歴史書からの引用を元にした考察は、今回で最後になります。
神武天皇が東征した際の最終目的地は大和、つまり現在の奈良県の橿原市ということになってます。神武東征紀を読むと、高千穂からまず宇佐(大分県)、岡水門(福岡県遠賀郡)と北上し、そこからずっと東へ向かい河内(大阪)の白肩津でいったん引き返して、和泉の海(大阪湾)を超え、ぐるっと南回りで熊野(和歌山県)、そこから宇陀(奈良県宇陀市)へ北上し、最終的に宇陀の西の橿原へと"西征"します。
北上、東漸、南方迂回、北上、西漸。これらの一連の移動が神武東征と呼ばれます。これが史実なのかどうかはともかく。
東のほうに良い土地があるという記述は、線分mに相当します。日向国(宮崎県)の高千穂宮から、実際には東北東方面へ向かうラインの最終到達点が、橿原宮です。
n線は一旦高島宮に留まった神武天皇が、東の難波崎へ向かい、さらに東の生駒山へ向かったとの、3番・4番の記述を示すものです。これは日本書紀の記述通り、ほぼ真東のラインになりました。
天皇軍は河内の白肩津まで行った所で状況が悪化したために、引き返し、紀伊国からの迂回路で、奈良の反対側の、宇陀へと向かいました。これが5番目の記述で、「日に向かって」とは、宇陀の位置からみて、日の出る東の方角へ向かってということになります。また、「背中に太陽を背負い」とは、南方・東方から西方へ向かうということになり、橿原は宇陀の西方にあり、方位は完全に合っていました。宇陀から西へ向かうと、兄磯城と弟磯城という豪族がいました。兄磯城兄弟の名に含まれる磯城というのは、現在の磯城郡のことであるとされています。
6番、「畝傍山の東南の橿原の地」とは、現在の橿原神宮の場所になります。
崇神天皇に関する記述については先述したとおりです。宋書で、477年に倭王武(雄略天皇)の言葉として「東の毛人」とあり、この時点では秋津洲(本州)は東へ伸びている島だとの認識があったようです。
日本書紀の崇神天皇の言葉として「(豊城命は)東国を治めるのによい」と言ったとの伝承は、一体いつ頃から受け継がれてきたのか、内容は変わっていないのかを知る術はないんでしょうか。
ここまで日本書紀に関する方位の記述を検証してきましたが、現在の地理・方角は間違いなく、日本書記の内容と一致していることがわかりました。仮に、倭人が日本書紀そっくりそのままの知識を3世紀時点で持っていたとすると、魏志や後漢書の時代の中国人より、倭人のほうが日本列島の東西南北を測る精度が、高かったと言えるかもしれないです。
しかし問題は日本書紀の崇神天皇以前の記述には、どの程度信憑性があるかというところです。9代開化天皇以前は、一般的には欠史八代と呼ばれ、明確な実在の証明はまず不可能とされてます。奈良にある欠史八代の天皇陵は、天皇陵墓と比定されてはいるものの、本当かどうかは怪しいと言われています。
日本書紀の中での方位は、3世紀以前から語り継がれてきたのか、それとも8世紀序盤の編纂時には深まっていたであろう正確な方位の知識が、編纂時に新たに埋めこまれたのか、このあたりは、ここまでの検証では証明が不可能でした。
しかし3世紀以前の倭人が正確な方位を知っていたかどうか、知ることのできる方法が、他にもまだあります。それは大和の都の周囲に配置されていた象徴的な地名と、とある別の地方の地名を比較検証することでわかってきたことです。次はそのあたりを掘り下げていきます。
7に続く。