たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

馬王堆漢墓の帛画と倭の接点

馬王堆漢墓は中国の湖南省にある、紀元前2世紀の墓。前漢当時の利蒼さんと奥様のお墓らしいです。今回は馬王堆漢墓について。

 

○いつも助かっております

 

 

馬王堆1号墓の帛画

 

馬王堆1号墓には帛画(はくが、帛=絹)があり、古代中国の神話が題材として描かれてます。

 

馬王堆漢墓 - Wikipedia

天の女禍、太陽の烏、月の蛙と兎、四頭の龍、扶桑の木、人間界、地上の祭祀、地下で大地を支える男、二匹の魚・・・

中国神話の要素が凝縮されております。

絵画の芸術性、表現力、キャラクターデザイン、配置、色使い。すべての要素が百点満点のすごい画力です。

 

 

国史書の扶桑の記録

 

それでどうやらこの帛画は、日本に関係するようです。

まずは中国史書の扶桑の記録を見る。

 

扶桑

◯「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝 (下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)」(山海経

 

◯「大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰溫源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏 (大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)」(山海経

 

◯「海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯 (「海外経」によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、(そこの海水は)湯のように熱い)」(史記

 

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扶桑 - Wikipedia

 

帛画の右上部分が、扶桑を描いた部分で、帛画の太陽の数は9つで、神話の10個という数字とは数が合わないんですが、数は違っても同様の神話を描いたものです。

扶桑とは伝説上の国とされる一方、日本の古称が扶桑だったことから、一説に扶桑とは倭そのものであると言われています。

山海経の中に「扶桑は黒歯国の北」とあります。これは魏志倭人伝

「女王国の東にまた国あり、皆倭種なり、侏儒国あり・・・女王国を去る4千里、裸国あり、黒歯国あり、またその東南にあり、船行1年にして至る」

とあるように、黒歯国は大変遠い場所との認識がありました。18世紀のフランスの東洋学者により、北米大陸だとの説も提唱されました。そうすると東南の黒歯国とは、南米大陸か、などとも言われます。

wikipedia扶桑国

 

 

熊野大社が関係するか

 

仮に扶桑が倭種か、或いは日本列島だとすると、日本の神社が関係してるかもです。

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熊野本宮大社 - Wikipedia

和歌山県田辺市熊野本宮大社。シンボルマークは太陽の中の八咫烏

これは扶桑の木の、太陽に烏がいるとの中国神話が、そのまま描かれてます。熊野権現は、扶桑と関係があるらしいです。

 

実は知られてませんが、熊野三山の祭神の名を見ると、扶桑の名が見られます。

熊野三山の祭神は大変多いのですが、本来の主祭神は次の計四柱であるとされます。

 

熊野本宮大社主祭神 家都美御子大神

熊野速玉大社の主祭神 熊野速玉大神、熊野夫須美大

熊野那智大社主祭神 熊野夫須美大

熊野本宮大社 - Wikipedia

この中の「夫須美」が扶桑のことだと思います。

熊野三山とはもしかすると、本来は扶桑の神と太陽の中の烏を祀っていたのかもしれませんです。で、もうちょっと踏み込めるんですが、自重します。

 

この八咫烏は神武東征のときに、神武天皇の道案内をしたという伝説上の烏ともされておりました。

神話の八咫烏と中国神話の扶桑が、結びつくというのが不思議な感じがします。東方の扶桑の八咫烏が、どうして古代の中国人にも知られていたのか。

 

 

崑崙と筑紫の関係

 

そしてもう一つ、宋書に気になる記述があります。

「東造扶桑游紫庭 西至崐崘戯曾城 (東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて曾城に戯る)」(宋書

扶桑 - Wikipedia

東の扶桑と共に、紫庭という地名が出てきます。これは筑紫のことではないかとの説があるようです。

扶桑は西の崑崙と一対になっています。崑崙とは西王母の居る崑崙山のことで、新疆ウイグル自治区チベット自治区の間の山脈です。

なぜ極東の扶桑・筑紫と崑崙が一対になっているのかというと、これは普通に解釈すると、太陽が昇るのが東の扶桑、通過点が紫庭、沈む場所が西の崑崙と捉えることができます。

古代中国の思想の中での太陽は、東の扶桑と西の崑崙を行ったり来たりするものであるということです。

扶桑が八咫烏という一部族を表すものだとすると、熊野の祭神と八咫烏の出自には、扶桑、紫庭(筑紫)、崑崙の三ヶ所が密接にリンクしているように思います。

 

倭人がなぜ崑崙の西王母の描かれた三角縁神獣鏡を大量に造っていたのか。

扶桑、太陽の烏、筑紫、崑崙、西王母三角縁神獣鏡熊野三山八咫烏

こういった幾つかの要素が、全てつながっているようです。

馬王堆漢墓の帛画からは、日本人の一部族のルーツを捉えることができました。つまり扶桑から崑崙、崑崙から扶桑という太陽の動きは、そのまま民族的なつながりを意味すると。

中央アジアから倭へ、という民族的な動きがあったのは事実なのですが。そのへんは今後生きてれば、またいずれ。

 

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