たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

九州の三輪山

古事記日本書紀を読んでいて、「なにこの記述。なんか矛盾してておかしい」と思うことは良くあると思います。または矛盾があって当然なのが記紀(これは古事記日本書紀の総称・略称です)というものだと思っているなら、実際におかしな記述も、まるでおかしく感じ無くなるかもしれませんけど。とにかく、そういった記紀のおかしな記述から今回、新たな謎を詳細に検証し、仮説を導いていきたいと思います。

今回は三諸山(三輪山)が日本書紀では2ヶ所にあったのではないかという疑惑です。天の香具山も同じです。
どちらの山も古代の大和国、つまり奈良県にだけ当て嵌まる象徴的な山であることは、ほとんど誰も異論は唱えなくてもいいし、覆す必要の無い定説かもしれませんが、日本書紀を何度も読み返していたところ、定説とはちょっと違うんじゃないかなと疑惑を覚えてしまいました。

近畿地方の地図を見ると、奈良盆地の東端、笠置山地の西南の端に御諸山(三輪山)があります。古来から日本で最も重要な神籬(ひもろぎ)の場の1つでもあり、この山では崇神天皇の時代、倭迩迩日百襲姫や大田田根子によって、大物主神が祀られました。
この御諸山の西南に大和三山があります。大和三山とは天の香具山、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)、の総称です。これら4つの山は大和国を象徴する山であり、記紀の神代から天皇の御代まで、一連して欠かせない神話の舞台となってきました。

記紀(古事記日本書紀の総称)内での、崇神天皇の御代まで(3世紀まで)の御諸山(三輪山)と天の香具山の出現箇所です。
1香山 神代 伊邪那岐が軻遇突智を斬る場面 古事記のみ
2天の香具山 神代 天照大神が天の岩屋に隠れる場面 古事記日本書紀
3御諸山 大国主の国作りの最中に登場する大物主 古事記日本書紀
4天の香具山 神武東征 日本書紀のみ
5御諸山(三輪山) 崇神天皇 大物主を祀る場面 古事記日本書紀

神代のとき、大国主が出雲で国作りに励んでいると、海のかなたから神が現れます。日本書紀では幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)といって、これが御諸山の大物主と同一の神のようです。この大物主神が「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」と言って、あくまでも倭(奈良)の御諸山のことのように書いてます。
本当でしょうか。

記紀では崇神天皇の時代に疫病が蔓延し、民の流離・反逆が相次いだ時、御諸山の大物主が祀られます。このとき、それまで元々祀っていた天照大神と大国魂を天皇の御殿から外に移した後、新たに大物主を祀ったように書かれていました。つまり天照大神と大国魂を祀る以前は、大物主を祀っていなかったのです。

この話題に関連する日本書紀で最も重要な箇所は、神武天皇が日向の高千穂宮から東征する直前に、これまでの自国の歴史を振り返って発言する箇所です。気になる部分を抜き出してみます。例によって引用は全現代語訳日本書紀宇治谷孟著)からです。

「昔、高皇産霊尊(たかみむすひ)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国を、先祖の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた・・・」

豊葦原瑞穂国とは、一般的には本州・九州・四国の島々を中心とした、日本列島全体のことを指します。この西のほとりとは、筑紫嶋(九州)のことで、とくに日向国(宮崎)の高千穂のことをいいます。
ここで神武天皇は、神世七代と呼ばれる最初期の神・高皇産霊尊や、伊弉諾尊の生んだ天照大神を含め、天孫降臨のニニギまですべての神が「この西のほとり」にいたかのような発言をしていたのです。「この豊葦原瑞穂国」は「この西のほとり」に係っていて、豊葦原瑞穂国も、実は筑紫嶋のことを限定して指し示すものかもしれません。

記紀を普通に読むと、神代には日本の神々は九州と畿内と出雲を中心とした西日本を駆け回っていたかのように書かれているんですが、神武天皇のこの言葉は、それら日本各地に当てはめられた神代の神話が、実際には全て西のほとり、九州で起きていたことだと解釈でてしまうんではないでしょうか。

記紀ではあくまでも奈良の三諸山と大物主がセットで書いてあるのですが、実はもう一つの御諸山に大物主は祀られた可能性もあると思いました。福岡県に、邪馬台国甘木説というのがあります。安本美典氏らが提唱している説で、記紀神話との地名の一致率が高いです。邪馬台国東遷説も浮上してきます。甘木説は邪馬台国東遷説でもあります。元々倭国の首都・邪馬台国=ヤマトは筑後平野にあったものが、東遷し奈良地方に移って大和=ヤマトとなったというものです。

この筑後平野の甘木を中心とした地方には、奈良とそっくりの地名が点在しているとのことです。魏志倭人伝では、奴国の南方の方角に卑弥呼のいた邪馬台国あったことについては、先日別項で詳しく著したところですが、まさに魏志の方角通りに指し示す先に、この甘木地方があります。その中心地には大三輪山があって、さらに大三輪社(現・大己貴神社)もあるのです。崇神天皇までの御諸山(三輪山)が、実際にはこちらの山だった可能性はあると思います。
甘木では、平塚川添遺跡という弥生時代中期から古墳時代にかけて営まれていた、多重環濠集落遺跡が見つかっています。
古事記の中で大国主の国造りの歳、大物主が登場し、「倭の青垣の東の三諸山に奉れ」のようなことを言いますが、筑後平野は東の筑紫山地・西の背振山地・南の耳納山地に囲まれている地理的条件と合致しています。倭の東というのは、古代の倭国の中心地が、当初は北部九州だったことに繋がるかもしれないです。奈良の古地名は、邪馬台国遷都後も過去の記憶を引き継ぐために踏襲されたものという考え方も、あながち否定できないのではと思います。

奈良の大和三山に対応すると思われる、筑後平野の甘木近辺の山の名を見つけてみました。
奈良県-------福岡県
三輪山-------大三輪山筑前町・麓に大己貴神社(大三輪社)祀神は大国主(大物主の父・同一神とも)
香具山-------高山(香山)・朝倉市杷木志波
耳成山-------耳納山・久留米市高良内町
畝傍山-------不明。大平山か。おほびら→うぉび→うび→うねび(妄想)