たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

(日ユ同祖論)ユダ王朝の系譜がウガヤフキアエズと神武天皇に封印されてた

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神武天皇 - Wikipedia より

この話は長くなります。

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日ユ同祖論について

 

日ユ同祖論は、いまだに出鱈目だとかいう主張が強いですね。それにしても日ユ同祖論の研究が始まったのが、明治時代の1878年だとか。

明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド)(英語版)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での英語の著作The Epitome of The Ancient History of Japan(意味は『日本古代史の縮図』 長崎日の出書房、1878年明治11年) Illustrations to the epitome of the ancient history of Japan京都)によって始まった。これは、後の1901年、「ユダヤ大百科事典」ニューヨーク版失われた10支族の項目に引用されたという。

日ユ同祖論 - Wikipedia

だから、研究が始まってからまだ138年しか経過してない。というのに、日ユ同祖論はデタラメと結論づけちゃってる。これで良いのだ、とか言うのだろうか。

うな重でおなじみのウナギですが。近年まで生態とか産卵場所もわからなくて、いまも謎の生物扱いされちゃっているというのに。評判の良い各地のうな重屋さんでうな重を味わったくらいで、うなぎの全てを知った気になっているみたいなことですが。うな重屋さんは全国にどれだけあるのですか。全てを知った気になるまで、全然足りませんよ。

そもそも奈良時代以前の社会情勢や生活様式など、現代で正確に知られてるのはごく一部なんですよね。ましてや日ユ同祖論は弥生時代以前を中心とした時代なのであって、これが全て解明されて「日ユ同祖論はすでに論破されましたとか完全なる妄想でした」とかありえないと思うんですが。

そもそも、現在まで著名な日ユ同祖論研究者の仮説。かなり多く証拠として提唱されているんですが、俺的な観点からすると「まだ日ユ同祖論は半分しか世の中に出ていない」のではと思うんですけど。これは騎馬民族征服王朝説についても、同じことが言えるんですけど。

ついこの間まで常識だったのに、常識が間違ってましたっていう発表は良くあることだし。すべての仮説を目にしてから、結論を出したほうが良いんではないかと・・・。

 

ところで、俺は幼いころから奇妙すぎる世界に入り込んでいました。とにかく何故か失敗や欠点がとんでもなく多いんですよね。すいませんでした。そのせいで人に過剰にバカにされまくってた人生でした。

そうした中で、なぜか古代史には興味を惹かれたんですよね。それでまあ、学生時代からヒキコモリ。ということもあって、人よりも古代史を研究する時間がたっぷりあったんですけど。37歳までの時点でだいたいまとまったんですが、発表する機会が巡ってきませんでした。

前置きが長くなりましたが。なんでなのか。

研究の一部を、またここに提出しようと思います

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神武天皇の先祖の王名は紀元前のイスラエル・ユダに存在するか

結論から言ってみる。

「日本神話の登場人物と、古代ユダ王国の王歴代名は一致するかもよ」

 

こんな単純明快な日ユ同祖論の証明方法が、存在してたのではないかと。ヨセフ・アイデルバーグさんもびっくりするに違いない。

神武天皇やその先祖がイスラエル・ユダに居たという仮説は、従来の日ユ同祖論にも存在していました。しかし神武天皇以前の神さまの名前との一致、この点に触れている論説がまったくなかったんですよね。ウィキペディアでも紹介されてなかった。

 

ヒントは紀元前7世紀

ヒントになるのは神武天皇日本書紀での実在年代。「日本書紀」では、神武天皇が存在したのは辛酉元年で、紀元前7世紀だと言っているところなんすよ。

ちなみに個人的には「神武天皇=複数人物習合説」をとっています。これは小林恵子氏の著書「三人の神武」でも指摘されてますが。その著書の内容はともかく、神武天皇が複数人物の集合体。この考え方には同意できるところ。

だから神武天皇が仮に紀元前2世紀~1世紀に実在するとしても、別の記録に紀元前660年に即位したとあることもハズレてなんではないかと。なにしろ複数の人物があわさってるんだから。

最初の神武天皇とされる人物は、とある土地に紀元前7世紀に存在したので、「日本書紀」はその通りの伝承を受け継いで、神武天皇は紀元前7世紀の人だと書いただけなんではないかと。

 

日ユ同祖論的には、これを解明するには

「紀元前7世紀の古代イスラエル王国と古代ユダ王国の王名と、「神武天皇のご先祖の名前を比較してみればいい」

という結論に至ったのでした。調べてみて、同じ名前や似た名前が連続していたら、関係性が確認できるということになってくるので。

イスラエル王国は紀元前8世紀の段階でなくなってしまったので、残るは紀元前6世紀まで存続したユダ王国が対象となります。

 

系譜

日本神話の日向三代から神武天皇までの系譜

 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊火遠理命彦波瀲武盧茲草葺不合尊神武天皇

ユダ王国の系譜

レハブアムーアビヤムーアサーヨシャファトーヨラムーアハズヤーアタルヤーヨアシューアマツヤーウジヤーヨタムーアハズーヒゼキヤーマナセーアモンーヨシヤーエホアハズーエホヤキムーエホヤキンーゼデキヤ

 

 

アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ 

古事記』天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

日本書紀』彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

ウガヤフキアエズ - Wikipedia

記紀に登場する、神武天皇のオヤジです。「日本書紀」に従うならば、実在年代は紀元前7世紀以前のころ。

名前がやたらと長いのですが、ここに最大のヒントがあると見たわけなんですよ。

要するにこのおかたは、神武天皇と同様、複数人物の集合体なので、やたら長ったらしいのではないかと。

日ユ同祖論的にいうと、イスラエル王かユダ王の名前が連続していることになる。 

つまりこういう結論に至ったんですが。

 

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 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズの名前と、歴代ユダ王国の王名を見比べていこう。

(1)

まず右側の10代王、11代王、12代のユダ王が、そのまんまウガヤ・フキ・アエズの名前に対応してるみたいでした。この辺を解説。

鵜草(ウガヤ)は10代目のユダ王、ウジヤのことで、音がまんまなのがわかりますね。そう指摘されれば、たしかにウガヤとウジヤって似てるって気づくでしょう。でもこれだけだと偶然よ、なんて言われるに違いない。

(2)

最後の不合(アエズ)は「合わない」という意味。古訓だと「アヘズ」になるのですが、これが12代のアハズ王に対応してます。

「ウガヤ・フキ・アエズ」のウガヤとアエズが合致してるということになりました。これは確率的には66%が一致しているので驚きですね。すると真ん中の「フキ」が11代の、ヨタムに合ってないことが気になってしまう。

(3)

ところがここで古訓を持ち出すと、分かってしまいました。「葺」という漢字は、「学研漢和大字典」によれば、古訓で「ヲサム」といったったんですよ。すると「ヨタム=Jotham」はどうみても「ヨオサム」とも読めることに気づきますね。

「葺=フキ=ヲサム」と「ヨオサム=Jotham」で合致していることがわかるではないですか。

ということで、ウガヤフキアエズとは、10代~12代の3人の王「ウジヤ・ヨタム・アハズ」に完全に対応している名前だったんですよね。これは偶然とか言う範疇を超えていますよ。

(4)

そうすると最初のアマツはそのまんま、9代王アマツヤのことだと見て良いかもしれない。ここまでで9代目~12代目のユダ王の系譜が保存されていたと、わかってくるでないですか。彼らの在位年代にも注目してください。紀元前8世紀で、ちょうど「日本書紀」で神武天皇が紀元前7世紀、だったころと、当てはまるではないですか。

 

しかし問題が発生するのだった。名前にある「日高日子波限建」という部分は、王名に対応していないということになってしまう。さてこれは一体なんなのだろう。

 

日高日子波限建の謎

ということで古訓などを取り入れて「日高日子波限建」考えた結果がこれ。

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(5)

日高日子は、日高も日子も、ひこ=彦(男性)をあらわす言葉で、ここで「大勢」が示唆されてるんではないかと。つまり日高日子のところには1代目~5代目までいるのだが、名前が伝わらなかったんでは。

とすると天津。これは「アメの」みたいな語感ですが、「天の神の系統」というに等しいのですよ。ほかの日本の神様にも、天津を冠する神さまが何人も居ますので。

マツヤ王を表すと同時に、系譜全体が天神系統であることを表す意味合いも持っているんでは。

(6)

波限はハゲンと読めます。関係ないけど、元派遣社員だった自分を思い起こさせますね。これはおそらく6代目のアハズヤなのではないかと。hagがhazに対応しています。g(ジー)とz(ズィ―)の音は似ているということですが、微妙な線。

(7)

「建」の古訓に「イタル」があり、これが7代目のアタルヤに対応していました。

長い年月で名前が変質化しているのですが、似た古訓を持つ漢字に王名を当てはめることによって、名前を保護したんではないかと。

ということでここまでユダ王の系譜がかなりウガヤフキアエズのなかに保存されている様子が伺えました。

 

神武天皇

次に神武天皇について。こんなふうに対応するのではないかと。

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(8)

中東や東欧では「Je」の音は「エ」とか「イェ」とか発音するとか。例えば日本は英語ではジャパンですが、あちらでは「ヤパン」と発音されるみたいに。ということでJehoiakimはエホヤキムとなる。

神武天皇の名前は磐余(いわれ)というのだが、これは古訓で見ると「磐(いは)余(よ)」で「いはよ」と読むことができる。

先程のウガヤフキアエズで13代目の王様まで出てきたので、神武天皇に対応するユダ王は14代目以降ということになるのですが。17代目から、似た名前の王様が3人いることがわかったんですよね。

エホアハズ、エホヤキム、エホヤキンの3人。

 

「Jehoia」に注目してみると、

磐余  I- ha-yo

エホヤ Je-ho-ia

でよく似ていることがわかるではないですか。つまりこの3人のうちの誰か、または全てを、神武天皇に習合されてる可能性が出てきたってことでok。

(9)

神武天皇の別名には狭野命(さののみこと)、昔の発音だと「サヌ」。

エホアハズにも別名があった。それはシャルム。比較してみると

Sa -nu

Sha-llum

シャル→シャヌ→シャノ→サノ という感じだろうか。長い年月、遠い地域を超えた発音の転訛というのは、きっとこんなふう起こっておかしくないですね。

(10)

次に神武天皇の称号にある「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」について。始めて天下をおさめた天皇という意味なのだが、キーワードはもちろん「創始者」というところ。

で、ユダ王国の19代目の名前の意味を調べると、「主は設立する」という意味だったのですよ。つまり設立した者という意味が、神武天皇とエホヤキンには共通してたわけです。

(11)

f:id:kl117cr233:20161210153540j:plainこれは狭野さん(神武)の「狭」の字ですが、せまいを表す「狭」の異字体であり、意味は同じです。

「学研漢和大辞典」を引くと、解字にこんな興味深い記述がありました。

「夾は、大きな人の両わきを、小さな人がはさんださまを示す・・・」

つまり「狭」という字は明確に「3人の複数形」をあらわしている漢字ということになるのですね。神武天皇複数説に、信憑性が増すのではないかと。その3人とは実のところ、まさにエホアハズ、エホヤキム、エホヤキンの3人なんじゃないかと。

この3人は「在位年数が短い2人」が、「在位年数の長いエホヤキム」を挟み込んでいるではないですか。なんでここまで一致するのかというのは、「日本書紀」編者の舎人親王にたずねてみたいとこ。

「サノ」という名前に漢字を当てるなら、「狹い」とかいうマイナスイメージな漢字じゃなくて、他の良い意味の漢字でもよかったのに、咲野とか。これはあえて複数形を表す漢字を、舎人親王は使いたかったのではないだろうか。

マイナスな漢字を使っているという意味では、卑弥呼も同じだったのでは。マイナスイメージにはちゃんと理由があるというわけだ。

(12)

このお三方、紀元前7世紀頃の人だったので、紀元前7世紀の神武天皇に、年代的にもぴったり。

まとめ画像。

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ちなみに13代目~16代目はすっ飛ばされたらしい。

 

東へ向かって旅をしたユダ王

ではこの3にんのユダ王は、神武天皇のように東へ向かってをしたのか?と調べると、東へ向かって旅をしていたことが判明しました。

 

・エホヤキムは3年間バビロンのネブカドネザルに仕えた。つまりユダ王国の東方のバビロン(イラク)へと行っている

エホヤキム (ユダ王) - Wikipedia

・エホヤキンは彼の財宝もろともバビロンへ連れて行かれた。エホヤキンは残りの生涯を捕囚として生きた。

エホヤキン - Wikipedia

 

この人達が、複数の神武天皇の最初のグループだと考えるのですが。連行されていったということで、新天地を求めて旅立った神武東征とは趣向が違ってますね。

おそらく神武天皇が東へ向かったという話の根幹としては、紀元前4世紀にユダ王族がアレクサンドロス大王の東征に従軍して、中央アジアヘ向かった出来事が反映されていると見られますが。

 

つまり神武天皇古代イスラエル系でありユダ王系を経ている

既存の日ユ同祖論では、天皇家はダン族だとかエフライム族だっていう考えが圧倒的に多いのですが。俺的にも以前はエフライム族なんじゃないかということで、こんな記事書いてましたが。

 ・日本の境界線は適当に引かれたんじゃなかった3 境界線で日ユ同祖論が事実だと証明できるかも

 

こうしてウガヤフキアエズの名前からは、ユダ王朝の系譜が取り出せたということは、ユダ王が根幹にあるのはまちがいなさそう。

ただ、上の記事でもあるように、神武天皇諡号にはエフライムの名も入っているように見えるのですよ。

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実際のところはイスラエルとユダは、神武天皇という存在のなかで「一体化してる」のではというのが、今のところの結論ですが。だから両方の特徴を備えてるってことで。

 

ウガヤフキアエズがいた土地の名は

神武天皇ウガヤフキアエズは、当初は同じ場所にいました。親子だったので。

 その場所はいったいどんな名前なのかを調べてみると

鵜戸神宮

宮崎県日南市にある、ウガヤフキアエズを祭神とする神社。ウドは Udoでユダの音ににているので、ウガヤフキアエズがユダ王というのに符合してくる。

そういえばこの神社には潮干瓊(しおひるたま)・潮満瓊(しおみつたま)という神宝が伝わってるのだが、これについてはこの記事

国常立尊とエジプトのピラミッド・・・「超古代のある物体」を表現している?

 

・吾平山

アヒラというのは実はエフライムの「エフラ」のことだと思うのだが。埋葬地はエフライムの土地なのだろうか。 神武天皇の奥様の、吾平津媛というのも同じです。

 

関連する記事 

日本雛形論には、イスラエルユダ王国烏孫の「形状」が、日本列島に投影されてたっていう話。あとアレクサンドロス大王に従軍した地中海系王族が、烏孫の昆莫の先祖であり、卑弥呼天皇家の先祖だっっていう話。

倭人の土器の線刻画から解ける日ユ同祖論

ほかにもあり。

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ウガヤフキアエズ鵜戸神宮や、神武天皇の高千穂宮が、なぜ日向の国でなければならなかったのか?それは日向がイスラエル・ユダ連合王国の形を模したものだったから。

日本の境界線は適当に引かれたんじゃなかった4 境界線が語る日ユ同祖論と神武東征の真相

 

日本と古代イスラエル・ユダの地域の王号が、リンクしてる話。

古代の君主号を見ることで分かる天皇と大和民族のルーツ

 

ヤタガラスはユダガラスだった話

八咫烏は古代エジプトの「ホルス神」で「ユダガラス」だった?

 

ユーラシア大陸東征の出来事が、日本列島に当てはめられて神武東征と呼ばれてるっていう話。

ユーラシア の検索結果 - たっちゃんの古代史とか

 

 

 まあこんな感じ。自分の中では。

  

 

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経津主命とタカトリ山の謎

 

そういえば、ようやく引っ越しのめどが付いてきました。これについてはあとでブログに書きますけど。まあ俺はもう、なんか疲れちゃったので・・・5年後は、死んでるかなw

 

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タカトリ山と経津主命

 

日本に数えるほどしかない「タカトリヤマ」(高取山・鷹取山)。これがなんか興味深かったりします。

タカトリヤマを調べていると、へんな事実がわかってきたのですが・・・。全国のタカトリヤマの位置をプロットすると、こんなふうな感じ。

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赤い丸が高取山。赤い四角が鷹取山。緑の丸が経津主命の関係地。

 

日本神話を知っている人であれば、経津主命のことはなんとなくわかるでしょうが、簡単に解説すると、 

経津主命(ふつぬしのみこと)

・ 日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

経津主神 - Wikipedia

この天の安河というのは、安本美典氏の著「天照大御神卑弥呼である」によれば筑紫(福岡)の夜須郡の安川だということでした。

個人的な考えとしては、安川が経津主命の生誕地「天の安河」という話には概ね賛同できるんですが、実はたぶん歴史的な卑弥呼の時代の史実を反映しているのにくわえて、「大陸神話を日本列島に投影した結果も含む」と考えられるんですが・・・。

出雲の印は、ここが出雲の国譲りの舞台となったところ。

関東地方の千葉県北部の香取神社は、経津主命が東へ赴いて本拠としたらしきことが、故事に見えます。

フツヌシと香取の関係については、『日本書紀』一書に「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」に祀られることが記されている。また『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)で「経津主神云々、今下総国香取神是也」、『延喜式』(延長5年(927年)完成)所収の「春日祭祝詞」でも「香取坐伊波比主命」と記されている。

香取神宮 - Wikipedia 

さらに奈良県の印については春日大社なのですが、ここには

春日大社の社伝

社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。

春日大社 - Wikipedia

武甕槌命は、鹿島神宮から鹿に乗って春日大社に来たとかいいますが、こういう伝説というか神話が存在しているということで。

 

これでわかったと思うのですが、「緑色の経津主命ポイントは、タカトリ山に囲まれている傾向にある」ということなんですね。タカトリ山は、経津主命に関係するんですかね。

 

名称の一致

これは別に偶然じゃないというのは、名前からも分かってくるんですが。

経津主命の別名はいくつかありました。

1・経津主命(ふつぬし)

2・斎主神、伊波比主神(いわいぬしのかみ)

3・香取神(かとりのかみ)

3番目は香取神宮香取神社の祭神であることからです。香取神宮は伝えられるところでは、神武天皇18年の創建と、神代と言っても良い頃の創建でしたが。

もともと香取神という名前も有していたから、後に香取神宮という名の神社になったという感じもありますけども。

で、タカトリ山(高取山・鷹取山)というのは、どうも「カトリ」の名を持っているようではないですか。つまり経津主命=香取大神の関係地は、タカトリ山に囲まれている、そんな傾向ははっきりと見えてきていますが。

この全国のタカトリ山は、おそらく経津主命に関係しているのではと。経津主命=香取神を守護としていたために、タカトリ山によって有力地を囲っているのでは。

 

古代倭国の本拠地としては

筑紫平野吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡などあり、邪馬台国の有力地。なのでタカトリ山に囲まれている。

・奈良はヤマト王権の中心地なので、タカトリ山に囲まれている。

・関東はヤマト王権奈良県と同じ地名が付けられている土地(拙著電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け」参照)で、関東毛野氏=豊城入彦命の本拠なので、タカトリ山に囲まれている。鎌倉幕府の鎌倉も含まれるらしい。

出雲国はかつての本州の大国主の本拠地だったところなので、タカトリ山に囲まれている。

・東北のタカトリヤマも、おそらく有力地だった(かつて九州系地名が名付けられたり、日本の中央の碑があったりするので)。経津主命は東北の蝦夷討伐時代にあっては、武甕槌命とならび称される軍神として、崇められてたんですよ。半円形に取り囲んでいるのは出雲と関連付けている意味がありそう。出雲の地名が出羽に投影されてるので。

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以上のように古代の倭の有力地は、すべてタカトリ山に囲まれていたということは、邪馬台国の有力なヒントになるんでは。

 

自分としては、邪馬台国の土地として、気になるのがやっぱりここですよ。タカトリ山がもっとも集中している、天の安河(安川)と吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡のある筑紫平野

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もう少し詳しい内容で、「封印された叡智の回復」のなかに納めるので。

 

 

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苦労と疲労が困憊中・・・迷う引っ越しと迷いうさぎ

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不思議の国のアリスWikipediaより)

 

 

ぶっちゃけもうここでの生活には、限界が近いのかもしれないです。それに加えて、迷いうさぎが俺の悩みのタネとなったので。

 

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とにかくストレスがソコカシコから連日連夜、怒涛の如く掛けられ続ける。頭がどうにかなってしまいそうなところ、必至で押さえつけて生きてきますた。

とにかく俺はいろんな苦労が次々襲ってくるようなんですが。これは自分が招いた原因と、第三者による陰謀めいた要素があるのだが・・・。その点は以前の陰謀系記事にありますので、読んでおいてください。

 

 

俺が受けてるストレス

こんなのがあり。

・俺じゃないのに何故か俺のせいにされて罵声を浴びせられる

・自宅前や周辺で小中学生に代わる代わる奇声や罵声を浴びせられる(俺じゃないことが原因だったりするので不条理ですが。親が指示出してたりして)

・兄軍団が意地悪するのだが・・・

・収入が増えない(がんばっているのだが・・・)

・自宅前に爆弾を仕掛けていく高校生がいるのだが(癇癪玉やらロケット花火やら)

・臭いに付きまとわれている(野焼きの臭い、近所の臭い料理まで俺のせいにされるので不条理ですが)

・自分の体臭コントロールがむずかしい(こんな体質が珍しいというなら障害者認定されておかしくない)

・自宅前ゲホゲホ(うちの前だけゲホゲホわざとらしく咳を出していく老若男女がいる)

・俺の想像と出来事が世界に波及している(これは2ちゃんねるで書いていたのだが、スレを立てると瞬殺されるらしい。よっぽどまずい内容じゃないと、こういった対応はされないのであるが・・・)大本教では、「大本で起きたことが日本で起こり世界で起こる」といってるみたいなのだが、「俺に起きたことが日本で起こり世界で起こる」が事実ならどういう意味を孕んでいるのだろ-か。

・そっくりさんが登場する(世間を賑わす話題の人物は、周囲のそっくりさんだったりする)

・有名人が俺をネタにしている

・盗撮されて嘲笑されてる(これはそのままの意味で、非常に苦痛)

 

他にもあるのだが・・・追い出し・追い詰め、娯楽として、こんなにひどい仕打ちを長年受け続けてるのだが、彼らはまだやり足りないらしい。強欲か。

この中に信じられないようなことも含まれているのだが、俺の近くに居住してたり、俺を知ってる人ならおおむね信じられるでしょう。

 

ツイッターで起きたことをメモするのは、意地悪してくる人がネット上で自分のことを書かれたら嫌がって、仕掛けたい気持ちを減少させる効果があるかな~?という僅かな期待をかけてのことなんですが(あると思うのだが)。

エスカレートする嫌がらせを軽減させることができたら、ストレス回避につながりますし。

 

 

迷いうさぎ問題

 

迷いうさぎが来てから、状況は悪くなった、というのも出費がかさむという問題が出てきてしまったからなので。俺は銀行預金は500万円も持っていないし、在宅業務で手にする金額もすくない。ギリギリの生活の中で、急にやってきた迷いうさぎを保護してしまった。落ち度?

かわいそうだから助けたかっただけなんだが・・・。迷いうさぎを見捨てることができなかったんですよね。

 

ということで集ストによるストレス過剰で精神的な苦痛がマックス、それに伴う体の不調、元々の体の異常、お金が足りなそうな危機感、今後の不安、など諸々の事情を考慮すると、やっぱり俺は山奥に引きこもってストレスなく、在宅業務やっていたいという気持ちが大きくなってるんですよね。

 

 そこでとりあえず迷いうさぎをどこかの保護施設に預けられないかと考えたのですが、どうもうまくいかないようでした。このままだと埒が明かないということに。とにかくうさぎがほしいという方には差し上げますので。

そこでもし迷いうさぎを誰かに預けられなければ、新居につれていくという選択肢が。

( ゚Д゚)

そこで問題になるのが、新居探しでした。なかなか見つからないし、遠くて見に行けないしで、先延ばしになってきたのですが。

しかしもう限界が近い今日此の頃になってきたので、思い切って探しに行ってしまおうか、そう考えるとじゃあ自宅のうさぎは放置していくのか、という話に陥ってしまったのでした。

車ない。人の密集が怖くて交通機関に乗りたくない。兄に頼れない。

そこで俺が考えている予定とは、とりあえずレンタルなんとかで自力で山奥の候補の家を見てくる。去年も旅行をしたが一応5泊の旅は完遂できたし、行けることは行けるだろう。俺が新居候補を見に行っている間、うさぎは近くのペットホテルに預けてみることにする。ぶっちゃけ俺のうさぎじゃない捨てうさぎなのに、なんでホテル暮らしという贅沢させなきゃいけないんだという葛藤はあるのだが、とりあえず俺と迷いうさぎが双方とも生きるにはこうするしかないらしい。 

大金を使うことになるし、人前で恥をさらすことになるかもしれないが、これ以上なにが落ちることがあるのかというところだし、仕方あるまい。

俺と関係する人には、人生のわずかな時間だけかかわっていただきますので。そんなわずかな時間でも、嫌ですかそうですか。じゃ準備しなきゃ。

 

 

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迷いうさぎを捕まえた件。元の飼い主はどこに

11月1日に庭に迷い込んでたうさぎ。

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迷いうさぎ 

性別 オス

種類 ネザーランドドワーフかと思ったらミニウサギだったと判明

年齢 7~10歳かと思ったら1歳未満だったと判明

特徴 左目が白い、一応見えるらしい。

   背中の毛が脱毛であざのようになってる、怪我の跡アリ

不思議の国のアリスを思い出してしまったのだが。そういえばうさぎが来た直後にあんなことやこんなことが・・・。 


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最初に見つけた時

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雑草を食べまくってた

 

11月2日に保護した時

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 背中に怪我の跡、左目が白い。

逃げようとはしないので、飼われていたことがわかる。

 

11月3日、体調がおかしい

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犬用のケージをつかってみた。 

 

11月4日動物病院にいった

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診てもらった。やはり毛球症らしかった。死ぬかと思ってまた病院に行こうとしてどうしようかと右往左往。

けーさつに問い合わせてみたところ、捜索願いは出てないらしい。近所のうさぎではないのだろうか。

おそらくうちに放り込まれた、捨てウサギという想像はついたのだが。嫌がらせの一環だろーか。その場合には俺が何かしなくても、ここにうさぎがいることはご存知だと思われますが。

 

11月5日シニア用ごはんを買った

体調は良くなった。

 

11月10日現在、

健康状態良好なのだが、夜中にうるさい。

硬いビニールのごみを口に咥えて、一人遊びをするのが楽しいらしい。けどゴミも食べてしまうようなので注意。

 

迷いうさぎを保護してからもう10日経過したが、探している人がいないようだから、今後どうしようか考え中です・・・。

 

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卑弥呼を象徴する数字と三角形から導かれる「女王卑弥呼は天皇だった」

卑彌呼(卑弥呼)のことを考えていたら思いついたことがありました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・
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日本語の数詞

 

ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とうぉ 

 

だから日本語で卑弥呼の数字の語呂合わせすると、 

卑弥呼→ひ・み・こ→1・3・5

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これが卑弥呼の数字。

まぁこれだけなら誰だって思いつくレベル。

 

卑彌呼の1・3・5は奇数。なのでこれを元に計算をしてみる。

足し算、1+3+5=9

引き算、1ー3ー5=-7

足し算と引き算は、当然弥生人も使ってただろう。9と-7、なぜかやはり奇数になりました・・・。

 

弥生時代後期(2世紀末~3世紀前半)、掛け算や割り算は存在したのだろーか。

掛け算、1✕3✕5=15で奇数、1と5は、1・3・5に含まれる数字。

割り算は存在したか知らないが、1÷3÷5をやってみると、6が10個並んで

0.06666666666。これもなにか意味深desita。

 とにかく存在したかわからない割り算以外は、名前自体も、計算しても、どちらも奇数にしていることがわかるではないですか。

 

 

卑弥呼の名前に隠されてい数字は

 

じつは、卑弥呼の名前に隠されてい数字は、「1・3・5・7・9」なのだ(15は1と5)

 

まず1・3・5から考えてみたが、これはピラミッドでした。

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全体で三角形をかたち作ることができるのが分かりますよね。

 

つぎに1・3・5・7・9で見ても

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こんなふうに最初の1を頂点にして末広がりに並んでいくのだが、これは奇数が持ってる特徴なのだ・・・。

 

つまり卑弥呼というのは、どういうわけか1を頂点とする奇数を揃えることによって、名前で三角形を表現したかったんではないか。それでわざわざ卑弥呼という名前を名乗っているんではないか、ということがわかったのですが。

 

なぜ三角形なのだろうかと考えてみたいですが。  日本史のなかには、実は三角形が数多く登場するのだが、

造化三神天之御中主神高皇産霊尊、神産霊尊)配置で三角形を成す

大和三山(天の香具山、耳成山畝傍山)三角形を成す

三輪山 3つの輪、三角形の配置

・三柱鳥居 上から見ると三角形になる

熊野三山熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)三角形を成す

・三貴士(みはしらのうずのみこ)、天照大神、月読尊、素盞鳴尊

など。

といったかんじで。数字の3と三角形が、倭(女王、天皇家)では神の数字として重視されたらしい。

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そしてさらに追求してみる・・・。

 

「三角形=卑弥呼」 なことはわかったところで、

三角形っていうのは、△の現代風の読み方なのですよ。

△を昔風の読み方にすると何になるかというと、3つの角がある形なので、

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おそらく「ミカド」を表す絵文字として機能したことは考えうることなんですよ。

ミカド・・・御門、帝、天皇のこと。

 

女王が△で、ミカドということは・・・続きは以下の記事

「イザナギが黄泉から帰還する場面」≒「倭国大乱」≒「崇神天皇時代の疫病と反逆」

卑弥呼は男装して出歩いてた・・・複数の記録に分断された卑弥呼

 

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日本列島雛形論は4種類あると発想できたわけですが

この記事は5月にアップロードする予定だったのが、やることがいろいろあって10月になってしまった。


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「日本は大陸の雛形・・・」

このことばには、実は複合的な意味があると考えられるのですよ。

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画像は日本列島 - Wikipedia より

まあ例えて言うなら、ひとくちに外来語と言っても、中国語由来、サンスクリット語由来、ポルトガル語由来、英語由来といろいろ種類があって、すべてまとめて外来語と言ってるみたいなこと。

 

1・よく言われるように日本列島は世界の諸大陸の形をしている(出口王仁三郎説)

これが一般的に取り上げられている、日本列島雛形論。

ユーラシア大陸=本州

・アフリカ大陸=九州

アメリカ大陸=北海道

オーストラリア大陸=四国

今では多くの人が、同じように口にしてます。おそらく日本列島雛形論は出口王仁三郎が言い始めたことでしたが、卑弥呼の時代から同様の発想は、すでにあったのではないかと。

グーグル画像検索すると、いまではこんなに・・・ 

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日本列島雛形論 - Google 検索

 

2・ユーラシア大陸全体の古代国家・民族が日本列島に投影されてる

これは 2001うそ発見の億のウソ道 こちらのサイトでも以前から指摘されてたことを強調しておきます。当ブログでも同じ観点で研究してきました。

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この発想は、おそらく卑弥呼の時代からすでに存在していましたが、奈良時代頃には忘れられた叡智であるようです。

関連記事は

関東地方が東アジア、近畿地方が中央アジア、に対応する土地の証明。新日本雛形論

酒船石は「サカ匈奴石」な証拠

こういう感じで。 

 

3・「古代イスラエル・ユダ連合王国の形」を、ユーラシア大陸中央部の烏孫、扶余、日本列島の九州、出雲、機内、関東、北海道の一部、に投影している。

電子書籍で九州系地名と呼んでいるものも実は同じか)

日本の根幹には日ユ同祖論がある、という話は以前からありました。

しかしじつは、「日本の地域の形状自体が、古代イスラエルユダ連合王国の形で表されていた」という発想です。これは完全に自説です。

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これは古代出雲(島根県あたり)と古代イスラエルの形状を比較してみたもの。 どうだろうか。この発想が卑弥呼の時代からすでにあったが、早い段階で失われたのでは。詳しくは過去記事で。

出雲国の日ユ同祖論を境界線で解いてみた

 

 

さらにもうひとつの発見。

4・日本列島はユーラシア大陸東岸部と鏡合わせ状態にあった

これはどういうことか?というと・・・

倭   大陸

琵琶湖:シンカ湖

白山 :白頭山

白日別:新羅

武蔵 :扶余

高麗郡高句麗

関東 :関東

というふうに対応していくわけなのだ・・・。これも早い段階で失われていたようです。

地図で簡単に説明しないと行けないので、また今度。

 

 

ちなみに今朝描いてた絵

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しわが難しい。今後は動きのある絵を練習していく。

 

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「イザナギが黄泉から帰還する場面」≒「倭国大乱」≒「崇神天皇時代の疫病と反逆」

卑弥呼天照大神、それは本当によく似ているのだが、崇神天皇も含めてどのへんが似ているのかまとめてみました。


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  倭国大乱とは神代の「伊邪那岐が伊耶那美(黄泉大神)と敵対する出来事」か

 

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つまり、天照大神 = <卑弥呼倭迹迹日百襲姫命)+壱与> = 崇神天皇(男装)

 

よくわからなかったのが、「魏志」や「後漢書」の「倭国大乱」に対応する、天照大神の頃の出来事。これについて以降ですこし述べます。

 

ヒントはいくつかあった。

一つは倭国大乱とはおそらく九州を中心にして起きたであろうこと。実際近畿地方では大乱に相応しいほどの武器が出土していないのに較べて、北部九州では大量の武器が見つかっている。だから、倭国大乱の舞台としては北部九州が相応しく見えること。

もう一つはイザナギが黄泉国から脱出する間際に、イザナミ(黄泉大神)とイザナギの気になる会話。

イザナミ「私はあなたが治める国の民を、1日に千人づつ絞め殺そう」

イザナギ「私は1日に千五百人づつ生ませよう」

おそらくイザナギイザナミの間には、1日に千人規模で死ぬという大きな戦争が起こったことを示唆するようです。黄泉の出来事で、天照大神の父親イザナギに対するのは、イザナミ(黄泉大神)の軍であり、それに含まれるのは「黄泉醜女(よもつしこめ、泉津日狭女)」や「雷神」。

すると、イザナギが黄泉へ出かけて、イザナミ軍と戦った出来事が、「魏志倭人伝」の倭国乱、「後漢書」で言われるところの倭国大乱に当てはまるとしたら。

 

どうしてこう考えられるかというと

(1)天照大神卑弥呼が幼いころに戦闘シーン

・黄泉での戦闘は、天照大神が生まれて間もない頃に起きている(あるいは一書の別伝によれば天照大神が生まれる前に起きた)

倭国大乱は卑弥呼が幼いころに起きている

 

(2)首長として擁立される時系列の一致

・黄泉の戦闘のあとに、天照大神高天原を治めはじめた

倭国の大乱のあとに、卑弥呼が女王となって倭を治めはじめた

 

これは偶然とはいい難いように見えますと。

したがって「魏志倭人伝」の倭国大乱とは、「日本書紀」ではイザナギが黄泉から帰還するシーンのなかに投影されていると見ることができたんですが。

まあおそらく黄泉の場面には、大陸の神話をふくめていろんな要素が含まれているようですけれど・・・。

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で、この場面は崇神天皇の5年から6年にかけての出来事と≒なのではないかと。

5年 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった

6年 百姓の流離するもの、あるいは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった

これが倭国大乱であり、黄泉の戦争の場面と同じでしょう。大乱の時期が崇神天皇5年からとなっているのは何故なのかは考えたいです。黄泉醜女というのはゾンビのようなもので、疫病の患者をあらわしたようです。

倭に蔓延した疫病は、大陸からもたらされたと考えられますね。インカ帝国の人々が、スペインからもたらされた疫病にかかったことが滅亡の主要因ともされますし。インカ帝国人は、ヨーロッパの疫病にたいする抵抗力がなかったようで。九州の倭人もおそらく同じだったのですね。

 

ということで、個人的に考えている倭国大乱の正体とは、

桓帝霊帝の頃(147~188年)、朝鮮半島の韓人・ワイ人が隆盛となって南へ押し寄せた時期、「朝鮮半島の倭にいた卑弥呼崇神天皇)の率いる倭人」が、「朝鮮半島の倭から九州の倭へと移住した時」にぶつかって起きたんではないかと、そんなふうに想像していますが。日本史学の人からは何言ってんだこいつ扱いですが。倭国大乱が朝鮮半島の混乱と時を同じくして起きたことは、ひとまずわかるはず。

これについては過去記事参照

これとか

倭国の本拠地の変遷(推定)

これとか

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 1

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 2

 

 

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卑弥呼は男装して出歩いてた・・・複数の記録に分断された卑弥呼

 

どこかの王様やお姫様が、庶民の格好をして出歩く。というシチュエーションは漫画や童話でありがちですが。

 

実は卑弥呼も男装して出歩いてたのでは・・と言う仮説。そして

卑弥呼記紀のなかで複数に分かれて記録された・・・という仮説。今回はこのへんについて。

 

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(1)男装してた卑弥呼

 

これについては3世紀の「魏志倭人伝」、712年の「古事記」、712年の「日本書紀」と、2012の「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」なしには語れません(同列にしてしまった・・・)

個人的に、崇神天皇には卑弥呼と壱与が習合されたとします。それで、男の天皇と女王が同じ人物じゃ、性別が違うからおかしいではないか。という意見が当然なことに出てきます。当時、本を書いた時、この点はあんまり考慮しませんでした。これには巨大な根拠、略して巨根拠がありました・・・。

 

卑弥呼という人は、弥生時代末期にあって、あまりに存在が大きすぎました。それは倭を統治した者であり、神に通じる最高位のシャーマンであり、「女王様が最高位の大魔導師」みたいなゲームとか漫画みたいな設定が、3世紀にリアルで存在してたわけなので。

日本の記録に確実に残されているのは明白と考えられました。

1人だけというわけじゃなくて、日本史の中で複数の人物や神として散りばめられていておかしくなかったのであると。

 

安本美典氏の著書「天照大御神卑弥呼である」では、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の正体を卑弥呼としていました。どちらも女性で太陽の巫女で倭の女統治者で・・・とあまりに共通点が多いからです。

日本書紀」では神功皇后の記録のなかに、卑弥呼と壱与の記録を登場させています。つまり編者の舎人親王らは、神功皇后卑弥呼を重ね合わせて見てた、ということが想像できました。

 

個人的にも、

天照大御神に封印された卑弥呼

神功皇后に封印された卑弥呼

合ってると思います。

 

で、天照大御神神功皇后の共通点はほかにもあって、それは

男装した

という特徴的な記述なのです。

天照大御神スサノオと対峙するにあたり、男物の衣服(はかま)、男の髪型(みずら)、多数の武器と防具で完全に男性の姿となって出迎えました。(「日本書紀」、素盞鳴尊との誓約)

一方で神功皇后新羅に攻め入るにあたり、男性の髪型である髪型(みずら)とし、斧まさかりを手にとって男装で船に乗り込みました。

 

ここで神功皇后ついて考慮すべき事柄として、

1・神功紀に登場する新羅王、百済王がことごとく4世紀の人物であること

2・神功皇后墓所と伝わる五社神(ごさし)古墳が4世紀の墓であること

3・神功皇后百済から下賜された七支刀が4世紀の品物であること、つまり七支刀が渡されたのも4世紀

であることを踏まえると、卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀中葉とは、ぜんぜんあてはまってないのです。明確に神功皇后卑弥呼と同一人物と、言うことができないのわ分かりますね。

でも神功皇后の伝説のなかに、卑弥呼の出来事が挿入されちゃってるのは、間違いないところだとわかるではないですか。

 

ということで卑弥呼の出来事を投影させている天照大御神神功皇后の2人、2人とも、男装をして戦地におもむいたという状況が見えてくるということは

 

卑弥呼自身も男装をして外を出歩いていた状況」が見えてくるではないですか。

 

魏志倭人伝

倭国乱れ相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(ことば)を伝え居処に出入りす。

(「中国正史日本伝(1)(」石原道博編訳)より

これに男装と関連付けてみる

・衆(民衆)を惑わした(男装して)

・王となりしより以来、見るある者少なく(卑弥呼は男装をして外出するから誰も気づかない)

ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(ことば)を伝え居処に出入りす。(この男子一人とは卑弥呼自身だったりして)

 

すなわち卑弥呼が男装した姿が、日本書紀での崇神天皇。ということになるわけなのですが。

 

 

 (2)卑弥呼が封印された複数の人物

 

卑弥呼という人は、歴史上の複数の人物に投されてたことは、なんとなく分かってきましたね。ここで気になるのは、

日本書紀神功皇后の記録に、卑弥呼だけでなく壱与の記録までも挿入されてる」のは何でかということですよ。

神功皇后は4世紀の人なのに、3世紀の卑弥呼と壱与の記録を入れ込む必要があったのかという問題点。これについては卑弥呼と壱与、天照大御神崇神天皇神功皇后という上流階級の人々を比較検証することで、わかってくることがあったのですけれど・・・。

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卑弥呼と壱与が投影された人物の検討

以下でこれを検討してみます。

 

a・卑弥呼と壱与

まず「魏志倭人伝」などに記録のある、この2人の倭の女王が基礎になっていると言える。

 

b・神功皇后

日本書紀」の4世紀の神功皇后の中に、なぜか3世紀の卑弥呼と壱与の記録が挿入されていました。神功皇后卑弥呼と壱与の記録があるということで、日本書紀編者の舎人親王は、歴代天皇・皇后の中で卑弥呼と壱与を当てはめるとしたら、どうしても神功皇后じゃないと駄目だという思いがあったようです。つまり

神功皇后に封印された卑弥呼と壱与

なのであり、「神功皇后は女王2人分」の情報を有しているのでした。

 

c・崇神天皇

崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」でも書いてましたが、「古事記」にあっては崇神天皇とは「賢后(さかしききみ)」であり、女性天皇としての示唆が見えていました。編者の太安万侶は、おそらく崇神天皇の中に卑弥呼を見いだしたのか、過去から存在していたの異伝が、彼の処に存在していてそこから得た情報なのか。

 ・倭迹迹日百襲媛命

崇神天皇については「日本書紀」で、天皇家の巫女である倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)についての話も入っていました。

倭迹迹日百襲媛命こそが卑弥呼であるという仮説も存在していますが、これも実は正解のひとつと思われます。

 「日本書紀崇神天皇の時代の出来事と、「魏志倭人伝卑弥呼の時代の出来事を比較して並べてみると、倭国大乱の状況、共にはじめての人口調査をしているなどなど、非常に似通っていることがわかります。これについては過去記事か著書参照。

要するに崇神天皇卑弥呼は、同じ3世紀の時代の人物だったわけなのですが。個人的に両者は同一人物としたのが「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」。

 崇神天皇についての記録は、倭迹迹日百襲媛命の死をもって前半部が終了。後半も崇神天皇の時代が続いていくわけなのですが。つまり崇神天皇が「后」で女性天皇であり、別人格としての倭迹迹日百襲媛命が、合わせて記録されていることを踏まえると、

崇神天皇=后(女性)=卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命)+壱与

という仮説が浮上してくるわけなのでした。これは拙著に書いた処。

 

 d・天照大御神天照大神

安本美典氏の著書「天照大御神卑弥呼である」これも正解だと考えられました。

日本書紀」では素盞鳴尊が暴れたせいで、天照大神は天の岩屋に入って一度引きこもって、岩戸を閉じてしまい、世界は闇につつまれてしまいました。天照大神を引き出すために、八十万神(やそよろず)の代表格であるアメノコヤネ、アメノウズメ、らが必死になっていたのが天の岩戸でしたが。ちなみに安本美典氏は同著書で

天照大御神卑弥呼+壱与

の立場を取っていました。

 

ここで登場した岩屋とは墓を意味していています。

天照大御神が岩屋に入る=死」を意味しているわけなのですよ。そして

「儀式を経て岩屋から出る=復活」を意味しているわけなのです。そういう意味があったので、天照大御神は一度死んだあとに再生した、ことが表されていて、イエス・キリストみたいですが。

 

簡単に言うと天の岩屋神話とは

天照大御神の死と再生 = 卑弥呼の死(女王の死)と壱与擁立(女王の再生)

 という現実の出来が込められていたと思われました。

 

 これら複数の「2人で1人」をまとめると、以下のような表になります。

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ちょっと見づらいですが。

 

この記事の内容も「封印された叡智の回復」に含まれてたのですが。予定通り出版できないので、ブログで先に書いてしまいました。。

 

 ちなみに天の岩屋神話は、これもまた日本固有神話ではない様子で、ユーラシア大陸各地に天の岩屋神話同様の神話が伝わってるとか。ということは、日本神話の中にユーラシアの要素が入っていておかしくないことに。

これについては次回。 

 

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ついでに今日のイラスト。

なにも資料見ないで、下書き、ペン画、色つけで2時間かけた。

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まぁこんなものではないかと。色つけは手抜きで。

 

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気になる漫画

気になる小説や漫画はいろいろ読んできました。一つはこれ。

伊藤潤二傑作集6 路地裏」の、「道のない街」

 

 


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道のない町

あらすじ

学生の彩子(さいこ)は毎日のように夢を見るのだが、その夢は妙にリアルだった。あるひ夢で岸本くんに告られた。その時に切り裂きジャックが現れて、夢のなかで岸本くんは刺し殺されてしまった。

夢のなかの殺人事件のはずだったのに、現実でも岸本くんは死体で発見される。

 

数カ月後、彩子の一家は異常な行動を取るようになっていた。父・母・兄・弟が、彩子の部屋の様子を、常にのぞき見する状態になっていたのだ。

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彩子がやめて欲しいと懇願すると、「なんのことだ」「そんなことするわけない」「変なことを言うな」などと全否定する一家。

しかし彩子がいったん自室に戻ると、家族全員が彩子の部屋をのぞき見はじめるのだ。壁、天井などあらゆる場所に穴を開けて、父・母と兄・弟は彩子をのぞき見る行動を、やめることができない。

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→彩子「のぞき見やめて」→家族「そんなことしてない」→彩子をのぞき見る家族→

→彩子「のぞき見やめて」→家族「そんなことしてない」→彩子をのぞき見る家族→

→彩子「のぞき見やめて」→家族「そんなことしてない」→彩子をのぞき見る家族→

・・・・・・(繰り返し)

 

そんな現実に嫌気がさして、彩子はまたまた家出した。

向かった先は小里町大西三丁目。しかしこの大西の街こそが、のぞき見文化の根源になっているとは、彩子も知らないことだった。

小里町大西三丁目は違法建築が溢れている。そしてあらゆる悪事が違法でありながら、堂々とまかり通っている街であった。この街はあらゆる家屋の中が通り道になっており、他人の私生活をのぞき見る人々で溢れかえっていた。 

だからプライバシー確保のために、人々はお面を被っている。彩子は家出先に玉枝おばさんの家を選んでいた。そこに行きたいのに道に迷っていると、仮面の男が現れて道案内をしてくれた。

玉枝おばさんに再開すると、叔母は住人にのぞき見られ続けることで精神状態がおかしくなり、ほぼ全裸で生活していた。彩子にも裸になるよう求め始め、ナイフを突きつけてきた。彩子はあわてて叔母の家を逃げ出した。

 

道に迷った彩子は、大西の街の最深部へと進んでいた。そこで見たのは、人にやたら執着し、のぞき見をしすぎて、顔に無数の目玉がくっついている怪物と化した人々の姿だった。

おそろしい世界から逃げ出そうとすると、道案内の仮面の男が再登場。じつはこいつが岸本くんを殺した切り裂きジャックだった。

あわや殺されるという寸前で、ナイフを持った玉枝が、切り裂きジャックを刺殺した。叔母は彩子に街を出る道を教え、自らはのぞきの街へと消えていくのだった。 

 

この漫画の要点は

・夢と現実がごっちゃになっている

・主人公はのぞき見され、常に悪者にされてしまう

・街は人をのぞき見する人々で溢れかえっている

・のぞき見する人々は、のぞき見してない!と言いつつ、のぞき見している

・住人にプライバシーがない

 

路地裏、相部屋、旅館など中身が濃い短編集でした。

 

ちなみに調べたところ、「道のない町」は、短編集『サイレンの村』(1993/5)に収録されていたものを、傑作集6に再掲載したもの。

1993年の時点で、すでにこんな世界観があったとは。

 

 

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倭のヤーヌス

ヤーヌスについてちょっとおもしろい発見がありました。

 

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両面人物埴輪(和歌山市) 謎が深まる二つの顔

 

http://mainichi.jp/articles/20160827/ddf/012/040/005000c

 

この記事を要約すると、2005年に和歌山県和歌山市岩橋の、岩橋千塚古墳群・大日山35号墳(6世紀前半)から特殊な埴輪の頭部がみつかった。

高さ19センチ、幅10センチ。両面に顔があり、両側に結った髪型「みずら」がある。

顔に矢羽根と矢尻が刻まれてる。この古墳群は紀氏の墓所ではないかと言われてるとか。

両面埴輪の写真をそのまま使うとアレなので、適当に模写してみた。 

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こんな感じでした。 

記事に寄ると風土記の丘学芸員は、「両面の必要性や意味がわからない」とか言ってるとか。また、矢が描いてあるので兵士=墓を守る存在じゃないかという話もありました。

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両面に顔がある彫像・・・これは「ギリシャ神話のヤーヌス」だという話は荒唐無稽でもないようですた。

実際ヤーヌス説は、ネット検索しても見つかることがわかりました。

 

ではヤーヌスはどんな感じかと、ウィキペディアを見てみると。 

ヤーヌス(ヤヌス Janus)は、ローマ神話の出入り口と扉の神。前後2つの顔を持つのが特徴である。表現上、左右に別々の顔を持つように描く場合もある。一年の終わりと始まりの境界に位置し、1月を司る神である。

入り口の神でもあるため、物事の始まりの神でもあった。1月の守護神であるのは、1月が入り口であり、年の始まりでもあったためである。それから来て、過去と未来の間に立つという説明もする。その役割は、日本の年神によく似ているが、直接の関連性はない。

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ヤーヌス - Wikipedia、より

なんかみずらっぽい髪形をしているし、

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いろんなヤーヌスの顔があるらしい。 

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https://en.wikipedia.org/wiki/Janus より

 

まあこんな感じだった。 

 

そして気になるのが「顔の模様と名前」が一致してるのではないかという仮説ですよ。

ツイッターでこんなこと言ってた。 

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つまり、和歌山県の両面人物埴輪の顔面には「矢」の先刻画があって、

「顔に矢がある、矢の主である」ことを踏まえて考えてみると、

顔に矢 → 矢の主 → 矢主 → ヤヌシ → ヤーヌス

という解釈ができるのではないかと。

両面に顔があることは、ヤーヌスそのもの。

 

 矢主を描いてヤーヌスを表す。むかしは文字を使えなかったので、絵文字やダジャレで表現してたというわけで。説明がつきますし。

じゃあ古墳の被葬者は古代ローマ系の人だったのか、紀氏はその流れを組むのか、それとも文化的なヤーヌスの顔だけが伝わったのか、という話ですが、たしか古代ローマのガラス玉が見つかっていたこともありましたし。日本語の中にギリシャ語っぽい言葉も紛れ込んでいるようですし。

倭人は単純な東アジア人文化圏だ」という固定観念は捨てたほうがいいかと。当ブログでもたびたび突っ込んでいるように、「実際古代日本の中からはユーラシア大陸文化の要素がいろいろ見つかってくるわけですし。

 

ブログ内でギリシャ関係の記事はこちら

ギリシャ の検索結果 - たっちゃんの古代史とか

 

 

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