たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

稲荷山のヲワケさん。1

関東平野のほぼ真ん中。埼玉県北東部に、さきたま古墳群があります。関東有数の大型古墳集積地で、最大の前方後円墳は墳丘長120メートル、後円部の最後部高さ11.7メートルを誇る稲荷山古墳です。

全国の多くの古墳の被葬者の正体は、文字として記録されていないがために、永久に知ることが出来ません。記紀に古代倭人の埋葬地が書かれているからと言っても、ほとんど確認するのは不可能であるし、天皇陵などの記録はあっても、多分ココが何々天皇の墓だろうな、みたいな感じで曖昧な比定地扱いです。

そんな確固たる文字の証拠が乏しい古代の古墳の中で、この埼玉県の稲荷山古墳の被葬者を知ることは容易でした。なぜなら、被葬者のプロフィールが漢字で刻まれた鉄剣が、古墳内に収められていたからでした。

通称稲荷山金錯銘鉄剣と呼ばれるもので、学術的には稲荷山古墳出土鉄剣銘と呼ばれてます。
1978年の調査時に出土しましたが、かなり錆びちゃってましたので、エックス線で調べられました。その結果、鉄剣の表と裏に、計115文字の漢字の文章が浮かび上がってきたらしいです。

この115文字の文章には、鉄剣が作られた年代、被葬者の名、その8世代前までの先祖の名、被葬者の時代の天皇の諱がしっかり刻まれていたのでした。

ウィキペディアの当該ページに、115文字の漢字の訓読された結果が掲載されてました。これは埼玉県教育委員会「稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概説報、1979年」によるものだそうです。

鉄剣銘文を引用しますと、

「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)」

これの訳文が以下

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)

辛亥の年は、471年というのが定説になってます。ヲワケさんの生きた時代は、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の時代、日本書紀では大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけ)、古事記では大長谷若武命(おほはつせわかたけのみこと)と記録されており、これは第21代天皇・雄略天皇のことです。

鉄剣銘には人の名前がずらっと書かれてます。乎獲居臣(ヲワケノオミ)というのが稲荷山古墳の主です。このオワケさんの8世代先祖が意富比垝(オホヒコ)となってます。

オホヒコと聞いてぴんときましたが、もしかするとこの人は記紀に記されている、孝元天皇の子・大彦命(大毗古命)なのではないかと。仮説が浮上するわけですが。

しかしここで問題なのは、やっぱり崇神天皇以前の歴代天皇は欠史八代として、実在性に乏しいとされてるところです。もしこの意富比垝が、大彦命(大毗古命)なのだとしたら、崇神天皇以前の天皇の実在性を説く鍵になると思うのです。それで今回は、115文字というかなり限られた情報源を元に、ヲワケさんの先祖が天皇の系統だったかを検証することにしました。

2に続く