たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

邪馬台国の女王壱与(台与)が崇神天皇である理由

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電子書籍で満を持して発表しようとしていたのに、このことに気づいて嬉しかったので、思わずツイッターでつぶやいてしまった・・・aho。

だからブログで、詳しく解説するとします。

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名前の一字が、親から子へと、受け継がれることがありますね。

古い記録を見ると、

 

親 崇神天皇 諡号:御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)

子 垂仁天皇 諡号:活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち)

 

「入彦五十」が、親から子に受け継がれてますね。

崇神天皇は、正史では男性であるとなっています)

 

この他にも、分かりやすいところでは

織田信定→信秀→信長→信忠→秀信

徳川家光→家綱→綱吉

といったふうに。

この傾向は現代でも用いられていたりしますね。

 

それで、筆者は以前から

崇神天皇卑弥呼+壱与」

と主張してきたんですが、鵜呑みにする人はほとんどいませんね。

まるで「砂糖は毒」という事実を耳にしても、砂糖の食品をやめない人が大多数みたいな、そんな感じですけど。

 

実はこの「崇神天皇卑弥呼+壱与」を証明するためには、「親から子に名前の一部が受け継がれるケース」を見破ることが必要でした。

 

見破りました。

 

むかしむかし、あるところに、女王壱与がいました。

魏志倭人伝』の最後のほうにチラッと登場する、邪馬台国の女王壱与。

魏志』では壹與と書いていて、「壹」は「壱(一)」の元々の字体です。

壱与(壹與)は「いよ」、「とよ」と読む説があって、その読み方の決定打はありませんでした。

このたび、じつは「いよ」でも「とよ」でもどちらも正解だったんではないかと考えました。それは複数の理由がありますが、今回はその一つを現します。

 

崇神天皇は壱与(台与)である」

 これを証明する一つの強い材料となります。

 

日本書紀』によれば、崇神天皇には、皇位継承者となる2人の皇子がいました。

・活目入彦五十狭茅命(いくめいりびこいさちのみこと)

豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)

の両名です。

 

崇神天皇が壱与(ならば、壱与の名前が息子に受け継がれていて、おかしくないですね。実際「入彦五十」の4文字が完全に受け継がれてたのだし。

しかし『魏志』『後漢書』『隋書』などみても、まったくそういった記述はないです。壱与の後継がどうなっているか、中国史上からでは読み取れません。

ところが『日本書紀』に、その答えがありました。『魏志』と『日本書紀』の情報を合わせることで、真相が読み解ける仕組みになってる気がしました。

 

 「崇神天皇=壱与(台与)」なので、2人の皇子に「いよ(とよ)の名が踏襲されているとわかったのです。その理由は下記みたいな感じ。

 

壱与の「与」は、やまと言葉では「くみ」と発音する。「与す(くみす)」。

だから壱(い)と合わせると、壱与は「いくみ」ちゃんだったのだ全国のいくみちゃんもびっくりしますね。

そして「壱与=いくみちゃん説」を元にすると、こうなる。

 

親       子
崇神天皇    垂仁天皇(活目入彦五十狭茅命)
壱与(イクミ)→活目(イクメ)

たしかに名前が受け継がれてるではないですか。これにより、崇神天皇=壱与の名が、垂仁天皇=活目に受け継がれたと分かりました。

つまり『魏志』は「いよ(とよ)」という発音を元に、適当に漢字を当てたのではなく、当時の女王が「壹與」という漢字の名を持ち、使用していたので、編者の陳寿は、壹與という漢字を用いたことになるんではないかと。

これはともかくとして、続いてもう一人の皇子、豊城入彦命の場合。

 

親       子
崇神天皇    豊城入彦命
台与(トヨ)→ 豊(トヨ)

 これは単純明快に、トヨがトヨに受け継がれたということでした。

つまりこれを元にすると、崇神天皇が壱与(台与)であり、その2人の子(活目入彦・豊城入彦)に名前が踏襲されていたと、判明してしまうのでした。これは『魏志』と記紀を併せ読みして初めてわかってくる事実なのではないかと。

崇神天皇の正体が壱与(台与)と捉えたとき、2人の皇子と名前が合致するのは、偶然か必然か。この辺りの判断は歴史を研究してる各自の判断になりますが。

これが事実なら、崇神天皇は女性だったのであり、『古事記』にある「賢后」とは女王の意味で用いられていたことが明らかでせう。

さらに崇神天皇は壱与の時代と重なり、西暦248年(3世紀半ば)から3世紀後半に在位したことが確定し、垂仁天皇の年代もおのずと西暦300年頃であろうことは想像されてきますね。

 

勿論これは「崇神天皇卑弥呼+壱与説」の一部であって、もっと信じられないような新事実も存在してましたので、その点はいずれ完成する電子書籍でということに。

ということで、まぁ頻繁に妨害されたり、ちょっとしたことでも大々的に悪評として流されて落とされたり、汚い発想に結びつけられたり、晒し者にされて酷い人生ですけど、やりとげますので。ではー。

 

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