大国主命(オホクニヌシノミコト)というのは、おそらく3人以上の集合体なのでした。
そしてそれぞれの大国主命の活躍した舞台は、実は別々の場所だったのでしたが、記紀が編纂される時代に、「日本列島だけが大国主命の舞台」っていうことにされてしまったんです(想像)。
ほかの八百万のあらゆる神が、同じ状況に置かれてしまいました。これは日本のご先祖様が、日本列島を守るために、日本列島だけに神様を集めることを望んだからでは。
そのヒントは、大国主の別名の多さにも現れているでしょう。妄想ですが。
○いつも助かっております
(1)大国主命のこれでもかという別名の多さ
大物主命
葦原色許男命
宇都志国玉神
顕国玉神
こんなに別名が多い。大国主命は、ソラマメなのか。ちなみに、そら豆は別名が多い。豆だけに豆知識。
それは大国主命が、幾人かの別人格を習合した存在だったからでした。
大国主が2回死んで2回蘇っているのも、神様だからなんでもありだという意見の反面、初代大国主が死んで、その後を別の大国主が継承している出来事を、蘇ったと表現されたことは、十分にあり得るんではと。
名前がコロコロ変わっているのは、大国主命一族の歴代の名前が反映されているからとすれば?
変なことを言いますが、大国主命の内の一人は、中央アジアに居ました。それを証明してみます。
大国主命は出雲を建国をするとき、2つの奇妙な魂に助けられたのでした。
・幸魂(さきみたま)
・奇魂(くしみたま)
想像ですが、日本の先祖は元々中央アジアにありました。烏孫、月氏、サカ、匈奴、バクトリア、などが日本のご先祖の国で、天皇家と日本民族の先祖も、元々あちらにいました。その後に烏孫から日本列島へ移住してきて、先住民、縄文系の人々と融合したと、そう考えられます。
ともかく大国主命が中央アジアにいたことを証明するひとつが、幸魂と奇魂なのではないかという想像なのですが。なぜかというと、
・幸魂=サキ=Sa-Ki=サカ
・奇魂=クシ=Ku-Si=月氏
とすればです。
中央アジアにあった民族が、大国主の出雲の建国に関係していたということになるのです。
この時の大国主命のいた出雲とは
・出雲=Iz-uMo=Uz-Um=烏孫(wusun)
で、出雲が烏孫のことを指していたとしたら、なぜ大国主の話に、烏孫の隣国である幸魂(サカ)と奇魂(月氏)が現れたかは存分に説明がつくでせう。
烏孫、サカ、月氏の3つは中央アジアの土地で、三つ巴となっていたわけですから。
古代中央アジアの図(グーグルマップ使用)
紀元前2世紀、月氏は匈奴の圧迫を受けて、サカ(塞)の地へ移動しますが、烏孫がこれを追いかけ移住します。月氏はこれを嫌がってさらに西の土地へ向かったのが、大月氏となりました。
烏孫は月氏とサカを従えて、現在のカザフスタン東部・キルギス・新疆ウイグル自治区西部のあたりに拡大します。
つまり烏孫はサカと月氏のちからを集結した存在になったのであり、これが出雲(烏孫)に幸魂(サカ)と奇魂(月氏)が合わさっているという不思議な神話になっていると見ているんですが。
(3)つまり出雲は烏孫の分家だった
そういえば大穴牟遅(オホアナムヂ)は新疆ウイグル自治区の「ウルムチ」に大を付けた名前に似ている気がする(オホウルムチ)のは、気がするだけです。
しかも宇都志国玉神・顕国玉神の宇都(うつ)・顕(うつ)とは烏孫のことのような気がしますが、気がするだけ・・・ですかね?烏孫の人だから烏孫国玉神なのでは。
出雲大社は「古事記」によれば「高天原に建てられた社」なので、出雲=高天原ということになっています。日本は要するに、各所に高天原が配置されていたのですが。
出雲大社の巨大な柱は、長いこと「宇豆柱(うずばしら)」と呼ばれていました。つまり出雲大社というのは「宇豆の社」だった名残であると思うのですが。そうすると宇豆は烏孫のことになるんでは。何故かと言いますと。・・・
わたくし、かねてより出雲大社の天井画「八雲之図」に注目していました。何やら雲が、西から東へと流れている絵なのです。8つの雲の絵があって、7つまでが西から東へ流れて、1つの雲だけひねくれ者で、東から西へ向かっているようです。
この天井画を見上げると、脊椎を痛めるような設計になっておりますので、十分に気をつけましょう。。
日本語の「雲」というのは漢字が当てはめられる前は「くも」だったんですよね。出雲は別名を「八雲(やくも)」ともいうので、出雲自体が「くも」の国だったんすよね。
そういえば素盞鳴尊が、歌をよんだではないですか。
八雲立つ 出雲八重垣
妻籠みに 八重垣作る
その八重垣を
この歌は『古事記』に収録してありますが、この歌と出雲大社の天井画は関係があったのですよ。
で、出雲大社が宇豆で烏孫を示すと言っている根拠は、「くも」からも読み取れるのですが。
じつは烏孫の王の名前が、「くも」だったのですよ。
つまり言うなれば
・国名 烏孫→出雲
・王名 昆莫→雲(出雲、八雲)
・天井画 多くの雲が西から東へ→烏孫の昆莫の民が出雲へ到達
・社 烏孫→宇豆
・近隣諸国 幸魂→サカ、奇魂→月氏
こんなふうに、烏孫の情報が出雲には隠されていたと。
ちなみにですが、ユーラシ東部の東夷の諸国、これらは烏孫の民です。雲が西から東へ向かったことでで表されています。
扶余、烏桓、高句麗、倭といった東夷諸国の支配者は、実は烏孫の王家の末裔だった、そんな感じだと思いますが。
それで日本語と高句麗語が似ていて、キルギスには「日本人とキルギス人は兄弟」という伝承が残っていたことも、全て説明がつくのですが。
・烏孫語→東夷語→倭語
・烏(wu,wo)→夷(wi)→倭(wa,wei)
そういえば出雲の祭祀を取り仕切る、出雲国造家のふぐの名物料理があって、その名も「うず煮」なんですが。なにかと「うず」なんですね。まあこれも、烏孫のことで烏孫煮なんじゃないかと思うわけですけど。
ちなみに、出雲大社は別名を「杵築大社(きずきたいしゃ)」といいますが。なんで餅をつく「杵(きね」で築いた大社なのか疑問に思ったことはないのですか?
この名も実は、烏孫に関係していたんですよ。餅つきで「キネ」に対するのは「ウス」だからです。烏孫と出雲が一対になった存在を表すために、ウスに対してキネを付けたんです。
(4)少名毘古那神はサカ人だった
ということは大国主の相棒の少名毘古那の正体も、判明することになりました。つまり大国主と少名毘古那は、大に大して対義語の小(少)で大小を揃えているのは明らかですが、それ以上の意味がありました。
少(suk)の1字が、サカを表しているとすれば、幸魂がサカであるのと同じことだと、わかってくるではないですか。サカの人という意味だったのがいつしかスクナビコナという意味不明の名前になったんではないかと。
少名毘古那が「酒の神」というのも、「サカの神」が誤解されたとすればどうですか。
すると奈良県の酒船石の正体も見えてきますね。本来は「サカ・匈奴(フナ)・石」で、サカ人と匈奴人が力を合わせて造った石であろうと。
『古事記』を見ると少名毘古那は「天羅摩船(あまのかがみのふね」に乗って、大国主のところへやってきていました。かがみとは「ガガイモ」のことだと『新版古事記現代語訳付き』にはあって、割れたガガイモは船の形になるから、これを表しているのだとか。ところがどっこい、よっこらせ。なぜ「羅摩」で「かがみ」と読むのか、意味不明ですね。
これは「羅摩=ローマ」のことで、少名毘古那がローマ帝国風の風貌をしていたから羅摩の字を当てているんではと思いました。古代ローマ帝国領の中東の人々は、積極的に中央アジアへと移住していたことは史実であるのです。
またあるいは「カガン(可汗)」というのは中央アジアの王を意味する言葉であるから、少名毘古那とはまさしく中央アジアに居たことを意味しているんでは。
これでもう、大国主の母である奇稲田姫命の「奇(くし)」の意味もわかってくるではないですか。奇稲田姫命は月氏稲田姫ということで、月氏の姫だったわけです。するとその夫の素盞鳴尊もまた、中央アジアより西の人物ということになってきますが。
大国主の妻の一人、沼河比売(ぬなかはひめ)の出身地は高志国(こしのくに)で、これは一般に北陸の越国(越前、越中、越後)を指すのですが、中央アジアの出来事が日本列島と重ねあわせられているがために、この場合の高志は月氏のことであるようです。
(6)ヤマタノオロチの神話は中央アジア月氏の土地のギリシア神話だった
奇稲田姫命が月氏稲田姫だとすれば、囚われの身となった土地は中央アジアの月氏の土地となるでせう。ヤマタノオロチ伝説とは中央アジアにいたギリシャ人が月氏の土地にもたらし、日本神話に融合されたと捉えられるのです。
ヤマタノオロチの風貌はまさしくギリシャ神話にでてくる、ヒュドラそのものであるのは、中央アジア月氏の土地にはかつてギリシャ人が居住していたことが影響してました。古にやってきたギリシャ人、アレクサンドロス大王に率いられたマケドニア人然り。
ギリシャ人が中央アジアにヒュドラの神話を持ってきた、月氏が受け継いだ、大物主命の話となった、それが日本列島へ入り込んでいるということだと考えらたのです。
するとヤマタノオロチと戦ったスサノオの中には、ヒュドラと戦ったヘラクレスが合わせられていると見ることが出来ます。それはつまり日本の先祖に月氏やギリシャ人がいたことに他ならないんです。
(7)大国主命はどことどことどこの大国主命が合わさっているか
ここで重要なのは、大国主命の中には、異なる地域の複数の人物が合わせられていることです。最終的に出雲の一人の大国主として確立されているのです。
・日本の出雲の大国主命
まず出雲に居た◯代目の大国主が、大国主のモデルであることは確定的です。従来は大国主といえば出雲にいた一人の人物を表すと考えられてきたでせう。出雲の国づくりの出来事は日本列島での出来事であるし、国譲りの出来事も同様でしょう。
これまでの考察によって中央アジアにいた大国主の先祖が、大国主のモデルに成っていたことはわかりましたが。
・地中海地方にいた大国主命
ヘラクレスとヒュドラのギリシャ神話が、中央アジアに送られ、素盞鳴尊の出来事として習合されたのでした。つまり素盞鳴尊の息子である大国主命の神話も、元はギリシャを含む地中海地方にあったっとして、見ることができたんです。これについてはまたあとで。
烏孫は出雲に分家を送っただけでなく、大和の中枢に入り込んでいたと考えています。天皇家自体も、烏孫を根幹として、日本列島の支配者の子孫と融合を果たした存在なのでした。
しかし歴史の表舞台から烏孫の記憶は消されてしまいました。烏孫の記憶はウスくなり、やがてウソと言われ、消えウセました。日本語のなかの否定的な言葉に烏孫の音が含まれているのは意図的であるでせう。
今後、もう少し詳しい話もいずれしますので。結果的には、日本の古代史を根底からぶっ壊すことになってしまいますが、仮にほんとのことなら、遅かれ早かれいずれ表面に現れて然るべきだと思いますし・・・。
いまはこの「日本烏孫起源説」を単なる妄想と思っているひとも、このブログを読んでいると、いずれもっと具体的に、日本の本来の正体が烏孫であることが、分かってきますので。では。
参考
など。
人気ブログランキング