「偶然が重なると必然だ」とは、色んな人が口にしてますけど。俺にまつわる偶然の一致についても、はやく意味を解明してほしいっす。
○いつも助かっております
年代特定
日本書紀の神功皇后紀に、実在した百済王と新羅王が登場しているのでsu。この百済王と新羅王の年代を特定すると、だんだんわかってきます。これは歴史学者も何も言ってませんで、ワタクシの想像なんですけども、
神功皇后の時代に新羅へ出兵したとき、「宇留助富利智干(うるそほりちか)」という新羅王が登場するんです。
神功皇后の時、新羅王は宇留助富利智干。まず、これを覚えておくんです。
そして今度は日本書紀の垂仁天皇紀に目を通すと、天日槍(あめのひぼこ)が新羅からやってきた場面があります。
この方は別名を都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)といいます。古事記では天之日矛とか書いてます。
「つぬが」は敦賀のことで、「あら」というのは古代任那地域にあった国の名です(あらま)。つまり朝鮮半島から倭の敦賀へ入った情報を名前に込めてるんです。
そういう意味で崇神天皇の諡号「御間城入彦五十瓊殖」に、任那と委奴・伊都(倭)の情報が入ってたことと同じ。
天日槍、この人は新羅王家の後継者だったんですが、天皇の下へ帰化しました。
で、天日槍は倭へやってきて、こんなふうに言ったとか。
「手前は新羅国の王子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました」(日本書紀上・全現代語訳 宇治谷孟著)
実はこれらは同一の新羅王の名前を表してると見られるんですが、理由はあとで説明します。
つまり第十一代垂仁天皇~第十四代仲哀天皇の神功皇后のころまで、「智干・知古」という名のひとが新羅王だったとわかるんです。
では実際に、智干(ちか)と知古(ちこ)という名の新羅王が居れば、垂仁天皇の時代が何世紀の西暦何年頃であるか、時代が特定できるってことなんですが。
いました。
訖解尼師今(こちかいにしきん)
韓国ではフルへ・イサグムというとか。これを調べている時に居間に行くと、兄がなぜ「こち亀」のアニメを見ているんだ・・・。
訖解は「こ-ち-か-い」なので「ちか」の音を含むのです。これが「日本書紀」で「智干(ちか)」と「知古(ちこ)」の名として記録されてたっていうことなんですよ~。
証明方法は他にもあります。「宇留助富利智干」の「宇留」が「フル」に対応してるということなんでsが。これらはローマ字表記するとわかりやすくなります。
智干 chi-ka 日本書紀神功皇后
知古 chi-ko 日本書紀垂仁天皇
訖解 ko- chi-ka -i 三国史記(韓国)宇留 u-ru 日本書紀神功皇后
訖 heu-l 三国史記(韓国)訖(フル)=古(フル)
宇留助富利智干=知古=訖解尼師今
ということが分かりました。それで、「日本書紀」では宇留助富利智干=知古の実在年代がはっきりしません。
「日本書紀」の記述を元にすると、垂仁天皇は99年間在位したとか言ってデタラメの数字になっています。
これ見ると垂仁天皇の在位はBC29~AD70年となっていますが、これもデタラメです。
宝莱山古墳が実際の垂仁天皇陵ではないとの解説は「天皇陵総覧」にもあります。江戸末期の役人が「垂仁天皇稜はどこなのか分からないから、たぶんここが垂仁天皇稜ってことにしちゃっていいや~」適当に治定してしまったのでした。
実際の崇神天皇の時代は卑弥呼の時代’2~3世紀と重なっていることは、「日本書紀」と「魏志倭人伝」の出来事の一致から明らかでした。
崇神天皇の世継ぎである垂仁天皇は、3世紀後半から4世紀始めの在位ということになるはず。歴史学者によっては垂仁天皇は4世紀後半以降とか言ってますが、この認識は間違ってます。
何故かと言うと「新羅王・宇留助富利智干=知古=訖解尼師今」の年代がおおむね分かってるからです。
訖解尼師今の在位、310 - 356年
この韓国の「三国史記」から導かれる年代が、果たして正確なのかという点については、枝豆のゆで具合と同じくらい気になるんですけども。
実は訖解尼師今の後継者となる「奈勿尼師今」が中国に朝貢を行った事績は中国史書「太平御覧」にも記録されていて、それは377年のことでした。
つまり奈勿尼師今の年代は中国史書と整合すると証明されていたわけなので、その先代の訖解尼師今の年代もおおむね310~356頃であろうというのは、合っている可能性があります。
このことは神功皇后が百済から下賜され石上神宮に祀られた国宝「七支刀」の銘文に「泰■四年」とあるのが、東晋の太和四年(369年)と解釈されるのと一致することも証拠になります。
また奈良県奈良市の神功皇后稜「五社神古墳の築造年代が4世紀末であること、神功皇后紀に新羅王宇留助富利智干が登場してること等など諸々の要素と合わせると、年代が非常に合ってくることでもわかってきます。
さらにいうと「三国史記」の「新羅本記」に卑弥呼の初登場が西暦換算で173年ということになってますので、「三国史記」は「魏志倭人伝」ともほぼ年代が一致していることになります。そうして「三国史記」の新羅王の年代については、信ぴょう性があるということが分かってくるわけですよね。
重なりをみる
で、垂仁天皇のとき、新羅王の王位継承が行われたことは明らかでした。天日槍が「自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきた」と言ってるのが表してます。
つまり
・垂仁天皇の時代は、訖解尼師今の在位(310 - 356年)と重なっている
ことがわかってくるのです。
訖解尼師今の】先代は「基臨尼師今」(298~310)。
また言い換えると。
・垂仁天皇の時代は、訖解尼師今の在位(310 - 356年)と重なってる
・垂仁天皇の時代は、基臨尼師今の在位(298~310年)と重なってる
ということになってくるではないですか。
つまり少なくとも垂仁天皇は、3世紀末~4世紀前半の在位だったということはわかってくるとおもいます。
この他にも垂仁天皇の時代を特定する、誰も知らない要素は「日本書紀」にちゃんとあります。
が、もう疲れたので別の機会に。ではー。
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