日本史上でずっと謎の土地といえば、秦王国が知られてたりします。
「隋書」で隋国が倭に派遣した官吏(使者)の裴世清(はいせいせい)が言うには、「其人同於華夏(その人(秦王国)は中国文化とまったく同じであった」と。
当時は遣隋使、遣唐使が中国と往来した影響で、大和朝廷を中心として日本には中国文化が浸透していました。「日本書紀」や奈良の神社仏閣などの建築物からも見てとれますが。全国の主要都市の施設は、この頃から唐風になってたとか。
・・・それはともかく、果たして秦王国とは、どこなのかと。
○いつも助かっております
秦王国
秦王国(しんおうこく)は、『隋書』に倭の地域にあったとして現れる国または土地の名称。
概要
秦王國は『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」に現れる。遣隋使が持参した俀国(倭国)多利思比孤(『隋書』では多利思北孤)から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に記述されている。主に、中国地方西部[1]に比定されている。
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 — 隋書 列傳第四十六 東夷 俀國[2]
不詳であるが、松下見林は厳島とし、山田安栄は周防の音を秦王に写したとする。山陽道西部にあった秦氏の居住地とも関係あるまいか。『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P72
隋書では「倭国」ではなく、「俀(タイ)国」となっているんですよ。不思議ではないですか。
これは古田武彦説によると、大倭を「大(タ)倭(イ)」と読んで、俀(タイ)の一字で表しているということです。そうなんだろうか。
個人的な見解ですが、遣隋使として有名な小野妹子(蘇因高)が、隋皇帝に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と発言した件がありましたが。これが影響しています。
隋の皇帝が不快感をあらわにし、「大きな倭」とは書かせず、わざと俀という間違った漢字にされちゃったの鴨・・・。
「日本書紀」を見れば、
「日本書紀」原文[推古十五年=607]、秋七月戊申朔、庚戌、大礼小野妹子を大唐に遣わし、鞍作福利をもって通事となす。・・・・・十六年(=608)夏四月、小野妹子、大唐に至る。・・・即ち大唐使人裴世清・下客十二人、妹子に従い筑紫に至る。・・・・六月壬寅、丙辰、客等難波津に泊す。・・・・・秋八月辛丑朔、癸卯、唐客入京す。壬子、唐客を朝廷に召して、使旨を奏せしむ。・・・・時に使主裴世清、親書を持し両度再拝し、使旨を言上して之に立つ。その書に曰く「皇帝、倭皇を問う。・・・・朕、宝命を欽承し、区宇に臨御す。・・・・皇、海表に介居して、民庶を撫寧し、境内安楽、風俗融和、深気至誠、遠く朝貢を脩むるを知る。丹款の美、朕嘉する有り。・・・・故に鴻臚寺掌客裴世清等を遣わして稍く往意を宣す。并て物を送ること、別のごとし。」・・・・九月・・・則ち復た小野妹子を大使となし・・・唐客に副して之を遣わす。爰に天皇、唐帝を聘う。その辞に曰く「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺掌客裴世清等至りて、久しき憶い、まさに解けぬ。・・・」と。
ここにある「唐客入京す」を見れば、裴世清らが日本の首都(京)に入ったとわかるんですが。
隋書にでてきた秦王国というのは、日本書紀にはどこにもないですね。裴世清はどこを指して秦王国と言ってるのか、まったくわかりません。
順路を比較してみる
小野妹子や裴世清の頃、日本の都は大和国(奈良)の、飛鳥京でした。飛鳥京といえば飛鳥寺、亀型石造物、石舞台古墳など見どころありますけども。
すなわち唐客こと裴世清がたどり着いた場所は、飛鳥京のあった奈良と見ていいと思うのですが。
しかしどうも歴史研究者は、山口や広島の方面を想定したようです。果たしてどうだったか。「隋書」と「日本書紀」の順路を比較してみます。
隋書を見れば裴世清は、
というふうに、西からどんどん東へ向かってます。
一方で日本書紀を見れば、
即ち大唐使人裴世清・下客十二人、妹子に従い筑紫に至る。・・・・六月壬寅、丙辰、客等難波津に泊す。・・・・・秋八月辛丑朔、癸卯、唐客入京す。
とあり、同じく西から東へ。筑紫を経て、大阪の難波津を経て、大和の飛鳥京へ至ってます。
6月に筑紫、8月に入京と、2ヶ月をかけて移動しているようです。これは近畿の大和までの、陸路か水路での日数と考えると違和感はないです。
ルートはまったく同じですが、日本書紀のほうには秦王国は出てこないわけですね。
しかしこの秦王国の場所を紐解くには、大倭が「タイ」と呼ばれたのとおんなじようなカラクリを考えてみるとよいです。
秦王国は大和国だった
まず秦という字は、訓読をすると
はた、たい
などです。秦=たいは、大倭が俀(タイ)になってるのと整合した読み方です。
秦 たい
俀 たい
歴史的に秦に「たい」という読みがあるのは、俀の字が影響していそう。
王は
おう、わう
中国では、わん
現代人は「おう」読むのですが、昔の人は「わう」とか言ってました。これは古代から大陸では王をワンと読んだ影響が残った読み方。
つまり秦王とは読み方を変えると「たいわう」なんですけども。
一方で大和は読み方を変えると「たいわ」なんですよ。もうわかりましたね。
秦王国 たいわうこく
大和国 たいわこく
発音がほとんど一緒になる。これは無視できないところ。
秦王国とはおそらく大和国の発音や意味から捩(もじ)ったものである、というのは感じ取れました。
裴世清はたぶん、
「ここは大和だな・・・まるで秦のような国だな・・・大和はダイワ、タイワだな・・・秦はタイの読みがあるな・・・大和(タイワ)を秦王(タイワ)として表してやろうw」と考えていたのかと。
この名称のせいで、混乱が生じることを知ってかしらずか・・・。
当時、倭王(天皇)が居る場所といえば奈良の大和の飛鳥京であり、中国文化の影響が色濃く秦人がいるような場所の最たるものは、大和の飛鳥京ではなかったですか。
それも含めて考えると、秦王国とは大和国であり、漢字を入れ替えてあるだけだったと。
いうことで、しっくり来る感じです。
他の仮説も
ただ、バカなりに考慮を重ねると、別の仮説も用意しています。
それは当時の秦王国こと大和は、九州の福岡の筑後平野にあったんではないか、というものです。これは安本美典説ですが、あの付近は奈良とまったく同じ地名が揃っているので、邪馬台国があったと推定されています。
だから秦王国は、その付近馬台国の付近かとも考えたりもします。当時は邪馬台国は筑後平野の第1から奈良平野の第2に遷都したと考えられます。しかし九州のほうの邪馬台国跡地は、飛鳥京や平城京の時代も離宮みたいな形で存続していた可能性があります。
邪馬台国が2ヶ所あったので、2つの土地までの日数と行程を融合してしまったようす。その結果現代に至るまで、魏志倭人伝の邪馬台国の場所特定の難しさに繋がってるようです。
そしてもしかすると秦王国は、九州の大分中津の、宇佐神宮の前身となる薦(こも)神社のあたりかとも考えます。あそこは大陸から渡ってきた秦氏が、最初に拠点をもったところ。秦氏の拠点だから秦王国、というのは外れてない発想です。
まぁ、いまのとこ、本命は奈良の大和国で良いと思っております。
秦王国の場所の推定
△ 福岡朝倉の邪馬台国
△ 大分中津の薦神社
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それにしても最近は疲れがひどく、隣の居ないと言いながら居るオバケ一家の盗撮叩き妨害も酷く、集中力もない。仕事に応募しても受からないし、収入が途絶えてる。もうとっくに普通の人生を諦めた。
この魔物にいいようにおもちゃにされる地獄みたいな人生、どうにかならないものか。せめてブログと芸術活動は続けて、仕事になればいいとは思ってるけども。
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