たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

正確な方位を知ってた?3世紀の倭人。5

5まで続いて来ました。ここまでは古代中国人の、倭に関する方位に関する記述を、参考として調べてきましたが、これ以降はようやく本来の目的である、倭人の持っていたであろう日本列島の方位概念を検証したいと思います。

魏志の中にある、女王国のはるか東にあった侏儒国や、その東南にあった裸国と黒歯国、それと隋書の中の竹斯(筑紫)国の東にあったとされる秦王国についても、気になりますが省略します。

宋書の2番です。
順帝(477-478年)の昇明二年(478年)、(倭王武・応神天皇仁徳天皇が)使を遣わして表をたてまつる。いわく、「(一部省略)─東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国─(以下略)」

5世紀当時の日本列島は、これほど多くの小国に分立していたかどうかの疑問もあるのですが。

東の毛人とは、現在の群馬県・栃木県・埼玉県のあたりに広がっていた、おそらく蝦夷の国だったであろう地域のことでしょうか。蝦夷が縄文人からアイヌに繋がっているとする見方もあるので、もしそうであれば毛人はアイヌだったかもしれません。毛人国は、後の毛野氏であると思われます。

ここで気になるのは、この毛野氏(上毛野君・下毛野君)が、崇神天皇の子・豊城命の後裔であると日本書紀に書かれていることです。これだと、天皇家から蝦夷が産まれたことになるので、蝦夷がアイヌだとするなら、つまり先住民族アイヌ人は、天皇家の子孫のうちに入ることになるとか・・・このあたりはまた別の機会に。

さて線分oとpが、この毛野の記述に当たります。仮に当時の倭王武(雄略天皇)のいた、長谷の朝倉宮が、北部九州の朝倉の甘木だとしても、奈良のことだとしても、東北東の方角であることに変わりないです。477年の時点では、東国の毛人の場所はほぼ東と認識されていたと見ていいようです。

西の夷衆とは、九州の熊本以南にいたとされる、熊曾であるとも言われています。渡りて海北の、とは、神功皇后の新羅遠征によって得た朝鮮半島の土地のことかもしれません。
そう考えると、東の毛人55国、西の夷衆65国、海北95国の正体について、全く別の解釈が浮かんだのですが。。これはまたの機会に。


次は日本書紀です。日本書紀の中の「今」とある記述は720年時点であることは先述した通りで、ここではその「今」に関するものは省略します。

神代の2番目の記述は、図上の線分j、k、lに当たります。また、k線は崇神天皇の3番の記述、新羅の南東にあった、任那の位置にも相当してます。
素戔嗚尊は息子の五十猛神(いたける)を連れて、新羅の曽尸茂梨へいきました。この曽尸茂梨については、首都という意味の古代朝鮮語である、ソフルと同原ではないかとの説があります。その場合、比定される場所は韓国のソウルです。

古事記大国主の子・大年神の系譜のなかに、どうやら明らかに朝鮮半島の神なのではないかと思われる神々の名が列記されてます。その中に曽冨理神(そほりのかみ)が登場しています。この曽冨理神は、やはりソフルのことだと思われます。

しかし新羅の曽尸茂梨というふうに「新羅の」とある以上、やはり新羅の前身である辰韓の中の地名なのではないのかと考えていました。ソウルは2世紀までは前漢楽浪郡、3世紀初めからは魏の帯方郡の範疇であって、辰韓の領域にはなかったのです。2つの可能性があります。辰韓の中心地でのちの新羅の名の前身であるであろう「斯盧国」であるか、または辰韓の小国の1つ「州鮮国」だという考えです。

三国志魏志弁辰伝を読んでみると、辰韓にあった12カ国の名が記されており、その中に「州鮮国(しゅうせんこく)」がありました。学研漢和大字典で漢字を引いてみると、漢字の上古音(周・秦代)と中古音(隋・唐音)どちらでも、シュウセン国のように発音するようです。日本に伝わった音読みには呉音・漢音・唐音などありましたが、漢音のシュウセンがしっかり当てはまっています。

もしかすると曽尸茂梨は、シュセモリなのかもと考えてました。ちなみに現在の韓国の南端の沿岸部に泗川(サチョン)市があります。漢音読みだとシセンになるので、ここが素戔嗚尊五十猛神の訪れた州鮮国であり、曽尸茂梨なのかもしれないです。

新羅(辰韓)からのl線の延長線上には、素戔嗚尊が向かった出雲の鳥上山があります。ほぼ真東になっているので、ここでは方位がかなり正確です。これが3世紀以前の伝承に含まれていたのか、それとも日本書紀編纂時に方位を修正したのかは不明ですけれど。

6に続く。