たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

倭迩迩日百襲姫の謎。3

大物主について、すこし追求します。

倭迩迩日百襲姫が日本書紀内で2回目に登場する際、大物主なる神がモモソヒメに神懸かりしています。また、3回目、5回目にも登場し、最後には結婚までしているので、モモソヒメとは切り離せない存在となっています。大物主は大国主の化身であるともされています。

大物主神が最初に現れるのは神代の大国主の出来事の中でした。ちょっと大物主の人物像について簡潔に解説しておきたいと思います。

大物主神日本書紀で最初に登場するのは、大国主の国譲りの際。
高皇産霊尊(たかみむすひ)や天照大神等、高天原の天つ神は、出雲に経津主(ふつぬし)・武甕槌(たけみかづち)を派遣し、大国主の支配する葦原中国を天つ神に譲るように迫ります。
その後なんとか国譲りが成立し、大国主はこの世を去って、幽界へと永久に隠れてしまいました。

大国主なき後、経津主神は逆らう者を斬り殺し、帰順するものには褒美を与えていきました。この時に帰順したのが大物主神と事代主神。大物主神は高皇産霊の娘の三穂津姫を娶ったというところです。

モモソヒメが3回目に登場する際に祀主として擁立される大田田根子は「父は大物主、母は活玉依姫」と大物主の娘のように名乗るのですが、その直後には「陶津耳(奇日方武芽渟祀)の娘」とも言っています。これは大物主神の子孫である陶津耳の娘と解釈されると思います。
一方古事記のほうでは、大物主と活玉依毗売の4世代下った子孫が大田田根子となっています。

魏志倭人伝には、卑弥呼の時代の宗教観が記されています。「鬼道を用いてよく衆を惑わす」とあって、この鬼道とは、当時の中国の道教、五斗米道のことだとの解釈もあるのですが、ここまで書いたとおり、卑弥呼がモモソヒメと同一であるならば、鬼道とは古代の神道のことで、鬼の字を用いて蔑んだのだと考えることもできます。

また、崇神天皇が大物主を初めて宮中に祀る際、天照大神を別の社に移してしまいます。これは恐らく、大国主と大物主を同一視していたために、神代の伝承のなかで、大国主天照大神に国譲りを行った後、姿を隠したという伝承を踏まえて、同じ宮中に祀っては大物主=大国主が祟ると判断されたのかもしれません。


最後にもう一つ、危うく忘れるところでしたが、モモソヒメの名に使われている漢字について考えてみたいと思います。
「古代皇族の殉死と埴輪のこと。2」でちらっと触れたとおり、倭迩迩日百襲姫の百襲姫は「百人を襲った姫」と解釈でき、これは魏志倭人伝で、卑弥呼が死んだ後に100人以上が殉死したとの記述と符号していると思われるのですが。

日本書記を720年完成させた舎人親王らは、神功皇后66年の箇所に、晋の文献内に書かれた倭の女王について触れています。
日本書紀では明らかに神功皇后を卑弥呼と重ねあわせていたようなのですが、時代を比較すると卑弥呼の年表上の初登場は三国史記・新羅本紀で173年、中国正史では梁書に光和年間(178-184年)に卑弥呼が共立されたと書いてあり、没年は魏志に247年とあります。
つまり卑弥呼は2世紀後半から3世紀中葉の人ということです。
一方神功皇后は14代仲哀天皇の后とのことです。神功皇后の子である応神天皇は、有力な説として晋書の中で413年に登場する倭国王「讃」に比定されますので、卑弥呼と神功皇后の両者間には、およそ150年以上の開きがあります。
神功皇后は卑弥呼ではないようです。

話がそれましたが、舎人親王らの時代には卑弥呼はモモソヒメかもしれないぞという仮説があったのかもしれません。そこでその仮説を捨て去るのを惜しんで、「卑弥呼は百人殉死した」→「じゃ百襲姫って漢字を当てよう」っていうことになったかもしれません。
個人的な妄想です。

それからここでは触れませんが、卑弥呼の謎を解くための重要な鍵を握っているのではないかと思われる、耀姫(阿迦留姫)なる人物がいます。この人物と卑弥呼・崇神天皇との関係性については、また別の機会にしたいと思います。