卑弥呼, 崇神 の検索結果:
…おります 崇神天皇=卑弥呼+壱与について、最近新たに気づいたことがあるので、それを合わせて再検証します。 拙著の中では、狗奴国の卑弥弓呼と武埴安彦は同一人物と捉えてるんです。 魏志倭人伝内の、狗奴国と卑弥弓呼に纏わる情報は大変少ないです。 拙著の中では、集中力の欠如と意識の分散により、どうしても執筆時に記紀の内容の見落としがありここ数カ月でその点に、新たに気づくことになったというワケです。。 表を見ると、なんで匈奴が関係するのかと思われると思いますが。 狗奴国は、匈奴を意識し…
…ったらしい。 そして卑弥呼の後の女王は、魏志では壹與(壱与/イヨ)と書かれており、その後の「梁書」では臺與(台与/トヨ)と書かれてるので、 壹(イ/イチ)與 臺(ト/タイ)與 ここでも邪馬台国同様に、どちらが正しいかの混乱が生まれています。 しかし自分としては、拙著内にも書いた、次のような解釈を持っております。トヨかイヨかの論争に、自分勝手に結論を出しています。 大市墓 箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛命大市墓と呼ばれ、この名称の「大市墓」は通説では箸墓古墳所在地の地名であるとされま…
…相だと思われます。 卑弥呼の先祖が公孫氏だって 妙な記述は「晋書」にあり、卑弥呼のご先祖さまが公孫氏かのように書かれてる所です。 でもここまで書いてきた通り、汗人=倭人の本拠の一つが、西暦180年時点では九州と朝鮮半島南端の他に、楽浪郡のあたりにもあったとすれば。丁度そこは公孫氏の支配してる場所なわけで。 晋書の記述は「卑弥呼様のご先祖様は公孫氏様の支配地に居た」とすれば話が通じることになってきました。 赤い点線が、以上の理由から推定される卑弥呼の移動ルートです。 楽浪の倭人…
…いということが言えるでしょう。 実はこれについては、「崇神天皇が卑弥呼と同一人物」であると考えていくと、年代的にも無理がなくなってくると考えられてしまうのです。 というわけで、触りだけ書きました。 このことに関係して、もっと凄い事実も発見しましたが、今回は書きません。 実在性の不確かな神武天皇の諡号から江戸時代の天皇の追号に至るまで、全てを中国皇帝と照らしあわせ、全体像を掴むことができています。 あとはどなたかにお墨付きを貰えれば確信が持てるんですけど。 人気ブログランキング
…説である「崇神天皇=卑弥呼+壱与」を示したものです。 こんなふうに、中国史書に記録される実際の在位年代と、皇紀による在位年代は、時代が古く成るほどズレ幅が大きくなるんです。 倭の五王は5人で、応神~雄略は7人になってますが、ここは記録されなかった天皇、または記録が合わせられてしまった天皇が2人いたようです。 仁徳天皇が讃王の説と、允恭天皇が済王の説もあります。 皇紀を元にすると、神功皇后が「魏志」の女王卑弥呼になってくるのですが、見て分かる通り神功皇后とその息子「応神=讃」の…
…話ですが、個人的には卑弥呼の時代(3世紀前半)から前方後円墳の時代が始まっていると思っていますので、むらかみさんの4世紀後半からとの意見とは咬み合わないようです。倭国王讃は、誉田別命のことだと考えています。 箸墓古墳が御間城入彦の墓というのは、正解だと思います。ただし、自分の解釈では、崇神天皇(御間城入彦)には卑弥呼と壱与が習合されていると考えているので、そのあたりのことは、11月1日に日本文学館から発売の拙著、『崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与』(税込945円)をご覧になっ…
…倭人伝に登場する女王卑弥呼の正体は、自分としては記紀に登場する第十代天皇・崇神天皇であると思っているわけですが、世の中には卑弥呼の正体を別の人物に当て嵌め論考した著作物が多くあるらしい。 卑弥呼の正体について、どのような仮説が存在するのか、その概説を見ていこうと思います。手元に肝心の本が無いので、手っ取り早くネット検索で探し当てました。 ○いつも助かっております 古代の卑弥呼を取り上げた書物と成立年代 まずは中国と韓国に現存する歴史書を見てみます。 書物 成立年代 卑弥呼の正…
…崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与 ──古事記と日本書紀に記された魏志倭人伝の三世紀── 著者:多伎元達也 出版社:日本文学館 定価:945円(税込み) 発売日:2012年11月1日 初版発行部数が大人の事情で少なくなっております。 販売される書店数は、全国71店舗(9月18日時点)とのことで、書店でもネット通販でも手に入りづらいかと思われます。 書店のほうに、御予約をお願いします。売れ行きが良ろしければこっそり増刷されることになるらしく、著者の未来に希望の火が灯ることになって…
…3世紀中葉の人物で、卑弥呼の時代に完全に一致していると思ってますが。(その理由は近日発売の拙著参照) 歴史的に在位年代がある程度判明するのは、倭の五王の時代からとなり、倭の五王が、第十五代応神天皇以降の諸天皇と合致することは明らかなことです。倭の五王のうち、最初の「倭王讃」が、応神天皇か仁徳天皇ということにして考えることが出来ます。(個人的には讃王は応神天皇) いずれにしても、神武天皇と欠史八代、さらに初期の天皇の活躍した時代というのは、現時点で日本書紀の皇紀と干支と、古事記…
…以前に日本にいた女王卑弥呼は、確かに騎馬民族系国家・扶余出身の孝霊天皇の王女だったでしょう。しかし被征服者である日本列島の倭人と、征服者である天皇(大王・おおきみ)は、実は元々ルーツが同じで、文化が違っただけだったと考えてるのです。 倭人は農耕漁民の文化と言われ、古墳時代の権力者は遊牧騎馬文化だったと見られるので、彼らが海を渡ってきたことで、全く違う文化の衝突があったのは事実です。記紀中の四道将軍や日本武尊に纏わる記述を見ても、幾多の戦乱が起きたことを窺い知れます。 農耕漁民…
…魏志倭人伝にある女王卑弥呼の時代の、倭国の状況が書かれていると考えてます。従来は日本書紀には、魏志倭人伝に該当する卑弥呼の時代の記述は無いとの考えが広く支持されてきたようなのですが、ちょっと従来の定説を覆してみます。魏志倭人伝では女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の争いの直後に、卑弥呼は死んでしまいます。死因もはっきりしていませんが、とにかく狗奴国との争いの同年、争いの直後の記述です。 日本書紀のほうでは、武埴安彦尊との争いの後、倭迩迩日百襲姫尊が大物主神との結婚するという逸話が挿…
…3世紀の倭国と倭人、卑弥呼と崇神天皇の関係、あたりです。進んでいるこの人生の道が上手くいく方向かどうかはともかく、原稿のタイトルも考えてました。されど、どんなに考えても、長ったらしくなってしまうんです。崇神天皇と3世紀の倭人の謎、でいいと思ってたんですけど有り勝ちだなと、多くを却下するたび、タイトルの屍が増すばかりでした。正確な方位を知っていた3世紀の倭人をメインにすると、崇神天皇の話がすっ飛んでしまうなとか、暗中模索と試行錯誤を繰り返してたんです、生意気にも。結局一番書きた…
…られた、自立した王・卑弥呼がいましたが、三韓地域で魏に認められたのは、王より下の候のさらに下の邑君という称号でした。3世紀時点では、三韓よりも倭人のほうが、魏の皇帝や曹操から評価を得ていたようなのです。古代史書では三韓の人々が、倭を大国として見ていたとする記述もあります。 魏志や後漢書では、馬韓・弁韓に倭人が多かったことは書かれていますが、倭国に韓人がいたとは書かれていません。複合的に判断をすると、これらの地名は、韓人が倭に進出し同じ地名を名付けたというより、馬韓・弁韓の地域…
…ことが伺えます。図の中で(神)とあるのは、神社に古くから伝えられるところによると、神代から神武天皇の時代に建立されたとされている神社です。弥生時代中〜後期以前かと思います。 (欠史)とあるのは2代綏靖天皇から9代開化天皇までの欠史八代と呼ばれる時代に、建立されたと伝えられる神社です。卑弥呼の時代の前、1世紀前後から2世紀中葉のことだと思われます。 (崇)(垂)とあるのは、それぞれ崇神天皇と垂仁天皇の時代に建立されたと伝えられる神社です。個人的には3世紀だと思ってます。9に続く
…きます。邪馬台国には卑弥呼の下に、数人の人物がいたことが記されています。それぞれ、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮で、他に卑弥呼の弟で男弟と示される人物がいました。先述した通り、これには通常、二通りの考え方が通用するかと思います。1つには、これらの名は官職名であるという説。もうひとつは、日本書紀や古事記に登場する人物名に当て嵌まるとする説です。後者の場合、3世紀の倭人が記紀に記録されており、しかも中国の史書との整合性が得られることになるかと思います。インターネット上の検索結果…
…します。 「倭の女王卑弥呼、狗奴国の卑弥弓呼と元より和せず。倭の載斯烏越を遣わして郡に詔り、相攻撃する状を説く。*賽曹■使張政等(さいそうえんしちょうせいら)を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告諭す」と書かれた直後に 「卑弥呼以て死す。」 と、卑弥呼は何の脈絡もなく死を迎えているように書かれているところです。死因は書かれていないのですが、もしこれと日本書紀の崇神紀の中の倭迩迩日百襲姫の死が、同じ出来事だととするなら。問題は日本書紀の中では、…
…と思われます。当然、卑弥呼の時代からは長い年月が過ぎ去った後の編纂とは言え、卑弥呼の生きていた247年から僅か473年間しか経過いていなかったとも言い換えられます。帝紀・旧辞が完成した時期までなら、400年足らずのことです。古事記の元になった帝紀・旧辞の他に存在していた書物かもしれません。太安万侶自身も、私説としてそれを支持していたが為に、序文の中に崇神天皇のことを后として書き残すに至ったようです。崇神天皇が3世紀の女性天皇だとすると、当然頭に浮かぶのは、女王卑弥呼と女王壱与…
…ません。難升米が女王卑弥呼の命令により帯方郡へ向かったのは、景初二年(238年)六月(これは景初三年(239年)の誤りとされる)の出来事でした。同じ年の十二月に魏から卑弥呼に送られた詔書によれば、この時難升米のほか、都市牛利の名が見られます。トシギュウリとかトシゴリなどと呼ばれています。この2人の人物を、記紀に登場する人物に当てはめる見方もありました。例えば明治43年の内藤虎次郎氏の「卑弥呼孝」によれば、難升米は垂仁朝に常世の国へ派遣された田道間守(たじまもり)とされています…
…なりました。これだと卑弥呼の時代が終わって、壱与が女王として倭国を統治していた時代になるかと思いますが。次にこの8世代の跡取りが全て、父親が20歳時に産まれたと仮定して計算してみると、上祖意富比垝は311年生まれとなりました。この年代は、おそらく垂仁天皇の統治時代かと思われます。この8世代の中の何人かが、高齢になってから跡継ぎを産んだとすると、意富比垝の生年はもっと早まるかと思います。 ただ、当時の平均寿命は40歳まで届かなかったかもしれません。平安時代の平均寿命は30歳とか…
…、奴国の南方の方角に卑弥呼のいた邪馬台国あったことについては、先日別項で詳しく著したところですが、まさに魏志の方角通りに指し示す先に、この甘木地方があります。その中心地には大三輪山があって、さらに大三輪社(現・大己貴神社)もあるのです。崇神天皇までの御諸山(三輪山)が、実際にはこちらの山だった可能性はあると思います。 甘木では、平塚川添遺跡という弥生時代中期から古墳時代にかけて営まれていた、多重環濠集落遺跡が見つかっています。 古事記の中で大国主の国造りの歳、大物主が登場し、…
…す。魏志倭人伝には、卑弥呼の時代の宗教観が記されています。「鬼道を用いてよく衆を惑わす」とあって、この鬼道とは、当時の中国の道教、五斗米道のことだとの解釈もあるのですが、ここまで書いたとおり、卑弥呼がモモソヒメと同一であるならば、鬼道とは古代の神道のことで、鬼の字を用いて蔑んだのだと考えることもできます。また、崇神天皇が大物主を初めて宮中に祀る際、天照大神を別の社に移してしまいます。これは恐らく、大国主と大物主を同一視していたために、神代の伝承のなかで、大国主が天照大神に国譲…
倭迩迩日百襲姫が卑弥呼と同一人物である理由としては、卑弥呼と対立していた狗奴国(くなこく)の卑弥弓呼と、崇神天皇のときに謀反を起こした武埴安彦命との、一連の出来事の相似が挙げられます。この説は書籍やインターネットの個人ウェブサイトで既出のものだとおもいますが・・・(これが書かれた本を見つけられない)魏志倭人伝によれば、邪馬台国の南方には、狗奴国という女王国に属さない国がありました。王の名は卑弥弓呼(ひみくこ)で、狗古智卑狗(くこちひく)という官がいました。正始八年(247年)…
倭迩迩日百襲姫が卑弥呼であるという説は、すでに幾人かの研究者によって書籍化されています。 先日(2012年2月某日)、ネット通販で購入した、高城修三氏の著書「日出ずる国の古代史─その三大難問を解く」の中でもこの説が触れられております。本の中では、卑弥呼=倭迩迩日百襲姫は、笠井新也氏の提唱との紹介が成されていますので、追記しておきます。 あえてこのことに関連する推論をかきたいとおもいます。日本書紀では倭迩迩日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)、古事記では夜麻登登母々曽毗売命(ヤ…
…魏志倭人伝には「女王卑弥呼の死後、直径100歩余の大きな墓を造って、男女の奴隷を100人以上も殉葬した」との記述があります。 これは明らかに、日本書紀の中の倭彦命についての記述と、全く同じ俗習なことがわかります。日本書紀、魏志倭人伝の該当する両者を、わかりやすく並べて比較してみますと、◯魏志倭人伝「女王卑弥呼の死後─直径百歩の墓を造り─男女の奴隷百人以上も殉葬した」 ◯日本書紀 「倭彦命の死後─身狭の桃花鳥坂の墓に葬り─近習の者を生きたままで御陵の周囲に埋めた」このように、日…
…ではないかと思いますが、興味深い点であると思います。 一説には崇神天皇は魏志倭人伝に記された倭国の女王・卑弥呼のことであるとの解釈も成り立つとされていますが、果たして真相はどうなのか。崇神天皇の和風諡号には他にも秘密があるのですが、それもまたそのうちに。さらに掘り進めていくと、初代から20代安康天皇までの、初期の諸天皇の宮殿の場所は、記紀に記された宮殿の位置とは、実はかなり大きく違っているのではないかという仮説にたどり着いたのですが、それもまたまた今度書いてみたいと思います。