そろそろ春の引越し予定が近くなってきました。でもすぐ疲れて寝ることが多くなり、移動が不安な感じがしますね。おいそれと何度も往復はできないし。
そもそも引っ越したら、もう今の家には戻らないという感じもありなので。
そのくらいこの家で追い込まれてきたし。自分はこの家には不要なのだと実感させられた人生でした。
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○いつも助かっております
同時存在
「魏志倭人伝」の侏儒と「日本書紀」の侏儒国によって、邪馬台国の位置が九州だと特定できることを伝えました。
ついでに「隋書倭国伝」や「四海華夷総図」からも邪馬台国が九州である情報が読み取れると記しました。
しかし邪馬台国のことを調べるにつけ、どうも「邪馬台国東遷説」だけじゃ説明が付かないことが多いな、と考えるようになりました。
問題になるのは
1・邪馬台国までの行程が説明できない(水行20日+水行10日+陸行1月)
2・九州に邪馬台国があったとして、奈良にも存在した痕跡が残るのは何故か
この点が難問でしたが、これを上手いこと説明し切る仮説を思いつきました。
もしかして、九州と近畿には「2つの邪馬台国が数百年間同時に存在した」のではないかと。いう結論に達したので、まとめておきます。
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従来から「邪馬台国東遷説」が正解だと思っていマス。
邪馬台国東遷説とは、九州にあった邪馬台国が、弥生時代末期の頃に奈良盆地へ移り、古墳時代の大和朝廷の中心地となり、大和の名前を冠したのであるという考え方です。
その場合、九州の邪馬台国は消滅していると考えられているわけなのです。
筑紫平野の朝倉に奈良と同じ地名を膨大に発見されていることから、筑紫平野こそが邪馬台国の名残を留めている・・・。近年はそんな仮説が史実だと考えるようになりました。
魏志倭人伝」は2つの邪馬台国の特徴を、1つに組み合わせている
しかし、 「邪馬台国はたった1つだ」という思い込みが古代史の真相を濁していたとしたら?という発想は必要なのではないかと。
邪馬台国(やまと)と呼ばれる土地は、日本列島にはいくつか候補地を挙げられます。
1つは大和と呼ばれている奈良盆地を中心とする土地。
筑紫平野と奈良盆地を中心とした地名が、瓜二つであること。この点を指摘したのは安本美典氏で、著書の「天照大御神は卑弥呼である」に詳しくあります。
以下に個人的にも調べて、拙著に掲載した表を乗せておきます。
拙著より
こんなふうに、九州と近畿には同じ古地名が名付けられていました。神武東征の到着地点の地名も全て、九州にも存在してたんです。すなわち筑紫平野の朝倉付近が邪馬台国だったとして、まったくおかしくない。自分としてはそうだと考えています。
だから、「魏志倭人伝」編者の陳寿は、九州と畿内の2つの邪馬台国を混同してしまい、2つの邪馬台国を倭人伝内で融合させてしまった」可能性はあるのではないかと。あるいは、女王に頼まれて、あえて場所を判別できないように濁していると。
魏志倭人伝や後漢書倭伝から、邪馬台国の情報を引き出して図にあらわしてみました。
こんなふうに、邪馬台国Aと邪馬台国Bは同時存在し、「魏志倭人伝」では2つの邪馬台国が区別されずに融合して記されています。
その結果が魏志倭人伝の距離にあらわれているのですが。
水行20日、水行10日、陸行1月
これはあきらかに筑紫平野までの距離ではなくて、近畿の奈良盆地までの距離合わせていると受け取れます(実際は半分の日数で済むだろうけど)。するとあらゆる意味で無理が減ってくるわけなので。陸業については、「陸で行った場合は」みたいな感じかと。
時系列を想像でいうと
(1)2世紀末、邪馬台国が倭(九州)の朝倉にできた。
(2)3世紀以降から奈良盆地にも邪馬台国の地名が名付けられた。これは首都機能移転という意味か、副首都として
(3)「魏志倭人伝」は九州と畿内、両方に存在した首都邪馬台を区別せず、ひとつの邪馬台として記してしまった。なぜなら筑紫平野と奈良盆地は、全く同じ地名だったから。
6世紀の段階まで、九州の邪馬台国は消えていない。7世紀の「隋書倭国伝」が、九州の倭の邪馬台国について書いていることがその理由。
(4)邪馬台国をモデルにして全国に国府が置かれ、地名が「やまと」になったり高天原の地名を名付けたので、全国にミニ邪馬台国が無数にできた
(5)6~7世紀頃に九州の首都邪馬台を消滅させ、畿内の邪馬台に首都を一本化、大倭を大和に改名する。日本書紀や古事記は、九州の首都消失について記していない。
(6)中世以降、邪馬台国の情報が失われてしまい、21世紀には邪馬台国候補地が日本全国に100以上も登場した。
魏志倭人伝の距離と方角は不正確ですが、東西に邪馬台国が2つ同時に存在したならば、こんなふうに説明が付く、という新説でした。