たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

「磐余彦幻想記」p1

オリジナル絵本「磐余彦幻想記(いわれびこげんそうき)」

 

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p1

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解説:紀元前のこと。神武天皇は日向の高千穂から出発し、瀬戸内海を抜けて東の大和(奈良)を目指しました。これが伝承される神武東征です。

兵隊の鎧や馬の装備は、古墳時代の埴輪を参考にしました。ちなみに弥生時代には馬は居なかった説が根強いですが、縄文時代から馬は時々大陸から輸入されてた説も出ています。

いずれにしても幻想なので、細かいことは気にすんな説が根強い作者です。

 

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表紙・オリジナル絵本「磐余彦幻想記(いわれびこげんそうき)」について 

 

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武蔵の男衾(おぶすま)郡のほんとの由来は天孫降臨の真床追衾にあったのか

地名を見てると不思議なものが多いですが、今回は武蔵国の地名についての一考。

 

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男衾(おぶすま)

 

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小被神社 - Wikipedia

 

むかーし埼玉が武蔵国だった頃、男衾郡という土地がありました。現在では地名としてはほぼ消え去って、東武線の男衾駅などでわずかに名残りが見えるのみですが。

この「衾」って、和室に使われる建具の襖(ふすま)のことじゃないです。衾は布団、寝具をあらわす古語でした。

そういえば男衾郡の付近は、古来より古墳がとても多い地域だそうで。

現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。

熊谷市(大字小江川、野原、須賀広、千代、柴、板井、塩および江南中央一 - 三丁目の一部。旧小原村)

深谷市(荒川以南の全域。旧本畠村)

大里郡寄居町(大字金尾、風布を除く荒川以南の全域)

比企郡小川町(大字西古里、鷹巣

 

古墳群が多い北武蔵でも特に多く、野原古墳群(「踊る埴輪」が出土)、塩古墳群、鹿島古墳群など

男衾郡 - Wikipedia

と説明があったりします。踊る古墳ってダンシングフラワーみたいに、音に合わせて踊らせてみたら面白そうな気がしました。

それで男衾の地名の由来が気になる所ですが、この地域に鎮座している小被(おぶすま)神社にあるとのこと。

小被神社

小被神社(おぶすまじんじゃ)は、埼玉県大里郡寄居町富田の荒川沿いにある神社。祭神は瓊瓊杵尊武蔵国男衾郡の式内小社。旧社格は村社。

安閑天皇の代(531年~535年)に、富田鹿が富田村字塚越(現在の大聖山真言不動寺境内)に祠を建て、小被神を祀ったと伝えられる[1]。

祭神

(主神)瓊瓊杵尊

(配祀)木花咲耶姫命彦火火出見尊

小被神社 - Wikipedia

こちらの神社、日向三代天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祭神とするとか。小被と男衾、どっちもおぶすまなのですが、読めない、ずるい。

被とは「かぶる」で、衾(布団)との関連性を踏まえ、この漢字が選ばれているのかと。衾とは体に被るものだから。

男が布団を作っていた地域なら、まぁ健全ですけど。それとも男の衾ということで、同性愛的な世界を想像をする人もいるようですが…いやらしい意味ですか?😨

 

 

真床追衾が男衾になったか

 

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天孫降臨 - Wikipedia

 

でこの男衾という変な地名、実際の由来は地元で崇められた小被神ではなく、小被神社の祭神の瓊瓊杵尊にあると思うのですが。

それは「日本書紀」を見れば、以下のような神話があるからです。

瓊瓊杵尊天照大神の子である天忍穂耳尊高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命との間に天で生まれた[1]。

高皇産霊尊はこの孫を特にかわいがり葦原中国の主にしたいと考えた。そこで天穂日命天稚彦が派遣され経津主神武甕槌神によって葦原中国は平定された(葦原中国平定を参照)。

高皇産霊尊は皇孫(すめみま)たる瓊瓊杵尊を真床追衾(まとこおふふすま)で覆い地上に降ろした。これを天孫降臨と呼ぶ[1]。

皇孫は天盤座から天八重雲を押し分けて神聖な道を進み日向の襲(そ)の高千穗峯に天降った。

ニニギ - Wikipedia

ここに、小被、男衾に関わる単語が出てくるんです。

瓊瓊杵尊を真床追衾(まとこおふふすま)で覆い地上に降ろした。これを天孫降臨と呼ぶ

瓊瓊杵尊は高千穂峯に降臨する際、「真床追衾」で覆われていたんだと。

 

たぶん神話に出てきた真床追衾の「追衾(おふふすま)」が、小被(おぶすま)に転訛し、男衾になっているような感じがするんですが。何故かと言うと、

真床追衾 追衾(おふふすま)   瓊瓊杵尊(ににぎ)が使った

小被神社 小被・男衾(おぶすま) 瓊瓊杵尊(ににぎ)が祭神

男衾と追衾は名前が似ている上に、瓊瓊杵尊で繋がっているのは偶然じゃない感じだからですよ。

 

ところで真床追衾ってなんだろうと調べてみると、天津神の印の1つで、床を追う=覆う、衾(布団)という解釈になるとか。

いわゆる空飛ぶ布団と言っても過言ではないのかと。瓊瓊杵尊は布団に乗って降臨したというのは、なにかファンタジー要素爆上げな印象です。しかも中東の空飛ぶ絨毯の物語との、接点も見出されるところではないですか。

すると小被神社の小被神とは、「真床追衾神」あるいは「瓊瓊杵尊」であると考えられます。

 

 

男衾の富田鹿と高千穂

 

天孫降臨神話の真床追衾を元にして、この土地に男衾と名付けられたと仮定しますね。すると男衾の土地は高千穂に見立てられたのだろうかと、疑問に思いました。

高千穂峯の実際の伝承地は、九州の宮崎県と鹿児島の久士布流多気(櫛触峯)となっています。しかし実は全国には高千穂峯、高天原と名付けられた神話の山の代用地が津々浦々にあり、それぞれ地元民に崇拝されてきました。

男衾もその例と同じく、高千穂として崇拝されたのだろうかと。

それで男衾郡付近の地図で検索かけてみると、高千穂の名を冠する工場があったので驚いたのですが。これは狙ってここに建設したのか、運命的な偶然なのかはわかりませんけど。

男衾郡域には、高千穂や天つ神に関連する地名が、幾つか集まっているようでした。

ハイキングコースのある天神山、自然公園のそばのたかんど山、平安時代に築城された高見山の高見城、鷹巣天神社・・・

特に天神山は男衾の中枢に近く、天神山のそばに小被神社があり、富田鹿の名をもとにするらしい大字富田を冠しているのですよ。だからここが高千穂の久士布流だったとしてもおかしくない感じがします。

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まぁ男衾郡の地名が消えているので、明確な高千穂の名も消滅したかもしれません。

ところで小被神社を創始した富田鹿もまた、高千穂と関係するかもしれないです。何故かというと、こんな想像ができたので。

富田鹿→田鹿富→たかふ→高穂→高千穂

男衾と同様に、富田鹿の名も、天孫降臨神話の高千穂の名から取って並べ替えているのではないかと。すると創始者である富田鹿は、天津神を信奉し祀り上げる巫覡、神主のような役職だったのだろうか。

富田鹿は小被神社で、天孫降臨の地の代用地とした天神山に向かい、日々祈願したのかもしれないです。

 

 

埼玉の男衾と宮崎の高千穂を結びつけた畠山重忠

 

ところで人は運命に導かれて、なんて言いますけど。埼玉の男衾と宮崎の高千穂は、運命的な繋がりがあったという話もお伝えしておきます。

武蔵国男衾郡だった深谷市畠山は、秩父氏の一派で鎌倉幕府の武将だった、畠山重忠の産まれた場所で領地だったとか。

畠山重忠 - Wikipedia

 

男衾生まれの畠山重忠はかつて、宮崎の高千穂神社に参詣したと伝えられていました。

「文治四年壬四月(1188)天下より御名代ちちふ様(重忠)十社大明神高千穂神社)に参詣」

高千穂に現存する「重忠の秩父杉」 | 深谷ねぎっこブログ - 楽天ブログ

この時に重忠は、地元の秩父杉を持参していて、高千穂神社の境内に植えたのだとか。これがいまも樹齢800年の巨樹として知られる秩父杉です。

 

高千穂神社秩父

樹齢800年

高さ55m

太さ9m

(2022年現在)

高千穂神社でも、男衾に結びついているということで。

ひょっとして畠山重忠は、男衾の小被神社で瓊瓊杵尊が祀られているということで、男衾が高千穂に重ねられた土地であると知ってたんですかね。

それで高千穂神社を訪れ、参拝し秩父杉を植えたのかもしれないです。真床追衾と男衾についても、気づいてたのだろーか。

 

 

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精神メタバースは人を取り込み既に稼働しているんだろーか

昨今ビジネスや余暇やお買い物に使われ出している、メタバースってありますね。

あれってやっぱり、最大のテーマは「精神の存在」じゃないだろうか?という想像のお話です。

 

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死んだ人が生きてるとか言ってる人々

 

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もう数年前からに目にしたんですけど。

最近も、なんか言ってる人がいました。

 

死んだ人について「○○さんは生きてる」と語りだす人。

死んだ人について「○○が降臨した」とか、イタコみたいに話し始める人。

ネットでその方面の話について反応みると、「ちょっと頭がアレだ」とか「ありえないけど、死者に対するファンの心理は理解できる」という風な反応があったのですが。

 

実は「死んだのに生きてる」って話、ある意味でホントのことも含むのではないかと思いました。

そういえば、隣のおばばが爺さん死んだと言いつつ生きてることにしてたり、娘は居ないことにしてるのと、妙に関連づいてますが・・・。

 

 

仮想現実世界の中に生きる人々

 

もう20年くらい前、20代のニート全盛期から、SFとホラー系の小説を色々と買い込んで、読み漁ってました。

岡嶋二人の作品「クラインの壺」は、結構ご存知の方もいると思いますけど。これ、1989年の、バブル時代の真っ只中に登場したものだったとか。

内容はバーチャル(仮想現実)空間に取り込まれてしまった、悲運な主人公の物語でした。発表当時は世界的に見てもまだ、仮想空間に人の精神が入り込む作品は全盛ではなかったこともあり、とても話題になったとか。

物語の中では、主人公が現実の世界とまるで区別が付かない、バーチャルから出られなくなったわけですが、他にも「出られなくなった人」が登場してくるのが、怖いところであり刺激的なところだったりしました。

 

あとはホーガンの「星を継ぐもの」シリーズは何度か読み返してましたが。1997年発表の続編となる、「内なる宇宙」も読みました。

あれもスーパーコンピューターの中に人工宇宙があり、人間が暮らしているといった話です。その世界に降臨した主人公は神を演出してたので、現実のこの世界もひょっとして人工的に作られたのかと考えさせられました。

そしてマトリックスでは機械が生み出したバーチャル世界に人々が暮らしていたり、「攻殻機動隊」では機械の中に人のゴーストが宿っていたり。

仮想現実の中に人デジタル化された霊魂、精神が宿るというのが、20世紀末から結構ポピュラーなテーマに成って行くわけでした。これ、実際に科学者の研究テーマと同調していたので必然だったようです。

 

 

人の精神がもうメタバースに定着しているのでは

 

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それがもう2022年の現段階で実用化されていると思わせるのは、政府が主導して進行中のムーンショット計画、五感情報送信技術が存在するからです。

 

目標1.2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現

ムーンショット目標 - 科学技術政策 - 内閣府

 

それでメタバースが世間で認知されてきた最中に、コロナ禍が始まったというわけで。おそらくコロナ禍は、これにも関連づいてるという感じなのですが。

2010年代の頃、2040年になると人類の大半がメタバースの世界で過ごすようになるとの予測がありました。このムーンショット計画も2050年までにと言ってるので、同じころ。

科学の技術とは、発表される段階では50年前の技術であると言うのですよ。2040年に完成すると言ってる技術は、1990年代には、精神のデジタル化技術は、出来上がってたんではないかと考えているところです。

近年は異世界転生モノのメディア作品だらけなのも、その証左の1つであると思っていますが。

 

死んだ後どころか、生きてる間に精神がアチラに移るというのも、現実的かと思いました。

「○○さんは生きてる」

「○○さんが降臨した」

これある種の精神メタバースに○○さんが生きる姿を、画面の中で目の当たりにした人々による暗喩というか。

 

その○○さんは人工世界の中で、何不自由なく自由に自在に暮らしているのか、それとも監獄のような地獄のような世界にいるのかは、知りませんけど。

まぁ想像の領域ですけど、知ってる人が、秘密の世界をちょっとだけ、表に出して見せていてもおかしくないかなと。

まだ特別な人々しか、それは見ることができないようです。まぁ今後それほど年数を経過しなくても、それがどんな世界かはっきり見えてくるに違いないところですよ。

 

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オリジナル絵本「磐余彦幻想記(いわれびこげんそうき)」について

絵本「磐余彦幻想記」の表紙だけできました。

 

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絵柄と内容について

 

磐余彦とは神武天皇の諱(いみな)=本名です。神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)

髪型はみずら(角髪/美頭良)、鎧は昔の神武天皇肖像画を参考にしています。

内容は神武東征の時、金鵄の光を浴びた磐余彦が、あれまー・・・というようなもの。

描く計画は1年前からありましたが、分からない狛犬や神社の構造など練習を重ね、仕事に時間を取られて遅れてしまいました。😅

 

今後の予定は

 

このページで、完成原稿を増やして生きたいと思います。できれば週1枚くらいペースで。

時間と懐具合に余裕ができれば、完成も早まりますが・・・。塗り絵が含まれています。発売するかは未定。

 

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家康が江戸を拠点に選んだのは、江戸の地名が気に入ったから説

以前に「江戸」という地名の起源について話しましたが、今回も関連したお話。

しかし人為的計画的に失敗に導かれ、延々嘲笑される人生、はやく終了したいものだ。

 

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江戸が「いぇど」で余戸だった話おさらい

 

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江戸城 - Wikipedia

 

簡単に以前のお話を要約。

昔の江戸の由来は「江の津→江戸」説が定説。

しかし平安時代以後は発音が「いぇど」だった。しかもそれ以前の豊島郡の地名には余戸(あまるべ)郷が含まれていた。

実は真の江戸の由来は、古代からあった余戸郷かもしれないという内容でした。

現代 江戸 edo えど

中世 江戸 yedo いぇど

古代 余戸郷 yodo よど(あまるべ)

前回の記事

八百八町のお江戸の起源 平安時代の始まりなのか律令時代の余戸郷か

 

 

家康が江戸を拠点に選んだ理由とは?

 

徳川家康征夷大将軍となり関東を統治して以後、慈眼大師こと南光坊天海が街作りを進めた説があります。しかも明智光秀が天海その人に成った説は、世に知られるところです。

では家康はなんで、江戸を選んだのだろうと、考えるとこですよ。

 

江戸を大都市にした天海が、街に仕込んだ「秘密の仕掛け」 | PHPオンライン衆知|PHP研究所 

この記事によると、天海は陰陽五行説に基づいて、四神相応の観点から高台に囲まれた江戸城を選び出して家康に進言したのだとか。

この土地は古くから日比谷入江に港があり、東海道が通っているなどあらゆる有利な条件を併せ持っていたところ。だから家康は天海の助言に基づいて、江戸に拠点を持つことを決めたというのは、なるほどな話です。

しかし想像力を研ぎ澄ましてみると、家康が江戸を選んだ理由にはもう1つの重要な理由があったと想像しました。それは「地名が気に入ったから説」です。

 

 

地名が気に入ったから説

 

前回の記事の地図と照らし合わせてみると、わかってくることなのですが。

実は江戸城の周辺には、家康に関連する地名が多いことに気づきます。それで家康は、土地が気に入ったんではないかという発想なのです。

間違いなさそうなところから、取り上げてみます。

 

▶千代田と竹千代

家康はまず江戸城周辺の地理を知り得た時に、昔からあった城下町の千代田村に目をつけました。

何故なら千代田は、家康の幼名である竹千代と「千代」で一致していたから。これは偶然というか運命的なものを感じさせ、家康にとっては無視できない地名だったで賞。ここがいま神田駅周辺にあたります。

 

▶江戸と家康

「江戸=いぇど」だったわけですが、これも家康の目に止まったかもしれないです。何しろ「いぇ=家」で家康の一文字だったから。

しかも戸は「こ」で、康は「こう」だから、「江戸(いぇこ)=家康(いぇこ)」で一致してしまう。偶然にしても出来すぎなレベルで、これまた運命的な印象。

 

▶平川と松平

徳川氏は元は松平氏であり、家康が徳川に改称したことから徳川家が始まっていました。

したがって家康としては江戸城のそばには平川が流れているから、松平と平川は「平」の字で一致するのが気になったわけです。これも千代田同様、気に入った理由に含まれていそうです。

 

▶小石川と石川数正

家康の懐刀と呼ばれ、若い頃から家康と共に活躍したのが、側近だった石川数正

東京ドームの付近には、小石川という地名がありますが。この地名は23区に南北に流れて江戸郷の日比谷に注いでいた、小石川が由来になっていました。

家康にとって重要だった石川数正と、江戸に流れていた小石川。これも家康が気に入った理由になっておかしくないです。

 

以下は関連があるのか?とちょっと微妙な一致。

 

▶宝田と宝台院

江戸城の至近距離には宝田村がありましたが、ここはいま日本橋や東京駅のあたりです。

家康の側室には、お愛の方と呼ばれた西郷の局(さいごうのつぼね)がいました。この方は秀忠の母であり、後に宝台院が菩提寺となったとか。

江戸城のそばの「宝」の地名が重視されて選ばれる経緯があったなら、宝台院も宝田村を意図して選んだかもしれないです。

(参考:宝台院 https://www.houdaiin.jp

 

▶日比谷と日光東照宮

家康は晩年に自らの墓所である、久能山東照宮日光東照宮の2社を造営させました。その後に全国津々浦々に、家康を祀る東照宮が無数に出現することになります。

江戸郷の地名にこだわった家康だったので、日比谷入り江も何かに繋がると思ったら、日光東照宮でした。

日光は家康の参謀だった天海が建設した東照宮。その名はその昔に弘法大師空海が、二荒山神社の二荒を「にこう」と呼んだことにちなむとか。

家康は江戸城の前に日比谷があることから、「日」繋がりの日光を選びだしたのだろうか。

 

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こうして図に表すと、けっこう一致が見られるではないですか。

江戸城の四方の地名が、徳川家康に関連するのを見ると、天海が常々念頭に置いたという、四神相応の観点に通じるところがあり。

何より名前の一致を見れば偶然にしては出来杉君で、意図的な感じでした。天海がアドバイスしたのだろーか?

 

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天海が見定めた「江戸の北の富士山」は日光の男体山だったか

 

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虎塚古墳の壁画に漢数字が含まれるという疑問から辿り着いた、古墳の主は大陸から来た和迩氏説

古墳石室には色々な絵が描いてある。装飾古墳データベースから引用すると、同心円文。これが最も多く見られるとか。今回は虎塚古墳の石室の壁画についての一考。

(この記事は2013年に書いたものを再考察し、加筆したものです)

 

○ワタスが助かる

 

 

 

 

茨城県虎塚古墳(七世紀前半)の石室

 

そんな中で、茨城県にある虎塚古墳の壁画は、模様がシンプルではっきりしています。

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虎塚古墳 - Wikipedia

 

形状 前方後円墳

年代 7世紀前半

サイズ 56.5m

所在地:茨城県ひたちなか市中根

 

壁画を見てみると、中央になにか目立つ絵があります。砂時計のような形。これは三角文を合わせたものだとか。

古墳時代の特殊器台だとすると、「うてな」なのかと想像できます。なんでこれを石室の最も目立つ場所に配置するのかは、意味不明。

しかしこの三角形の図形、「実は文字だった」として解するとどうだろう・・・。

ちょっと思いついたのが、昔の漢字。古代中国にヒントがあるようです。

 

 

古代の漢字の5が⌛だった

 

まず漢字の種類をざっと見てみる。すると

甲骨文字

甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録したものである。漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。

甲骨文字 - Wikipedia

 

金文

金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的には甲骨文字の後にあたる。考古学的には、「青銅器銘文」と称されることが多い[1]。また鐘鼎文とも呼ばれる[2]

金文 - Wikipedia

 

篆書体

篆書体(てんしょたい、モンゴル語:ᠭᠣᠷ ᠦᠰᠦᠭ᠌[1]、満州語: ᡶᡠᡴᠵᡳᠩᡤᠠ ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ[2] 転写:fukjingga hergen)は、漢字やモンゴル文字満州文字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。 Chinese characters logo.svg 漢字 XiaozhuanQinquan.jpg Song ding inscription.jpg 書体 篆刻・毛筆 甲骨文    金文    篆書 古文    隷書    楷書 行書 草書 木版・活版 宋朝体 明朝体 楷書体 字体 構成要素 筆画 筆順 偏旁 六書 部首 標準字体 字様書 石経 康熙字典体(旧字体新字体 新字形 国字標準字体 常用字字形表 通用規範漢字表 国字問題 当用・常用漢字 同音の漢字による書きかえ 繁体字(正体字) - 簡体字 漢字廃止・復活 漢字文化圏 日本 朝鮮 ベトナム シンガポール 派生文字 国字 方言字 則天文字 仮名 古壮字 字喃 女書 契丹文字 女真文字 西夏文字 →字音 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。 公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。

篆書体 - Wikipedia

時代によって、字体が全然違ってるのです。

漢数字も同じでした。中国の基本漢数字書体一覧が下記のサイトにあります。

数学史5-2 ~紀元前の中国(数字)~ | Fukusukeの数学めも

 

ここから漢字の「五」を調べてみると、

 

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これ⌛

 

つまり虎塚古墳石室の真ん中にある砂時計は、漢数字の「五」の旧字体ということになるんでは?と考えてみました。

「学研漢和大字典」によれば、上古音・中古音・漢音・呉音でもいずれも「ゴ」だった。現代中国人が、5を「ウー」と読むのは、中世以降のことです。

つまりこの古墳の砂時計状記号の読み方は、「ゴ」かもしれないなと思うのですが。

 

 

古墳時代にゴと言えば呉なのでは・・・

 


古代の古墳時代倭人がゴと言ったら、三国志の「呉」かと思いました。大陸の、いまの中国の上海など沿海部が歴史上で呉越の地域でした。沖縄や長崎からは目と鼻の先だったりします。

もし虎塚古墳の壁画の中央が「五=呉」ならば?被葬者が呉を出身とするか、祖先を呉人とする人物がこの場所に葬られたのかもですが、

それで石室の最も目立つ中心部に、五を表したということかもしれませんよ。

旧字体が用いられているのは、倭人が漢字の旧字体を僅かに知っていたからとなりそうです。七世紀前半といえば古事記の成立より昔のこと。

 

 

輪っか2つで和珥(わに)氏なのか

 

その下の輪っか2つは意味不明で、真っ赤な太陽崇拝でもしてるのかと思いましたが。しかし輪っかが2つ・・・

輪2→わに→和珥氏?かもしれないと想像しました。

和珥氏 - Wikipedia

それで和珥氏が茨城県にいたかどうか、調べてみました。すると和珥氏の本拠地の一つが、茨城県鹿嶋市鰐川流域であると判明したじゃないですか。むむむ・・・。

和邇族と香香背男と茨城県|YinYi|note

つまり虎塚古墳は呉を始祖として崇める、和迩氏の系統の被葬者かもしれないという想像ができたのですが。

和迩氏とは孝昭天皇の長男である天足彦国押人命が始祖と言ってるのですが、実は和迩氏は渡来系という話しは実しやかです。ネット検索でも色々出てきます。和迩は中国の「王(ワン)」が転訛して和迩になったという話しがあります。

和邇氏とはどういう氏族か?: 安倍の市

そう言えば昔応神天皇のとき、王仁(わに)という人物が百済から来て、千の漢字をもたらしたとか。この人はひょっとすると山東半島の琅邪王氏で、王姓だったようです。

 

 

虎は大陸にしかいないのに、日本で虎塚なのは


この記事で、虎塚古墳の被葬者は大陸系であるというと、ちょっと訝しい感じで見る人もいるかもしれません。だからもう少し被葬者が大陸系であることの理由を述べます。

この古墳は昔から虎塚と呼ばれたのです。御存知の通り、虎というのは日本列島の自然界には存在しない肉食動物。

いま虎が生息している日本から最も近い場所は、ロシア極東のアムール川のあたり、ここにアムールトラがいたりします。この種は、昔は朝鮮半島にも生息していました。中国南方にもインドシナトラがいます。

だから昔の日本では「虎といえば大陸」でした。これ念頭におきます。

そして「虎(とら)」といえば四神に対応させると白虎のことで、色は白、方位は西を表してるのですね。要するに西の大陸から来た人々が葬られたから虎塚。

しかも古墳の絵文字が「五=呉」であるといったことになれば、虎塚古墳の被葬者が大陸系(呉系)和迩氏あることを表していると、そういう風に考えることができてしまったというわけでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


全国の装飾古墳には同様に、現時点では絵として認識されている文字が、他にもあるかもしれませんよ。

おわり

 

 

◆関連記事

竹原古墳の壁画を絵文字として解釈すると拓跋氏が見えてくる 

上神(かずわ)48号墳(6世紀)の壁画の地図は、倭文(しとり)神社周辺を描いたものだったか 

 

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上神(かずわ)48号墳(6世紀)の壁画の地図は、倭文(しとり)神社周辺を描いたものだったか

現存する日本最古の地図についてのお話。

この記事は2013年に公開したものを、大幅に加筆して公開しています。

 

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上神(かずわ)48号墳(6世紀)の壁画

 

現存する日本最古の地図といえば、奈良~平安時代に作られた「大和国京北班田図」や「荘園図」が知られるのです。

しかし鳥取県倉吉市穴沢にある上神48号墳(6世紀)の壁画こそ、真の現存最古だと見られるのだとか。

壁画は6世紀頃のものと推定され、サイズは260×224cm。朱を塗った巨石の表面をみれば、家屋や道路や橋、そして鳥居や樹木などが刻まれてるようです。

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佐原の偉人より

中央に立派な入母屋造のお屋敷、というか社殿が二棟。近くに鳥居マークがあるので、神社ということで間違いなさそう。

右側に丸みを帯びた太鼓橋らしきものがあります。この時代から太鼓橋が掛けられていたのか。川の対岸にも鳥居が見える。

川の湾曲したところの神社を調べると、場所がわかるかも知れません。

樹木のようなものですが、おそらく地形的なものがも含まれていると考えました。山の稜線なのか、谷の凹みかといった感じです。左側には水鳥と小舟の姿。そして線がごちゃごちゃした区画は、集落の道のようです。

 

 

地図中の神社を探してみる

 


鳥取県倉吉市というと、古墳時代律令制時は伯耆(ほうき)国の河村郡久米郡

伯耆国倉吉市付近の延喜式内社を調べてみると。

 

伯耆国式内社一覧 ウィキペディア

倭文神社 湯梨浜町宮内

波波伎神社 倉吉市福庭

倭文神社 倉吉市志津

国坂神社 北栄町国坂

胸形神社 米子市宗像

大神山神社 米子市尾高

伯耆国の式内社一覧 - Wikipedia

古墳のそばにある灘手神社も候補地になる。上神神社(かずわじんじゃ)もあったが、いつから鎮座してるのか不明。

灘手神社(旧天照皇神宮)倉吉市穴沢

上神神社 倉吉市上神

 

探し方を検討すると、

1・上神48号墳を中心に探す

2・グーグルマップに神社の場所を付ける

3・近くに川が流れる場所と、道や地形を元に検討

こんな感じであるかと。では開始。

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まず古墳から離れすぎている、西方の胸形神社と大神山神社は除外してみました。すると候補は地図上の神社に絞られた。

川のそばという観点でいうと、だいたい図上の全てが当てはまるようです。神社のそばの湾曲した道が、川など水辺に沿っている可能性がありそうでした。それで調べていくと、古墳近隣には合致するところがなかったです。

分からないので諦めて適当な記事にまとめようかと思ったのですが。しかし一番離れたところの倭文神社が、なんか怪しいことがわかりました。

 

 

湯梨浜町倭文神社の周辺か

 

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まず当該の地図を180度ひっくり返して見たのです。

すると、周辺道路の形が倭文神社のあたりによく似ていました。おわかり頂けるだろうか?

端っこの真っ直ぐな線は、鳥取を代表する川の天神川だろうという解釈ができました。

水辺の湾曲した道、直線の道、そのあいだの橋の位置関係など、倭文神社周辺とぴったり一致するように見えます。するといまの湯梨浜町の市街地あたりも、詳細に描いてあるようです。

東郷池がやや小さいのは、思い出しながら線を刻んだので、正確性に欠けたことが影響しているのだろうか。誰でも地図を思い出して書くと、サイズや位置関係が狂ってしまうもの。それにしては地図を刻んだ人は、かなり記憶力や方向感覚はよかったようです。グーグルマップも見たこともないのに。

すると樹木のように見えたのは、川や水路と谷の地形だった。倭文神社周辺地図には、東方面の地理まで描いてあると思われます。

 

ところで倭文神社の由来を調べると、こんなふうにあった。

湯梨浜町倭文神社

倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社。式内社伯耆国一宮。旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。

歴史

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。

創建年代

具体的な創建年代は不明であるが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされている[1]。

倭文神社 (湯梨浜町) - Wikipedia

建葉槌命を祀った神社だそうですが、元々は下照姫命を祀る神社だったとか。出雲から下照姫命が船でやってきて、現在地に鎮まったという。

古墳の主はおそらく倭文神社に縁がある人物で、下照姫命を拝んでいたのかもしれませぬ。出雲出身なのだろうか。

 

 

現在の地名と合わせてみたら

 

そして古墳のひっくり返した地図全体と、現在の地名を組み合わせることにしました。するとこうなる。

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まず右上のおにぎりみたいなのは、日本海に突き出た長尾鼻という半島の可能性があります。なにしろ形状が完全に一致しているので、間違いないところです。

するとその付近はJR山陰本線青谷駅と周辺市街地です。その南方にいけば、有名な観光地の三徳山投入堂があります。ちなみに投入堂が完成したのは、この古墳より後のことでした。

はじっこの線をつなぐと海岸線になるようです。倭文神社の北方にはお台場公園があり、天神川の対岸は北条です。また倭文神社の南西方向にいけば、天神川のそばに倉吉駅があるといった配置です。

地図上には泊漁港とありますが、これは微妙なところです。

 

おそらく古墳の被葬者は、この地図の範囲を生活圏としていたのでは。それで思い入れのある土地を地図に描いたというわけです。とすると古墳のある場所は描かれてないわけですが、なんでこの場所に埋葬されたのかは謎。

 

といった感じで古代の地図を読み解けました。6世紀以降、1400年も謎だった壁画の正体が、解明できてるのかもしれないと考えると凄くないですか😅。今後も線刻壁画を調査して見ようかと思います。

 

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八百八町のお江戸の起源 平安時代の始まりなのか律令時代の余戸郷か

何かこんなご時世でも関係なく、高層ビルが凄い勢いで増えてる東京ですが。あそこは徳川家康により世界最大規模の都市、八百八町の江戸の都が造成されたのは知られた史実ですね。

では家康が江戸を建設する以前、どんな場所だったかというのは、あんまり知らなかったです。そこで古地図やネット情報から調査してみることにしました。

 

○ワタス、助かる

 

 

 

 

徳川家康が統治を始めた江戸

 

江戸 - Wikipedia

 

時は戦国の1590年(天正拾八年)豊臣秀吉に敗れた後北条氏の土地を、徳川家康が統治することになりました。

家康は広大な東国の土地にある候補地の中から、老朽化してオンボロになった、武蔵国江戸城を居城とすることに決めた。当時の江戸城江戸湾東京湾)海域の日比谷入江にぴったりくっついた形でした。今では跡形もないですが、江戸城南東部を含む湾岸エリアはほとんど埋め立てられておらず、海が間近に迫っていたからです。

江戸城の改築工事では建物と周濠がどんどん作られ、豪華で堅牢な城へと生まれ変わって行ったとか。それと同時に小さな城下町には人が集まり、規模が拡大していきました。

関ヶ原の合戦徳川家康が豊臣政権に勝利すると、征夷大将軍となった家康の江戸城には大名屋敷、武家屋敷が大集合し、全国から商人町人が集まって政治と経済をになう大都市へと変貌。明治維新以降の東京へと繋がっていくのでした。

 

 

平安時代に始まった江戸

 

江戸の都は江戸時代からというのは思いがちですが、実は江戸の街は平安時代後期(12世紀)からだったというのは意外なことです。

当初の江戸は武蔵国の豊島郡の領域であって、最初のころはまだ江戸城も無かったとか。

最初に開発に着手したのは桓武平氏の後裔の秩父氏=江戸氏の江戸太郎で、歴史上で最初の江戸城が作られました。

平安後期の江戸の記録は少ないですが、海のそばの隅田川沿いには小さな村があり、これが「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という昔の百科事典みたいな書物で「江戸郷」と記されていたとかいいます。

江戸の由来は河口の地形を意味する江の津だとか、川と港があったから江の港だと言われますが定かではないです。

ちなみに「江戸はえぇど~😅」か何かだと思ってたら違ったようです。

 

グーグルマップ使用 参考:江戸 平川 - Google 検索

 

昔ながらの下町が、いまも東京に残ってますが。最初の江戸郷の場所は、千代田区の平川沿いの、神田駅付近にありました。

ネット検索で当時の集落を調べてみると、東側では神田駅付近にあった千代田村を中心とし、日本橋にあった宝田村や江戸下宿。どれも海に接した集落でした。

日比谷入江の江戸湊(港)沿いでは、本丸前の江戸上宿、江戸前島(銀座付近)にあった老月村、霞が関桜田村、その南方の日比谷村。

江戸城西側では、麹町にあった国府方。

その他江戸では昔から幾つかの港町があり、石浜城と港のあった浅草港、品川湊が代表格です。東京は神田明神だけでなく古くからの神社仏閣も数多いですが、それぞれ小さな門前町もあったと思われます。

初期はどの村も人口数十~数百人の規模であったと見られるので、田舎の田畑と海に接した集落と同様の景色だったようです。

 

気になったのは神田明神は創建が奈良時代ということで、東京でも有数の歴史を持っていますけども。平安時代の江戸の人々も、今と似た神田明神の風景を見ていたようです。

神田のあたりには、お玉が池という池がありました。今は池の姿が見当たらないですが、お玉が池跡の祠が名残をかろうじて留めているとか。

いま首都高速都心環状線の一部取り壊す計画が進んでいますが、その首都高速の真下に日本橋川が流れていますが。あの日本橋川、昔からあるのかと思いきや、平安時代にはなかったようです。15~17世紀に掘削された人工河川だったんですね。それで古地図上にないのは変だなという疑問は解消しました。

 

 

奈良時代以前にあった「余戸郷」が江戸の語源説

 

では平安時代より昔は、江戸はほんとに無かったのだろうかというのは疑問に思った処です。昔というのは奈良時代飛鳥時代古墳時代弥生時代の頃。

 

東京は古墳時代から武蔵国豊島郡なわけですが、「和名抄」を見ると古代の郷名は7つが記録されていました。

日頭、占方、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家

 

豊島郡 (武蔵国) - Wikipedia

今残っている地名は湯島郷だけで、ほかの郷の名前は消失してしまいました。したがってほとんど仮説を立てて今のこの場所のことだろうと言ってるようです。

湯島郷は湯島天神があるところで、神田明神と接し江戸郷からも離れてません。江戸郷には湯島郷が含まれているのだろうかと、考えたりします。

 

しかし何か余戸も捨てがたい気がしました。

余戸は「よど」で今の新宿の淀橋のことだという解釈があるようですが。余戸はなんか、江戸っぽいではないですか。

江戸はその昔、「イェド」だったそうで。エドとイェドじゃ全然印象が違いますね。すると江の津や江の港が語源というのは、なにか違う気がしたもので。

 

江戸 イェド yedo(古訓)

余戸 ヨド  yodo

と比較するとますます似てくるのですよね。江戸の語源は余戸郷説もアリかと思ったところです。あれ、すると「江戸はイェド~😅」で良いのかも。

 

::::::::::::::::::::::

といった具合で、あの付近の過去の様子がだんだんわかってきました。吉野ヶ里遺跡でもそうでしたが、兎に角陸地の場所はむかし海だったことを前提に見てみると、違った情景に見えてくるようです。

 

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吉野ヶ里遺跡の弥生時代の呼び名は「かむさきの宮処、桑間宮」だったかを考える

まだ酷い人生が続いてるまんまですが、そんな中で吉野ヶ里遺跡について新たな仮説を思いついたのでまとめてみました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

吉野ヶ里遺跡の当時の地名を考える

 

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吉野ヶ里遺跡 - Wikipedia

 

以前はこんなこと考えてました。

アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

今回はもう少し記紀の記述に沿った名前はないかと、考え直してみたのです。

 

奈良や平安の時代の古典には国郡里の地名が記載されていて、飛鳥時代以前の地名まで知ることができるんです。

しかし奈良や平安時代はすでに、弥生時代から数百年を経ている時代。だから卑弥呼の生前の情報は、神話化して曖昧になっていました。

記録されている各地の地名自体も、発音だけのところに適当な漢字が付けられたり、訛ったり変化しているんです。だから奈良時代であっても、弥生時代の地名を完全に復元するのは難しかったりします。

九州の佐賀県吉野ヶ里遺跡は、日本最大級の弥生時代の都市遺跡ですけども。この吉野ヶ里遺跡の当時の呼び名は、明確に現在まで伝わってないです。古墳時代にはすでに、吉野ヶ里遺跡の集落は離散していたということで、名前も消えた、消されたんですかね。

周囲も含めて5千人暮らしたという大きな都市でしたが、その記録が日本書紀古事記のほうにも見当たら無かったりするんです。

しかし当時の吉野ヶ里遺跡の地名を知る手がかりは、記紀風土記といった古典にあるのは事実です。

むかしの佐賀の地名を見ると、吉野ヶ里遺跡のあたりは神埼郡でした。ウィキペディアを見るとこうある。

神埼郡(かんざきぐん)は、佐賀県肥前国)の郡。

概要

文献『肥前国風土記』(奈良時代初期・8世紀前半頃)では、神崎郡(かむざきのこほり)と表記された。少なくとも大正時代までは「神崎郡」と表記され、昭和初期から半ばの間までは使用されていたと思われる。

歴史

奈良時代 三根郷・蒲田郷・琴木岡・宮処郷を始めとする九郷

中世 蒲田郷・中郷・竹村郷・上條郷・倉戸郷・東郷・西郷・土師郷・本告郷・賀﨑郷

神埼郡 - Wikipedia

これが手がかりの1つです。

 

あと吉野ヶ里遺跡の西1.3kmのところに鎮座する、櫛田宮にも手がかりがありました。

櫛田宮の由来を記した『櫛田宮由緒(くしだぐうゆいしょ)』という書物には、景行天皇(ケイコウテンノウ)が1920余年前に櫛田宮をつくってから、神の幸を受ける平和な里になったといわれています。「神の幸」が「かむさち」となり、これが後の「神埼」の由来になったとされています。櫛田宮は、皇室領の荘園「神埼荘」の総鎮守として、中央と密接な関係を持った神社で、肥前鳥居(ヒゼントリイ)や中世の多くの古文書が残り、太神楽・締元行列(ダイカグラ・シメモトギョウレツ)が奉納されるみゆき大祭が2年ごとに行なわれます。櫛田宮参道に建つ1602年に建立された石造の鳥居は、2本の柱の基礎が太いなど、肥前地方独特のかたちをしています。櫛田宮の樹齢およそ700年の琴の楠(コトノクス)は、心の清浄な人が息をとめて楠のまわりを7回半廻れば琴の音が聞こえると伝えられている大木です。

神埼市観光協会|観光スポット|長崎街道神埼宿

櫛田宮 - Wikipedia

櫛田宮は櫛田三神(須佐之男命、櫛稲田姫命、日本武命)を祀ってるところ。

景行天皇の実在年代については、渋谷向山古墳(景行天皇陵)の年代などから見て、4世紀の実在と考えていますが、彼が櫛田宮を創建したんだとか。

「神の幸」が神幸(かむさち)になり、神埼(かむさき)に転訛したようです。

で、景行天皇が最初とはいいますが、実際は吉野ヶ里遺跡という神殿の近くにあったことが、この土地に神を刻んだ理由だったんではと考えたりします。

 

 

吉野ヶ里遺跡のあたりは神岬だった

 

弥生時代後期当時、世界の海面の高さは今より2~5メートル高かったです。これは弥生時代の小海進(海面上昇)の影響。関東平野東京湾が埼玉北東部まで伸びていました。また茨城は1,000年前まで香取海という浅い海域があり、龍ケ崎や柏のほうまで海だったりしました。その名残がいまの霞ヶ浦

そういえば以前縄文海進と弥生海進をごっちゃにしていたことがあり、

当時は佐賀平野筑後平野のあたりも水没地帯であったんですよ。んで海岸線は背振山地の近くにありました。じつは吉野ヶ里遺跡からも、港の跡地が見つかっているとか。

Flood Maps吉野ヶ里遺跡を見てみます。

当時の海面に近い数値(海水面+5m)を入れると、こんな風に吉野ヶ里遺跡は海に接した、海辺に位置することがわかります。

 

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吉野ヶ里遺跡は港を有し、幾多の船が行き交う港町であり、大陸方面まで繋がる交易都市でした。その証拠として、吉野ヶ里遺跡からは琉球イモガイの腕輪が見つかったり、大陸の遺物が見つかったりしていました。

景行天皇が創建した櫛田宮は、卑弥呼のいた3世紀当時は海のに囲まれた岬。景行天皇が登場した4世紀前半頃には水が引いて、佐賀平野が拡大したようです。

土地が増えたことで、神の幸と言ったかも。櫛田宮のあたりもひょっとして吉野ヶ里遺跡と関連した弥生遺跡が出るのだろうか。

 

弥生時代吉野ヶ里遺跡の名前はなんだったと考えると、「神岬(かむさき」だったと思います。するとかむさきとう地名が元々あって、その後に海岸線が後退して土地が増え、それを「神の幸」と言ったのかもしれません。

想像できる名の変遷

卑弥呼時代 3世紀 かむさき(神岬)

景行天皇時代 4世紀 神の幸と表現される、海岸線後退、櫛田宮創建

飛鳥時代以降 6世紀以降 漢字で神埼が当てられる

 

 

吉野ヶ里遺跡の当時の呼び名とは

 

弥生時代後期までは岬であったので、「かむさき」とよ呼ばれた、でいいかと思います。しかしこれは岬の名前であって、祭祀と政治の中心だった宮殿の名称は、別にあったと考えます。

ところで神崎の吉野ヶ里遺跡では、一体なにが崇められたか、ですが。

それは多分、大物主(大国主)で確定だと思います。以前に電子書籍「封印された叡智の回復」出してましたが。(続きは卑弥呼総集編で、資金難のため完成未定・・・)

このほんの中にも実は、吉野ヶ里遺跡のこと書いてました。それについては別の記事を見ていただくとして。

 

吉野ヶ里遺跡の名称のヒントは、風土記に登場した国郡郷名です。

奈良時代 三根郷・蒲田郷琴木岡・宮処郷

ここに「宮処郷(みやどころ、みやこ)」というのがあります。

これが多分、吉野ヶ里遺跡あたりの、奈良時代以前の地名であろうという感じがしました。

宮処といえば宮は宮殿のことであり、みやこと読めば「都」になりますので。邪馬台国の宮殿があった都だから、宮処であるという感じです。

神の名が付いているのは祭祀を行う神殿があったから、もしくは卑弥呼がいたからかもしれません。

「かむさき(神岬)の宮処(みやどころ、みやこ)」

が当時の呼び名だった可能性はありそうです。

 

 

日本書紀にある桑間宮が吉野ヶ里遺跡かも?

 

卑弥呼の男装の姿である崇神天皇(と勝手に解釈)は、実は2ヶ所の宮殿を有していたことが、日本書紀に記されています。すると卑弥呼も2ヶ所宮殿を持っていたことになるのですが。

崇神天皇が主要な宮殿としていたのは瑞籬宮(みずかきのみや)で、古事記を見ると水垣宮とあります。当ブログではこれが邪馬台国の主要な首都であって、福岡の朝倉市の環濠集落の平塚川添遺跡であろうと推察しているところです。

それで第一邪馬台国が奈良の第二邪馬台国へ東遷し、奈良の三輪山のそばに九州の土地の名と施設が移され、同時に崇神天皇の瑞籬宮も第二瑞籬宮が奈良に建設されたものと考えられます。

 

日本書紀をじっくり読んでいくと、崇神天皇は桑間宮を創建していたことがわかります。これが卑弥呼が利用した、邪馬台国の平塚川添遺跡と並ぶ主要都市であると考えます。この場所は不明だったのですが、桑間宮という名称でちょっと思いついたことがありました。

まず桑間宮の桑をウィクショナリーで調べてみると、

「叒」(ジャク。大きな葉をつけた樹木、「くわ」の木)+「木」。

音読み

呉音 漢音 : ソウ(サゥ)

訓読み : くわ

名詞  蚕の餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用されるクワ科に属する落葉樹。 (花:春の季語, 実:夏の季語)

桑 - ウィクショナリー日本語版

これが重要だと思ったのは、邪馬台国との類似が見られるからです。

叒間 ジャクマ、ジャマ

邪馬 ジャマ

この辺を意図しているようです。桑間宮は邪馬台国にあったということを示すような気がします。

 

神の幸こと神埼郡には宮処郷のほか、蒲田郷もあります。これらの発音を比較してみると

神埼 神  かむ ka-mu

神の幸   かむ ka-mu

蒲田 蒲  かま ka-ma

桑間   くわま kwa-ma

という風に、同じ系統の音だったりします。

つまりかむさきの宮処は、別名でkamu宮、kwama宮=桑間宮と呼ばれたんではなかろうかといった感じもしてるわけです。

ここが邪馬台国の首都だったとすると。そう言えば「魏志倭人伝」の中で、邪馬台国までは「不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国から水行十日と陸行一月で邪馬台国」みたいな記述ありますが。途中からデタラメということです。

あるいは奈良の第二邪馬台国までの行程と、混同しているといった感じになります。ここは過去の記事で記しているので見てください。

ちなみに天照大神は養蚕の神様でしたので。卑弥呼天照大神を踏襲した女王でした。したがって吉野ヶ里遺跡のかむさきの宮処、桑間宮の主要産業に、養蚕があったのは間違いないです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

吉野ヶ里遺跡崇神天皇卑弥呼邪馬台国の宮殿。

かむさき、宮処(みやこ)、神の幸、桑間宮。

 

 

関連記事

崇神天皇の桑間宮と池から想像できた吉野ヶ里遺跡の正体

・卑弥呼の居城は「上座」の環濠集落という想像 

アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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世界の地球を表す単語を比較すると、知られざる地球情報が見えてくる

この地球が日本で地球と呼ばれ出したのは、江戸時代のことだったとか。

では卑弥呼が女王やってた頃の古代日本で、地球がなんと呼ばれたかご存知ですか。これを知ると、世界との関連や知られざる情報が見えてきたりするんです。

 

 ○いつも助かっておりまして

 

 

 

 

世界の地球を表す単語を見てみる

 

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Gaia - Wikipedia

 

「BABEL世界の言語」というサイトで、世界中の言葉を比較してるのです。バベルで地球を調べると、こんな結果でてきました。

地球(ちきゅう)

英 アース earth

独 エーアデ Erde

仏 テール terre

伊 テッラ terra

西 ティエラ tierra

羅 テッラ terra

希 ゲー γη

露 ズィムリアー земля

オランダ語 アールデゥ AARDE

ポーランド語 ジェミャ ziemia

マレーシア語 ブミ bumi

ハワイ語 アーイナ aina

 

ガイア Gaia

ギリシア神話の大地女神。

別称ゲーGe。カオス (混沌) につぐ最も古い神とされる。

 


地面(じめん)、大地(だいち)、土地(とち)

英 グラウンド、グランド ground

英 アース earth

独 ボーデン Boden

仏 テーレ terre

ポーランド語 ジェミャ ziemia

マレーシア語 タナー tanah

オランダ語 ヒロント GROND

オランダ語 ヒゥロント GROND

ハワイ語 アーイナ 'āina

ハワイ語 アイナ 'āina

マオリ語 フェヌア WHENUA

ヘブライ語 エレツ ארץ

ポーランド語ジェミャは、地球も表す。

 

BABEL 〜世界の言葉〜

 

その他に気になったのがこれ

 

エルス?イルス? erthe eorthe 古英語

エアデ? erde 古ドイツ語

エアダ? erda アングロサクソン

 地球がアースと呼ばれるようになったのはいつから?

 

エリドゥ eridu シュメール語 地球=居留地 エアデやアースの語源

エデン eden ヘブライ語 人間の最初の土地

ソイル soil 英語 つち

 

ウンサンギガことシュメール人は、地球を「居留地」とよんでたとか。居留地は、言い換えると植民地。まるで地球外に人類の本拠地があって、地球を植民地にしていたかのようなニュアンスなのです。

これが地球外生命体であるアヌンナキ神が、惑星ニビルから地球にやってきて人類を造ったというシュメールの神話と関わったりしています。

このニビルとアヌンナキの解釈は、ゼカリア・シッチンの本に詳しいらしいです(昔読んだ記憶があるがわすれた)。

ところでエデンは明らかにシュメール語のエリドゥと似通っているので、旧約聖書エデンの園とは地球を表したような感じがります。

 

 

日本語の地球・地面

 

では日本語で地球とか地面のことを、なんと呼び表していたか、その固有名詞も見ていこう。

地球

世界 世の中、この世、天下、世間

世 よ、ゆき、とし

卋(丗) よ、さんじゅう、ゆき、とし(古字)

陸 りく、おか、たち、みち、む、む-つ、くが

島 しま

泥 どろ、なずむ、ひじ

土 つち、ひじ

埴 はに、へな

地 ち 大地、地面、土地

平 たいら、ひらたい、ならす

 

興味深いのはいくつかありました。

会意形声。土+也。也は平らに伸びたサソリの象形文字、平らに伸びる様子を表す。

地 - ウィクショナリー日本語版

地とは平らに伸びたサソリで、明らかにフラットアースを表してたりします。世界を表す世は古字が卋・丗で、これもフラットアースを横から見たような形状してます。

おそらく昔の中国人が、世界は平面と考えたことが反映され、球体説と合わさって地球になっているようです。日本人は知らずと平面説と球体説の両方あわせもつ地球を使ってたわけです。

 

他に昔ながらの呼び名で、こんなのありました。

・葦原の中つ国、葦原

・塩(鹽)しお

・おのころ島 磤馭盧島(日本書紀)、自凝島(自凝島神社)、淤能碁呂島(古事記

記紀しんわの天地開闢の話。

イザナギイザナミが混沌の海を天之沼矛でかき混ぜるとき、矛の先から滴る塩の塊が陸地となったと伝わります。これがおのころ島で、地球のことです。

要するに「地球の原初は塩の塊」だったと、昔の人は言っていました。これもどうもフラットアース的な発想がもとになってるようです。塩の結晶というのは四角や三角形(昔塩)だから。

原文

於是天神諸命以、詔伊邪那岐命伊邪那美命、二柱神、修理固成是多陀用幣流之國、賜天沼矛而、言依賜也。故、二柱神立【訓立云多多志。】天浮橋而、指下其沼矛以畫者、鹽許袁呂許袁呂邇【此七字以音。】畫鳴【訓鳴云那志。】而、引上時、自其矛末垂落之鹽、累積成島。是淤能碁呂島。【自淤以下四字以音。】

訳文

ここに天神(あまつかみ)諸(もろもろ)の命みこと以(も)ちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、二柱の神に、是(こ)のただよへる国を修理(つくり)固め成せと詔(の)りごちて、天沼矛(あめのぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよさ)し賜ひき。故(かれ)、二柱の神、天浮橋(あめのうきはし)に立たして、其(そ)の沼矛を指し下ろして画(か)きたまへば、塩(しほ)こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまふ時に、其の矛の末(さき)より垂落(したた)る塩、累積(つもり)て島と成る。是れ淤能碁呂(おのごろ)島なり。

オノゴロ島の誕生、天沼矛、天浮橋~修理固成 | 古事記・現代語訳と注釈〜日本神話、神社、古代史、古語

 

 

では共通項を探してみる

 

・葦原asi-hara・・・erthe

記紀神話では人が住む地面を葦原と呼んだわけですが、これは天界の高天原に対して人間界葦原といったふうに、地球人類規模での話です。葦原の中つ国と言うと倭国ということになりました。

すると葦=asiとはアースの古語であるertheに対応してるのかと考えました。葦がadiと濁った音なら、eriduやedenにも近くなる感じです。

 

・磤馭Ensu・・・Erthe

おのころ島の磤はインで、馭はすべる(す)という読みがあります。これを合わせるとインスで、古英語のertheがイルスと読めるのでよく似てくる。磤馭盧には古英語に近い地球の音が入ってたのかと。

 

・碁呂島Gorodo・・・Ground

おのころ島の碁呂島はゴロドで、英語のグラウンドと似てるっていう感じがする。グラウンドは地面や地球のことであるので、原初の惑星オノゴロ島と妙にしっくり当てはまってる。不思議なことに。

 

・平taira・・・tiera

ラテン語で地球はティエラ、イタリア語でテッラでした。日本では地面が平らなことを平らというので、地球平面説がローマ経由で持ち込まれたのかもしれません。

 

・塩sio・・・soil

むかし日本人は原初の土地を塩扱いしたのですが、これがどうも英語のソイル(土)と似てるなと。大地はsoil、大地はsioと書けば同系に見えてくるし。たぶん欧州方面から日本列島へ人の流れがあったのは確実です。

 

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ウンサンギガは月に居るか - たっちゃんの古代史とか

 

 

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