前回の記事、ちょっと修正しました。
基本的に、日本に最初にあった邪馬台国は九州であり、後に奈良盆地に移ったという「邪馬台国東遷説」を支持しているので。これを書き忘れていました。
2つが融合してる邪馬台国の話については、また今度。
前回
侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所 - たっちゃんの古代史とか
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○いつも助かっております
とにかく「隋書倭国伝」は九州の邪馬台を記録した
九州にあった邪馬台国について、もう少し情報を補足します。
卑弥呼の頃の邪馬台国の場所が九州であることを、知る要素は、他にもあったわけなんです。その辺をもっと考えていこうかと。
古文書と成立年代
・魏略(3世紀前半)・・・魏志倭人伝の元になっている書物。逸文のみ。
・魏志倭人伝(3世紀末)・・・卑弥呼の頃の倭について最も詳しい。著者の陳寿は倭を実際に訪れていないとか
・後漢書倭伝(5世紀中頃)・・・魏志倭人伝より先に書かれ始めたが、完成は魏志以後。
・隋書(7世紀)・・・7世紀以前の倭について分かる。
・晋書倭人伝(7世紀)・・・壱与についての記述が含まれると見られる
・旧唐書(10世紀)・・・かなり後になって書かれたが、倭国のことが含まれる
ほか。
これら全部、岩波文庫の「中国正史日本伝1~2」で見れます。どれも倭国のことを書いている貴重な書物です。
「隋書倭国伝」は邪馬台国研究では注目度が低いほうですが、じつは日本列島の地勢を知れる一文があるんです。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
中国正史日本伝(1)p128
翻訳
「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち魏志のいわゆる邪馬台というものである。」
中国正史日本伝(1)p95
これは明らかに倭の首都が邪馬台国だった頃を、書いているとみられるんですが。
ここで言っている「下」というのは、この訳文では「日本列島の西方は標高が低い」という意味で使われていました。
実際に日本列島は西日本は高い山が少なく、東日本は日本アルプスや富士山など3,000メートル級の山々が連なっているわけなので。
原文や翻訳文だと分かりにくいですが、実はこの一文に「邪馬台国が西方にある」という情報が、含まれているのではないかと。
これです。
其地勢東高西下都於邪靡堆
「西下都於邪靡堆」の一文を解釈すると、「西の低地帯に邪靡堆の都を置いた」と言う情報までもが、含まれているのではないかと。
しかも日本の古墳時代の頃からの律令制時代、九州(筑紫島)がなんと呼ばれていたかというと「西海道」。
なのでこの「西下都於邪靡堆」という一文が、邪馬台の位置は九州だと結論づけてる可能性はあるのですが。
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倭の時代を描いた「四海華夷総図」も女王国は九州なことを示唆
そもそも倭国というのは、「2つを合わせた存在だ」というのが根底にあるのは間違いないところですよ。
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、 日本は元小国、倭国の地を併せたりと
中国正史日本伝(2)より
倭国と日本国を併せた。それはおそらく「九州と本州」を併せたという意味ではないかと。実際そういう絵図が残ってますし。
この「四海華夷総図」は1532年、中国が明(ミン)朝だった頃に描かれたもの。
倭と九州に分かれて描かれていますが、
・日本国とあるのが本州
・倭とあるのが九州
で間違いないですね。
北海道、本州、九州、沖縄、というふうに日本列島の主要な島々が全部揃っているし、小琉球(台湾)の名もあるし。九州はぐるっと45度回転させた感じで。
これは前述の、10世紀に編纂された「旧唐書」の記述をもとに作られている地図と見て良いかと。
日本の歴史上で国号に「倭国」が用いられていたのは、7世紀までのことでした。670年に日本に改名したことが「新羅本紀」にあるとか。
ちなみにこの「四海華夷総図」は、正距方位図法らしい。
という正距方位図法を作成できるツールがあり。これを元にして「四海華夷総図」と比較すると、こんな感じに。
正距方位図法だから、九州や本州の向きが傾いているというわけ。地中海も同様に。
図上の倭=九州ならば、九州の中心都市は邪馬台国だったことになるわけですが。この地図は「倭と日本が別れていた7世紀以前の日本」を描いたものであり、九州に邪馬台国があったことを、物語っていますよね。
隋書では「阿蘇山あり」ともあることから、九州邪馬台国のそばに阿蘇山があることも物語っているではないかと。
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ということで倭の女王卑弥呼のいた邪馬台国が九州にあったという情報は、昔の中国の記録から読み取れたわけなのですが。
でもこれは、日本列島で最初の邪馬台国が3世紀前半の九州にあったという意味で、3世紀後半以降には、近畿の奈良盆地へと、邪馬台国が東遷しているという仮説を支持しています。これは、以前からあったものでした。
こうした情報を元にして、従来とは全く別な発想も可能になってきました。それが「2つが融合してる邪馬台国の話」ですが、これはまた後ほど。