魏志倭人伝の時代(3世紀前半)に、倭人が正確な方位を知っていたかを検証するにあたって、記紀内には果たして3世紀に相当するの記述はあるのか、崇神天皇は3世紀の天皇かを、具体的に証明する必要がありました。
私的には、崇神天皇は3世紀の天皇であると思っていますが、崇神天皇が何時の時代の天皇なのかは諸説あり、実在性は確かなのかどうか疑わしい見方もあるかと思います。諸説入り乱れている中、3世紀の天皇だと言い切ってしまうには、それなりの根拠が必要でした。
すでに過去の記事でもちらほらと触れているのですが、このことについて、改めて一箇所に纏めておきたいと思います。
「古事記。序文の謎」でも触れました。崇神天皇は古事記の序文のなかでは「后」、つまり女王だったとこっそりと書かれているのです。編者太安万侶か稗田阿礼どちらか、或いは両者が入手していた720年以前の資料の中に、崇神天皇は皇后であるという調査結果が含まれていたと思われます。当然、卑弥呼の時代からは長い年月が過ぎ去った後の編纂とは言え、卑弥呼の生きていた247年から僅か473年間しか経過いていなかったとも言い換えられます。帝紀・旧辞が完成した時期までなら、400年足らずのことです。古事記の元になった帝紀・旧辞の他に存在していた書物かもしれません。太安万侶自身も、私説としてそれを支持していたが為に、序文の中に崇神天皇のことを后として書き残すに至ったようです。
崇神天皇が3世紀の女性天皇だとすると、当然頭に浮かぶのは、女王卑弥呼と女王壱与ということになるかと思いますが、崇神天皇が卑弥呼か壱与かという検証はさておき、過去に記述してきた中から、崇神天皇が3世紀の人であるという裏付けを進めたいと思います。
まず「倭迩迩日百襲姫の謎。2」の中で書いた文章を改めて見直します。
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魏志倭人伝によれば、邪馬台国の南方には、狗奴国という女王国に属さない国がありました。王の名は卑弥弓呼(ひみくこ)で、狗古智卑狗(くこちひく)という官がいました。
正始八年(247年)、倭の女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の軍が、互いに諍う様子が記されています。魏は倭国の大臣である難升米に詔書と黄巾を授け、倭国と狗奴国の争いに魏が介入することを示しました。この直後、どういうわけか卑弥呼は死んでしまったと書いてあります。魏志ではその死因も明らかにはされていません。
この一連の出来事と、日本書紀・古事記の中の武埴安彦の乱は、まったく同じ出来事である可能性があります。以下に魏志と日本書紀の2つの記述を単純に比較してみます。
1日本書紀 武埴安彦命が謀反を起こそうと企む
1魏志倭人伝 狗奴国は女王国に従属しない・卑弥呼は卑弥弓呼と元より和せず
2日本書紀 武埴安軍と四道将軍(天皇軍)の戦い
2魏志倭人伝 倭国と狗奴国、相攻撃する
一つ定説外の指摘を加えてみますと、魏志に登場する狗奴国の官で狗古智卑狗は、古事記にのみ登場している丹波国の玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)と同一人物かもしれません。
<中略>
魏志倭人伝では女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の争いの直後に卑弥呼は死んでしまってます。死因もはっきりしてませんが、とにかく狗奴国との争いの同年、争いの直後の記述です。
日本書紀のほうでは、モモソヒメが大物主との結婚の直後に死んでしまうという逸話が挿入されています。モモソヒメの5回目の登場のエピソードです。(倭迩迩日百襲姫の謎1を参照のこと)信仰する神様と結婚したというところですでに、神懸りというか、個人的には死を連想してしまうのですが。
大物主神との結婚のエピソードは、仮に死の直前の儀式であったり、後に別な逸話と関連付けられ挿入されたのかもしれません。
魏志倭人伝 卑弥弓呼との争い → → 卑弥呼死亡
日本書紀 武埴安彦との争い →神との結婚(儀式?)→ 倭迩迩日百襲姫死亡
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以上のように、魏志倭人伝での女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の諍う様子は、記紀中で、崇神天皇に対し武埴安彦命が謀反を起こした様子によく似ているのです。
また、狗奴国の狗古智卑狗と丹波国の玖賀耳御笠は共に皇軍に歯向かった敵という意味合いと、名前がよく似ているように思われるという一致点も示しました。内容は上記リンク内を参照のこと。
2に続く