たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった

また変なこと言いますが、

魏志倭人伝」に変なことが書いてあるんだから仕方ない。

 

○いつも助かっております

 

 

 

塞曹掾士張政

 

魏の帯方郡の武官です。塞曹掾士(さいそうえんし)張政(ちょうせい)という人が、倭の担当をしていました。

塞というのは中央アジアのサカの中国表記なのですよ。

なんで倭人との対応に、サカ人担当者が当てられたのかは、従来の考えではまったく説明できないことです。この人は塞(サカ)の言語を駆使できたと思われます。

倭人にサカ人担当官が当てられたのは、それなりに意味があったと考えたほうがいいです。後半で理由を書きます。

 

 

太守劉夏

 

魏志倭人伝に登場する、倭の担当する地方官です。烏孫の王、昆莫の奥さんが劉細君であるのと、劉夏さんは倭へ派遣されているのは、関係していると見るべきかもしれませんよ。

つまり劉細君の劉氏は、太守劉夏の劉氏と同じなのであると。劉氏は前漢の皇帝の子孫なわけで、これは有り得る話です。

烏孫と倭の統治者が共に天皇家なのだったら、劉細君の親類である劉氏が倭の担当になっておかしくないですよね。

そもそも劉細君の劉氏は、江都という土地に本拠があって、ここは現在で言うところの上海に近い、江蘇省揚州市です。倭に近い場所でした。劉氏というのは烏孫のことも倭のことも精通してたと、見られますよ。

 

以上のように魏から派遣された官は中央アジア烏孫に関係していたと見られます。

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烏孫 - Wikipediaより

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つぎに、魏志倭人伝に登場する倭人は皆、閣僚・官僚クラスなのですが、中央アジア出身、烏孫の出身か、あるいは先祖が中央アジアから来ていることを表す名前ではないか?と見られる人物名がいくつか見られました。

 

 

難升米

 

難升米はナンショウマイとかナシメというのですが、最近気づいたのですが、この人は烏孫の末裔でした。なぜかというと、烏孫の昆莫の父親の名が「難兜靡」というからなのです。

難升米 nan-sho-mai
難兜靡 nan -tou-mi

似てます。烏孫は「難氏」かどうかわかりませんが、難升米は難兜靡を意図した命名と見られます。それは難升米と共に居た人物も、中央アジア烏孫の名前を持っていることからも説明がつきます。

 

 

都市牛利

 

トシギュウリ、トシゴリなんて読まれます。従来は倭人は変な名前を持ってたのだと言って、それでオシマイでした。でも中央アジアに関連付けて考えてみれば分かりまs。

これはタジグリと読みます。タジキスタンの都市、塔什庫爾干(タジュクルガン)のことです。タジクというのは中央アジアに、漢の時代からある地名でした

都-市-牛-利
塔-什-庫-爾(ru)

も~完全に一致。

都市牛利は、 パミール高原の塔什庫爾干の出身だったんではないかと。

 

 

伊声耆

 

ここまで中央アジアが揃っているのだから、この人も中央アジア関係です。イセイキと読んで、お伊勢参りの伊勢行きなのかとおもいきや、これも烏孫でした。烏孫のあったキルギスには、この地域を代表する大きな湖「Issyk Kul」があるのですが、つまりこういうこと。

伊-声-耆
 i-ssy-k

 

 

掖邪狗

 

エキヤク、エキジャク、ヤヤクなどと読んで、これは難解すぎますが、これも

もし掖邪狗がキジャクなら孔雀明王でインドですね。中央アジアからは目と鼻の先。

あるいは邪狗がシャクなら釈迦、またはサカのことかもしれんですね。

もしアクシャクだとすると、シュメールの古代都市で、アクシャク王朝がありましたが。紀元前2500年という昔の街で、シュメール出身なのでアクシャク、掖邪狗という名前を持ってるということは、あるかもしれませんが。いずれにしても中央アジア西アジアという感じです。

 

 載斯烏越

 

素盞鳴(すさのお)に似てます。すさのおは「宋史」で素戔烏とも書くようですが、烏(からす)が烏孫に関係しています。

スサノオ烏孫にいたと思わせるのは、ローマ字表記にすると「susanowo」で、「s烏孫の王」になるからなのです。

そして恐らくは載斯というのは中央アジア車師のことです。「車+し」で一致させています。

載斯 sai-shi
車師 sha-shi

 

というふうに、当時の倭の中央にいた主要人物は、全員が烏孫中央アジアに先祖を持つものか、その出身者、と見られたのですね。

これも全部偶然?

それでサカの担当者である塞曹掾士張政が倭へ派遣されてたこと、烏孫の昆莫の親戚である劉夏が倭へ派遣されてたことは、説明がつくのです。

烏孫と倭は遠くはなれていたから、烏孫起源説はありえない」とは言えない理由が、ここで証明されました。

 

彼ら中央アジア系の人々が卑弥呼のところに集まっていた理由は、卑弥呼烏孫の昆莫の末裔であるから、個人的には崇神天皇だから、なのですがね。

卑弥呼は先祖の土地である、中央アジアの情報を集めるために、彼らを自分の周囲に招き入れているのです。

そもそも卑弥呼の名前も、中央アジア系で説明がつくことに気づいたのですが、それはパミール(卑弥ール)高原・・・。

 

まぁこれは個人的な妄想なのですけどね。

では~。

 

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