2~3世紀の卑弥呼のことを考えていると、どうしても韓国南部の任那・加羅の地域は無視できないのです。それでとても興味深いことに気づいたりしました。
むかし韓国の南方の任那・加羅(伽倻、弁韓)という地域には、倭人がいっぱいいました。この地域は倭系の古墳が多く、倭と同じ遺物が発掘されたりするとか。
そして中国の魏王朝が残した「魏志韓伝」、韓国の「三国遺事」、日本の「日本書紀」の記録を見ても、倭国の領域が朝鮮半島にあったことがわかるわけですが。
「日本書紀」に出てくる任那(加羅)は、高句麗の「広開土王碑」にも登場するんです。しかし任那日本府は史実じゃなく、大和朝廷の創作だったとか言う人もいますが・・・。
任=まか、那=な
むかし3世紀はじめ頃まで、朝鮮半島の西部には馬韓(ばかん)がありました。馬韓と任那の領域は、被っているところが多い。
そうすると、「馬韓」を「まかん」と読むと答えが出る感じがしました。
こんな変遷があったかと、妄想するのです。任那は馬韓を元にして古代の日本で作られた呼称であるでしょう。
「魏志倭人伝」を見ると、狗邪韓国が倭国の任那に含まれております。
この狗邪韓国は3世紀中頃まで、金海市だとか巨済島にあって、倭人伝に登場することから、倭の属国だったことが分かるのでした。
しかし狗邪韓国は3世紀中葉以降に倭から分離し、伽倻全域を収める金官伽耶国とっています。
金官伽耶は任那の倭人地にあったので、当然彼らの言語は倭人語、日本語に近いものであったでしょう。扶余系言語も倭語に近かかったようですけども。
そんな金官伽耶は、古代にインドの王家が入り込んでいるという伝説もあったりするのは面白いところです。
そして金官伽耶王朝の真実は、日本語+サンスクリット語の仏教用語で解明できてしまうことがわかりました。
・許黄玉
このかた、古代インドの1~2世紀にあったという阿踰陀国(あゆだ国)の王女で、船でやって来て、金官伽耶の初代王、首露王(スロ王)に嫁いだそうです。
阿踰陀国というのは北部のアヨーディヤーという地域が有力らしくて、南部のサータヴァーハナ朝を経由して金官伽耶に入ってきたとか。
1世紀以前からいたとか言いますが、息子や孫の年代を調べると、実在したなら2世紀半ば~後半頃かと思います。
許黄玉って当然ながら韓国読みで「ホ ファンオク」で韓国人ぽい呼び名になってます。しかしこれは伝承される名前でした。完璧インド人だったし、本来は違った名前だったんじゃないですかね?
「黄玉」って、日本語で読むと「コータマ(kotama)」になるんですよね。これってアレじゃないですか。
インドの聖人と言えば釈迦、ブッダ。その本名が「ゴータマ・シッダールタ」っていうんです。
ゴータマは「もっとも優れた牛」を意味するらしいです。最高級のA5級で美味しいかどうかはともかく、気立ての良い、頭のよい牛みたいな表現で。
そういえばインドでは、牛は神聖な生き物とされているらしいです。しかしインド人って、牛肉よく食べるらしいですけどね・・・😅。
すると「ゴータマ→コータマ→黄玉」という経緯で、黄玉と名が付いているんじゃないかと。
つまり黄玉とはゴータマであり、釈迦の名前を元に命名された感じがしました。
シッダールタは「目的がかなえられた」だったり、「全てのことが皆成就した」という意味になるとか。
「許」のほう見ると言偏と「牛」旁ですね。つまりゴータマの「もっとも優れた牛」を元にして、牛の入った「許」が選ばれているんです。言偏が付いた牛なので、「言葉を理解する頭が良い牛」みたいなニュアンスだと思います。
許黄玉
許=言牛・・・言葉を理解できるもっとも優れた牛
黄玉=ゴータマ・・・ゴータマ・シッダールタ=釈迦
だからこの方は熱心な原始仏教徒で、釈迦の崇拝者だったと思われます。
そうすると金官伽耶でも「玉」のことを「tama」と倭語(日本語)で発音したのは明らかでしょう。伽倻とは倭語を使う倭人の地域だったんだろうな、と想像するには十分です。
・居登王
この方は首露王と許黄玉の子で、金官伽耶の2代目王でした。年代的にはちょうど卑弥呼と同じ頃で、2世紀末~3世紀前半と言われています。
韓国語読みでコドゥンワンですが、これも許黄玉と同じで、日本語読みにすると意味が分かるんではないかと思うのですが。
居登は日本語では「いと(ito)」と読めるのですが、これってどう見ても、居登王と同じ頃に九州にあった、委奴国(いど)、伊都国(いと)、と同じ読みですね。それは偶然じゃない感じ。
すると居登王の読み方とは、「いと王」だったのでは?
または別の解釈もできました。
同じ時代に倭国には崇神天皇がいたのです。崇神天皇は本名である諡号に「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)」とあります。
この時代に「日本書紀」に登場する任那王の蘇那曷叱知(そなかしち)が、新羅の奈解尼師今(なかいにしきん)であると思ってるんですが。
崇神天皇についての記述は「魏志倭人伝」と一致するので、崇神天皇は3世紀の在位だと考えます。
蘇那曷叱知 そなか叱し
奈解尼師今 ---なか尼し (3世紀前半の王)
名前が一致してます。
なか
知(し)=師(し)
叱=尼(口+匕)
同一人物というか、兄弟とか関連する人物かもしれないです。
新羅は古代には倭に属したとの文書が、2011年に発見されていました。通説では新羅王だけれど、「日本書紀」では任那王になってるのもそのためかと。
崇神天皇の諡号には、「入(いり)」が含まれてるんです。これが居登王の「居(いる)」と同系であるように思いました。
イリ、イルというのは、実は古代騎馬民族で共通した王名に使われてたりするんです。扶余にも3世紀にイリ王、イラ王がいたし。同じ時代の東夷諸国(東アジア諸国)の王が共通の名を持っていたことは、元々東夷諸国の王族は騎馬民族の同一の先祖から発生していることを意味していて、無視できないです。
倭 御間城入彦(イリヒコ)
扶余 依慮王(イル)依羅王(イラ)
百済 蓋婁王(ガイル)
あと「登(のぼる)」はひょっとすると、仏教用語かもしれないです。仏教は紀元前2世紀に前漢に入って以降、漢訳が進んで行きましたので、首露王と許黄玉も立場上、手に入れることも可能だったかもです。
いわゆる仏教における神である如来、菩薩、明王、天部には真言があり、唱えることでその超常的な力を得たり守護を得たり、極楽浄土に行けるられると信じられてました。
日本に古墳時代に入った仏典は漢文ですが、元はインドのサンスクリット語で書かれたものでした。
例えば不動明王は「ノウマク サマンダ バザラダン カン」という真言。これは「帰命したてまつる。あまねき諸金剛尊よ。ハーン」という意味だとか。
「ノウマク」はサンスクリット語のお辞儀、敬礼、崇拝などの意味で、漢訳されると帰命、敬礼になったとか。
ノウマクはnamah(ナマハ)、namo(ナモー)に変化し、漢訳では「ノウボウ」になってる場合もあるようでした。
ノウマクを漢字で書くと「曩莫」「納莫」、「ノウボウ」は「曩謨」「南無」なんですよね。つまり日本語の「登(のぼ)」と似たようなかんじになるわけです。
居登王=いと王・・・委奴国(いど)、伊都国(いと)
居・・・イル(騎馬民族の王
登・・・納莫=namah・・・帰命
すると居登王とは「委奴(いど)」で倭人を示すと共に、「居(イル)」で騎馬民族王家の出自を示し、「登」で仏教の納莫を表して出自が仏教のインドにあることを示す。と言う感じがするわけなのです。
・慕貞
居登王の妻が慕貞(ぼてい)でした。韓国読みでモジョンだとか。
父親の申輔と娘の慕貞、この親子も、インド南部のサータヴァーハナ朝から来てるのだといいますね。
慕貞とは日本語で読むと「ぼてい」ですが、これに近い仏教用語があるんですよね。菩提寺の「菩提」。
菩提とはサンスクリット語の「bodhi(ボーディ)」で、「仏の覚りの境地」とかいう意味があるそうです。覚りの境地を得たものが仏陀こと釈迦如来であり、それを目指す者が菩薩であるとか。
許黄玉と同じく、インド人慕貞も釈迦に関わる名を名乗ってたのは偶然じゃないです。このかたも熱心な仏教徒だったのでしょう。
・申輔
すると父親の申輔(シンポ)は何か。しんほ、しんすけ。
申が「もうす、話しかける」で輔が「たすける」意味。「言葉で助ける」だから、通訳だったのかもしれないです。
「しんほ」に近い仏教用語に「三宝(さんぽう)」がありました。仏陀と法と僧伽の3つを合わせることで、正式な仏教徒だとか。
あるいは「辛坊」。辛い苦しいのを我慢することで、もとは「心法」で仏教用語らしいです。祖国を離れての移住は辛かったのだろうか😅。
・麻品王
この王は金官伽耶の3代目の王さまです。韓国語ではマプムワン。日本語の訓読みではマヒン王となります。
259年~291年に在位したとか言いますが、これもどのくらい正確なのかは分からないですが、女王壱与と同じ頃の王さまでした。
この名前、もしかすると紀元前3世紀の、古代インドのマウリヤ朝の仏僧、マヒンダを元にしてるかもしれないです。マヒンダ→マヒン→麻品王、そのまんまですね。
僧侶のマヒンダは仏教を学んだあと、船でスリランカに渡って伝導した偉大な人物だったとか。「海を渡った」ということで、インドから海を渡った許黄玉らに結び付けられ、命名されたのかと思いました。
あるいは「呪い(まじない)=麻品」が元になっているのですかね。
おまじないは神仏の力を借りて災いから逃れたり、奇跡を起こしたりすること。王がお呪いを司る存在であるのは、日本を見ても同様でしたし。
・居叱弥王
金官伽耶の4代目の王さまで、韓国語で言うとコジルミワンです。291年~346年頃に在位したとか。
日本語で訓読みしてみると、色々読み方を検討できます。キョシツビ、コシツミ。イシツヤ。「いしや」とすると、なにか意味が通じるような感じがしました。
居叱弥がイシヤで、「イーシャ」ならば、サンスクリット語で「神」という意味になるようです。これも神である釈迦にあやかっている命名な感じがしました。
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というわけで
適当に名前の暗号解読を進めてたら、話が長くなってしまいました。
というわけで金官伽耶の偉い人は、倭語を使っていた人々だったようですね。だからこそ日本語で解くことができるわけでした。そして彼らは熱心に釈迦を崇拝する、仏教徒だったのは、その出自からも名前からも分かるのでした。
まぁそうすると金官伽耶のあった任那と関わった倭人は、3世紀頃からなんとなく仏教を知ってた人も居たことになるわけですが。
日本の正史だと仏教伝来は6世紀の欽明天皇のころとなってますけどね。リアルな古代の出来事と、現在の教科書の内容は違うのでしょうね?
それでこの話が、崇神天皇や卑弥呼の出自を解く上で、とても重要だったりするのです。次回は金官伽耶と密接に関わった崇神天皇と卑弥呼の話。
ぽちされでたすかります
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