架空の街角。
手抜き・・・
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その中で、東南にあり船で1年で到達という「裸国」が登場します。
裸の一文字と東南に船で1年という限られた情報から、何が得られるだろ~か。
「裸」は要するに男女共にスッポンポン。
簡単な腰蓑のようなもので、下腹部を覆い隠す程度の原始的な民族衣装だと想像。服を着ずとも過ごせる環境なのだと、読み取ることができます。
太平洋上の赤道に近い島々は、年間を通じて温暖で裸で過ごせる気候と、男女共に裸で過ごす風習が続いてきた地域でした。裸国というならまず思い浮かぶのは、昔から薄着で暮らしてきた、太平洋の島々ではないですか。
書物によれば裸国というのは東南にあるというので、日本から東南というと、太平洋のかなり広い面積があてはまるみたいです。
船で1年ということはかなりの距離で、途中で食料の調達もしないといけない。各地に停泊しながら、1年をかけ航行という意味かもしれない。
想像するのは、太平洋のど真ん中、ハワイ
伊豆・小笠原諸島、ミクロネシア、マーシャル諸島を経て、東のハワイ諸島という海路が妥当だろうか。
なんでハワイかと言うと、ハワイ語では太陽を、「ラー(laa)」と言うことに関係しました。
エジプトの太陽神ラーが、ハワイに伝わったと想像できませぬか。そうすると太古の昔にエジプト人が移住している可能性も出て来ますが・・・。
そういった情報が、漢字に置き換えられ、裸の国という意味も付け加えられたのやら。
ラー=裸(ラー)
「太陽神ラー」+「はだかの国」=「裸国」
と想像します。
ハワイの太陽神はラーじゃなかった
ではハワイの太陽神はラーなのだろうかと思って、調べてみることにしました。するとハワイでは古来溶離重要視される、四大神が存在するということです。ずっと調べていなかったので新鮮な感じを受けました。
このサイトによれば、ハワイの四大神とは「カナロア、カーネ、クー、ロノ」だそうです。
カナロア 元の名はタンガロア。最高神でありハワイの島々と神を造った創造神。
カーネ 創造神。人の祖先であり、太陽や水など森羅万象を司る。
クー 戦いの神。カメハメハ大王時代にはもっとも重要視された。
ロノ 豊穣の神であり、戦いの神。雲、嵐、海を司る。
こうしてみると、太陽神ラーが当てはまるのはカーネですかね。カーネの別名を見てもラーっぽいものはないのですが、ラーがカーに転訛しているのだろうか。
マナ
そういえばハワイには伝統的なマッサージ「ロミロミ」がありますが。ロミロミの歴史は古く、古代のハワイアンの癒やしの医療行為だということです。
日本でいうところの按摩とか指圧ですかね。このロミロミ、元は神官(カフナ)による聖なる儀式だったとか。
ハワイでは古来より自然と大地のエネルギーを「マナ」と呼んだようで、ロミロミの根源が本来マナであるということです。
マナというと日本での「真名(マナ)」は食べ物の意味で、神前の供物とするなら、神に通じるのが真名であるし。食べ物自体が自然と大地のエネルギーであるから、なにかハワイのマナと通じるようです。
また倭国では、獣骨による占いを「太占(ふとまに)」と言ったとか。「まに」がマナに通じるとすれば、やはり聖なる儀式という意味でハワイのマナに通じます。
またはマナというと、神秘主義に興味のある方は、こちらの意味を思い浮かべる人が多いと思いますけど。こちらでもやはりマナは食べ物。どっちかというと日本の真名のほうに意味が通じるような。
というわけで、中国史書の裸国は、ハワイだろうと想像できました。
3世紀のハワイが中国史書に記録され、太陽神ラーの国で、倭人と交流があったとなると、ハワイの歴史観も変わってくるようです。
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謎の十種神宝に迫るおはなし。
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饒速日命の謎の神宝
物部氏の伝える十種神宝。饒速日命の謎の神宝だということですが、その中に、沖津鏡と辺津鏡というものがあります。
「津」は「~の」という接続詞だとすると、沖の鏡と辺の鏡ということになる。また津は水辺を渡る意味、つまり航海の意味があるもようです。
沖とは沖合というように、目の届く遠方の海上を指すことば。辺とは「その辺」というように、目の届く近場を指すものと思われました。
つまり沖津鏡は遠くの鏡、辺津鏡は近くの鏡という意味になる。これはなんだろう。
遠くを見る鏡と言えば「望遠鏡」。沖津鏡は望遠鏡。
近くを見る鏡と言えば「顕微鏡」。辺津鏡は顕微鏡。
つまり十種神宝は、近代に発明されたような道具と、同じ性能を持ってたのではないかと想像してしまいますが。特に沖津鏡は航海に用いる望遠鏡のような、そんな風に思いました。
しかしまさか、饒速日命の時代(神武天皇の頃と同一時代、神武天皇が実在なら紀元前660年~西暦3世紀まで諸説ある)にハイテク機器があり、それが現代まで伝えられてるとかいうことになりますけど。
そういえば住吉神社のご祭神の、住吉三神と呼ばれる三柱の神様の名前も興味深いです。
3つの筒。この3柱の神様は、神功皇后を助けた海の神、航海の神だそうな。
航海に必要なのは、航路の先に障害物がないか、見通すこと。つまりこの3つの筒を一つに組み合わせると、やはり望遠鏡になるのではないか。
と深読みしましたが。
古語「つつ」
古語でつつというのは、空にきらめく星のことだとか。月を「つく」と言うのと、星を「つつ」と言うのは関連するのですね。
特に住吉三神はオリオン座の、三つ星に対応するということです。
日本では三つ星として知られるδ星、ε星、ζ星はそれぞれ、表筒男命、中筒男命、底筒男命という住吉三神とされることがある。 沖縄では、オリオンのベルト部分にあたる3つの星を「黄金三星」(こがねみつぼし、クガニミチブシ)と呼び、神が住む星とされている。
「筒(つつ)とは、円筒形状であり、星のことである・・・」
そうするとやはり住吉三神の正体が、航海で星を観測するための望遠鏡との仮説は、かなり信憑性が高まると言えそうなのですよ。(2014年6月19日追記)
まーそもそも十種神宝については、「ゆらゆら振るうと死人も蘇る」程の奇跡を起こせるという、怪しげなオカルトチックな伝説がつきまとってくるのです。
何やら旧約聖書のアレみたいな印象が拭えないのですが・・。
日本古代史の大いなる謎。果たして・・・(ー_ー)。
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これは1937年、ウズベキスタンのフェルガナの洞窟で見つかった、紀元前2000年に描かれたらしい壁画。
一説に12000年前の遺跡だとか・・・紀元前2000年といえば日本は縄文時代のこと。
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では壁画をちょっと見てみよう
以下のサイトより引用しています。
http://www.bibliotecapleyades.net/esp_uzbekistan.htm より。
フェルガナの宇宙飛行士と題されてます。
空飛ぶ円盤。
今の機械文明というのは、何番目の文明なんだろうか。
ところで左の三つ目の人物の手は、仏教で言う所の「九品」の中品ナントカの形だとすると、釈迦が生まれたのは紀元前438年頃らしいので、この壁画は学者が考えているより新しい?仏教壁画という可能性もありそうです。
そういえばキリスト教のイコンでもこの手の形が見られる。それとも九品の手の形は紀元前2000年に遡るということでせうか。
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日本各地の白髪山・白髪岳
この山々が何故、白髪山と名付けられたのか。特に記録が残されていないので、長い間意味不明でした。
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白髪山古墳から謎の解読
白髪の爺さんがいたから白髪山なのか、程度の推測しかできません。しかし前方後円墳矢印説では、白髪山の謎が解けてしまいます。
解読するには、清寧天皇陵と治定されている「白髪山古墳」を調べます。
『「天皇陵」総覧』より。
この測量図から導かれた前方後円墳の中心軸を、遠方へ伸ばします。
すると
青い線が中心軸の延長線です。
その先には白髪山がありました。
白髪山古墳は、白髪山を示していたということです。
さらに緑色の線は、白髪山古墳・白髪山・白髪岳を結びつけたライン。
見事に線上に並んでいます。
これはつまり白髪山古墳の被葬者(清寧天皇)が、幼い頃から白髪だったために、「白髪武」という諱を名付けられたことを、古墳の方角と山の名で明確にしているのです。
前方後円墳矢印説により、これまで判別が不能だった、全国各地の前方後円墳の真の被葬者を導き出すことが可能です、
被葬者の魂が救われることに繋がるということかもしれないです。
この古代倭人が残した未知なる叡智発見の詳細は、今後も随時解説します。
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追記(2014年10月15日)
前方後円墳矢印説については、井上赳夫氏の著書「増補・日本古代史の謎は解けた!」で「前方向法則」として登場しています。
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原稿が8割方まとまって来た所ですが、いろいろ考えていたら何か鬱になって来ました。今回は前方後円墳矢印説で解明する大仙古墳の被葬者について、かいつまんで取り上げます。
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大仙古墳のデータ
全長486m。
5世紀前半の築造。
被葬者治定:仁徳天皇
仁徳天皇の事績
・大鷦鷯尊の誕生時、産殿にミミズクが飛び込んできて、武内宿禰が応神天皇に吉兆であると話した。
・仁徳天皇の異母弟に速総別(はやぶさわけ)、その妹女鳥王(めどりのみこ)。
・仁徳天皇の諡号は「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」で、『学研漢和大字典』によれば、鷦鷯とはミソサザイ(サザキ)という、雀に似た小さな鳥を意味します。
・諡号「大鷦鷯」は、鳥を2匹繋げている特殊な名前。
・古事記の諡号は「大雀命(おほさざきのみこと)」で、やはり鳥。
・仁徳紀では、幾つもの鳥に関する歌が詠まれている(日本書紀)
・百舌鳥の由来は鹿の耳にモズが飛び込んで死んだところから(日本書紀)
仁徳天皇 - Wikipediaなどより
これが古墳の謎を解く上で重要でした。
調査結果:前方部方面
まず大仙陵古墳の中心軸を測って、その線をまっすぐ延長していくのです。
すると、線上に仁徳天皇と、鳥に関係する地名が連続すると判明します。これが前方後円墳が個人情報を指し示すという、前方後円墳矢印説です。
(これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」です)
まず、和名抄の郡郷名があれば、ある程度古い地名と判明。しかし八幡神社の創始は欽明天皇の時代(571年)らしいということで八幡神社は除外する・・・というふうにこれらの見つけた地名の中から、後世の建物をどんどん削っていく・・・。そして結局仁徳天皇の時代にすでにあったであろう地名を残していくと、こうなったわけですが。
大仙古墳が築かれている大鳥郡の百舌鳥耳原から、→鶴田町→鳳南町(鳳)→鶴山台→黒鳥町(黒鳥天満神社)といった並びがあり。
一直線上に幾つもの鳥の地名が並んでいるのは、仁徳天皇にちなむようで意図的な配置と言えます。
鶴田町と鶴山台は何時の時代の地名なのか判別不能で、それ以外はすべて奈良時代以前からの古地名でした。
和歌山県内では、鳩羽山→且来八幡神社。八幡神社は、鳩を八幡神の御使い・シンボルマークとしていますので。
さらに
→幡川(鳩)→鳥居→雲雀山→衣奈八幡宮(鳩)→、高坪山(鷹)
といった感じで、仁徳天皇にちなむ鳥の地名が続いていくわけです。
調査結果:後円部方面
大阪府内では我孫子(アヒルの子)→鶴見区→常磐町(朱鷺)→音羽町(鳥の羽)→高塚町(鷹)→八幡(鳩)
と鳥の地名が羅列します。
京都府内を見れば、羽束師志水町、羽束師坐高御産日神社→羽束師鴨川町→上鳥羽→鷲尾町。
京都の鳥羽は、昔から山城国紀伊郡鳥羽郷があったことに由来していました(和名抄より)。
滋賀県内では、比叡山延暦寺の北方に「比叡山鳥類繁殖地」。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば、1930年に天然記念物の指定、「各種ノ鳥類殊ニ有益小禽類ノ蕃殖地トシテ関西地方ニ於ケル著名ノモノナリ」。これは偶然なのかもですが。
そのさきに、高島市高島(鷹)。
福井県内では敦賀市(鶴)→鵜甘神社→八幡神社→鹿谷町西遅羽口→高尾岳(鷹)と鳥の羅列。
石川県白山市の両白山地中に鷲走ヶ岳→鷲走谷→八幡神社(鳩)→高倉山(鷹)→烏帽子山、高尾山(鷹)→八幡神社(鳩)→鷲岩→正八幡大神宮(鳩)→八幡宮(鳩)→護国八幡宮(鳩)→八幡宮(鳩)→八幡社(鳩)がありました。
これは偶然とは言え無いのです。
調査結果:東側の造出し方面
仁徳天皇陵の造出しが応神天皇陵を示すのは、親子関係を表すものかもしれません。
まとめ
鳥の名を連続させることで、大鷦鷯尊(仁徳天皇)の御陵であることを示すものと結論付けました。
古墳築造年代が、やや合わない?仁徳天皇陵は上石津ミサンザイ古墳ではないか?いいえ、間違いなく大仙古墳は仁徳天皇陵であろうと考えます。
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『日本書紀』にある、神功皇后が葬られた狭城盾列陵は、奈良市山陵町の五社神古墳(ごさし)に治定されます。全長273m。4世紀末の築造。
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京北班田図
西大寺に伝わっていた奈良時代の地図『京北班田図』に「神功皇后山陵敷地」の名が記載されており、これを元に文久三年(1863年)に五社神古墳が神功陵と治定されました。
『「天皇陵」総覧』より。
五社神古墳の中心軸を測り、そこから線を前方部方向へ伸ばしてみます。
すると完璧に、神功皇后の宮殿「磐余若櫻宮」に遭遇します。
五社神古墳の前方部が磐余若櫻宮を指しているのは、この古墳が神功皇后陵であることを後世に示すためと考えられます。
五社神古墳は入門レベルです。
他の古墳の場合には、例えば律令制時代の郡・郷名と、延喜式の式内社をよく調べ、照らし合わせないとわからないものなどもありました・・・。
このようにして原稿にまとめてます。
天皇陵の中の前方後方墳、上八角下方墳、皇族、貴人の前方後円墳、または中心軸を導き出せる古墳の中で、被葬者名が伝わっているもの60~70基程度、全て調査しました。
しました所、恐らくもう前方後円墳とは、被葬者に繋がる何らかの対象物を指し示す、矢印の役割ということで間違いがなさそうです。
あとは、死ぬ前にどこかの偉い先生に見て頂いて、感想をいただこうと思ってます。
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王仁(わに)といえば応神天皇が百済から招聘し、孔子について書かれた「論語」などを携えて日本に来た学者です。百済から来たと記紀にあるので、一般的には百済人だと考えられます。しかし・・・
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じつは韓国に王仁の記録書物は、全く存在しないらしいです。日本の記録を元にし「日本に先進文化を伝えてあげた韓国の偉人」として祀っているとか。韓国に王仁の記念碑を建てたり、何の手がかりも無いのに、王仁墓を作って自治体の史跡扱いとなっているとか。
一方で韓国では、「日本書紀」の任那日本府の記録は出鱈目だとか言ってました。自分に都合のいい王仁の記録は祀り上げているのに。まぁ俺王仁の親戚じゃないし、どうでもですけど。
琅邪王氏の王仁
ところで、「邪」の一字だけで、元は山東の琅邪郡を指すとか。これは手元の辞書にあるのですが。
琅邪郡とはもともと琅邪王氏の土地でした。邪王氏の系図の中に、「王仁」という名前が見えます。
「王仁と同名の人物が、琅邪王氏には居た」
ということですよ。時代は違いますけど。
琅邪王氏が書家であるのを踏まえ、名前が同じ人が一族に居た。となると、「倭に渡来した文人・和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」ということですよ・・・。
そういえば和迩氏といえば、そもそも渡来系と見られるのに、孝霊天皇の子孫を自称してるということです。
和迩(wani)が王(wan)を元にした名ということであれば、やはり大陸系の名を反映してると見れそうです。
琅邪王氏の初代は「王吉」で、wan-kichiと読めば和迩吉師(wani-kishi)の名前とそっくり。この王吉は後漢時代の政治家で、「論語」など五経を好んで読んでたということです。
王吉 wan-kichi
和迩吉師 wani-kishi
「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」で皇帝だったとか。
ますます琅邪王氏の王吉の流れが、王仁に直結している可能性が見えてきました。
すると王仁は百済人ではなく、中国の山東半島の琅邪王氏との仮説に、信憑性が高まりましたね。韓国人にとっては、衝撃的な考察?
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