魏志倭人伝の中で、倭国の30国が登場してきます。
これらの国はそれぞれが邪馬台国の女王卑弥呼に従属する小国で、またそれぞれに個別の王を擁していました。倭国とは30カ国の連合王国だったのです。
それ以前には100余りの小国に分立していたことが後漢書に書かれています。細かい国々が統合されたようです。
47都道府県をいくつかの州に纏めようとする道州制が、実現へ向けて議論され注目されていますが、3世紀以前の段階でも、現代と同じような統合と対立があったようです。
唯一狗奴国だけが、邪馬台国に従わず、独立を保っていました。しかし一般的にはこの狗奴国も、倭国の一員として捉えられています。
そしてこの3世紀、倭国の隣には、倭国の形態によく似ていたであろう国がありました。韓です。以下は魏志韓伝など、古代史書の話を要約したものです。
韓は馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていましたが、元は馬韓だけがあり、この3つの地域を従えるのは馬韓の王族だったようです。
紀元前2世紀、秦の国出身らしい辰王が、朝鮮半島の南部域に移住してきました。辰国王(秦始皇帝の末裔の王族)は余所者であるために、王を名のることもできず、韓(馬韓)に従属していました。
やがて辰王の居住地域は辰韓と弁韓へと移り変わるのですが、馬韓の影響下にあることには変わりありませんでした。
秦の流れを組む辰韓は新羅へ、扶余の王族が権力を有していた馬韓は、百済へと発展します。
そんな中で弁韓だけは、辰国の伝統を受け継いだのか、倭人の影響下だったからなのか、小国の連合国家状態を維持して伽耶(倭人からは任那と呼ばれる地域)へと展開していきます。
三国志の魏志馬韓伝、辰韓伝にはそれぞれ、馬韓の55ヶ国、辰韓12ヶ国、弁韓(弁辰)12ヶ国が記され、小国の集合体という意味で、倭とよくにた国だったことが分かります。
同じ魏志に記される隣接するワイ国や高句麗、沃沮など、朝鮮半島南部と日本列島以外では、小国に分立しそれが1つの国を成していた様子など見られないので、此の倭と韓の地域の特殊性が伺い知れます。
辰韓の言葉は中国人に近かったのですが、馬韓と弁韓には倭人が多く住み、刺青が受け入れられているとか、天の神を祀ることなど、風習も極めて倭人とよく似ていた、または一部が同一だったようです。
これは推測ですが、馬韓と弁韓では、公用語として倭語が通じていたと見られます。弁韓は特に倭の任那の地であり、元は倭国の本拠地があったのではないかと江上波夫氏がその著書「騎馬民族国家」の中でも指摘してます。
(この朝鮮半島古代史の認識が、間違ってたらすみません。でも大体合ってると思いますけどね・・・。)
これら三韓の地域と倭の治めるの地域には、注目すべき共通点が他にもありました。それは連合する小国の名称の中に、完全に同一だったり、極めて類似する国名が見られることです。
2に続く