たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

正確な方位を知ってた?3世紀の倭人。4

「正確な方位を知ってた?3世紀の倭人」のパート2とパート3の記述と概略図を参照のこと。

古代の方位を再現するにあたっては、グーグルアースを用いることにしました。上下左右に張り巡らせた白い格子線は、緯度線と経度線を示すもので、これは2012年現在の正確な東西南北を示すものです。

線分aは魏志の1番と後漢書の1番、魏の帯方郡から倭国の方角を指し示したものです。帯方郡は西暦204年に遼東太守の公孫度によって設置された郡で、当時の倭国はこの帯方郡に属していました。現在の北朝鮮の平壌と、韓国のソウルとの間あたりに広がっていたとされてます。

魏志倭人伝に記される、倭の使者・難升米と都市牛利らが236年に向かった帯方郡治が、どこにあったかは諸説別れるらしいのですが、帯方群治が帯方郡A地点の沙里院近郊だったとしても、帯方郡治をB地点のソウル近郊と比定しても、指し示す東南方向は、九州と本州と四国の境目付近です。当時の中国人は、倭国の中心地がこの方角であったと、かなり正確な方位観を持っていたと思われます。

また、線分bと線分cは宋書倭国伝の1番、「倭国は高麗(高句麗)の東南大海の中にあり」を指し示す線になります。宋書が完成した当時の時代は中国南朝の梁の時代で、宋が滅亡した西暦479年からまもなく完成したされてますが、内容的には5世紀始めから終盤に至る倭の五王との関係を記したものとなっています。この当時高句麗の首都は平壌城だったのですが、それ以前まで長らく首都として機能していたのが、丸都城でした。線分bとcの東南方向は、a線に比べてやや東を指し示していますが、方位感覚はやはり正確であるように思われます。

時代が3世紀から5世紀に移り変わって、より東方を指し示すために、「高句麗から東南」と言い換えているのには、もしかすると「古事記。序文の謎。」で指摘した件が関わるかもしれないと思っているんですけど、この話はまた長くなるので別の機会にしておきます。

次に線分dです。この線は、魏志の3番から5番までの記述を元に北と南を結ぶラインを示したものになります。見れば完全に東南方向であるのに、これを魏志は南北軸と表現していたことがわかります。
つまり倭国の北岸の狗邪韓国─対馬国─一岐(壱岐)国─末羅国のラインが、当時の南北軸となっていました。

魏志帯方郡では正確に倭国を東南と表現できているのに、どういうわけか、狗邪韓国から末羅国方向を南と言っているわけです。馬韓(韓国西部)を越えたあたりから、方位の基軸が45度ほどもずれてしまっていることになるかと思います。

この陳寿という人が実際に倭国へ上陸したかどうかはわからないのですが、後漢から三国時代にかけての当時の中国の知識層が、日の出と日の入りの方角を持ってして、東西の方位を表すことを知らないわけがないと思われます。
もしかすると案内役の倭人が、d線を南北軸だと言ったので、倭人の言うことを鵜呑みにして、中国史書にそう書かれたのかもしれません。または当時倭国を尋ねた中国人は、おそらく魏略を編纂した魚豢の関係者が含まれたと思いますが(魏志倭人伝自体、魚豢の魏略をから引用している) 彼らが、丁度空を見上げても日の出の位置が、雲に阻まれて確認できなかったとか、あるいは倭国を訪ねた次期は丁度夏至の頃で、太陽は真東よりもやや北から昇り始めている時期だったことで、真南よりも東寄りの東南と解されたとか。いろんなことが考えられますけれど。

仮に魏志倭人伝を記録したのが夏至の時期だったとするなら、倭人の服装が極めて軽装、つまり夏服かのように書かれていることと辻褄が合っててくると思われます。
魏志で倭の男性の服装については「横幅の衣をただ結束して重ね」とあって、日本人が着る「甚平」か「紬茶羽織」のような衣服だったようです。また、女性の衣服については「布の中央に穴を開けて頭を通す」つまり貫頭衣だったと書かれていて、東南アジアの民族衣装か、簡単にいえばTシャツのようなものだったようです。

3世紀当時の倭国の気温は、かなり寒冷だったようで、平均気温で現在よりも2度程度低かったとすると、30度を超えるような真夏日は比較的少なかったことになります。魏志では倭人の衣服は薄着のように書かれていますが、この軽装が古代の寒冷期に通用するのは、せいぜい夏の季節だけのように思えます。冬場の倭人の服装はどんなものだったのか、興味が湧きます。

線分iは末羅国─伊都国─奴国ラインです。これが魏志では東南方向として表されてますが、実際には真東を示すものであることは一目瞭然です。このi線を延長していくと、四国を超えて紀伊国(和歌山県)に到達します。魏志では北部九州から見て、四国や和歌山方面は東南と解されたようです。つまり当時の中国人の認識としては、奈良県の橿原方面は北部九州から見て、東南東に近いことになります。

線分hは魏志での真東にあたります。魏志の9番、「(奴国から)東行不弥国に至る」。この不弥国の位置は諸説あるなかで、語感の近さから「宇美」であるとも言われています。伝承上の宇美の起源は、神功皇后応神天皇を産んだからとされています。実際の宇美は奴国(福岡平野)の真東にあるのですが、魏志での真東は東北にあたるので、不弥国は宇美より北の須恵寄りだったかもしれません。または奴国の位置が、南寄りに位置していたか。このh線を延長すると、出雲に到達しました。思いつきですが、出雲は東(あずま)が転訛した地名である可能性もあるのではと思います。アズマに近い地名で和泉もあります。つまり、倭国の当時の首都、邪馬台国が北部九州にあった場合、出雲が東の象徴と認識されたかどうか。その場合、出雲、和泉といった東に当たる地名が、何時の時代からそう呼ばれていたのかが気になります。出雲の場合は記紀の神代の時代から登場していて、この神代が実在したのか、だとしたら何世紀以前が神代なのかも気になります。

線分eは奴国から、狗邪韓国─末羅ラインで明らかとなっている、南方面へと線を引いたものです。これは魏志での南北軸になっています。奴国の南に投馬国があり、その南に邪馬台国があるというのが、魏志倭人伝です。概略図上でe線の指し示す延長線上に、投馬国と邪馬台国があるということになるのですが、方位は正しくても、距離の問題があります。すなわち奴国から投馬国まで水行で20日もかかり、投馬国から邪馬台国までは水行20日+陸行一ヶ月かかるという、長大な日数のことです。これを素直に解すると、太平洋上に邪馬台国があったことになってしまうのです。個人的には、この距離は倭国が広大な領土の大国として極東地域に知らしめるための虚言か、これ以上外国人が踏み込まないために、あえて無理な日数を教えられたのかとか思っているのですけど。

仮に中国正史の方位だけを参考にし、20日や1ヶ月とかの日数を完全に無視してもよいとするなら、この線上の奴国より南方には、福岡県の筑後平野、熊本県東部、大分県、宮崎県らが該当していて、ここには幾つかの邪馬台国候補地が重なっていることが分かります。

f線とg線です。魏志の14番、後漢書3番、隋書の4番の記述が、このラインです。会稽というのは中国の東部沿岸地方に広がっていた会稽郡のことです。東冶は現在の福建省のあたりとされてます。実際には東北か東北東方面なので、ここでもずれが生じています。中原(中国の中心部)から遠ざかるほど、方位感覚は歪んでしまったのかもしれません。

隋書の時代(7世紀前半・唐)になると、日本列島が緯度線(東西軸)に対してどのように配置されているかが分かるように書かれています。日本列島を俯瞰すると、九州四国本州は東西軸より、やや右上に傾いて並んでいるのですが、これが隋書のなかの3番「その地勢は東高くして西下り」に相当しています。この頃には日本列島の東アジアでの位置関係が、ほぼ正確に認識されていたかもしれません。後の中世の時代に、日本列島が大きく歪んだ地図が作られてしまうのは、一度手中に収めた地理の知識が、長い年月を経て風化してしまったからかもしれません。

隋書の1番にあるとおり、倭は百済と新羅の東南とも書かれていて、この時点では、韓国の南方ではなく、韓国の東南方面と認識が改められていたようです。

魏志後漢書の中に注目される記述があります。豊田有恒氏の著書「歴史から消された邪馬台国の謎」のなかにもあるのですが、韓国の慶尚南道の沿岸地域にあったとされる狗邪韓国は、魏志倭人伝では「倭国の北岸」と示されているところです。また、後漢書では狗邪韓国が「倭国の西北界」と示されており、いずれも韓国南端地域が、倭国の一部であり倭国の最北端部であったことがわかります。これは日本書紀に書かれる、新羅(実際は辰韓)の南西にあったとされる倭人の地・任那の記述と符合してきます。中国人は朝鮮半島南端が3世紀以前には倭国の一部だったことを、史書に記していたのでした。

5に続く