当時の渡来人と倭人の判断は、なかなか付かない。倭国は大陸の吹き溜まりだった。
○いつも助かっております
先日書いた記事
これも関係してましたけど。
・塞曹掾士張政・・・中央アジアのサカ(塞)担当官
・太守劉夏・・・中央アジア烏孫の王・昆莫の奥さんが前漢の劉氏
・難升米・・・烏孫の王・難兜靡に似てる
難升米 nan-sho-mai
難兜靡 nan -tou-mi
・都市牛利・・・タジキスタンの都市、塔什庫爾干(タジュクルガン)の音写
塔-什-庫-爾(ru)
都-市-牛-利
・伊声耆・・・キルギスのイシク湖(Issyk Kul)の音写
伊声耆 i-sei-ki
イシク I-ssy-k
・載斯烏越・・・中央アジアの車師国の音写となにか
載斯 sai-shi
車師 sha-shi
ひえ~。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭国は2~3世紀の段階から、上層部の指導者層にはユーラシア諸民族が多く、要するに倭人自体が単一民族ではなかったと思うんですが。そのへんは「日本書紀」を読んでもなんとなくわかってきますが。
一般に日本は「東アジアのちょっとだけ影響受けただけ」なんて言うのですが、実際はぜんぜん違ったんではないかと。
雅楽、猿楽、仏教、機織り、呉服、納豆、醤油、数々の野菜。いまでは日本的なものの代名詞になってる物、あらゆるものが古代のユーラシア奥地からきてるわけで。
物だけが海を超えて来たわけ、ないので・・・。
20世紀以降の日本では、在日韓国朝鮮系の人が、中央の上層部に入り込んでいるではないですか。これ事実ですが。そもそも今の状況を作ったのは日本人なのですけど。
日本は今も昔も、おんなじで。今起きていることは、過去にも起きてた。
普通の日本人はそういうところは区別ができないので、そうして戦後は自然と在日韓国朝鮮系に支配されてたっていうことなんすよね。GHQがそういう方向に誘導したみたいです。
「それは俺じゃないのに俺のせいにされて罵声浴びせられた」みたいな・・・。
「時すでにお寿司(遅し)」みたいな感じじゃなければいいですけど。
では「隋書」のほうもちらっと拝見。
「中国正史日本伝(1)」(石原道博編訳)を元にします。
「隋書」の頃の倭国の登場人物の名前は、すべてがじつに奇妙。
阿毎 多利思比孤 阿輩雞彌・・・大王(天皇)
利歌弥多弗利・・・太子。大王の皇子
小徳阿輩台・・・隋へ遣わされた外交官のトップ
大礼哥多毗・・・〃 したっぱ
ちなみに隋に渡り「日出ずる処の天子」の国書を持ってった使・・・小野妹子だという
むかしの日本人は変な名前だった。これは誰もが感じてるところですが、なんで変な名前なのかというのは、地名を表していたり、ある特定の意味を込めてたわけです。
小徳、大礼というのは冠位十二階の階級。
「中国正史日本伝(1)」でどう解釈してるかというと、
阿毎・・・「アメ・天か」
多利思比孤・・・「タリシヒコ・足彦・帯彦か」
阿輩雞彌・・・「オホキミ大君・アメキミ天君か」
利歌弥多弗利・・・「和歌弥多弗利か、ワカミタヒラ・稚足、ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子」
阿輩台・・・「何輩台、大河内直糠手・難波吉士雄成か」
哥多毗・・・「額田部連比羅夫か」
と書いてますが。「おそらく誰々ではないか?」という疑問形で、石原氏もよくわかんなかったとか。阿毎多利思比孤天皇というのは「新唐書」では用明天皇ということになってます。
『新唐書』の目多利思比孤
『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、『新唐書』東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。
というふうに。
用明天皇 『新唐書』の目多利思比孤- Wikipediaより。
御世嗣とは世継ぎ、天皇のこと。石原氏は聖徳太子の存在を信じていたようです。こうして並べてみると、なにか気づきませんか。
アミダとかアブラカダブラとかアラブとかアブドゥラとか、仏教・ヒンズーやイスラムっぽい名前だなと、思いませんか。名前から該当部分を抜き出してみると、
阿毎多・・・アミダ これは阿毎多利思北孤とつなげた場合に出てくる
利歌弥多弗利・・・リカミタブリ
阿輩台・・・アパイダイ
哥多毗・・・カダビ
アミダはインド仏教の阿弥陀如来で知られてますが、サンスクリット語(梵語)でアミターバは「無限の光を持つもの」だそうで。この頃、中央アジアと中国を経由して日本に大乗仏教やら景教やらが大量に入ってきてたので、天皇が自身を阿弥陀如来の名に関連付けていておかしくないです。
実際「隋書倭国伝」でも、王多利思北孤(用明天皇)の使者(小野妹子)が「沙門(仏僧)数十人が中国に来て仏法を学ぶのである」と述べています。
そう言えば奈良県の東大寺大仏と大仏殿は有名で、観光客がひっきりなし。東大寺の大仏は本来の名前は、東大寺盧舎那仏坐像というのですが、聖武天皇のころに鋳造されて、完成したのは天平勝宝四年(752年)でしたが。
この大仏の開眼供養会は、インド出身の僧侶「菩提僊那・婆羅門遅(ボーディセーナ・バーラードヴァージャ)」という人が執り行いました。
ウィキペディアによると、菩提僊那と共にチャンパ(ベトナム)の僧仏哲、唐の僧道センという人物も来日しています。
ボーディセーナ・バーラードヴァージャが、菩提僊那・婆羅門遅と漢字表記されているんでした。完璧な音写ではないし、ちょっと省略してあるんです。つまり古代の倭人に大陸の人がやってくると、名前の表記には「簡略化」という同様の現象が起きていたのは当たり前だと考えられます。
ところでアブラカダブラっていうのは、病気を治すとされる呪文なのですが。病気の人は唱えてみたら良いですよ。
Abracadabra - Wikipedia, the free encyclopedia
アブラカダブラの語源としては、
(1)メソポタミアのアラム語で「私の言うとおりになる」という呪文説。
(2)メソポタミアのアラム語で「この言葉のようにいなくなれ」という病気治癒の呪文説。俺がいなくなりたい。
(3)ヘブライ語の呪文説
(4)アブラクサスというグノーシス主義で重要視された「選ばれし者を天に連れて行く者」のことだとか。はよ連れてけよ。
それでこれ以降は「まさかひょっとしてもしかして?」
名前をよく見てみると、これらの名は全てアブラカダブラっぽいのですよ。
利歌弥多弗利・・・リカミタブリ・・・アブ利歌弥多弗利(アブリカミタブリ)
阿輩台・・・アパダ・・・阿輩台カダブラ(アパダカタブラ)
哥多毗・・・カダビ・・・アブラ哥多毗ラ(カブラカダビラ)
簡略化、または一部を取って、というのはいまの日本でも命名で行われてます。
「アブラカダブラ」がどのへんの言葉かというと、アラム語、ヘブライ語だそうなので。つまり中央アジアらへんに居た中東の流れを組む人が、さらに東方へ向かって日本の中枢に入ってたかもしれないわけですが。
阿輩台を「アバイド」とするなら、シュメールの都市、ウバイドのことが思い起こされますが。
「そんな昔に西アジア人が居たわけないだろ?」ですか。
いいえ、じつは中国の「史記列伝」だったか「漢書」をだったか、見てください。紀元前の前漢、後漢はすでに中央アジアや中東諸国まで交易を通じさせていました。中東の人々は漢の東シナ海の海辺までやってきて、旅行をしていました。
紀元前の段階で、中東人は前漢へ、倭人も前漢へ足を運んでましたが。
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