弥呼烏孫から来ていると書いているのが加治木さんです。

  

と、ここで話を終わらせても良かったのです。でも天武天皇の制定した八色の姓の真相は、もっと別のところにあったのではと、気づいたので次回に続けることにします。

 

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「東経ヒミコ度」が示唆する運命の存在

 

 以前から個人的運命とか世界的な運命については書いてたのですが。今回は卑弥呼ちゃんが教えてくれる、運命的むすびつきについてちょっと。 

 

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本日の散歩の写真(2月5日)

 

ところで爆音飛んできたり、隣のおばさんに深夜から朝まで壁をぶっ叩かれ過ぎて動悸が酷くなった心臓、近ごろもまだ胸が苦しかったりする。股間の異常があったり、なにより思考の異常で悩まされていたりする。

それにしても、接続が頻繁に切れて一生懸命かいた仕事用記事が全部消えたり。

連日爆音が飛んできたり、隣のおばさんはそれを俺のせいにして叩き返したり。

世の中や芸能人がうざかったり。年上な複数の大人からも、中学生のいじめや差別みたいなことされ続けたり・・。

山で引きこもりで暮らしていても、なにかとイヤなことはあるものだなと。

とりあえず複数の医者から放置プレイされ周囲にも教えられず悪化した蓄膿症は、消毒のおかげか沈静化したとか。 

 

とにかく今は自宅で出来ることをやる。たまに自転車ダウンヒルとかバイク乗れるくらいまで、リハビリしようかと。

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それにしても、冬の樹木は影絵みたいで魅力的だと感じますね、今回もすぐ自衛隊が飛んできたのもいつも通り。

 

○いつも助かっております

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

異端児卑弥呼

 

異端過ぎる筆者がいうのもアレですが、卑弥呼ちゃんは異端性に満ちていました。

そのあたりについては、陳寿がのこした「魏志倭人伝」でも語られていましたが。

 

倭国で長い間の殺し合いが続く狂気の中、倭人を代表して幼い卑弥呼が女王に擁立された(救い主)

・鬼道を用いて民衆を惑わせた(鬼道=祈祷という神道的なだじゃれ?)

・奴婢1,000人を居城で従えた

・魏の皇帝が金印紫綬を卑弥呼に送った(当時のアジアでは最高の評価)

・城にこもって民衆に姿を見せなかった(ひきこもりの元祖)

 

どんだけ個性的で酔狂な女王様だったかと。普通とかけ離れた異端児だったかと。

 

それで以前、卑弥呼にはこんな秘密があるのではと、想像して本やブログに書いたことありました。

 

一・卑弥呼朝鮮半島倭人地出身

一・卑弥呼の親(天皇)は扶余にいた

一・卑弥呼は海を渡って九州へ入った

一・卑弥呼崇神天皇と同一視できる

一・卑弥呼倭迹迹日百襲姫命と同一

一・卑弥呼は男装して外に出てた

一・卑弥呼は桃太郎のモデルだった

一・卑弥呼の名は自ら希望し名付けた

一・卑弥呼の名は崇神諡号と共通する

一・卑弥呼の名に徐福が込められた

一・卑弥呼の名前は三角形で表される

一・卑弥呼筑後平野に拠点を置いた

一・卑弥呼の名に前方後円墳の意味がある

他にもあるかもですが。まぁ筆者が想像しただけの仮説なんですけど。

世の中に出回っていない誰も知らない超テキトウな仮説がどんどん湧いてくるので、俺の前世は卑弥呼だったので、遺伝子レベルでテキトウに知ってたのだろうかと考えてみたりしました、テキトウだけど。

まぁ、それぞれの仮設はブログに納めてありますので、暇つぶしに読んでみてください。

 

 

倭人は言葉遊びを好んだ

 

むかしの人が文字に頼らなかった頃、伝達は話し言葉が中心を成した。

古来の大和言葉は音韻(音と響き)が重視されて、呪術を司る巫覡や巫女の役割を持った人々が、霊力や呪詛を蓄えた言葉「言霊」として作用させていました。

それで言葉は呪詛としての役割を持って、人を祝い呪い、生かし殺す武器にもなったわけなのでした。

たとえば罵声と嘲笑と嫌がらせを受けて、人が自殺するような出来事。これは呪詛や言霊を意図してなくても、自然と呪詛や言霊として機能をしてしまって、人の命を奪うに至ったと考えることができたりします。

それから適当な話をしますが、じつは大和言葉というのは、大陸の西から東へと縦断してきたのではないかと、誠しやかです(自分のなかで・・・)。

そのために、大陸各所の言語をやたら混ぜこんだようなものが、大和言葉であるようだと感じとれます。

仮に中東や中央アジアあたりで「bc3~ad3あたりに使われ始めた複数の単語」があり、それとそっくり似通った大和言葉がみつかるとすればどうですか。

するとそれらが偶然の範囲を逸脱して多数含まれるなら、大和言葉というのは縄文時代由来じゃない、中東や中央アジア由来な言語であることが、浮き彫りになるのではないかと。これはあとで調べてみたいですが。

 

さらにこれはホントの話ですが、漢字を取り入れてまた変化をし、時代を経て訛りの影響を受け合い、転嫁を続けていまの日本語になったようなのですが。

あとは、だじゃれ的な言葉遊びというものは、「万葉集」のなかでも見られたりしますよ。「日本書紀」をみれば、弥生時代の頃、頭に角がある人なので「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」という名前で知られるかたもいました。

弥生時代からだじゃれという言葉遊びは、あって然るべきでした。

しかも卑弥呼という人が、どうも指摘したとおりに言葉遊びを好んでいたような感じなのですよ。わずかな三文字から取れる情報量がすごいですから(自分のなかで)。

                                                              

ちょっとおすすめ

封印された叡智の回復 (1): 前方後円墳と神社に秘められた矢印機能 (たっちゃんの古代史とか出版) Kindle版

 

 

未来と繋がる言葉遊び

 

それで卑弥呼が未来に繋がる謎のメッセージを残してるのですう。

たぶんそれは彼女が意図した、というよりは、自然とそうなってしまった方が強い気がします。それは運命だからです。

或いはこの時代にそぐわない未来を知る存在が、卑弥呼に御近づきになり過ぎたがために、こうなっているのではないかと。

その辺の想像力を、いま開示しようかと。

 

 

1・卑弥呼の居城は「東経ヒミコ度」

 

卑弥呼の住んでた場所とは、卑弥呼の語呂合わせの土地にある。

そんな妄想を炸裂させるようになったのは、近年のことでした。

 

卑弥呼の語呂合わせというのは、

卑・・・ひ=1

弥・・・み=3

呼・・・こ=5(ご)、9(ここのつ)

この語呂合わせ。

これがどうも、弥生時代末期よりあったかも知れないなと、考えられたので酢。

それは「古事記」の物語から、紡がれちゃった話ですよ。大物主神にまつわる記述があり、そこには

「糸を3回巻いた回数=三勾(みわ)」と、「三輪(みわ)山」を掛け合わせた一文が出てくるのです。

はたと気づいたのですが。卑弥呼の時代から、数字の語呂合わせがあるんだと。

 

それで、以前に筆者がテキトーに書いた記事が、ここで関与するんですよ。

緯度経度というものが運命的に或いは陰謀的に結び付くというアレですが。

 

 近世にはいってより一般化したはずの緯度経度は、どうも卑弥呼のいた土地または卑弥呼の関与する土地では、「東経ヒミコ度」が当てはまってしまうという奇想天外な想像力なのですが。 

 

 

福岡の平塚川添遺跡

 

まず個人的に最初に卑弥呼の居城があったと直感するのが、筑紫平野でした。ここは佐賀平野とか筑後平野とかややこしい地名ですが、邪馬台国の範囲を考えると、筑紫平野全域に渡っていておかしくないかと。

中枢となる城が、おそらく吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡なのではないかと

で、何で平塚川添遺跡かといえば安本美典氏の一説「奈良と筑紫平野の地名の一致」が確かな証拠だからですね。それにこの遺跡の北には、三輪山と名前も見た目もそっくりな大三輪山もありますのでね。

卑三輪だったかもしれない卑弥呼と三輪山の地形から求める邪馬台国の所在地

あ。

 

あと地名で言うと、平塚川添遺跡のそばには杓子(しゃもじ)の地名が残ってることは必見でした。

何しろ卑弥呼の卑は、しゃもじの意味を持つのだから・・・・。 

しゃもじの女王卑弥呼 - たっちゃんの古代史とか

あ。

 

それで、この地点の東経が、130度39分なのは興味深いですね。

 

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平塚川添遺跡

130度39分

13039

139

1+3+9=13

 

あらま。

 というわけで、杓子の平塚川添遺跡の130度39分は、卑弥呼的に意味があった。

果たして偶然だろうか?と。

 

 

奈良の纏向遺跡

 

次に、奈良の纏向遺跡卑弥呼の居城だという学者もいるのですが。ここは卑弥呼と同一視される倭迹迹日百襲姫命に縁の深い、大物主を祭る三輪山が近いこともあり、たしかに無視できない土地なのですが。個人的にも、邪馬台国東遷説を支持していて、卑弥呼の拠点の2か所目と考えます。

この土地の東経が何度かといえば、135度でした。

 

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纏向遺跡

135度

135

ひみこ

 

あらら。

 

・・・・・・・・・

 

緯度経度というのが九州で正確に130度、奈良で135度が西洋世界で定まったのは、江戸時代だったのです。

 

弥生時代の最高に高い評価の人物

・当時から現代まで、135、139が当てはまる位の高い人物といえば日本では卑弥呼

 

これはなにか、卑弥呼がこの場所に居城を築いた出来事が、遠い2~3世紀の過去から運命的に決まってたかのような感じなのですよね。

なにか邪馬台国といいうのも、もしかすると邪馬台(サバト)国で、魔女の国でもおかしくない、そんな気にさえなりました。

 

 

卑弥呼の逆さ読み

 

もう1つ、卑弥呼の未来的な不思議要素があるのです。

卑弥呼という名は2世紀の頃に命名されたのですが、どうもアルファベット表記すると違うものが見えたりします。

 

ヒミコ

himiko

 

何の変哲もなくて、なんとなくセレブ感がでるhimikoです。

これを逆から読むと、

 

okimih

 

オオキミ

大王

 

大王(おおきみ)・・・天皇の古称ですコレ。つまり、

 

卑弥呼天皇だった情報が、アルファベットの逆さ読みに秘められていた

・アルファベットが日本に導入される江戸時代以降になって、初めて分かることだった

・大王=天皇なので、卑弥呼天皇だった(個人的には崇神天皇であるとする)

 

という話になり、やはり緯度経度の135、139の時と一緒で、過去と未来の繋がりが、卑弥呼から現れたじゃないっすか。

これも、偶然なのだろーかと。運命なのだろうかと。奇妙キテレツ摩訶不思議ではないですか・・・。 

  

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冬景色 2019年1月

先日、1時間ほどの登山した時(近所を歩いただけ)の冬景色。

 

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平野部

 

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青い空にたなびくような枝 

 

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斜面 

 

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尾根 

 

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ちょうど正面に飛んできた自衛隊

 

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駿河湾も見える

 

青い空に葉っぱが無くなった落葉樹の写真が、かなり素敵に撮れた1枚であった。

やるべき命題は完了していない。まだ俺は死ねない。 

 

 

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

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