たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

神武天皇紀になぜか仏陀と仏教の教えが登場する意味とは

 東アジアに大乗仏教が伝来して「大丈V~」とか言ってたのは4世紀頃からでした。

最も早かったのは前漢(紀元前1世紀)、その後は高句麗(372年)、百済(384年)、新羅(528年)で、日本は遅れて538年(552?)のことで、欽明天皇の時代でした。

日本に仏教が入ってきたのは6世紀(定説)。これは覚えてますか。

 

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「世界史年表・地図」仏教の伝播図

 

スマホでパチリ。

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「世界史年表・地図」の地図19pの画像をみると、日本の大乗仏教中央アジアを経てから日本へ入り込んでるのがわかるんですが。中央アジア烏孫にはネストリウス派キリスト教景教)が、1世紀の時点で入ってました。中央アジアの西域では、1世紀の段階で景教と仏教と融合を果たしてる筈ですね。

 

ところで神武天皇は実在なら、いつの人だったかですが。紀元前7世紀から西暦4世紀まで諸説あるんですよ。 

前回の記事で、崇神天皇垂仁天皇が3世紀ということは朝鮮半島の王の年代で表されることは解説したんですが。

 

垂仁天皇の時代が3世紀末~4世紀前半だったことを証明する方法

邪馬台国の女王壱与(台与)が崇神天皇である理由 

神武東征で誰が見てもおかしい矛盾点

 

というふうに。そもそも「日本書紀」の崇神紀と、「魏志倭人伝」は内容が被るということは拙著「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」で明らかとしたんですが。内容で稚拙なところ、間違ってるところ、いろいろありましたが。

つまり神武天皇は少なくとも1世紀以前というのは確定してきて、おそらく紀元前2世紀頃なのではないかと思ってるのですが。個人的には「神武天皇烏孫の昆莫」なんすけど。詳しくは過去記事で。

 

で、実は、「日本書紀」の神武天皇の記述に、仏教や仏陀が登場してるんではないかと思ってるんです。

定説では6世紀以前の日本に、仏教は存在しないわけだから、おかしいですね。なんでなのかと。

 

日本書紀」の神武天皇条に、仏陀の名前らしきものが登場してました。

日本書紀(一)」岩波文庫で確認できます。内容を要約すると、

神武東征の最中、神武天皇の一軍は、熊野で毒気にあたり、身動きが取れなくなってしまうのです。そこに地元の高倉下(たかくらじ)というおっさんが現れます。

高倉下は「天照大神武甕槌神に命じて、神武天皇の元へ、邪気を払う神剣「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を降らせた」という夢を見たのです。確認したところ確かに高倉下の倉庫に剣がありました。

神武天皇はこの韴霊剣の霊力によって、毒気を払って勢いを取り戻し先に進むことができた・・・

ということなのです。

 

韴霊剣の記述には、以下の様な注釈が入っています。

「此をば赴屠能濔哆磨と云ふ」

 

 「韴霊剣=赴屠能濔哆磨=ふつのみたま」と読むことがわかってくるわけなのです。で、赴屠という字を見て、ははぁこれはあれだなと。

たぶん「赴屠」というのは「仏陀」を表す言葉の亜種みたいなものではないかな?という、ふとした直感があったんですが・・・。

 

これを知るには辞書で「浮屠」を調べます。

デジタル大辞泉 「浮屠」 《〈梵〉buddhaの音写》仏陀(ぶっだ)。ほとけ。

Wiktionary「浮屠」仏陀(buddha)の漢音訳。浮図と同時代で、仏陀より古い。

「ふと」という発音は一致しているし、「屠」の字も一致してます。

 

でも「赴」と「浮」の違いがあるのはなんでだろうと思って、漢字の意味を調べると。

「赴」おもむく。あるところに向かって急いでいく。つげる。人の死を急いで知らせる。(学研漢和大字典)

「屠」ほふる。からだをばらばらにして殺す(城内の者を皆殺しにすること)。(学研漢和大字典)

 ということで、赴も屠も死を表す言葉でした。赴屠の字を使ったのは、神武天皇の低迷した場所は死者の国という意味合いがあつたのか。

仏陀をあらわす浮屠には「ほとけ」という意味があることに通じてたのです。日本で死者を「ほとけさん」と言うので。

つまり浮屠(ふと)と赴屠(ふと)は「死者」というキーワードで繋がっているのでした。だから神武東征のなかの赴屠には、浮屠=仏陀の名が現れていると見ることができたんですが。

 

ちなみになんで仏陀が古代中国で浮屠と呼ばれて、「浮屠=ばらばら死体が浮く」意味があるのかといえば、ブッダサンスクリット語の意味として「体解した人」が含まれてるからかもしれませんよ。「体で理解すること」を体解というのだと思うんですが、体解を「ばらばらに分解する」と誤訳した結果、「屠」の字を当てたかもしれないんで。

 

で、仏陀というのは釈迦のことなんですが、釈迦は本名を「ゴウタマ・シッダッタ」と言うんですが、ここでまたピンと来たんですが。

というのは、訓読で「ふつのみたま」と読む。なんでこんな難解な漢字を当ててるんだろう?という疑問はあったので、霊を音読してみたりといろいろ試してみました。

「韴」はソウ、ゾウというのが呉音・漢音。すると、霊は「ゾウタマ」と読めることがわかって、つまりこれは釈迦の本名の「ゴウタマ」を示唆してるんじゃないかと。だとすると・・・。

 

そして気になったのは高倉下の名前ですね。これも釈迦の関係です。

高倉下はタカクラジ、音読みでは「コウソウゲ」ですが、釈迦の出身地はコーサラというんですよ。だから「高倉(コーソー)」が「コーサラ」に対応してるってわけです。「下」というのは、そうなるとシッダールタのことなんじゃないかと。

(下=した=シッダ)ということは

 

韴霊=ゾウタマ=ゴウタマ=釈迦

赴屠=浮屠=仏陀

高倉下=コーサラ国・シッダールタ

となるではないですか・・・まぁ想像なんですけど。「韴霊剣=赴屠能濔哆磨」と「高倉下」という人が登場する、熊野での短い言物語の中に、釈迦と仏陀の名と仏教の教えを込めたというわけだったんですよ。長い年月で発音が変容していることはあると見られます。

 

で、これだけじゃなくて神武天皇の熊野での低迷の出来事、これ自体に仏教の教義が込められてると分かったので、簡単にご説明。

 

 

初期の仏教のあり方

 

簡単に言うと、

人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

 

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。 

仏教 - Wikipediaより

 

解脱を見ると、

仏教においては、煩悩による繋縛から解き放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指す。

解脱 - Wikipediaより

仏教はこういう意味があるんすよ。「自分自信の苦悩からの開放を目的とする。苦しい理由を知って解消することで、苦しさから逃れられる」と。。

 

で、神武天皇の東征で「韴霊剣=赴屠能濔哆磨」が登場した場面をもう一度振り返ってみると。

神武東征の最中、神武天皇の一軍は、熊野で毒気にあたり、身動きが取れなくなってしまうのです。そこに地元の高倉下(たかくらじ)というおっさんが現れます。

高倉下は「天照大神武甕槌神に命じて、神武天皇の元へ、邪気を払う神剣「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を降らせた」という夢を見たのです。確認したところ確かに高倉下の倉庫に剣がありました。

神武天皇はこの韴霊剣の霊力によって、毒気を払って勢いを取り戻し先に進むことができた・・・

 

永遠につづくかのような苦しみの渦からの解脱が、神武東征のこの場面中にあらわされてるじゃないですか。

日本に仏教が渡来した定説は6世紀。この神武天皇の物語は紀元前2世紀頃とするなら

・・・日本に仏教伝来する前に、仏教的な輪廻と解脱の教義と、仏陀、釈迦という名の3点セットが、もれなく神武天皇の伝承に中に入ってた・・・てことになるんですよ。

果たして「日本書紀」の舎人親王と「古事記」の太安万侶」は、ここまで理解していたかどうかは分かりませんが。。

 

(追記)やっぱり舎人親王仏陀・釈迦の本名などの情報を漢字に込めているのであり、全て理解していたのではないかと考えられます。

 

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第2代綏靖天皇と、烏孫の軍須靡の名が似すぎている件

このブログでは、烏孫の昆莫王朝は、日本で伝承された神武皇朝だったと妄想で述べています。これは第2代綏靖天皇と、烏孫の王の名前を比較すると、ワタクシの妄想がかなり補強されてきますので注目です(。

闇の組織参加者により評判を落とされるのですが、できる努力はしていきますのでー。

 

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第2代天皇綏靖天皇

 

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諱(本名)は「日本書紀」によると「神渟名川耳」っていうのですよ。

古事記」では「神沼河耳」で、「かんぬなかわみみ」、「かむぬなかはみみ」。

 

この名前、烏孫の昆靡名(王名)にありました。

烏孫の3代目は「軍須靡(クンシュミ)」というんですが、名前比べてみたら、

神渟名 kan-jou-mei(日本書紀

神沼  kan-sho(古事記

軍須靡 kun-shu-mie(秦・漢時代の音)

神渟名をカンジョウメイと音読みした場合、なんでこんなに似てるんですかね。。

「渟」は音読でジョウ。

 

さらに軍須靡には別名があって、「岑陬(ジンゾー・またはジンス/ジンシュ)」っていうのですが、これも神渟名川耳の中にちゃんとありました。

神渟 jin-jou

神沼 jin-sho

岑陬 jin -zou(jin-su/jin-shu)

神渟でも神沼でも、岑陬と一致させることができるんです。こんな偶然は無いんじゃないかと。つまり必然なんじゃないかと。

記紀編者(舎人親王太安万侶)らは、別の漢字を当てて、「かんぬなかわみみ」と読むように作り変えて、烏孫の軍須靡との関連を誤魔化して見えづらくしているというわけなのではないかと。そうすると、烏孫起源のことは誤魔化そうという談合が合ったんですね多分。2代目と3代目が一致していて、1代ずれてますが、これには意味がありましたが、別の機会に。

 

ほかにも根拠。 綏靖天皇の綏靖というのは淡海三船による命名なのですが、綏靖についても疑惑は出てきます。軍須靡は別名を「岑陬」といったのですが、「学研漢和大字典」を用いて古代の音を比較してみると、

綏靖 sui-zei

岑陬 jin-zou(jin-su/jin-shu)

やはりなんか似た音を選んでいるように見えます。

神武天皇=昆莫であるという仮説は、これらによって補強されると思います。

 

そういえば埼玉県行田市のさきたま古墳群には、稲荷山古墳があります。ここに稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣があって、当時の倭国の統治者の名前「獲加多支鹵大王」の名が刻まれてたのですよ。

「獲加多支鹵大王」は普通に呉音で読めばワクカタシルですが、当時の天皇の名前として調整していくとワカタケルではないかということで、雄略天皇諡号「大泊瀬幼武尊」の「幼武(ワカタケル)」であろうという判断が出来たわけなんです。昔は漢字の読みというのが明確に確定していなかったし、漢字の使い方も、漢音呉音が入り混じっているということになります。

 

そういえば4~5世紀頃、葛城襲津彦という人がいましたが、

襲津彦(日本書紀

曾都毘古(古事記

沙至比跪(百済記)

と、発音が異なってることは分かりますね。倭人は本来の名前に漢字を当てましたが、完璧に発音を表すのは難しかったようです。

 

あと思いつくのは「宋書」で倭の五王。最初に登場するのは倭王「讃」なんですが、これは日本語では「讃める(ほめる)」ですね。それで讃と同じ頃に「日本書紀」で当てはまるのは応神天皇だと思うんですが、応神天皇の和風諡号は「誉田別」で「誉める(ほめる)」で一致させているんですよね。つまり漢字を訓読(やまと読み)することで始めて意味が通じてくるという工夫があったんですよ。この逆の使い方が、今回の神渟名川耳にあてはまるということなんです。

これらを例に取れば綏靖天皇=軍須靡説は信憑性が増して、十分可能性としては考えられるようになるんではないかと思ったんですが。

 

で、この綏靖天皇と軍須靡(岑陬)の名前が一致するという話は、小手調べ程度で、まだまだ烏孫昆莫朝と神武朝の一致の話は続きます。

 

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日本列島からメソポタミアへ縄文人の移住はあったかを確かめる方法

最近、「世界文明の起源は日本」とかいう本がいろいろ出てるの、知ってますか。

縄文人が世界中に文明と神話を伝えたらしいんですが・・・。韓国起源説みたいな発想で、ちょっとアレなんですが。

これは本当なのかな?ちゃんと証明できてるのかな?というのが気になるんですけど。低学歴の研究者だから、人のこと言えませんけどもw

 

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日本の歴史①神話から歴史へ

 

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1973年初版発行の「日本の歴史①神話から歴史へ」(井上光貞著)、この本では日本のあらゆる種類の神話が、いかに世界中の神話にそっくりなのか、語られてます。

日本の神話は全部日本の出来事と思い込んでる日本人は、けっこう多いと思うのですが。

頭のなかで「日本神話は日本だけ、日本が中心、日本が最高」と思い込みがちな人は、世界の神話について調べてみたら、違った発想が出てきて良いんじゃないかと。

 

たとえば呪的逃走説話というのを例にとると、

日本の「黄泉」神話(要約)

死んで黄泉の国へ行った妻・伊邪那美を追いかけ、夫・伊邪那岐が黄泉の国へ行くと、伊邪那美は化け物の姿になっていた。伊邪那岐は逃げて千引きの大石で黄泉の入り口を封じた。伊邪那美は「1日に千人を殺そう」と呪いの言葉をかけると、伊邪那岐は「1日に千五百人を産ませよう」と言った。伊邪那岐は地上へと帰還した。

ニュージーランドマオリ族の神話(要約)

自殺して冥界の女神となった妻ヒネを追いかけて、夫・タネは冥界へ行ったが、ヒネはタネを家に入れなかった。ヒネはタネに言った「タネは上界へ帰って、子孫を増やしなさい。私は冥界で、その孫たちを暗黒と死に引き下ろします」タネは地上へと帰還した。

両者の共通点は、

伊邪那岐はタネ、伊邪那美はヒネである

1・妻死んで黄泉(冥界)へ

2・夫が妻に会いに行く

3・本来の妻に出会えない

4・夫は生命の誕生、妻は生命の死を象徴する

5・夫は地上へ帰還した

 

ということで、同じような内容であると分かるではないですか。 この種の呪的逃走系の神話は、世界中の大陸に分布してるのですね。世界中っていうのはアジア、太平洋、西ヨーロッパ、ギリシャ、エジプト、中東、南米、南アフリカ南北アメリカ大陸、と、あらゆる地域。

 

井上氏はこんなふうに言ってる。

「大林氏によると、この種の神話はは、ポリネシアにもあり、遠くは南アフリカにもあるが、その発祥地は西アジア、ヨーロッパであり、(中略)注意すべきなのは、逃走にあたって、追跡者をはばむ障害物が、かならず三つあり、日本でもそうなっていることである。ただ、一般には、それは石・櫛・水の三つだが、日本では櫛のほかは、黒御髪と桃になっている。」

「この黒御髪と桃の入っていることは、呪的逃走が妻の一族の追跡によるというモティーフとともに中国起源のものであろう。桃が悪気を制するという話は、中国古典の「山海経」や「淮南子」にあり、妻からの逃走は「五代史」にある。事戸わたしの話と呪的逃走の話は、いっしょになって華南から伝わったのかもしれない」

 

神話の類似は、ある一点から誕生して世界に波及したからという説と、世界各地で独自に発生したという考え方があるんどぇすが、ここまで似てると確実に一点から誕生して世界に伝播したと見たほうが自然ではないですか。どこが発祥ぽいんとなのか。これは、日本発祥の神話と言い切れるんですか?

 

我こそは元祖だの本舗だの言って争ってる飲食店って、たまにありますけど。

 

京都・舞鶴と広島・呉の「元祖肉じゃが論争」

 また、こうした店舗同士だけではなく、地域を巻き込んでの元祖争い、あるいは地域間競争の様相を示しているものも少なくない。その典型例は、京都府舞鶴市広島県呉市の「元祖肉じゃが論争」だろう。

 95年に舞鶴市と同市の観光協会、商工会議所が、「舞鶴は肉じゃが発祥の地」を宣言した。ところが98年には、呉市も「呉市鎮守府こそが肉じゃがの元祖」と、肉じゃが発祥の地であることを主張した。両者は今なお互いに元祖を主張している。

ラーメン、肉じゃが・・・、元祖争いは大チャンス? 「元祖長浜屋」にそっくりのラーメン店登場 | JBpress(日本ビジネスプレス)

 

たぶん同一の「呪的逃走説話」を持ってる世界中の国が「自分が元祖」って思ってるかもしれないんですが。そういう意味で、あらゆる神話の元祖がどこかっていう問題を解く方法は、タイムマシンで確認するか、なんでもご存知の宇宙人に聞くしかないんですけど。

人間は自分んとこが中心みたいな発想を持ちがちなので、客観視できてないこともありますね。中華思想韓国起源説みたいなものもそうですけど。

だから人間以外の誰かに、答えを聞いてみませう。

・・・植物さんに。

 

tacchan.hatenablog.com

 この記事書いたことあるんですが、内容は、

 

 名称   原産地と伝来年

いんげん豆 中南米原産、1654年、隠元隆琦が明(中国)から持ち込む

うり    西アジア北アフリカ原産、縄文時代に伝来 

えんどう豆 中東、地中海地方原産、9~10世紀に伝来

オクラ   エチオピア原産、幕末、明治時代初期に伝来

かぶ    アフガニスタン、中近東原産(2種)、古墳時代以前に伝来?

胡麻    インド原産、538年の仏教の伝来と共に来た?

米(稲作) 稲作の起源は1万年前の中国長江流域、紀元前1000年頃に伝来

キャベツ  西ヨーロッパ原産、1850年代に伝来

きゅうり  インド北部原産、平安時代に伝来

じゃがいも 南米アンデス山脈原産、1600年ころ伝来 

生姜    熱帯アジア原産、弥生時代後期に伝来

すいか   アフリカ原産、室町時代以降に伝来

大根    中東・地中海地方原産、弥生時代に伝来

ちんげんさい中国原産、1970年代の日中国交回復の頃に伝来

とうもろこし米原産、1579年にポルトガル人により伝来

玉ねぎ   中央アジア原産、江戸時代に伝来 

トマト   南米アンデス山脈原産、1660年代頃に伝来

ブロッコリー地中海地方原産、幕末に伝来

茄子    インド東部原産、平安時代に伝来 

にら    中国北部・モンゴル・シベリア原産、弥生時代に伝来 

人参    アフガニスタン原産、16世紀に伝来

ねぎ    中国西部・中央アジア原産、弥生時代に伝来?

白菜    中国原産、江戸時代以前に伝来 

ピーマン  南米原産?、明治初期に伝来

小麦    中央アジア・イラン原産、弥生時代中期に伝来

レタス   西アジア・地中海地方原産、江戸時代に伝来? 

れんこん  インド原産、縄文時代に伝来

 

人間が遠方へと移住するとき、人間だけが移住するんじゃないんですよね。植物の苗や種を、持って行くのですよ。

そうしないと、新天地に好みの野菜が無いとか、食べられる植物が全く無かったら、困るじゃないですか。大昔でもそうなんですよ~。

ついでに樹木や花や雑草の種子や細菌なんかも一緒に移動するんです。

史前帰化植物
有史以前の人々の移住に伴う帰化植物。主に弥生時代(BC 2-3 c)にイネの随伴植物として入ってきた植物群 ex. イヌタデ・ミチヤナギ・オオイヌタデスベリヒユイヌホオズキオナモミ・イヌビエ・エノコログサ・カヤツリグサ・アキノノゲシ・メナモミ
縄文時代に大陸から移住民に伴って入った植物 ex. ヒバンバナ

生物学的侵入

 

こっちも参考

帰化植物 - Wikipedia

 

日本の植物の多くは、縄文時代弥生時代にユーラシアの各地から持ち込まれたことは分かっていて、これは持ち込んだ人がいる、移住してきた人がいるという証拠なんですよね。遺伝子的にも、男系のY染色体のD・E yapというのが中東由来なことは証明されてるんですよね。

 

じゃあ、もし仮に「メソポタミアの地域に縄文人が大勢移住した」なら、メソポタミア地域で縄文時代の日本列島の植物が見つかるんですよ。

・・・まだ見つかってませんけど。

 

古代の土器や言葉の違いやDNAだのではよくわからないことが、植物の移動経路と年代を調べれば分かりますよ、きっと。

 

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垂仁天皇の時代が3世紀末~4世紀前半だったことを証明する方法

「偶然が重なると必然だ」とは、色んな人が口にしてますけど。俺にまつわる偶然の一致についても、はやく意味を解明してほしいっす。

 

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年代特定

 

日本書紀神功皇后紀に、実在した百済王と新羅王が登場しているのでsu。この百済王と新羅王の年代を特定すると、だんだんわかってきます。これは歴史学者も何も言ってませんで、ワタクシの想像なんですけども、

神功皇后の時代に新羅へ出兵したとき、「宇留助富利智干(うるそほりちか)」という新羅王が登場するんです。

神功皇后の時、新羅王は宇留助富利智干。まず、これを覚えておくんです。

 

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垂仁天皇 - Wikipedia

 

そして今度は日本書紀垂仁天皇紀に目を通すと、天日槍(あめのひぼこ)が新羅からやってきた場面があります。

この方は別名を都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)といいます。古事記では天之日矛とか書いてます。

「つぬが」は敦賀のことで、「あら」というのは古代任那地域にあった国の名です(あらま)。つまり朝鮮半島から倭の敦賀へ入った情報を名前に込めてるんです。

そういう意味で崇神天皇諡号「御間城入彦五十瓊殖」に、任那と委奴・伊都(倭)の情報が入ってたことと同じ。

崇神天皇が任那から九州へ移動したことを証明する新説

 

天日槍、この人は新羅王家の後継者だったんですが、天皇の下へ帰化しました。

で、天日槍は倭へやってきて、こんなふうに言ったとか。

「手前は新羅国の王子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました」(日本書紀上・全現代語訳 宇治谷孟著)

垂仁天皇の時、新羅王は知古

日本書紀」の新羅王の名が、智干(ちか)と知古(ちこ)。

実はこれらは同一の新羅王の名前を表してると見られるんですが、理由はあとで説明します。

つまり第十一代垂仁天皇~第十四代仲哀天皇神功皇后のころまで、「智干・知古」という名のひとが新羅王だったとわかるんです。

 

では実際に、智干(ちか)と知古(ちこ)という名の新羅王が居れば、垂仁天皇の時代が何世紀の西暦何年頃であるか、時代が特定できるってことなんですが。

いました。

 

訖解尼師今(こちかいにしきん)

訖解尼師今 - Wikipedia

 

 韓国ではフルへ・イサグムというとか。これを調べている時に居間に行くと、兄がなぜ「こち亀」のアニメを見ているんだ・・・。

 訖解は「こ-ち-か-い」なので「ちか」の音を含むのです。これが「日本書紀」で「智干(ちか)」と「知古(ちこ)」の名として記録されてたっていうことなんですよ~。

証明方法は他にもあります。「宇留助富利智干」の「宇留」が「フル」に対応してるということなんでsが。これらはローマ字表記するとわかりやすくなります。

智干  chi-ka  日本書紀神功皇后
知古  chi-ko  日本書紀垂仁天皇
訖解 ko- chi-ka -i 三国史記(韓国)

宇留   u-ru  日本書紀神功皇后
訖  heu-l   三国史記(韓国)

訖(フル)=古(フル)

 

宇留助富利智干=知古=訖解尼師今

 

ということが分かりました。それで、「日本書紀」では宇留助富利智干=知古の実在年代がはっきりしません。

日本書紀」の記述を元にすると、垂仁天皇は99年間在位したとか言ってデタラメの数字になっています。

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧 - Wikipedia

これ見ると垂仁天皇の在位はBC29~AD70年となっていますが、これもデタラメです。

宝莱山古墳が実際の垂仁天皇陵ではないとの解説は「天皇陵総覧」にもあります。江戸末期の役人が「垂仁天皇稜はどこなのか分からないから、たぶんここが垂仁天皇稜ってことにしちゃっていいや~」適当に治定してしまったのでした。

実際の崇神天皇の時代は卑弥呼の時代’2~3世紀と重なっていることは、「日本書紀」と「魏志倭人伝」の出来事の一致から明らかでした。

崇神天皇の世継ぎである垂仁天皇は、3世紀後半から4世紀始めの在位ということになるはず。歴史学者によっては垂仁天皇は4世紀後半以降とか言ってますが、この認識は間違ってます。

何故かと言うと「新羅王・宇留助富利智干=知古=訖解尼師今」の年代がおおむね分かってるからです。

訖解尼師今の在位、310 - 356年

この韓国の「三国史記」から導かれる年代が、果たして正確なのかという点については、枝豆のゆで具合と同じくらい気になるんですけども。

実は訖解尼師今の後継者となる「奈勿尼師今」が中国に朝貢を行った事績は中国史書「太平御覧」にも記録されていて、それは377年のことでした。

つまり奈勿尼師今の年代は中国史書と整合すると証明されていたわけなので、その先代の訖解尼師今の年代もおおむね310~356頃であろうというのは、合っている可能性があります。

このことは神功皇后百済から下賜され石上神宮に祀られた国宝「七支刀」の銘文に「泰■四年」とあるのが、東晋の太和四年(369年)と解釈されるのと一致することも証拠になります。

また奈良県奈良市神功皇后稜「五社神古墳の築造年代が4世紀末であること、神功皇后紀に新羅王宇留助富利智干が登場してること等など諸々の要素と合わせると、年代が非常に合ってくることでもわかってきます。

 

さらにいうと「三国史記」の「新羅本記」に卑弥呼の初登場が西暦換算で173年ということになってますので、「三国史記」は「魏志倭人伝」ともほぼ年代が一致していることになります。そうして「三国史記」の新羅王の年代については、信ぴょう性があるということが分かってくるわけですよね。

七支刀 - Wikipedia

五社神古墳 - Wikipedia

 

 

重なりをみる

 

で、垂仁天皇のとき、新羅王の王位継承が行われたことは明らかでした。天日槍が「自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきた」と言ってるのが表してます。

つまり

垂仁天皇の時代は、訖解尼師今の在位(310 - 356年)と重なっている

垂仁天皇の時代は、訖解尼師今の先代新羅王の時代と重なってる

 ことがわかってくるのです。

訖解尼師今の】先代は「基臨尼師今」(298~310)。

また言い換えると。

 

垂仁天皇の時代は、訖解尼師今の在位(310 - 356年)と重なってる

垂仁天皇の時代は、基臨尼師今の在位(298~310年)と重なってる

ということになってくるではないですか。

つまり少なくとも垂仁天皇は、3世紀末~4世紀前半の在位だったということはわかってくるとおもいます。

この他にも垂仁天皇の時代を特定する、誰も知らない要素は「日本書紀」にちゃんとあります。

が、もう疲れたので別の機会に。ではー。

 

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神武東征は「烏孫王の中央アジア東征だった」を、登場する人物名と地名から検証してみる

これは、個人的な想像、妄想ですので。

神武東征はほんとは「烏孫王の中央アジア東征だった」を人物名や地名から検証してみます。「記紀の出来事は日本で起きた」と考えて、そこから出ない人は、変な人もいるものだと、見ておいてください。

 

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堅昆と剣根

 

日本書紀」では、神武東征が完了した頃、「剣根(つるぎね)」っていう変な名前の人が出てくるんです。

「神武東征はほんとは烏孫王の中央アジア東征だった説」で解釈すると、これは「剣根(ケンコン)」と読みます。剣根という漢字を当ててはいますが。

中央アジア史を見ると、烏孫の北方に、「堅昆(ケンコン)」という国があって、これは別名がキルギスと言うのですが。契骨(キルギス)とも書きましたが。

キルギスの伝承で、「キルギスから東へ向かった者が日本人になった」というものがあり、いまのキルギスの土地は烏孫のあった場所なのです。

つまり神武天皇の近くにいた剣根とは、烏孫の昆莫の近くにいた堅昆なのであると。

 

 

月氏と神武東征の登場人物

 

以前「日本書紀」の登場人物には大量の月氏系の名前があること指摘してました。

「騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ(2)」 日本史の中の月氏 - たっちゃんの古代史とか

これはつまり、神武東征の舞台が月氏の土地=中央アジアであるから、月氏の名前を持つ人物が大量にいるということなのです。

長髄彦(na ga-su ne-hiko)

・名草戸畔(na-kusa-to-be)

・櫛玉饒速日命kusi-tama-nigi-haya-hi)

・兄猾(eu-kasi

・弟猾(ou-kasi

・三炊屋媛(mi-kasi-kiya-hime)

・居勢祝(kose-no-hafuri

玉櫛媛tama-kusi-hime)

烏孫を建国する難兜靡は、西(パミール高原)から敦煌のあたりの月氏の土地にやってきて、最初の烏孫を建国しました。

だから登場人物に月氏系の人々が多いのは、月氏の主要人物を書き残しているのであると。

櫛玉とは、月氏の土地だったタリム盆地が白玉(宝石)の産出地であるから、「月氏玉=櫛玉」なのであれば、見事に土地の情報を表してるではないですか

 

神武天皇橿原宮とは、「月氏原」だったとすれば納得いきます。烏孫月氏の土地に建国されたんだから。

これらの中央アジアの出来事を日本列島に当てはめたものが、記紀の神武東征伝説です。

 

 

匈奴と凶徒

 

烏孫は昆莫により力を強大化させ、匈奴烏孫を脅威とみなし恐れるようになりました。「漢書」は、烏孫中央アジア最強の国であると書いています。

日本書紀」で神武天皇橿原宮で即位するとき、こんな記述があります。

 

「皇天(あまつかみ)の威(いきほひ)を以てして凶徒(あた)就戮(ころ)されぬ」

日本書紀(一)岩波文庫より

天皇と天の神の力によって凶徒は駆逐したということを書いています。「されぬ」は否定ではなくて、「しました」を意味する言葉です。

「凶徒」は匈奴なのではないかと。烏孫匈奴の軍と戦って勝ったことを、ここに含めているのではないかと。

 

 

波哆と秦氏と秦

 

日本書紀」で神武天皇橿原宮に落ち着いたあと、波哆(はた)の丘岬に新城戸畔という女賊があらわれたとの記述があります。神武天皇の頃は定説では紀元前7世紀、紀元前2世紀、西暦1世紀、2世紀、4世紀説などいろいろあります。

紀元前7~西暦4世紀にかけては、まだ秦氏(功満王、弓月君)らは、日本列島へ来ていませんでした。それなのに神武天皇の時代に、波哆という地名が存在していました。これは要するに神武天皇=昆莫の居場所が烏孫であるから、近隣に秦氏(秦の始皇帝の流れをくむ人々)がいたとすれば納得です。

日本列島雛形論では、おそらく弓月君・弓月岳の土地が、中央アジア烏孫の後継にあたる弓月国にあたります

 

 

金鵄とハンガリー建国神話

 

日本書紀(一)」岩波文庫のp230

「皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて雨水ふる。乃ち黄金の霊しき鵄有りて、飛び来たりて皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄煌きて、状流電の如し。是によりて、長髄彦が軍卒、皆迷ひ眩えて、復力め戦はず」

 

<読み>皇師(みいくさ)、長髄彦(ながすねびこ)、能はず(あたはず)、忽然(たちまち)、天陰けて(ひしけて)、雨水ふる(ひさめふる)、霊しき(あやしき)、皇弓(みゆみ)、弭(はず)、曄煌きて(てりかがやきて)、状(かたち)、流電(いなびかり)、軍卒(いくさのひとども)、眩えて(まぎえて)、復(また)、力め(きはめ)

 

これについて、「日本書紀(一)岩波文庫」p231ではこんな解説してます。

「これと似た話が、ハンガリーの建国神話にもある。マジャール人アルバート王に率いられて南ロシアからカルパチヤ山脈を超えてハンガリーに進入した時、王軍が疲れはてて一歩も進めなくなった時、turulという鳥(鵄、または鷹)が現われて王軍は再び元気を回復し、この鳥に案内されて、めでたくハンガリーの土地に建国を果し、アルバートハンガリー王国第一代の王となった」

「そしてturulはハンガリーの国家的、民族的象徴となっている」

「このように種族王朝、あるいはその創業者と鳥が密接に関係している伝承は、蒙古諸族、トルコ諸族、あるいはウラル諸族に分布している」

神武東征が「中央アジア烏孫の建国伝説」であるから、蒙古諸族、トルコ諸族、ウラル諸族、ハンガリーの建国神話と同様の話の骨子で、王権の建国伝承の中に入っているのであると考えておかしくないということだったんですね。

 

アールパード - Wikipedia

ハンガリーの建国神話にはアールパード王が持つ杖の先端に光る鳥が止まり道を示したと言われ、『日本神話』との関連としても注目される。

 

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Turul - Wikipedia, the free encyclopedia より

 

長脛国と長脛彦

 

そういえば神武東征の金鵄伝説は、インドの黄金の鳥ガルダも関係するかも。中央アジア烏孫は、インドと目と鼻の先なのであるから。ガルダ - Wikipedia

その一族はインド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。

天つ神の子孫神武=昆莫に敵対した、中央アジアのナーガの一族であるとすれば、長髄彦がなぜナガなのは説明がつきます。ガルダの伝承と合わせていると考えられますし。

そういえばしらべたんですが、トルコ語で「長い」ことを「ウズン」というのですよ。この長髄彦の土地は烏孫であることは、表されてるようです。

それからそういえば中国の秦~漢の頃の地理書「山海経」には、中央アジアに「長脛国」があるとありますが。長髄彦は「古事記」では「長脛彦」と書くのです。

これは長脛彦登場する神武東征の舞台は中央アジアだよと、太安万侶が情報を込めていると、考えられました。ナガスネという音を表すなら、那我須根とでも書けばいいのに、なんで長脛国と同じ文字を使ったか、ということですよ。

 

もう神武東征の全てに中央アジア的要素が満載なんですが、今回は一部だけ指摘しました。これらすべて偶然としても、それは考え方としてはアリだと思いますので。では。

 

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そういえば拙著の表紙絵はパクリではない

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2012年に発表した拙著です。拍子は自分で描きました。

いまでも細々売ってますよ。今読み直すと、認識の間違いや誤解があったり、勉強不足があったり酷くて反省してるのですが・・・。

 

この表紙、実はこれを元にしてました。

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家屋文鏡というのは日本の古代の家屋の形状を知る上では、第一級の銅鏡。

加治木義博著「言語復原史学会 邪馬臺国の言葉」(コスモ出版社)125~126頁

古代史の画像・日本人のルーツ: 5月 2010

 

 

あ、もしかして、パクリ?いいえ違います・・・

 

拙著のあとがき(p174)に、「加治木原図を元にした」と書いてあり、参考文献にも、加治木義博著「言語復原史学会 邪馬臺国の言葉」(コスモ出版社)とちゃんと書いてありますし、出版社で問題なしであるとokが出された末、この表紙を描いていますので。

 

最近デザイナーのパクリ問題が表面化してますが、世の中のデザインとか漫画とか小説までも、そんなものではないですかね。

何かのキャラと似てしまう、思わず真似してしまう、無断使用してしまう、参考文献として記載しない、勝手に個人の情報を取り入れる(悪質)など、なんでもありみたいですね((`∀´)。

だからいずれこうして表面化するのは、作成している自らが選んだ、茨の道な運命だった、と言えるかもですけどね。

 

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魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった

また変なこと言いますが、

魏志倭人伝」に変なことが書いてあるんだから仕方ない。

 

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塞曹掾士張政

 

魏の帯方郡の武官です。塞曹掾士(さいそうえんし)張政(ちょうせい)という人が、倭の担当をしていました。

塞というのは中央アジアのサカの中国表記なのですよ。

なんで倭人との対応に、サカ人担当者が当てられたのかは、従来の考えではまったく説明できないことです。この人は塞(サカ)の言語を駆使できたと思われます。

倭人にサカ人担当官が当てられたのは、それなりに意味があったと考えたほうがいいです。後半で理由を書きます。

 

 

太守劉夏

 

魏志倭人伝に登場する、倭の担当する地方官です。烏孫の王、昆莫の奥さんが劉細君であるのと、劉夏さんは倭へ派遣されているのは、関係していると見るべきかもしれませんよ。

つまり劉細君の劉氏は、太守劉夏の劉氏と同じなのであると。劉氏は前漢の皇帝の子孫なわけで、これは有り得る話です。

烏孫と倭の統治者が共に天皇家なのだったら、劉細君の親類である劉氏が倭の担当になっておかしくないですよね。

そもそも劉細君の劉氏は、江都という土地に本拠があって、ここは現在で言うところの上海に近い、江蘇省揚州市です。倭に近い場所でした。劉氏というのは烏孫のことも倭のことも精通してたと、見られますよ。

 

以上のように魏から派遣された官は中央アジア烏孫に関係していたと見られます。

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烏孫 - Wikipediaより

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

つぎに、魏志倭人伝に登場する倭人は皆、閣僚・官僚クラスなのですが、中央アジア出身、烏孫の出身か、あるいは先祖が中央アジアから来ていることを表す名前ではないか?と見られる人物名がいくつか見られました。

 

 

難升米

 

難升米はナンショウマイとかナシメというのですが、最近気づいたのですが、この人は烏孫の末裔でした。なぜかというと、烏孫の昆莫の父親の名が「難兜靡」というからなのです。

難升米 nan-sho-mai
難兜靡 nan -tou-mi

似てます。烏孫は「難氏」かどうかわかりませんが、難升米は難兜靡を意図した命名と見られます。それは難升米と共に居た人物も、中央アジア烏孫の名前を持っていることからも説明がつきます。

 

 

都市牛利

 

トシギュウリ、トシゴリなんて読まれます。従来は倭人は変な名前を持ってたのだと言って、それでオシマイでした。でも中央アジアに関連付けて考えてみれば分かりまs。

これはタジグリと読みます。タジキスタンの都市、塔什庫爾干(タジュクルガン)のことです。タジクというのは中央アジアに、漢の時代からある地名でした

都-市-牛-利
塔-什-庫-爾(ru)

も~完全に一致。

都市牛利は、 パミール高原の塔什庫爾干の出身だったんではないかと。

 

 

伊声耆

 

ここまで中央アジアが揃っているのだから、この人も中央アジア関係です。イセイキと読んで、お伊勢参りの伊勢行きなのかとおもいきや、これも烏孫でした。烏孫のあったキルギスには、この地域を代表する大きな湖「Issyk Kul」があるのですが、つまりこういうこと。

伊-声-耆
 i-ssy-k

 

 

掖邪狗

 

エキヤク、エキジャク、ヤヤクなどと読んで、これは難解すぎますが、これも

もし掖邪狗がキジャクなら孔雀明王でインドですね。中央アジアからは目と鼻の先。

あるいは邪狗がシャクなら釈迦、またはサカのことかもしれんですね。

もしアクシャクだとすると、シュメールの古代都市で、アクシャク王朝がありましたが。紀元前2500年という昔の街で、シュメール出身なのでアクシャク、掖邪狗という名前を持ってるということは、あるかもしれませんが。いずれにしても中央アジア西アジアという感じです。

 

 載斯烏越

 

素盞鳴(すさのお)に似てます。すさのおは「宋史」で素戔烏とも書くようですが、烏(からす)が烏孫に関係しています。

スサノオ烏孫にいたと思わせるのは、ローマ字表記にすると「susanowo」で、「s烏孫の王」になるからなのです。

そして恐らくは載斯というのは中央アジア車師のことです。「車+し」で一致させています。

載斯 sai-shi
車師 sha-shi

 

というふうに、当時の倭の中央にいた主要人物は、全員が烏孫中央アジアに先祖を持つものか、その出身者、と見られたのですね。

これも全部偶然?

それでサカの担当者である塞曹掾士張政が倭へ派遣されてたこと、烏孫の昆莫の親戚である劉夏が倭へ派遣されてたことは、説明がつくのです。

烏孫と倭は遠くはなれていたから、烏孫起源説はありえない」とは言えない理由が、ここで証明されました。

 

彼ら中央アジア系の人々が卑弥呼のところに集まっていた理由は、卑弥呼烏孫の昆莫の末裔であるから、個人的には崇神天皇だから、なのですがね。

卑弥呼は先祖の土地である、中央アジアの情報を集めるために、彼らを自分の周囲に招き入れているのです。

そもそも卑弥呼の名前も、中央アジア系で説明がつくことに気づいたのですが、それはパミール(卑弥ール)高原・・・。

 

まぁこれは個人的な妄想なのですけどね。

では~。

 

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中国史書の「日本の神と天皇」を見分ける方法 からわかる烏孫の神武天皇

 

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相変わらず、信じても信じなくても、という話が続きます。

 

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「宋史」に日本の神様が列挙されてる

 

ご存じですか。「中国正史日本伝2(石原道博編訳」に収録されています。

 

天御中主  天之御中主とわかる
天村雲尊  どなた?天叢雲剣草薙剣?なんで神世七代に?
天八重雲尊 どなたですか状態・・・
天弥聞尊  どなたですか
天忍勝尊  天忍日尊か
贍波尊   ぜんは?どなた
万魂尊   どなた状態
利々魂尊  (; ̄▽ ̄)え?
国狭槌尊  国狭槌尊
角龔尊   角杙尊?
汲津丹尊  おいづに、ういじに
面垂尊   面足尊
国常立尊  国常立尊
天鑑尊   天鏡尊
天万尊   天万尊
沫名杵尊  あわなぎ
伊奘諾尊  いざなぎ
素盞烏尊  鳴ではなく烏を用いている
天照大神尊 あまてらす
正哉吾勝速日天押穂耳 おしほみみ
天彦尊   (; ̄▽ ̄)
炎尊    彦火火出見尊かという
彦瀲尊   彦瀲鵜葺草葺不合尊

なんだか見るからに変な神様の名前が出てくるんですよ。

これは記紀の原初の神、神世七代、神生みを通じて現れる日本の八百万の神のはずなんですが、記紀に登場する神様とぜんぜん違う、または異なった名前の神様が多いですね。。

要するに日本人でも伝承する神の名は違ったし、発音も人によって違ったでしょうし。中国人は、日本の神様の名前を正確に捉えていなかったとも見られます。

 

「時を経過すると、古代の名は変貌してしまう」

「外国人が伝えると、違う名前になってしまう」

 

これ重要です。人名でも同じことでした。

たとえば歴代天皇は「宋書」では、讃、珍、斎、興、武という名前に置き換えられてしまった(九州王朝説では天皇ではないとするとか)。

倭王讃というのは、讃める(ほめる)であるのです。

応神天皇は誉める(ほめる)の字を使って日本書紀では「誉田別」が実名であるので、倭王讃=誉田別(応神天皇)ではないかと考える事はできるんです。

 

神武天皇」というのは淡海三船による8世紀の命名だったのですが、淡海三船が何故、神日本磐余彦尊神武天皇と名づけたか、理由は不明でした。それの答えは明確なように思われます。

 

神武天皇を分解すると神武(Jin-Mu)で、これは(Kan-Mu)(Kan-Bu)と読むこともできるんです。

一方で烏孫の王、昆莫です。

昆莫は漢字の上古音で(Kuen-Mo)ですが、漢音だと昆莫(Kon-Bak)で、神武天皇と全く同じになることに気づきま専科。

神武 │ Jin │ Mu │
神武 │ Kan │ Mu │
神武 │ Kan │ Bu │

昆莫 │Kuen│ Mo │
昆莫 │Kon │Bak │

一致していますよね。

 

神武は淡海三船によって、意図的に昆莫の名に合わせられているというわけなのです。え?疑わしいですか。。

では神武天皇と昆莫の皇后の名前が、仮に一致していたらどうですか。え?神武天皇だけにとどまらず皇后名までも?ときたら。まさか・・・。

 

神武天皇の后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。

一方で烏孫の昆莫の皇后は、江都公主というんですが、本名は劉細君(リュウ・サイクン)というのです。

媛蹈鞴五十鈴媛命江都公主、劉細君・・・・・・ぜんぜん接点が無いですね、残念でしたというのが、従来の短絡的な見方です。

でも媛蹈鞴五十鈴媛命というのは、漢字を充てていることを念頭に置いて見てみると、違った答えが出ます。

鞴五十鈴の部分が、劉細君に一致していたんです。

 

鞴五十鈴 │ Rai │ Su │ zu │
劉細君  │Ryu │ Sai │Kun │

一致しているように見えませんか。別の解釈でも。

 

五十 │Go │ To │(五=ゴ、十=トオと読んだ場合)
江都 │Go │ Tu │(江=ゴウと読んだ場合)

五十 │ I │ To │(五=イと読んだ場合)
江都 │E │ Tu │(江=エと読んだ場合

日本語の漢字の読みをした時に、暗号のようにして一致するように、日本書紀では漢字を選んでいるんです。

 

で、子息の名も一致してましたら、どうしますか。

 神武天皇の御子に手研耳命(たぎしみみのみこと)という人物がいます。

耳を手で研いだんですか?いや、そんなんじゃありません。これも本来「たぎしみみ」という音に、漢字を充てているだけです。

で、烏孫の昆莫の王子に、大禄という人がいました。当時の発音だと多分「ダルク」というのです。

 で、これも一致して無いように見えて、却下というのが一般の捉え方になるんだと思います。しかしなにか一つの特徴が見えてくるのですが、烏孫というのは、テュルク系の土地にあるのですよ。突厥、東湖、鐵勒、突騎施。これらユーラシア中央~東部の古代国家は「テュルク」の音写なのですね。テュルクが突厥、東湖、鐵勒、突騎施になってるんです。

で、手研耳に戻ると、これはTa-Gi-Si。突騎施はTur-Gi-Sh。なので完全一致ですよね。要するに手研耳命中央アジアにいて、テュルクの名を持っていたから、手研耳なのだと。これはまず覚えておいてください。

そしてつぎに大禄がダルクなのも、すぐわかりますけど、ダルクとはテュルクであると。

 つまり

神武の息子 手研 タギシ 突騎施 トゥルギッシュ=テュルク
昆莫の息子 大禄 ダルク=テュルク

ということでここでも一致が見られるではないですか。

ちなみに、この神武の息子手研耳命、昆莫の息子大禄、両者とも謀反を起こしているなど、事績としても一致するとか。このへんも重要な情報です。

 

たとえば百済新羅、漢、魏、こうした古代国家の王・后の名前と、神武天皇・皇后の名前を比較してみればわかります。ぜんぜん発音のひとかけらも一致しません。

神武天皇皇后と昆莫夫妻の名前が、どれだけ異常に一致点が多いのか。日本の神様や天皇が中国史書で難解に記録されたのに比べて、烏孫の登場人物と神武天皇一家の名前は、容易に一致していると見られたではないですか。

 

 だから神武天皇烏孫の昆莫と同一人物なんではないかと想像できるのですが・・・。神武天皇は日本にいたのではなく、烏孫に居たことを中国人は記録してた、というわけなんです。これはまだ一部の比較ですが、歴代天皇の比較でも一致しますので、今後明らかとしていきます。。

昆莫は中国の「漢書」「史記列伝」などに登場するのでチェックしてください。

 

 ここまで説明して、「天皇大和民族烏孫起源説」を信じないというのでもそれは仕方ないところです。べつに強制もしないし。

秘密結社だとか日ユ同祖論の先生も、歴史作家の先生も、この点にはまったく触れてないところですし。

歴史解釈は自由ということでー。では。

 

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古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 2

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 1

の続き。

 

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欠史八代

 

前回は、古代の天皇匈奴~扶余~高句麗弁韓~倭と移動していると指摘しました。これは既に2014年の電子書籍に書いてあることで、成否はともかく、世界で最初の指摘となりました。( ゚д゚)ポカーン。

 

歴代 諡号  記紀の和風諡号   含まれる古代国名
       (下段古事記 

07 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊  太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)
       大倭根子日子賦斗邇 賦斗邇=扶余・匈奴

08 孝元天皇 大日本根子彦国牽  国牽(クニクル)=高句麗
       大倭根子日子国玖琉 国玖琉=高句麗

09 開化天皇 稚日本根子彦大日日 大日日=大半跛(はへ、弁韓の中心国)
       若倭根子日子大毘毘 大毘毘=大半跛

10 崇神天皇 御間城入彦五十瓊殖 御間城=任那、五十=委奴、伊都
       御真木入日子印恵  御真木=任那、印=委奴

んなことあるわけないと嘲笑されるかもしれません。これは確かに突拍子もない。

かつて騎馬民族征服王朝説を提唱した江上波夫さんは、最終的には歴史学会からフルボッコにされていました。いまでは9割9分否定される江上さんの発想ですが、個人的には江上さんの発想は正しかったと思うので、ひっくり返してやろうと思います。

この欠史八代天皇の情報について、補足しておこうと思います。

(2022年追記ですが、この電子書籍は書き換えるため停止中です、いつ販売再開かは未定、やらないかも?)

 

 

孝元天皇天皇高句麗に移動しつつ滞在したことの証明

 

まず分かりやすい所から、孝元天皇について。記紀には孝元天皇高句麗にいた、あるいは高句麗を通過したことが、はっきり明示されているんじゃないか?という可能性が見えます。

日本書紀」で孝元天皇についての記述は非常に短いです。具体的な事績の記録がなく、実在性が不確かなので、史実として欠けている、だから欠史の天皇なのだとされてきました。

でも違ったんですよ~。欠史八代と呼ばれる天皇は、実在しました。しかも日本国内ではなくて、大陸に実在したのではないかと。

奈良県で現在、孝元天皇稜として治定されている古墳は、実際の孝元天皇の時代とはかけ離れた年代と形状(4世紀の前方後円墳)が、適当に当てはめられたりしてるのですね。現在の孝元天皇稜が実際の孝元天皇稜ではないことは、「天皇陵総覧」でもある通り、公式的に言われていることです。

 

 「古事記」を見ると、孝元天皇諡号は大倭根子日子国玖琉で、世界で最初に指摘した通り、「国玖琉(kunikuru)」とは「高句麗」(国-玖-琉=kok-ku-ri)のことなんですよ。

諡号高句麗が含まれているのは、孝元天皇高句麗の土地に留まったからです。高句麗の支配者ではないことは、中国の歴史書を見るとわかりますが。大倭根子日子国玖琉という名の人物は高句麗王朝の歴史に登場しません。

ただ気になることは書いてあります。高句麗の始祖である朱蒙の伝説が、神武東征に似ている点です。扶余を出発、川を渡り、からすの名が付く人々にに導かれ、3人の味方をつけ、敵を我がものとするために戦う。これは神武東征の話の骨子に似ています。

 

朱蒙を(Ju-Mo)とにごって読めば、なんだか神武(Jin-Mu)ぽいじゃないですか。諡号を決定した淡海三船は、そのへんが頭にあったと思いますね。彼の先祖はおそらく中央アジアらへんに居たと思うので。この人の名前の船とは匈奴のことなんじゃないかと想像できますし。

 

それはさておき、「古事記」の孝元天皇の記述に登場する地名と人物を、ちらりと見てください。 

・軽の堺原宮(かるのさかひはらのみや)孝元天皇の宮殿 

・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)孝元天皇の妃

・比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)孝元天皇の御子

・波邇夜須毘売(はにやすびめ)孝元天皇の妃

・建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)孝元天皇の御子

 

軽の堺原宮というのは、従来は奈良県橿原市の大軽町といわれてきたそうです。

しかし孝元天皇高句麗にいたなら、高句麗の情報が含まれていて然るべきですよね。

含まれていました。

軽というのはこの場合高句麗の「句麗(kuri)」が「軽(karu)と表記されているんではないかということなんですが。堺原宮というのは不明ですが、北朝鮮の北西部に「朔州」という古い地名があり、これは古くからあるようです。朔が境になっているかもしれず。

 

そして比古布都押之信命の「布都(ふつ)」。これは「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」という、奈良県の石神神宮のご神体と、茨城県鹿島神宮の国宝布都御魂剣、2か所に保存されている剣の名と同じです。

布都御魂剣は神武東征の際に武甕槌神神武天皇に授けた神剣。この剣があったことにより、いまの日本があると言って過言ではない剣なのです。

以前指摘しましたが、関東というのは日本固有の地名ではなくて、中国の満州も古代から関東と呼ばれてたのです。

参考記事

聖徳太子は中央アジアから来た・・・西突厥の王族だった? - たっちゃんの古代史とか

 

神武天皇大和国奈良県)が、烏孫に当てはめられている」と仮定すると、烏孫に対応する大和の石神神宮に布都御魂剣、大陸の関東に対応する日本列島の関東の鹿島神宮布都御魂剣、2か所に置かれて繋がりを示してるということになるのです。

想像なんですけども「布都(fu-tu)」というのは本来、烏孫高句麗を結びつける「匈奴(fun-t」のことなのではないかと。

孝元天皇の先代の孝霊天皇太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)の名を持っているだけに、孝元天皇の御子に匈奴の名(布都)がついておかしくないと言えるんではないかと。

 

次に孝元天皇の妃の伊迦賀色許売命ですが、伊迦賀色許というのは、複数の出身をあらわしてます。

江上氏が指摘してました通り、古代天皇の号は地名、古代人の名前は地名なのです。

この理論を応用すると、伊迦は沃沮、賀色は月氏ということなんではないかと。沃沮は高句麗・扶余の別種の国でした。

 

波邇夜須毘売、建波邇夜須毘古命の「波邇(ha-ni)」は明確に匈奴のことだと考えられました。匈奴はhu-na、hun-nuとも読めるし、そう発音されてたからです。

 

 ここまで登場してきた国名、地名は、匈奴高句麗、沃沮、といった同時代(1~3世紀)の国家にあてはまっていますよね。では孝霊天皇のほうも同じように見てみます。

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黄色いしるしは、ユーラシア大陸の東西に横断するヤマトという地名です。今後さらに具体的に明らかにします。

 

 

孝霊天皇匈奴・扶余に移動しつつ滞在したことの証明

 

孝元天皇の父である孝霊天皇匈奴・扶余を移動しつつ滞在したと述べてきました。これの証明。

・黒田の廬戸宮(いほと)孝霊天皇の宮殿

孝元天皇(大日本根子彦国牽)孝霊天皇の御子

・春日の千々速真若比売(かすがのちぢはやまわかひめ)孝霊天皇の妃

・千々速比売命(ちぢはやひめのみこと)孝霊天皇の御子 

・蝿伊呂杼(はへいろど)孝霊天皇の妃

 

孝霊天皇(大日本根子彦太瓊)には、太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)の情報が込められていたと仮定すれば、黒田は匈奴のことだと思われます。黒田(kuro-da)に匈(ku)奴(do)の情報が入っているでせう。

廬は現代の音だと「いお、いおり」のことで、建物のことを意味してます。まぁこれは関係なくて、重要なのは「ほと」です。「ほと」は日本の昔の意味だとアレのことなんですが、これも関係ないです。あるいは冒頭単于の冒頭を「ぼど」と読んで、匈奴のことを示唆しているんです。

中国の地図を広げると、かつて匈奴のあった土地には、「浩特」という地名があって、現地音では「ほと」なんですが。場所は中国の内蒙古自治区で、ウランホト、シリンホトなどという地名があるのですね。ここは昔匈奴・扶余の版図にありましたので、まさに孝霊天皇がここを通ったとすれば、宮殿の場所はウランホトのあたりの地名ということになってきますよね。

だから古事記では孝霊天皇諡号に、匈奴の情報「太瓊、黒田、廬戸」を込めてるんではと想像したんですが。

 

 これを補強するのが天皇以外の人物名であります。

匈奴・扶余の情報が入っているなら、孝霊天皇の条の人物名にもこのあたりの国名が含まれている筈ですよね。

まず「千々速真若比売」は「千々速」でピンときますが、満州にはチチハル市という独特な地名があるじゃないですか。千々速がチチハルのことです。千々速比売命も同様です。

「春日」とあるのはこの場合、チチハルの近くの都市ハルビン=春日のことではないかと。チチハルハルビン間はおよそ200km程度ですが、このあたりに千々速真若比売の出身地があって、孝霊天皇が居住してたとすると、想像が膨らむばかりではないですか。あるいは鮮卑をシュンピと読んでいいなら春日と書けますが。

で、この中国の関東のチチハルが、日本の関東の秩父ちちぶ)に対応しているんですよ。いわゆる出口王仁三郎の日「本ユーラシア雛形論」ですが、これは本当でした。

「速」は扶余のことです。同じように蝿伊呂杼も考証しますと。蝿(はへ)はブーンと五月蝿いハエじゃないんです。人物にこんな名前好んでつけません。「はへ」という音が扶余に近かったから、これを使っているんじゃないかと思われるのですが。

 

そんでもってこれも想像を膨らませてるだけですが。中国史書を読むと、扶余人は自らを亡命者と自称しています。これは烏孫から亡命して扶余へ来ていることを意味すると思うのですが。

そういえば扶余の王の一人に、「夫台王」がいまして、この人は尉仇台王という歴史上で活躍した王の前に在位しました。西暦167年には2万の兵を率いて、後漢玄菟郡を攻めています。この夫台王は、実のところ孝霊天皇じゃないかと思いました。電子書籍にも書いてますが、諡号の夫台は日本語読みだと「ふと」になるので、孝霊天皇が「太(ふと)」であるのと一致しているし、年代的にも合っているのではないかと。この年代が正しいという点は別の記事「諡号紀年法」で書いてました。

これも世界で最初に指摘しちゃったんですがー、

古代天皇在位年代を示す未確認の紀年法みつけた鴨2 - たっちゃんの古代史とか

 

この考え方によれば、倭の孝霊天皇の時代は、後漢の孝霊皇帝の時代と合っているからこそ、倭の王を孝霊天皇と呼んでいるのだと、いうことになるんです。他の天皇の場合でも一緒です。これはすでに原稿で完成していて、いつでも出せるんですけども。 面倒だしいろいろあって予定が遅れています。

 

ここまで匈奴、扶余、高句麗の周辺の情報が、第七代孝霊天皇~第八代孝元天皇の情報から読み取ることができますたね?

開化天皇崇神天皇についても、おんなじふうに地名の情報が読み取れます。

かつて天皇家大和民族の豪族は烏孫のあたりにいました。騎馬民族国家の中で、大陸の諸民族を引き連れながら、烏孫から東へと移動して、日本に辿り着きました。大陸の情報は全てが日本列島に当てはめられました。いつしか日本人は大陸と日本列島の出来事の区別ができなくなり、記紀の全ての出来事を日本列島での出来事だと思いこむようになった、と想像できるのですが。

 

神武東征とそっくり同じものが、扶余・高句麗にあった理由は、「天皇家烏孫から扶余・高句麗へ伝承も運んで、最終的に倭へ伝承を運んだから」ということで解決するんですが、また今後も補足していきます。。

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日本単一民族説のウソ

東アジアの民族と日本列島の地名については、ここでも指摘があるようでした。

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古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 1

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古代天皇家ユーラシア大陸を、西から東へ移動したという話をします。

 

○いつも助かっております

 

 

 

諡号は地名

 

日本史の定説だと「天皇家は昔から日本を統治した、縄文・弥生の豪族の出身」ということらしいので、「またバカがなんか言ってるぞ」と嘲笑されるだけなんだと思います。

ワタスの電子書籍をこっそり見た!という人はレアですが、下巻ではこんなことを書いていました。

「歴代天皇諡号は地名」であると。これは江上波夫さんも指摘したことなのですよ。ここでまた「江上波夫って騎馬民族が来たとか妄言して今じゃ誰も支持してないでしょ」なんて思われることでしょう。でも江上さんの言ってることは8割方正しかった、少なくとも「騎馬民族天皇家の先祖」ということについては。

このことは電子書籍やブログでも度々指摘してますが、もっとも重要な要素の一つをまたまた提示。

 

崇神天皇についてはこの記事

崇神天皇が任那から九州へ移動したことを証明する新説

 

を参考にすると、御間城入彦五十瓊殖は、「任那=御間城」から「委奴(伊都)=五十瓊(五十)」へ入ったという情報が含まれていたということなのでした。

電子書籍下巻では、「欠史八代」と呼ばれる存在性が不確かな天皇についても、考察をしていました。

 

歴代 諡号  記紀の和風諡号   含まれる古代国名
       (下段古事記 

07 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊  太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)
       大倭根子日子賦斗邇 賦斗邇=扶余・匈奴

08 孝元天皇 大日本根子彦国牽  国牽(クニクル)=高句麗
       大倭根子日子国玖琉 国玖琉=高句麗

09 開化天皇 稚日本根子彦大日日 大日日=大半跛(はへ、弁韓の中心国)
       若倭根子日子大毘毘 大毘毘=大半跛

10 崇神天皇 御間城入彦五十瓊殖 御間城=任那、五十=委奴、伊都
       御真木入日子印恵  御真木=任那、印=委奴

 

こういう解釈を電子書籍下巻でしてましたが。

補足すると、太(ふと)が匈奴のことです。「匈」は「ふん」でしたので。瓊(ni)が奴(na)のことです。

国牽・国玖琉は「こっくり」で高句麗を表します。

半跛はh-h(b-b)の音なので日日・毘毘で表されていました。

古事記を書いた太安万侶や、日本書紀を書いた舎人親王らは、このことを知っていて、高句麗などの古代国家の名前をあえて分かりにくくしているんではないか?と思う所ですけども。なぜかというと例えば「国牽」ですが、「牽」は牽引(けんいん)の字ですがこれは「牛に綱を付けて引っ張る」意味だから、「国を引いた」ことを意味しているのですよ。つまり国牽という名には、「国を移動させている」意味を加えているのが明らかです。

 

地図で表すと、北から順番に

(07)匈奴、扶余、(08)高句麗、(09)弁韓、(10)委奴(倭)

となっているではありませんか。

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画像はウィキペディア夫余より

 

つまり記紀には、ちゃんと天皇家の移動ルートが示されていたのでした。

天皇家は確かに騎馬民族系だった・・・下巻の内容

この記事にも書きましたが、この扶余・高句麗の地域には「ヤマト」の地名が集積してたのですね。

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天皇の民が居た場所がヤマトと名付けられているんですよ。(下巻参照)

 

これらの国家は1世紀から2世紀までにあてはまる国家でしたので、第七代孝霊天皇から第十代崇神天皇までの移動年代は、1世紀から西暦2世紀までの間で、匈奴~扶余~高句麗弁韓~倭と通過してきたと、具体的に「古事記」「日本書紀」は示していることになるんです。騎馬民族説が正しいことは、古事記日本書紀が証明してくれるのではないかと、いう仮説なのです。

それぞれの天皇は、移動中にはそれぞれの国家で族長のような役割だったかもしれませんが、最終的に日本に到達して天皇となっているので、移動中の世継ぎも天皇に数えられているんだと思われます。

 

ここまでは天皇家は「北から南」という移動経路でしたが、古代天皇諡号の情報は、これに留まりません。記紀では基本的には「西から東」であることが指摘されているんではないかと考えました。彼ら天皇家の移動集団が、東夷諸国を自在に移動できたのは、東夷の王族も天皇家も、共に烏孫の昆莫の子孫だったからと考えるのですが。

 

続く

 

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