たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

美豆良(みずら)の謎から解く日本人のルーツ

美豆良(角髪)と書いてみずらと読む。これは古代の倭人の髪型でした。今回はみずらについて。


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みずらは色んな種類があった

 

埴輪でよく見られる髪型です。倭人の髪型は色んな種類があってバラエティ豊かな中でも、美頭良は倭人の一般的な髪型のひとつとして定着してたようです。

古い形では「耳の前に髪の毛を束ねる、又はもみあげを伸ばしてコヨリ状にひねって垂らす形」で、その後飛鳥時代には「紐で八の字型に結った形」となり、奈良時代以降は流行りが廃ったのか、美豆良は消滅してしまいました。

 

埴輪の頭部の形状を種類ごとに分類してみました。ここにあるものがすべてではないかもしれません。

 

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このみずらとは一体何なのか?

ξ ゚д゚ξ

 

ルーツは大陸にあるのか

 

縄文時代(2万年前~紀元前300年頃)から受け継がれてきた、日本独自の髪型?しかし縄文時代の数多くある土偶からは、美豆良を全く確認できませんね。

つまり美豆良が弥生時代以降に誕生した髪型であることが分かります。日本独自の髪型なのに、縄文時代には無かった?

 

これはWikipediaにあるDNAのハプログループの順番を、入れ替えたものです~。

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 遺伝子学については全くの素人で、全くの低学歴ですけども、なんとなく分かりますね。HAN(漢族)=中国人、韓国人、アイヌ人、アンダマン人、日本人、チベット人の順に並べ替えてあります。

青い枠で囲ったところが、民族を代表する遺伝子のハプログループです。中国人と韓国人はO3が最も多くなってます。

日本人、アイヌ人、チベット人、アンダマン人が「D」が最も多いですね。

 

アンダマン人というのは東南アジアとインドの間のベンガル湾に浮かぶ、アンダマン諸島の人々のことですよ。

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なんで日本人は、日本に近いところに遺伝子が似ていなくて、遠い国の人と遺伝子が近いのか、不思議ですね。

日本の偉い学者さんは、定期的に「日本人の遺伝子は韓国人に最も近い」なんて発表するんですよね。これも、なんでか不思議ですね。

ブームを無理やり作ろうとする人は学問の研究にも取り入って、目の前の調査結果すら、変容させてしまおうとするのですかね。

 

で美豆良の話に戻りますと。つまり古代のチベット人なりどこかの国の人が、美豆良という髪型の文化を保有しているということにでもなれば、日本人のルーツが見えてくるんですよね。

弥生時代以降に登場した美豆良の起源がどこにあるか。

まずは倭の近隣諸国、特に古代の韓国には、美豆良文化があったかどうか?が気になるところですね。

 ・・・・無いですね。

百済はどうか知りませんが、新羅高句麗、こういった古代国家の人々は美豆良という髪型は好んで無かったみたいですね。

 

下はベゼクリク(中国新疆ウイグル自治区)の壁画。

mediaevalmusingsより

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上のサイトによると、ソグディアナ人らしいのですが、ベゼクリクの位置的に見て、5世紀のこのあたりは高車、突厥烏孫、エフタルなどが入り乱れてた地域だったので、断定はできませんですね・・・。右は日本の人形塚古墳と島田一号墳からみつかった倭人の埴輪。完全に一致?

(画像引用サイト ハニワな日Glich news

 

次は古代のチベット人のご先祖様。 

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これは520年代の中国梁朝の頃に描かれた「蕭繹職貢図」の、鄧至(とうし)の使節を描いたもので、ウィキペディアから引用した画像です。

鄧至は羌族だからチベット人のご先祖の一種ということにもなりそうですが。見事な美豆良が見えますね。日本とチベットはDNAだけでなく美豆良でも一致してたんです。

 

次に、アフガニスタンのmundigakの遺跡で見つかった紀元前1500年の美豆良。

http://www.cemml.colostate.edu/cultural/09476/afgh02-02enl.htmlのサイトの写真です。

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アフガニスタン北部で紀元前1500年というと、いまから3500年前のことで、この付近はアーリア人の土地でした。

つまりアーリア人が日本の古墳時代と同じ髪型をしてたってことになると、なんか奇妙な感じがしますね。

顔の下で紐が結ばれてるのも、古墳時代倭人の服装とそっくりですね。なんでですかね。それとも年代が間違っててバクトリアの埴輪だとすると、ベゼクリクの壁画と年代が近くなるのですけどね。

 

 

シルクロードで繋がったみずら

 

倭人の美豆良と同様の髪型をもってた民族を表すと、こうなります。シルクロードで繋がってたんでしょうね。

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で、美豆良っていうと日ユ同祖論の研究者の方は、イスラエルユダヤ人の髪型ペイオトのことだとか言いますね。それでユダヤ人が日本へ渡った証拠の一つだとか。

日ユ同祖論はスタート地点のイスラエルと、ゴール地点の日本だけに注目してしまう傾向にあると思われるので、こうした中継地点について、もっと研究して欲しいです。

髪型が一致しただけで、倭人のルーツがユーラシアの遠方の民族と言い切るのはどうか?

たぶん日本のプロ・アマの古代史研究者はみんなそう思いますが、遺伝子と古代の髪型という2つの要素が合っている、少なくとも日本とチベットで確認できるという点は無視できないんではと素人ながら思います。

おわり。

 

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前方後円墳は矢印だった

前方後円墳矢印説の概要公開

 

全国の津々浦々にまで巨大な威容を誇らしめ、またはひっそりと佇んでいる、数多くの前方後円墳

前方後円墳の正体とは、従来より弥生時代末期以降の権力者の埋葬施設、権力誇示のためのモニュメント、地域の目印、そういった目的があることは知られてきました。農作業が出来ない時期の公共事業といった意味合いも、あるのかもしれません。

・・・ところがある日、武蔵の国のどん底で、どん底でもいいやと思いつつ、追っかけ回され覗き見され、馬鹿にされつつ、それでもお茶をすすり、くつろいでいたワタクシが思いついたところでは、前方後円墳には

 

「被葬者にとって思い入れの強い場所を指し示す矢印」としての目的が含まれているようだなと、そのように感じ取った次第なのですよ・・・。

これは一部の公開としますが、詳細な検証結果は後日に発表することになると思いますよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

以下に記載される記号について、簡単に解説を行います。

● は古代の天皇が埋葬されたとされる前方後円墳

◯  は皇后が埋葬されたとされる前方後円墳

━━のラインは前方後円墳の中心軸から前方部方向へ伸ばした、まっすぐな線。

□はその線上に近い場所にある、それぞれの人物の宮殿や出身地、または思い入れの強い場所。

・数字は歴代天皇の順番。

・全ての前方後円墳の中心軸に線を引き、前方部へ向けて線を引いてあります。

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これまでに前方後円墳が矢印であるとの指摘は無かったとすれば、従来の古代史研究の常識には無かった仮説の提唱となるのかもしれませんが・・・もし既に提唱されている場合は、教えていただけると助かります。

(で、これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」とおなじ理論であると知りました。)

 

以下に記すのは、これまでに僅かに調査と研究を進めてきてたどり着いた結論の一部です。この内容は、今後出版予定となっています。

 

 (これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」であると知りました。一応消さずに残しておきます。)

 

 ・神功皇后陵から線を引くと、神功皇后の居住した「磐余稚桜宮」伝承地へ寸分の狂いも無く到達する。

 ・応神天皇陵から線を引くと、応神天皇の居住した「難波大隅宮」伝承地へ寸分の狂いも無く到達する。

 ・垂仁天皇陵から線を引くと、垂仁天皇の生まれた「磯城瑞籬宮」伝承地、居住した「纏向珠城宮」伝承地へ到達する。僅かに5度~7度の誤差が出ているだけ。

 ・垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵から線を引くと、「纏向珠城宮」伝承地と、父・丹波道主命の名前を冠する「丹波市町」の近くを通過する。誤差5~7度だけ。

 ・雄略天皇稜から線を引くと、雄略天皇の居住した「泊瀬朝倉宮」伝承地の近くへ到達する。誤差にして10度だけ。

 ・継体天皇陵から線を引くと、継体天皇の居住した「磐余玉穂宮」伝承地の近くへ到達する。誤差にして6度だけ。

  ・仲哀天皇稜から線を引くと、敦賀の「気比宮」へ到達する。他にも多数当てはまる

 

というわけでした。

誤差が発生するのは、前方後円墳の矢印が、特定の一箇所だけを指し示しているわけでは無いからだと見られます。たとえば大和三山大神神社も含め聖所全域をさしているとも考えられるので。

誤差が10度以内だと、古代の「たぶんあのへん」という情報を元にした測量のレベルからすれば問題の無い水準と思われます。

 


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3世紀の倭に騎馬民族系の人々が居た?1

今回は騎馬民族は倭にいた説でちょっとした仮説。

 

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騎馬民族征服王朝説でなく騎馬民族倭人融合説として捉えてみる

 

かつては一大センセーションを巻き起こした「騎馬民族征服王朝説」は、考古学的調査が進むと共に、いまや否定派が多数を占めるようになっていると思います。

しかし個人的には、「騎馬民族或いは遊牧騎馬民族が、古代の倭へ流入した」という仮説は、決して夢物語ではないと思ってます。

江上さんの騎馬民族征服王朝説を否定することは自由ですが、その辺りはまず、以下に示す様々な考証を閲覧し、検証してからにしてみてください。

(このテーマは執筆中の本に載せる内容の一部とすることにしました~。)

 

今回は疲れきったわたくしに代わりまして、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)さんが解説してくれます。

伊弉諾尊さんは神様なので、現代語でも話せます。では伊弉諾尊さん、お願いします。

 

 

1・三世紀に牛馬が居たかも

 

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実は魏志倭人伝の時代には牛馬がいたかもしれない、真実は隠蔽されたかもしれないという話。

 

魏志倭人伝には「倭には牛馬無し」と書かれているので、通常の考え方としては、騎馬民族征服王朝説は、卑弥呼の生きていた3世紀前半に当てはまらないと考えられます。

3世紀以前の牛馬の骨自体も見つかっていないので、これは考古学的にも明らからしいです。

五島列島で牛の骨が見つかってますが、肝心の九州や本州といった大きな島から、出土例がない状況は変わっていません。

 

ところで魏志倭人伝の諸国名は、用いる漢字の意味で、地勢や特色を反映しているものと見えます。

例としては対海国、これは対馬のことで、ご存知の通り対馬は、対馬海峡の真っ只中にあります。西水道と東水道という2つの海域が対になっているために、「対になった海の国=対海国」の意を込めて名付けられたと見えます。

伊都国、伊は「殷の知恵者」という意味があり、殷は紀元前1,500年頃、古代中国の初期に成立した王朝です。都は「みやこ」であることから、知恵者のいる都市。

これはつまり伊都国に一大率という監視組織があることで「知恵者がいる都」として相応しく見えます。

以上のように漢字の意味が、国の特色をある程度反映している場合があると見えます。一方で、単に倭人の発音した言葉に適当な漢字を当てはめた国名もあるようです。

これと同様に、倭の諸国と人物に纏わる漢字について、考えてみました。

 

 

馬がいない筈の倭国の諸国名に、馬の名が使われているケース

 

以下のとおりです。

「投国、邪壹国、斯国、邪国」の4つ。

「馬」の発音は古代からmag/maですが、maと同じ発音の漢字は、幾つもありました。麻(mag/ma)、摩(mua)、磨(mua)などです。

なんで投麻国、邪麻壹国じゃだめだったのか。わざわざ馬の字を使わないといけなかったのか、と考えると、妙に感じませぬか?

 

次に人物について

 

倭国の官吏・外交官の名は、

難升米、都市牛利、伊声耆、掖邪狗、載斯烏越、卑狗、卑奴母離、爾支、泄謨觚、柄渠觚、兕馬觚、多模、彌彌、彌彌那利

 

以上の14種が登場します。

これらの名称は、恐らく役職名と個人名が混ざっているものと見えます。青字で示したのは個人名と考えます。

この中で、倭にいない筈の、牛馬に繋がるキーワードを持っている名前は、都市牛利と兕馬觚(しまこ)を見つけることができます。

」とは牛のような生き物を表す漢字で、兕馬觚がなぜ2大家畜を表す漢字を併せ持った名前を付けられたかは不明です。どうしても牛馬に関連付けたかったみたいです。

兕と同音の漢字などいくらでもある中で、なぜこの特殊な兕を用いたのか。

これはつまり魏志倭人伝では表向きは牛馬は居ないとされるだけで、実際には牛馬がいたことを示唆するのかもしれないと思うわけです。

こういう考えは恐らく多くの方が提唱してるでしょうけど。

14種のうち、牛馬の名を持つ官はわずか2名。含有率にして14%となります。

 

一方で、上記に取り上げなかった邪馬台国の官吏の名を見ていくと、特殊性が分かります。

「彌升、彌獲支、奴佳

 

」は平らな皮革、或いは革製品を表す言葉です。なんでこの漢字を使ったのか?

そして「鞮訳」と書けば「西方や北方の異民族のことばを通訳する人」の意味となり、中国から見て北方西方の異民族とは、遊牧騎馬民族に他ならないわけなのです。

「鞮」自体に「北方や西方の異民族」という意味合いが込められていることが判明します。

なぜそういった意味を込めた「鞮」が使われているのか、疑問が出てきます。

「テイ」という音を音写したいなら、より単純な発音の似た漢字、低(ter/tei)、底(ter/tei)、堤(teg/tei)などでも良かったはずなのですよ。

 

邪馬台国の官吏3人は、全て牛馬に関係していますし、奴佳鞮に至っては騎馬民族を表すに等しい漢字まで使われてます。含有率にして100%。

 

邪馬台国以外の官吏・外交官の名に牛馬に関わる漢字が含まれる率 2/14= 14%

邪馬台国の官吏名に牛馬に関わる漢字が含まれる率 3/3= 100%

 

邪馬壹国の官吏の名は、全て馬に関係している。しかも邪「」壹国であるから、これは偶然ではあるまいと。しかも倭国を支配した邪馬台国の人物がもし騎馬民族系の出身であるとすると、日本の従来の歴史の通説が変わってきてしまいますが・・・。

ただし、彼らが軍用馬・常用馬を用いた倭人との想像はできても、騎馬民族系渡来人そのものと、この時点では断定はできませんですな。

 

しかし対馬海峡上で馬を日本列島に運搬することができなかった、としても、人間が渡らなかったことにはならない。馬は無理でも人間は渡海した、その証拠は次の要素で証明ができます。

 

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古代史漫画キャラ~伊弉諾尊~

 

古代史キャラの設定します。

 

古代史の登場人物は髭ヅラだらけなので、髭愛好家の方にはおすすめです。

 

伊弉諾尊

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キョロキョロ伊弉諾尊さん

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まじめ伊弉諾尊さん

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ツンデレ伊弉諾尊さん

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漫画をひとつ完成させようと思いましたが、とりあえずプロじゃないし、話を大きくすると、他のことが出来なくなりそうで大変なので、簡単に短編など描いてみます。

あまり期待しないで下さい。つづく。

 

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 世界の言葉がわかるサイトがあった

以前「open dictionary」という、世界の言語の発音を集めたサイトがあったのに、何時の間にか無くなってしまいました。

 

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しかし次のような同様のサイトを見つけた

 

「BABEL~世界の言葉~」

http://www.tekiro.main.jp/

 

英=英語 独=ドイツ語 仏=フランス語 伊=イタリア語 西=スペイン語 羅=ラテン語 
希=ギリシャ語 露=ロシア語 中=中国語 韓=韓国語 オランダ語 アラビア語 
ペルシア語 マレーシア語 ポーランド語 デンマーク語 スウェーデン語 ノルウェー語 
フィンランド語 スワヒリ語 トルコ語 ベンガル語 ヒンディ語 モンゴル語 タミル語 
リトアニア語 ルーマニア語 チェコ語 ヘブライ語 広=広東語 琉=琉球(沖縄)

といった多様な言語に対応してる。書籍も出てるようです。

 

ページ右側の検索窓から検索できる。

ちなみに「こんにちは」を検索すると、次のようなページ内容になりました。

http://www.tekiro.main.jp/?search=%A4%B3%A4%F3%A4%CB%A4%C1%A4%CF

発音がカタカナ表記されてるのがわかりやすい。

 

ちなみにグーグル翻訳でも、かなり調べられる。

http://translate.google.co.jp/

しかしペルシア語など、文字を理解していないと読めません・・・

 

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ペルシア語は右から左に読むらしい。

発音がアルファベット表記されれば良いのに。

 

ともかく、ふとした瞬間に「この言葉はあの国では何というんだろう?」と思うことがあるような、そういう方には、こういったサイトは有意義なものになるのではないかと。

バベルの塔 - Wikipedia

 

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古代の諸国の君主号と、倭の大王に良く似た君主号を持つ国 2022年改訂版

今後の展望。メモしときます。

 

日本民族ユーラシア諸民族起源説」

 

日本人の起源はどこにあるのか。

その点について魏志倭人伝では、倭人の出自は中国の呉であり、文化的には儋耳・朱崖(海南島)に近いとあり、やはり南越人、呉人が元であると指摘があります。

このあたりは魏志倭人伝にもあるし、別に反論する人はあまり居なそうです。

 

また西域・中央アジア・中東などシルクロードの諸民族が日本人の起源であると提唱しているのが久慈さんで、著書に「シルクロード渡来人が建国した日本」があります。

故・江上波夫さんの騎馬民族征服王朝説では騎馬民族天皇家の起源とされてます。これは代表例ですが、多くの方が天皇家日本民族の大陸起源説を発表しています。

日ユ同祖論となると多くの人はトンデモなどと囃し立てますが、個人的には調べたいテーマのひとつです。

 

あくまでも天皇氏族は日本列島で生まれたとする説を押していく場合でも、大陸の王侯貴族文化の流入、影響などは考慮せざるをえない状況が、古代天皇の行事や祭祀には含まれているのではと思います。

ところが皇室が大陸起源とかいうとアホだの、やれ左翼だの日本人じゃないだろ帰れとか言われますが。

純粋に起源を求めて証拠を集めたらあっちのほうだった、ということなら、しかたがないのですが、大抵はトンデモ扱いされます。

 

 

天皇烏孫起源説」

 

これは調べたことがある人は、あまりいないのではないかと思います。いずれまとめますが、さわり程度だけお話ます。

烏孫は紀元前に中央アジアにあった遊牧騎馬民族国家でした。超大国匈奴に従属していた西域の小国でしたが、前漢の時代にはやがて強大な力を持ち、中国とも深く交流していました。

文化的には匈奴と同じようなものだったようですが、人種は全く異なり、イラン系の白色人種だったようです。烏孫があった土地は現在のキルギスカザフスタン・中国の新疆ウイグル自治区です。

キルギスでは

「昔キルギス人と日本人は同じ民族だったが、魚が好きな者が東の日本へ向かい、肉が好きな者が西のキルギス人となった」

のような伝承が語られているそうです。

何故天皇氏族がキルギス烏孫起源説なのかですが、実は長年の間これについて調べてきました。その要素は山ほどあります。

 

 

君主号

 

藤ノ木古墳 - Wikipedia

 

日本の7世紀以前の古代の支配者は「大王」と呼ばれ、これは「おほきみ(おほきみ)」と発音しました。

ほかに御子(みこ)、天子ともいいました。天皇と呼ばれ始めたのはずっと後のことで7世紀後半の天武天皇持統天皇が、最初に天皇号を名乗ったらしいです。

隋書倭国伝には

「開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏彌」

ということで、この阿輩鶏彌が大王(おほきみ)です。

「大」は昔の官職の中で、地位や序列が上位に位置する場合に頭文字として付けられたり、または偉大である意味を込めている時もあります。

きみ」は国を治めている人、主君、天皇陛下のことも君と表すことができたようですが、いまは単純に「あなた、お前」の意味合いで使われがちです。

つまり天皇陛下は大昔は「きみ」「おほきみ(おおきみ)」と呼ばれていたのです。

 

 

アジアの君主号

 

次に日本の近隣諸国の君主の王号・君主号は何と呼ばれていたか。これを調べると次のようになります。

倭     大王(きみ・おほきみ)、御子(みこ)

琉球    按司あじ)、世の主(よのぬし)

新羅    尼師今(爾叱今、ニシキン・ニクスム)

百済    犍吉支(コニキシ、↑の尼師今と似ている)

      麻立makri(麻立干、新羅の初期王号)、契丹に李祜莫離(枯莫離)

      麻立・莫離は高句麗語らしい。

高句麗   大加(タイカ高句麗の有力者層のこと。4世紀以降に太王が王号、

秦・漢   皇帝(秦以降は皇帝)、天子

匈奴    単于(ゼンウ)

鮮卑・蒙古 可汗(カガン・カーン)

パルティア アルサケス

ペルシア系 シャー(シャーハンシャー)

 

新羅の尼師今(爾叱今)、犍吉支は、伊都国の爾支と関係があるような気が?

(そもそも「新羅の4代目の王・脱解尼師は元々倭の多婆那国から新羅へ渡来した倭人」であるので、伊都国と関係がないとはいえない) 

 

 

烏孫の君主号

 

ということで、「おほきみ、きみ」の君主号に似た君主号は、高句麗が僅かに関連を感じさせるものがありましたが、完全な一致を見つけることはできませんでした。

そりゃそうだ、というのが大方の見解で、大王(おほきみ)は倭国独自の君主号だということになります。ユーラシア大陸中を探しても無いということでしたー・・・・。

 

ところが・・・日本の「大王(おほきみ)」によく似た君主号が、中央アジア烏孫にありました。これは班固の漢書に書かれてますが、烏孫の君主号は「大昆彌(ダイクンミ)で、「大王(おほきみ」とよく似ているのですね。

大きみ 大kimi

大昆彌 大kunmi

こうして並べると似てるのが分かりますが。これだけだと、偶然かもしれません。しかもこれはほんの序ノ口なんですけども。

以上、トンデモに分類されるお話でしたが、わたくし、天皇家はこの烏孫から来ている可能性がある、または少なくとも密接に繋がってる、と思っています。

この点については指摘している人がお一方いますが、その方はあまりこの点には踏み込んではいないようなので、私が話を進めてしまいます。

つづく。

 

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馬王堆漢墓の帛画と倭の接点

馬王堆漢墓は中国の湖南省にある、紀元前2世紀の墓。前漢当時の利蒼さんと奥様のお墓らしいです。今回は馬王堆漢墓について。

 

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馬王堆1号墓の帛画

 

馬王堆1号墓には帛画(はくが、帛=絹)があり、古代中国の神話が題材として描かれてます。

 

馬王堆漢墓 - Wikipedia

天の女禍、太陽の烏、月の蛙と兎、四頭の龍、扶桑の木、人間界、地上の祭祀、地下で大地を支える男、二匹の魚・・・

中国神話の要素が凝縮されております。

絵画の芸術性、表現力、キャラクターデザイン、配置、色使い。すべての要素が百点満点のすごい画力です。

 

 

国史書の扶桑の記録

 

それでどうやらこの帛画は、日本に関係するようです。

まずは中国史書の扶桑の記録を見る。

 

扶桑

◯「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝 (下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)」(山海経

 

◯「大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰溫源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏 (大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)」(山海経

 

◯「海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯 (「海外経」によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、(そこの海水は)湯のように熱い)」(史記

 

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扶桑 - Wikipedia

 

帛画の右上部分が、扶桑を描いた部分で、帛画の太陽の数は9つで、神話の10個という数字とは数が合わないんですが、数は違っても同様の神話を描いたものです。

扶桑とは伝説上の国とされる一方、日本の古称が扶桑だったことから、一説に扶桑とは倭そのものであると言われています。

山海経の中に「扶桑は黒歯国の北」とあります。これは魏志倭人伝

「女王国の東にまた国あり、皆倭種なり、侏儒国あり・・・女王国を去る4千里、裸国あり、黒歯国あり、またその東南にあり、船行1年にして至る」

とあるように、黒歯国は大変遠い場所との認識がありました。18世紀のフランスの東洋学者により、北米大陸だとの説も提唱されました。そうすると東南の黒歯国とは、南米大陸か、などとも言われます。

wikipedia扶桑国

 

 

熊野大社が関係するか

 

仮に扶桑が倭種か、或いは日本列島だとすると、日本の神社が関係してるかもです。

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熊野本宮大社 - Wikipedia

和歌山県田辺市熊野本宮大社。シンボルマークは太陽の中の八咫烏

これは扶桑の木の、太陽に烏がいるとの中国神話が、そのまま描かれてます。熊野権現は、扶桑と関係があるらしいです。

 

実は知られてませんが、熊野三山の祭神の名を見ると、扶桑の名が見られます。

熊野三山の祭神は大変多いのですが、本来の主祭神は次の計四柱であるとされます。

 

熊野本宮大社主祭神 家都美御子大神

熊野速玉大社の主祭神 熊野速玉大神、熊野夫須美大

熊野那智大社主祭神 熊野夫須美大

熊野本宮大社 - Wikipedia

この中の「夫須美」が扶桑のことだと思います。

熊野三山とはもしかすると、本来は扶桑の神と太陽の中の烏を祀っていたのかもしれませんです。で、もうちょっと踏み込めるんですが、自重します。

 

この八咫烏は神武東征のときに、神武天皇の道案内をしたという伝説上の烏ともされておりました。

神話の八咫烏と中国神話の扶桑が、結びつくというのが不思議な感じがします。東方の扶桑の八咫烏が、どうして古代の中国人にも知られていたのか。

 

 

崑崙と筑紫の関係

 

そしてもう一つ、宋書に気になる記述があります。

「東造扶桑游紫庭 西至崐崘戯曾城 (東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて曾城に戯る)」(宋書

扶桑 - Wikipedia

東の扶桑と共に、紫庭という地名が出てきます。これは筑紫のことではないかとの説があるようです。

扶桑は西の崑崙と一対になっています。崑崙とは西王母の居る崑崙山のことで、新疆ウイグル自治区チベット自治区の間の山脈です。

なぜ極東の扶桑・筑紫と崑崙が一対になっているのかというと、これは普通に解釈すると、太陽が昇るのが東の扶桑、通過点が紫庭、沈む場所が西の崑崙と捉えることができます。

古代中国の思想の中での太陽は、東の扶桑と西の崑崙を行ったり来たりするものであるということです。

扶桑が八咫烏という一部族を表すものだとすると、熊野の祭神と八咫烏の出自には、扶桑、紫庭(筑紫)、崑崙の三ヶ所が密接にリンクしているように思います。

 

倭人がなぜ崑崙の西王母の描かれた三角縁神獣鏡を大量に造っていたのか。

扶桑、太陽の烏、筑紫、崑崙、西王母三角縁神獣鏡熊野三山八咫烏

こういった幾つかの要素が、全てつながっているようです。

馬王堆漢墓の帛画からは、日本人の一部族のルーツを捉えることができました。つまり扶桑から崑崙、崑崙から扶桑という太陽の動きは、そのまま民族的なつながりを意味すると。

中央アジアから倭へ、という民族的な動きがあったのは事実なのですが。そのへんは今後生きてれば、またいずれ。

 

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卑弥呼と蛇神大物主神との繋がりは「魏志倭人伝」に暗号で書かれてた? 2022年改訂版

今回は卑弥呼と大物主の関係が、「魏志倭人伝」に書いてあったのでは?という話。


○いつも助かっております

 

 

卑弥呼の特徴

 

魏志倭人伝卑弥呼を中心として倭国情勢が淡々と伝えられますが、とくに卑弥呼を表す一文として次の部分が注目されます。

其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自為王以来少有見者以婢千人自侍有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

中国正史日本伝より

 

ココから導き出される卑弥呼の特徴は次の通りです。

倭国大乱は卑弥呼の共立で収束した

・鬼道を用いて民衆を惑わした

・年は既に長大だった

・結婚していなかった

・政治を補佐する弟がいた

・女王となってから見たものはあまりいない

・部下千人を自ら従えた

・一人の男子だけが食事を運び、話を伝えるために居処へ出入りした

・宮室、楼観(やぐら)があり、城柵が厳しく取り囲んでいた

・常に人の姿があり、兵は武器で守衛していた

 

これ意外にも卑弥呼が狗奴国の卑弥弓呼と不和だったとか、魏へ使いを送ったとか、卑弥呼の死の際には殉死者百人余り、直径百歩の墓を作ったとか、情報はまだあります。

 

しかし実は魏志倭人伝に「秘密の暗号が含まれている」としたら、どう思いますか。

自分としては暗号が含まれ、表立った意味合い以外に、別の情報が込められていると考えるようになりました。

 

年已長大

 

三輪山 - Wikipedia

 

年已長大という一文は、ふつうは「年(年齢は)已(すでに)長大」であると解釈されるとか。

ところが「已」の字を、「魏志」の原文でよく見ると、已ではなくて「巳」の字が使われているのですね。

巳というのは十二支の蛇のこと。「已に=既に」とは全く違う意味合いになってきます。

ちなみに、わたくしは水瓶座で巳年です。。。

 

このブログでは常々、卑弥呼崇神天皇であり、卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命であるとの説を紹介してまいりました。

日本書紀」で倭迹迹日百襲媛が三輪山大物主神と結婚する際、「大物主の正体が蛇」であることが明らかとなります。

そして古事記崇神紀では、三輪山の語源が、大物主が引いた糸のうち残された三勾(みわ・三巻き分の糸)であると書かれます。

このことから、御間城入彦の御間城には三輪(三勾)の名が隠されており、三輪山と倭迹迹日百襲媛と深いつながりがあることが導き出されます。

 

卑弥呼を紹介する一文に巳=蛇が登場するのは、一体どうしてなのか。

 

卑弥呼は蛇と関係しているということになれば、蛇=巳=大物主を祭った「崇神天皇と倭迹迹日百襲媛」との関連は明らかではないですか。

 

この点はさらに、

崇神天皇の時代に、たいへんな疫病と百姓の反逆がおきて、それは魏志倭国大乱と呼べるに相応しいものだったこと。

日本書紀で倭迹迹日百襲媛が夢を見て占うとの役割を、古事記では崇神天皇自身が担っていること。

・狗奴国の卑弥弓呼との戦争は、崇神天皇の時代に起きた武埴安彦との戦争の記述と流れが一致すること。

・倭迹迹日百襲媛の名には百襲姫の字が含まれ、百人余りを殉死した卑弥呼と符合すること。

・直径百歩の冢(墓)をつくった記述が、倭迹迹日百襲媛の箸墓を造った記述であること

・上記の一連の流れが、魏志倭人伝崇神紀では、完全に一致していること

対馬海峡の支配者は卑弥呼であったが、地方の女酋長では対馬海峡を支配することができなかった。それは日本書紀で、天照大神から続き万世一系とも言われる日嗣の天皇だけが、対馬海峡の支配権を持っていたことから明らかなので

他にも色々ありますがこういった理由から、崇神天皇卑弥呼であり、倭迹迹日百襲媛、阿加留比売まで習合されていると分かってくるのですけども。

 

そして今回は魏志倭人伝には、鬼道の記述の直後に蛇を表す「巳」という字が登場してきたことで、

崇神天皇と倭迹迹日百襲媛命と巳神の大物主が、魏志に反映されてる」可能性が浮上すると分かったわけですけども。

 

それから巳という漢字だけでなく、他にもちょっとこれは・・・と気になる漢字が幾つかありますが、そのあたりは原稿にまとめてますので、続きは生きてればまたいずれ。

 

~2013年3月29日の追記~

 

厳密に言うと「魏志倭人伝」の原文は現存しておらず、宋の時代(12世紀)の紹煕本(異なった版木を寄せ集めてひとつの本として印刷した)が岩波文庫版の「中国正史日本伝」だそうです。詳しくはこちら

ところで「已」と「巳」の違いについて、古代から中世にかけての中国の学者が、漢字を間違ったという可能性もあるかもしれません。

しかし後漢書のなかには似た文章があり、改変を加えられ魏志に記されたのが冒頭でお伝えした一文でした。

後漢書には「巳」の字がなかったところに、魏志では珍寿が意図して「巳」を挿入したと考えます。

珍寿の編纂時から「已」でなく「巳」の字が使われたと断言できる理由は、以下にコメントをいただいた通り、卑弥呼の名前が卑弥=蛇(へみ)を意識していると解釈すれば通じるようです。

卑弥呼が魏から授与された金印も、紐通し部分が蛇型のものと推定されますが、現物は卑弥呼の墓(福岡か奈良にある)か、崇神紀で大物主神が登った三諸山(三輪山、福岡か奈良のいずれかの三輪山)にあるように思われます。

何故ならば卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=崇神天皇だからです。

 

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経津主命を描いてみた

久しぶりに絵をかきました。経津主命(ふつぬしのみこと)描いた。3時間くらいでいけました。

 

○いつも助かっております

 

 

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上が完成。

 

鎧は遺跡から出土したものを参考にし、ほかキャラ設定、美頭良、袴、草履、剣(一応布都御魂のという設定)、ぜんぶ想像。

 

下は鉛筆の下書き。

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大和三山と三輪山を繋ぐ、2つの二等辺三角形

この前は大和三山の二等辺三角形と耳成山人工山説をお伝えしましたが、実はやはり中途半端でした。どこまで発表して良いのかという逡巡を経まして、今回はもう少し踏み込んで続きを書きたいと思います。

 

○いつも助かっております

 

 

大和三山三輪山の図

 

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 この図は前回の大和三山二等辺三角形の図に拡大解釈を付け足したものです。

見て分かる通り、大和三山の三角形(水色)に加えて、もう一つの二等辺三角形(青色)を確認することができます。

 

 まず、畝傍山の山頂からまっすぐに三輪山の山頂へ線を到達させます。

さらに三輪山の山頂から大和三山の山頂に線を引くと、こんなふうに2つの三角形が現れるということです。

東西の2つの三角形を結ぶ線は、2つの三角形のほぼ真ん中を貫くことになります。

2つの三角形を合わせた四辺の距離は次のようになっていました。

畝傍山山頂~耳成山山頂 3.14km

畝傍山山頂~天香具山山頂 3.09km

耳成山山頂~三輪山山頂 6.10km

天香具山山頂~三輪山山頂 6.32km

さらに中間線の距離

大和三山の中間線2.87km

三輪山側の中間線6.08km

 

つまり大和三山の三角形の、2倍の高さのほぼ二等辺三角形を、大和三山の東側に描くことが出来るということです。

3.14kmx2=6.28km

3.09kmx2=6.18km

(いずれの数値も、三輪山からの6.10km及び6.32kmの2倍となっている)

こんなふうに、だいたい2倍になってます。

 

ここで浮かび上がってくる疑問点は以下の2点。

1・なんの目的で、こんな巨大な図形を描く必要があったのか?

2・4つの山が自然地形であるとすれば、この地形が偶然形作られたことになるのだろうか。耳成山が人工の山とすれば、古代の日本人が意図して形成したことになるのではないか。

 

三輪山というのは、崇神天皇の御宇に、疫病と百姓の流離反逆で大混乱に陥っていた倭国に平安を齎すため、崇神天皇の命により、大田田根子によって大物主神を祭ったという伝説の山です。

この当時、天照大神を差し置いて最上位の神となったのが大物主神でした。

大物主神の正体が蛇神だったことは、何処か奇妙な感覚を覚えませんか。日本の神様が蛇神とは。

どうして漢委奴国王金印のひも通し部分が、蛇の形をしていたかという事実とも関係してきます。

崇神天皇の出自と信仰とは、実は日本人が元来考えてきた歴史と神道の中身を、根底から覆しかねない要素を秘めるものなのですよ。

三輪山の蛇神と大和三山の図形を含めて、実は古代倭国はオカルト的要素に支配されてたっていうのは、賛否両論出てしまうと思いますけども。

ということで、この2つの三角形が、一体全体何を意味するのかは、そのうち説明することにします。やはり中途半端で終わります。

 

 

追伸:ちなみにこの大和三山三輪山の三角形の謎についての詳細が、「古代日本のフリーメーソン」(渡辺豊和・学研)という書物に、記載があることがわかりました。(2014年5月追記)

 

 

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