壱与について思いついた話。
ほんとは自分のアホみたいな人生の真相究明について書こうかと思ってたのだが、それはまたこんど。
○いつも助かっております
女王卑弥呼を受け継いだ壱与(台与)
いわゆる「魏志倭人伝」では、壹與の文字が使われていました。
また後に登場する「梁書」の倭人伝を見れば、臺與(台与)の字が使われていました。
・壹與(壱与) 魏志倭人伝
壱与(壹與/いよ)から受ける印象
・壱与だけに、いよいよ新たな女王が始まるみたいな期待感
・イヨーッ!とかいう、意味不明な盛り上げ用の掛け声の元祖
・太陽の女神(太陽→タイヨウ→イヨウ→壱与)
台与(臺與/とよ)から受ける印象
・九州の豊国(大分県)
・太陽の女神(太陽→タイヨウ→台与)
古代の人物は、名前に出身地などが入ってる感じもあるのですが。これは崇神天皇を始めとする、古代の皇族でも同様の特徴。
壱与なら四国の伊予国。台与なら九州の豊国です。
そして伊予の壱与が、いよいよ女王に担がれるみたいな、期待感を感じられる壱与という名。あるいは太陽信仰の女神ということで、タイヨウと掛け合わせた名が、イヨ・台与(タイヨウ)だったのかもしれないと思ったりします。
考えてみれば、現代でも使われる「イヨーッ!待ってました」みたいな、イヨーッ!という意味不明な掛け声も、壱与が擁立されたときに始まってたらどうしますか。
そしてどうして壱与が、卑弥呼の後継者として選ばれたかを考えてみるのですが。卑弥呼との名前の一致は、たしかに無視できないポイントです。
弥=いよいよ、呼=よぶ
弥=い、呼=よ
↓
壱与=いよ
こういうことでした。壱与は卑弥呼の「弥呼」の部分の音が似通っていることから、後継者として重視されているようです。あるいは似せて命名しているのか。
するといずれにしても、台与ではなく、壱与のほうが正解ということに。
女王の生き様を表す漢字
漢字を詳しく調べると、壱与の生き様が示されているような印象です。
・壹(壱)
壺中にあるものが発酵して、中にみちる状態をいう。
意義
ひとつもっぱら(一つの事に集中する。一つの事を主とする。)数字「一」の大字。
音読み 呉音 : イチ 漢音 : イツ
訓読み ひとつ、い
・臺(台)
字源
会意。高の省形と、至とに従う。高上に標木として木を樹てた形である。土+高+至。
意義
土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台。
音読み 呉音 : ダイ 漢音 : タイ
訓読み うてな、しもべ、つかさ、ゆろこぶ、われ
人名読み だい、もと
・與(与)
字源
会意形声。「与」+音符「舁」、「与」はものがかみ合っている姿を意味し「牙」の原字に共通。「舁」は四方から手を差し伸べものを担ぐ様。
1.(漢文)助字。 接続詞。~と 方今天下所苦、軍事與造作也。停此兩事、百姓安之。(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京建設です。この二つを止めれば皆安心します。『日本後紀』卷第十三) 文末に置いて疑問文を作る。乎などと同義。 2.(漢文) ともに。→ 例文
3.あたえる。
音読み 呉音 : ヨ 漢音 : ヨ
訓読み あた-える、あずか-る、くみ-する、ともに
「壱(壹)」は壺の中に発酵したものが満ちている状態だそうで。もしかすると食べ物や酒などを納める壺を、神器としたのかと。
壱与の中には只者ならぬ、霊力、神通力が蓄えられていたのかと。
それにしても、壺の中に何かが満ちているのは、開けてびっくり玉手箱を想起しますね。
第三代の安寧天皇は、その諡号を磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)と言いました。玉手箱を見た天皇だったようで、竜宮城へ行って玉手箱をもらった浦島太郎は、安寧天皇と同一だった説があります。
もしかすると壱与は、玉手箱ことマナの壺を、受け継いだかもしれないと想像していますが。それが壱与の壱の字で、表されているであろうと。
その壺の形は不明ですが、箸墓古墳などの前方後円墳で形状を表しているのかもしれないです。
古墳がもともと、イスラエルの三種の神器マナの壺を模したという話は、ムーの本にもありました。マナの壺とは、マナという天から神が降らす食べ物を入れる容器なんだとか。ひょっとして、壱与の壺はマナの壺だったのか・・・?
「台(臺)」は壹と似てますが、これは高く積み上げた物見台だそうで。邪馬台国にもあったらしい、櫓(やぐら)と言って差し支えないかと。字源を見ると、土+高+至とあるので、これは地面の平民から女王という高御座に至った、壱与の生き様を表すよう。
「与(與)」はものがかみ合っている姿で、四方から手を差し伸べものを担ぐ様だそう。これにより、あたえる、くみするといった意味になってました。女王壱与は、卑弥呼の死後、倭の諸国が満場一致で担ぎ上げられた、そんな想像ができる存在です。
壱と組み合わせると、「神輿に担がれる壺」が壱与であると。そんなイメージと重なってきました。
個人的に卑弥呼と壱与の習合が、男装した崇神天皇と考えています。その理由は幾つかありますが、
・日本書紀で天照大神は男装しており、卑弥呼と壱与も男装したと見られる
(日本書紀を見れば、なぜか神功皇后の事績のなかに、卑弥呼と壱与の名が入っている。すると飛鳥時代の頃は、神功皇后こそ、卑弥呼と壱与の習合と考えられていたようだ。しかし神功皇后条に登場する新羅王などは、4世紀の人物であるから間違っている。モデルになった天皇が、神功皇后に近い時代にいたのでは)
・崇神天皇は太安万侶編纂の古事記で「后」と女性あつかいである
・崇神天皇の子供の名を見れば、市や豊の字。イチ、トヨを受け継いでいる
と色々あるのですが、詳しくは過去記事で。
崇神天皇の諡号は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえ)、御眞木入日子印恵命、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)、美萬貴天皇などがあります。
この中から卑弥呼の要素を導き出すと、
御間城 mi-ma-ki
美萬貴 bi-ma-ki
卑弥呼 hi-mi-ko
というふうに母音、子音の一致が見られます。さらに美萬貴を濁音で読んだ場合のビマキは、妙にビミコっぽくて、ヒミコに似てくるではないですか。
さらに御眞木入日子印恵命を見れば
日子印→日印子
(印・弥=古代の公用印の意味)
日-印-子
卑-印-呼
hi-mi-ko
卑弥呼の弥は古代の公用印のこと。卑弥呼が魏の皇帝から金印紫綬をもらったことの、反映かと見られます。卑弥呼を書き換えれば、卑印呼。
御眞木入日子印恵命には、日子印が含まれ、並び替えると日印子。一致してるではないですか。
このへんでヒントが与えられてます。
しかし飛鳥時代の当時、皇族や豪族の間では、崇神天皇=卑弥呼と断言できるだけの情報源がなかった。だから漢字で卑弥呼に音を似せたり、后の字で表すだけに、留めたと考えられるんですよ。想像ですけども。
上記は電子書籍のほうにも書いてあるので、読んでみてください。
壱与の名を崇神天皇から導き出す
そしてもう1つの、新しい発見。
崇神天皇の諡号には、卑弥呼だけでなく壱与まで隠されてるというものです。崇神天皇の諡号から導き出してみます。
重要なのは、昔の倭人は漢字の字源をふくむ意味と、発音を重視したこと。だから音や意味が壱与(iyo)と合っていれば、それは意図的と見ていいかもしれません。
名 訓読 別の読み 意味の一致
御肇國 ハツクニシラス mi-jo 肇(はじめ)=壱番
印恵 イニヱ イイェ i-ye 恵=与える与えられる
壱与 イヨ i-yo
御肇の場合、御はmiと読むと壱与のイの音が出てくる。
さらに肇(はじめ)は壱番のことではないですか。漢字の意味あわせているんです。
印恵は印=イ、恵=イェ(iye)でイヨ(iyo)に似てくる。
(恵=ヱの音は、ウェというよりはイェ。ya-yi-yu-ye-yoのye)
恵というものは、あわれみ、なさけをかける、恩恵などの意味。そして天の恵みは人に与えたり、与えられたりするもの。
そんな意味でも、壱与の与えると掛け合わせてます。こうした一致点は無視できないかと。壱与で妄想が膨らみました。
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