たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

中央アジア の検索結果:

神武東征は「烏孫王の中央アジア東征だった」を、登場する人物名と地名から検証してみる

…はほんとは「烏孫王の中央アジア東征だった」を人物名や地名から検証してみます。「記紀の出来事は日本で起きた」と考えて、そこから出ない人は、変な人もいるものだと、見ておいてください。 ○いつも助かっております 堅昆と剣根 「日本書紀」では、神武東征が完了した頃、「剣根(つるぎね)」っていう変な名前の人が出てくるんです。 「神武東征はほんとは烏孫王の中央アジア東征だった説」で解釈すると、これは「剣根(ケンコン)」と読みます。剣根という漢字を当ててはいますが。 中央アジア史を見ると、…

魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった

…した。 塞というのは中央アジアのサカの中国表記なのですよ。 なんで倭人との対応に、サカ人担当者が当てられたのかは、従来の考えではまったく説明できないことです。この人は塞(サカ)の言語を駆使できたと思われます。 倭人にサカ人担当官が当てられたのは、それなりに意味があったと考えたほうがいいです。後半で理由を書きます。 太守劉夏 魏志倭人伝に登場する、倭の担当する地方官です。烏孫の王、昆莫の奥さんが劉細君であるのと、劉夏さんは倭へ派遣されているのは、関係していると見るべきかもしれま…

中国史書の「日本の神と天皇」を見分ける方法 からわかる烏孫の神武天皇

…。要するに手研耳命は中央アジアにいて、テュルクの名を持っていたから、手研耳なのだと。これはまず覚えておいてください。 そしてつぎに大禄がダルクなのも、すぐわかりますけど、ダルクとはテュルクであると。 つまり 神武の息子 手研 タギシ 突騎施 トゥルギッシュ=テュルク昆莫の息子 大禄 ダルク=テュルク ということでここでも一致が見られるではないですか。 ちなみに、この神武の息子手研耳命、昆莫の息子大禄、両者とも謀反を起こしているなど、事績としても一致するとか。このへんも重要な情…

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 2

…。彼の先祖はおそらく中央アジアらへんに居たと思うので。この人の名前の船とは匈奴のことなんじゃないかと想像できますし。 それはさておき、「古事記」の孝元天皇の記述に登場する地名と人物を、ちらりと見てください。 ・軽の堺原宮(かるのさかひはらのみや)孝元天皇の宮殿 ・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)孝元天皇の妃 ・比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)孝元天皇の御子 ・波邇夜須毘売(はにやすびめ)孝元天皇の妃 ・建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)孝元天皇…

日本の別名からもわかる「日本の前衛国家は烏孫」

…と同一と捉え天皇家は中央アジアから来ていると考えるので、一致する所がありまs。 そして2000年台の栗本慎一郎氏の著作物「シルクロードの経済人類学」(2007年)があります。烏孫の建築物の「聖方位」が日本に来ていることなどを理由としていました。 それから明治時代の研究者の佐伯好郎博士という人が、古墳時代に渡来した弓月君は、中央アジアの弓月国からきた説を唱えていました。もっとも佐伯さんの場合には、根源はイスラエルがルーツとしていますが。 この三者とも、日本の天皇家のルーツは、中…

むかしむかしあるところに大国主命が3人以上いました~烏孫と出雲に居た大国主命~

…? (2)大国主命が中央アジアに居た頃 変なことを言いますが、大国主命の内の一人は、中央アジアに居ました。それを証明してみます。 大国主命は出雲を建国をするとき、2つの奇妙な魂に助けられたのでした。 ・幸魂(さきみたま) ・奇魂(くしみたま) 想像ですが、日本の先祖は元々中央アジアにありました。烏孫、月氏、サカ、匈奴、バクトリア、などが日本のご先祖の国で、天皇家と日本民族の先祖も、元々あちらにいました。その後に烏孫から日本列島へ移住してきて、先住民、縄文系の人々と融合したと、…

聖徳太子は中央アジアから来た・・・西突厥の王族だった?

…ております 聖徳太子中央アジア人説 ということで、聖徳太子の話ですが、「聖徳太子中央アジア人説」ってあるんですが知ってますか。 小林靖子著「本当は恐ろしい万葉集」からも概要は読み取れますよ。本の内容から引用するとこうです。 ササン朝ペルシアのホスローⅡ世(五九〇~六二八)は突厥と親交し、版図を西に広げようと六一七年から六一九年にかけてエジプトまで遠征した。このホスロー二世の冠が同時代の西突厥の達頭(タルドウ)、私の推測する聖徳太子の冠と酷似しているのである(『聖徳太子の正体』…

「騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ(2)」 日本史の中の月氏 2022年改訂版

…。 「東西に分裂した中央アジアの遊牧民月氏族のうち、中国南部や東南アジアへ南下した月氏がいた。彼らは胡人といわれ、ペルシア系の文化を持っていたが、そのうちの一部が百年以上の後、東南アジアから黒潮に乗って奄美大島に到着し、さらに大隅半島を北上、北部九州に現れた。この月氏族が『記紀』にいう宮崎県の高千穂峰に天降った神武である。(中略)一部は東上して、すでにあった葛城氏を併呑して奈良盆地に定着し、ナガスネヒコ勢力になった。(中略)これら月氏族が列島から半島に現れたのは、奴国の建国間…

「騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ(1)」 匈奴は来た

…紀頃の前漢の時代には中央アジアから満州に至る、広大な土地を支配していました。 彼らは馬に乗りカッポカッポと闊歩しました。匈奴の勢いは長く続きましたが、4世紀にはアジアから姿を消し、他の民族と同化してしまいました。 実は日本列島に、匈奴はかなり早い段階から入り込んでいたのでした。 以前に書いたブログ記事こちら~ 日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった - たっちゃんの古代史とか このブログから、すこし抜粋してみます。 ・日本書紀の記録から 蝦夷の生活様式と風貌、それに気質を調…

蜂子皇子から知る、蘇我氏=サカ人仮説(1)

…中枢の大和民族には、中央アジアから来た人々が含まれた・・・。 と言っても、普通は中央アジアって遠すぎだから、そんなに影響のある人が来たなら証拠見せろと、わかめられます・・・わめかれます。 栗本慎一郎氏の著書を読んだことがあれば、取っ付き易いです。 中央アジアのセミレチア(烏孫)から草原のシルクロードを通って倭へ入ってきた天皇家。中央アジアのサカが渡来し蘇我氏となった。クルガンと古墳の相似。彼らが作った中央アジア的な飛鳥の遺跡・・・中央アジアと日本で共通する聖方位の宮殿・・・。…

美豆良(みずら)の正体はユーラシア大陸の奥地に見つかる

…いくと、最も古いのは中央アジアのアーリア人であると見られました。紀元前1500年頃のみずら状髪型の人形が見つかってます。 ユダヤ人(古代イスラエル人)のペイオトというみずら状の髪型について調べたところ、旧約聖書のモーセ五書のレビ記に、ペイオトの髪型が登場しています。モーセは紀元前13世紀頃の人物であるとされているようです、実在ならば。 中央アジアでは5世紀頃、ソグディアナ人がみずら状髪型をしていたことが、ベゼクリクの壁画でわかっています。下の画像は左がソグディアナ人、右が倭人…

日本の野菜は殆ど外国原産だったんですよ 2022年改訂版

…により伝来 玉ねぎ 中央アジア原産、江戸時代に伝来 トマト 南米アンデス山脈原産、1660年代頃に伝来 ブロッコリー地中海地方原産、幕末に伝来 茄子 インド東部原産、平安時代に伝来 にら 中国北部・モンゴル・シベリア原産、弥生時代に伝来 人参 アフガニスタン原産、16世紀に伝来 ねぎ 中国西部・中央アジア原産、弥生時代に伝来? 白菜 中国原産、江戸時代以前に伝来 ピーマン 南米原産?、明治初期に伝来 小麦 中央アジア・イラン原産、弥生時代中期に伝来 レタス 西アジア・地中海地…

正座は日本固有文化じゃなかった

…ほうです。あと古代の中央アジアでも、正座は普通だったとか。 エジプトに正座の起源があるのか で、私見としては、正座の本来の起源はエジプトなんじゃないかと考えてたんですが。確かめるべく、エジプトの遺跡のレリーフ(浮き彫り)に正座を求めて、検索してみると、こんなのがあった。 紀元前1270年のネフェルティティ墓の壁面のレリーフにも見られる、マアト(翼のある女神/ma'at)は、正座した姿で描かれることが多い。 egypt maat - Google 検索 正座か立膝かといった感じ…

日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった 2022年改訂版

…のでした。 5世紀に中央アジアで白匈奴(エフタル)が出現しますが、歴史上で6世紀頃には、中国大陸から匈奴の名は消えてしまう、これは歴史の定説です。 と思いきや、実は匈奴は日本列島の蝦夷の中に入り込んでいた、としたら、匈奴の郷土が新たに判明したということになり、にわかに匈奴まつりが始まってしまいます。 東日本の蝦夷は中国史書「宋書」では「毛人」とあって、通説的には縄文人の末裔だとか、アイヌ人のことだとかで、別名を毛野氏と言いました。 毛野氏というのは群馬、栃木、埼玉付近の豪族で…

天皇と大和民族の烏孫起源論のあらまし3 まとめ

…代天皇、神武天皇は、中央アジアの烏孫の昆莫と同一人物だった・・・ まぁほんとなら、天皇陛下も世の中の偉い人もびっくりですけど。 ここに述べたものは私見であるし、ごく一部分の一致を持ちだしたにすぎないので、日本の歴史に烏孫が組み込まれていることや、昆莫と神武天皇が同一人物という、決定的な回答ではないでせう。 勿論、神武天皇が架空の存在としたり、日本列島に実在したと考えることは、人それぞれの自由な発想でせう。日本古来の伝承を大切にする人は、この烏孫起源は頭ごなしに、気に入らないも…

天皇と大和民族の烏孫起源論のあらまし2

…いんですが、日本人の中央アジア起源説といったもの自体は、明治の昔からありました。 烏孫は中央アジアのキルギス、中国の新疆ウイグル自治区西部、天山山脈の付近にあった、騎馬民族の大国でした。中国の『漢書』『史記列伝』に記録が残ってました。彼らは紀元前の段階で地中海付近から中央アジアへ移住してきたコーカソイドで、加治木氏の著書によればギリシャ系だったとか。匈奴に服属した時代を経て、日本と交易した前漢とも交易してました。前漢人は、倭とも烏孫とも交流してたのでした。 で、Anthroc…

古代の諸国の君主号と、倭の大王に良く似た君主号を持つ国 2022年改訂版

…うです。 また西域・中央アジア・中東などシルクロードの諸民族が日本人の起源であると提唱しているのが久慈さんで、著書に「シルクロード渡来人が建国した日本」があります。 故・江上波夫さんの騎馬民族征服王朝説では騎馬民族が天皇家の起源とされてます。これは代表例ですが、多くの方が天皇家と日本民族の大陸起源説を発表しています。 日ユ同祖論となると多くの人はトンデモなどと囃し立てますが、個人的には調べたいテーマのひとつです。 あくまでも天皇氏族は日本列島で生まれたとする説を押していく場合…

馬王堆漢墓の帛画と倭の接点

…なぜ崑崙の西王母の描かれた三角縁神獣鏡を大量に造っていたのか。 扶桑、太陽の烏、筑紫、崑崙、西王母、三角縁神獣鏡、熊野三山、八咫烏。 こういった幾つかの要素が、全てつながっているようです。 馬王堆漢墓の帛画からは、日本人の一部族のルーツを捉えることができました。つまり扶桑から崑崙、崑崙から扶桑という太陽の動きは、そのまま民族的なつながりを意味すると。 中央アジアから倭へ、という民族的な動きがあったのは事実なのですが。そのへんは今後生きてれば、またいずれ。 人気ブログランキング

トルコ語と日本語は似てるとか

…を用いる国は、現在は中央アジアまでであると知られます。「突厥(テュルク)諸語」と呼ばれる同一言語を用いる諸国は、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなどにあり、モンゴルやシベリアのツングース族の言葉などひっくるめアルタイ語族ということです。 2~3世紀の段階でアジアに存在した、トルコ系人種・トルコ系言語と見られる国は、その出自を示すためなのか、国名を「turk」っぽくしていたと思います。そのturkっぽい歴史的国家・部族名を調べると、以下の通りです。 トカラ(tocha…

田道間守の行った常世と非時香果の正体1

…おり、倭人に西王母信仰があったとすれば、その原点「神仙の秘密の国」へ行こうとする意思が働くのはおかしくもなんともないと思います。 田道間守が大陸を西域へ縦断したとすれば当然、幾重もの万里の長城の波を超えた、というワケです。 西暦300年頃に、倭人が中央アジアへ旅をしたとすれば驚愕の展開・・・そしてそこには非時香果と呼ばれる謎の物体が在った・・・ここは蜜柑発祥地などではないらしい。では非時香果は柑橘類の実では無いことになる。 では常世とは、西域のどこの国の名称だろう? 2に続く

中国東北部・倭人に関わる重要な地名

…た。該当する地名は、中央アジアまで含めると全23カ所になります。 これらの地名は、大日本帝国の傀儡である満州国が建国された当時に、日本人が入植し、大和の名を刻んだというわけではなく、大戦中に日本人が大陸奥地に到達する以前から、同様の地名が多数存在していたということになります。 弓月国の融通王が127県(数万人)の民を率いて応神天皇の治める日本列島に渡来したとの話をご存知の人も多いかと思います。「新撰姓氏録」によれば、融通王は秦の始皇帝の子孫となっており、一説によれば弓月国とは…

はじめに。概要。

記事一覧 概要基本的には古代史、古代史とかの内容。 自身で考えた、思いついた発想を保存する場所として。内容は、通説から外れがち。 多くの側面からの検証を踏まえた上、できるだけ柔軟に発想し、新たな解釈を導きたいとおもいます。 古代史の分析範囲 古墳時代以前(7世紀以前)の倭国史・邪馬台国研究・北東アジア史・中央アジア史・騎馬民族研究ほか。不定期更新。 ○いつも助かっております 人気ブログランキング