たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

稲荷山のヲワケさん。2

前回の続き。

▽これ押していただくと助かります。


意富比からの8世代の名


稲荷山古墳 (行田市) - Wikipedia

稲荷山金錯銘鉄剣に書かれている意富比垝からの8世代を抜き出します。

1意富比垝 おほひこ
2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5多沙鬼獲居 たさきわけ
6半弖比 はてひ
7加差披余 かさひ(は)よ
8乎獲居臣 をわけのおみ

明解古語辞典改訂版(金田一京助監修1958年度版)によれば、彦とは「男子を誉めていう語。姫の対」となってます。

2の足尼は「宿禰(すくね)」のことです。武内宿禰とかよく知られてますが、この宿禰は同辞典によると、「上代、君主が臣下を親しんで尊んで呼んだ称。かばねの一つ。天武帝の代に定められた八姓の第三位のかばね」とあります。第四十代天武天皇は7世紀後半の人で、八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇が684年に制定した、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のことです。

このヲワケさんの時代は辛亥の年=471年で、7世代前に当たる2多加利足尼の時代は、それより恐らく150年か、それ以前のことだと思われますが、この頃から八姓のうち、足尼(宿禰)が使われていたようです。

8の乎獲居臣の臣も八姓のうちのひとつに数えられます。

また、これら8人の名に特徴的なのが、「獲居(わけ)」の名です。この獲居は、応神天皇の和風諡号が誉田別(ほむたわけ)と呼ばれている、この「別」と同じものとおもわれます。獲居の名が8人中4人に使われていることは、この人々がどこからやってきたのかを探る上で重要なヒントになりそうです。これについては、また別の形で書きたいと思います。

次にこれらの人物が、記紀の中に記されていないかどうかを確認しました。既述の通り、上祖の意富比垝は第八代孝元天皇と内色許売命(うつしこめのみこと)の子、大毗古命(大彦)と同一人物かと思われます。

古事記によると、この人物は崇神天皇の御世に高志道(北陸道)に派遣され、まつろわぬ人々(服従しない人々)を平定したとされてます。また、この大毗古命は山代の幣羅坂(京都府木津川市市坂小字幣羅坂)で、予言をする少女(巫女)に出会い、建波邇安王(たけはにやすのみこ)が反乱を起こそうとしていることを、崇神天皇に伝えたと書かれてます。
この古事記のタケハニヤスが、魏志倭人伝の狗奴国の卑弥弓呼であるとの説と、タケハニヤスの人物像については、「倭迩迩日百襲姫の謎。1〜3」の中でも触れてますので、そちらもご参考に。

この金錯銘鉄剣の意富比垝が大毗古命なのだとする根拠はもうひとつ。それは古事記に記されている、大毗古命の子の名前です。大毗古命の子の名は、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。阿倍臣等の祖先となっています。
金錯銘鉄剣と古事記の、この両親子の名を比較してみます。

1意富比垝 おほひこ 大毗古 おほびこ 
2多加利 たかり   建沼河 たけぬなかは

接頭は多加takaと建takeですので、それほど大きな違いではないです。ただし多加利足尼が宿禰と称されているのに対し、建沼河別命宿禰ではないようです。
ともかく、

「おほひこ(おほびこ) ─ たか(たけ)」

という2世代の一致が見られると思います。

この8世代に特徴的な獲居(わけ)ですが、古事記では建沼河別命の弟の名にも見られます。比古伊那許士別命(ひこいなこじわけのみこと)です。この人も「別」、つまり獲居(わけ)なのでした。



年代の計算

参考の数値ですが・・・。

471年のヲワケさんが、金錯銘鉄剣製造時に何歳だったのかは不明ですが、上祖意富比垝は西暦何年ころの人なのかを推察してみます。いくつかの条件を設定してみました。

A・金錯銘鉄剣製造年が、父カサヒヨさん死後、ヲワケさん20歳とする。
B・8乎獲居臣が産まれたのは451年とする。
C・全ての跡継ぎは先代が28歳の時の子とする。これは15歳から当時の平均寿命の上限値・40歳までの間に、跡取り息子が出来たとして、そのほぼ中間値28歳をとったもの。
D・仮に平均寿命を40歳と設定

この条件ですと、上祖意富比垝は255年生まれとなりました。これだと卑弥呼の時代が終わって、壱与が女王として倭国を統治していた時代になるかと思いますが。

次にこの8世代の跡取りが全て、父親が20歳時に産まれたと仮定して計算してみると、上祖意富比垝は311年生まれとなりました。この年代は、おそらく垂仁天皇の統治時代かと思われます。

この8世代の中の何人かが、高齢になってから跡継ぎを産んだとすると、意富比垝の生年はもっと早まるかと思います。
ただ、当時の平均寿命は40歳まで届かなかったかもしれません。平安時代の平均寿命は30歳とか言われてます。ちなみに、縄文時代には15歳とか20歳とか。短い・・・。

意富比垝が大毗古命であるならば、大毗古命の生きた時代は、古事記によれば崇神天皇の時代です。崇神天皇は、果たして西暦何年に生まれ、何年に没したのでしょう。
上で述べましたが、大毗古命は建波邇安王の反乱に遭遇してますので、建波邇安王が狗奴国の卑弥弓呼であるとするなら、意富比垝の生きた時代は、卑弥呼の時代まで遡るのかもしれません。

尚、この意富比垝が大毗古命説は、先日、2012年2月某日にネット通販で購入した、高城修三氏の著書「日出ずる国の古代史─その三大難問を解く」の中でも触れられておりましたので、追記しておきます。


歴史ランキング
人気ブログランキング