記紀の神武東征伝説の記録上で、おかしい所は幾つか見つけているのですが。
そのなかでも、「誰が見てもおかしい」と思うであろう神武東征の矛盾点を指摘してます。
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○いつも助かっております
敵軍との戦闘場面がおかしい
神武天皇の皇軍は東征の最中、幾つもの土着の武装集団と対戦しました。
敵勢力の頭領の名を列挙すると以下の通り。(日本書紀より)
2和歌山県 名草戸畔(なぐさとべ)
3三重県 丹敷戸畔(にしきとべ)
4奈良県 兄猾(えうかし)
9奈良県 新城戸畔(にいきとべ)
10奈良県 居勢祝(こせのはふり)
11奈良県 猪祝(いのはふり)
これらの頭領の名が登場します。いずれも少なからず兵力を備えていたと、記紀からは読み取れます。
日本書紀の神武東征経路上で、敵対した頭領の数を、府県別に表すと、
<出発地>宮崎県0、大分県0、福岡県0、山口県0、広島県0、岡山県0、兵庫県0、大阪府1、和歌山県1、三重県1、奈良県9<到達地>
となります。奈良県は敵対勢力の傑出する地域だったと言えます。
神武天皇の勢力は皇軍でしたが、「軍」とは古代中国の兵制度で12,500人と決まっていたらしく。もしかすると皇軍とは12,500人規模かもしれないと想像できたのですが。
まぁこれが多いと見るか少ないと見るか、実際はもっと多かったかもしれないし、少なかったかもしれない。その点は記紀に実数が記録されないのでわかりませんが。長髄彦軍と2度目の対戦の時には、「何度戦っても勝負がつかない」とあるので、長髄彦軍も、皇軍と相応の規模と見ることができるのですね。
ここまでで、神武東征とは、後半、終盤へ行くほど、敵との戦闘場面が増えていく、これはわかりました。
神武東征はいつか
初代天皇、神武天皇による東征が、事実ならばいつ起きたかというと、日本書紀の干支からすれば紀元前667年となるのですが、これが本当だとは思えませんね。
何故かと言うと・・・
第十代崇神天皇の事績は、ほとんど『魏志』の出来事と同じであると見られることは拙著で説明しました。
上記は一部の一致を示しました。こうした「魏志倭人伝」の記録と、出来事の一致が見られるのは、日本書紀では崇神天皇の時代だけなのですね。
さらに『古事記』で崇神天皇の崩年は戊寅(つちのえとら)で、258年か318年かというところです(私見では卑弥呼逝去247年に近い前者と思う)。
すると崇神天皇の在位年代は、間違いなく3世紀ということになってきますよね。
神武東征中、赤胴八十梟師(あかがねのやそたける)が登場します。名の「赤胴」とは金属の銅のことで、日本列島各地の遺跡で鉄器や銅器が本格的に確認されるのが、紀元前3世紀より後だとのことです。
神武天皇が実在するなら、3世紀の崇神天皇より以前に実在したとかんがえることはできます。神武天皇の実在年代は、弥生時代の範囲から抜け出すことは無いと思われます。実在したなら、だいたい紀元前2世紀から後2世紀の間となりそうです。
いずれにしても日本書紀にデタラメが含まれると言えます。
神武の戦闘場面と実際の武器出土数を比較するとおかしい
では、神武東征の戦闘場面は、当然ながら、弥生時代の武器出土数に反映されているだろうと。そう思いますね。
つまり神武東征経路では、戦闘場面が登場する大阪府、和歌山県、三重県の武器出土数が上昇し、奈良県が全国的に見ても、武器出土数が突出しているであろうと。
次のデータは、安本美典氏の『「邪馬台国畿内説」徹底批判』のデータですが、これを簡略化したものを用います。同書で用いられるデータの大元は、『弥生時代鉄器総覧』(川越哲志著)になります。
鉄鏃 鉄製武器計 敵頭領数
宮崎県 100 013 0 <出発地>
大分県 241 033 0
福岡県 398 312 0
山口県 097 033 0
広島県 079 031 0
岡山県 104 030 0
兵庫県 092 045 0
大阪府 040 010 1
和歌山県005 001 1
三重県 003 002 1
奈良県 004 001 9 <終着地>
進めば進むほど、戦闘場面が増えるはずなのに・・・
進めば進むほど、遺跡からの武器出土数が減少し、戦闘の痕跡が無くなっていく・・・
という調査結果が、もう何年も前に出ているのでした。
これは要するに、東京に行けば仕事があると言われて、オラこんな村いやだ~と言って東京に行ったのに、実際には仕事が無いみたいな状況ではないですか。
こうして、神武東征が現在地で起きていたと、信用するのは難しいとの見方に傾いていったのです。
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