王仁(わに)といえば応神天皇が百済から招聘し、孔子について書かれた「論語」などを携えて日本に来た学者です。百済から来たと記紀にあるので、一般的には百済人だと考えられます。しかし・・・
○いつも助かっております
じつは韓国に王仁の記録書物は、全く存在しないらしいです。日本の記録を元にし「日本に先進文化を伝えてあげた韓国の偉人」として祀っているとか。韓国に王仁の記念碑を建てたり、何の手がかりも無いのに、王仁墓を作って自治体の史跡扱いとなっているとか。
一方で韓国では、「日本書紀」の任那日本府の記録は出鱈目だとか言ってました。自分に都合のいい王仁の記録は祀り上げているのに。まぁ俺王仁の親戚じゃないし、どうでもですけど。
琅邪王氏の王仁
ところで、「邪」の一字だけで、元は山東の琅邪郡を指すとか。これは手元の辞書にあるのですが。
琅邪郡とはもともと琅邪王氏の土地でした。邪王氏の系図の中に、「王仁」という名前が見えます。
「王仁と同名の人物が、琅邪王氏には居た」
ということですよ。時代は違いますけど。
琅邪王氏が書家であるのを踏まえ、名前が同じ人が一族に居た。となると、「倭に渡来した文人・和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」ということですよ・・・。
そういえば和迩氏といえば、そもそも渡来系と見られるのに、孝霊天皇の子孫を自称してるということです。
和迩(wani)が王(wan)を元にした名ということであれば、やはり大陸系の名を反映してると見れそうです。
琅邪王氏の初代は「王吉」で、wan-kichiと読めば和迩吉師(wani-kishi)の名前とそっくり。この王吉は後漢時代の政治家で、「論語」など五経を好んで読んでたということです。
王吉 wan-kichi
和迩吉師 wani-kishi
「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」で皇帝だったとか。
ますます琅邪王氏の王吉の流れが、王仁に直結している可能性が見えてきました。
すると王仁は百済人ではなく、中国の山東半島の琅邪王氏との仮説に、信憑性が高まりましたね。韓国人にとっては、衝撃的な考察?
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