次に、魏志倭人伝247年の条。例によって中国正史日本伝・石原道博編訳から引用します。
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の卑弥弓呼と元より和せず。倭の載斯烏越を遣わして郡に詔り、相攻撃する状を説く。*賽曹■使張政等(さいそうえんしちょうせいら)を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告諭す」と書かれた直後に
「卑弥呼以て死す。」
と、卑弥呼は何の脈絡もなく死を迎えているように書かれているところです。死因は書かれていないのですが、もしこれと日本書紀の崇神紀の中の倭迩迩日百襲姫の死が、同じ出来事だととするなら。
問題は日本書紀の中では、卑弥呼が三輪山の大物主神と結婚したという記述が、魏志倭人伝には無いことです。しかし、倭迩迩日百襲姫が結婚した話とは、よくよく考えるとおかしな話です。
卑弥呼の初登場は新羅本紀によれば173年。後漢書では桓・霊期(147〜188年)なので、173年は合ってるかもしれません。173年の時10代と考えたとして、卑弥呼の死は魏志倭人伝で247年。外国の歴史書からは、卑弥呼の統治期間は74年間と長大なことがわかります。年齢は84歳+αじゃないかと思われます。
つまり単純に言って、倭迩迩日百襲姫が卑弥呼であると仮定した場合、84歳+αの倭迩迩日百襲姫が、三輪山の蛇神様・大物主神と結婚したことになるわけです。これについておかしな所を箇条書きしていきます。
1 84歳+αの百襲姫が結婚した・・・・・・現実に無いとは言いませんけど。
2 84歳+αの百襲姫が神様と結婚した・・・・・・本当に神様と結婚できたんでしょうか。
3 その神様は、蛇に変身し、櫛箱に入ってた・・・・・・櫛箱の蛇と結婚したようです。
4 百襲姫は座った拍子に女陰を箸で突いて死んだ・・・悲惨な事故だったようです。箸が床に立てられており、ピンポイントで急所に突き刺さって致命傷を齎したようです。
正直言って、現実的とは凡そ言い難いのではないかと思います。
この倭迩迩日百襲姫の結婚の逸話は、おそらく死の直前か死後に執り行われた儀式か何かであって、後に神話の形で挿入されたと見るべきではないかと思います。つまり倭迩迩日百襲姫は、現実に蛇神・大物主神と結婚したとは考えにくいと思われます。神懸かる巫女として、立派な最期を遂げるために用意された、死の直前か死後の、神との融合神事、と言えるかと思います。箸が女陰に・・・の逸話については、何が元になっているのか、何を隠喩しているのか、よくわかりませんでした。
魏志倭人伝に卑弥呼の結婚の記述が無いのは、卑弥呼の死を又聞きしただけ、卑弥呼が死んだよと、陳寿は知っただけのことであって、卑弥呼と大物主との結婚は当然知らず、省略されているのだと思います。
したがって、魏志倭人伝の「卑弥呼と卑弥弓呼との争い─卑弥呼の死」という流れは、日本書紀の中での、崇神紀の武埴安彦との争い─倭迩迩日百襲姫の死」と同じパターンではないかと考えるのです。
そうした場合、崇神天皇を「后」としているのは、卑弥呼は倭迩迩日百襲姫であり、卑弥呼の正体は崇神天皇だったことを示しているかもしれませんが。このことはまた後に、さらに詳しく検証します。
(*■は手偏に象。賽曹[手偏+象]使張政)
次に、魏志倭人伝に登場する3世紀前半の倭人の名前と、記紀に登場する人々の名を比較検証することによって、新たな壁が取り払われるのではないかと思いました。記紀には、3世紀の魏志倭人伝に登場する倭人が、しっかりと登場している、しかもそれは崇神天皇の記述の中なのです。
ネット上で検索をすると、魏志に登場する倭人と記紀の人物との名前の比較考証が、よく行われていることを伺い知ることが出来ます。
3に続く