たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

十種神宝・沖津鏡と辺津鏡の謎

謎の十種神宝に迫るおはなし。

 

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饒速日命の謎の神宝

 

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物部氏の伝える十種神宝。饒速日命の謎の神宝だということですが、その中に、沖津鏡と辺津鏡というものがあります。

「津」は「~の」という接続詞だとすると、沖の鏡と辺の鏡ということになる。また津は水辺を渡る意味、つまり航海の意味があるもようです。

沖とは沖合というように、目の届く遠方の海上を指すことば。辺とは「その辺」というように、目の届く近場を指すものと思われました。

つまり沖津鏡は遠くの鏡、辺津鏡は近くの鏡という意味になる。これはなんだろう。

 

遠くを見る鏡と言えば「望遠鏡」。沖津鏡は望遠鏡。

近くを見る鏡と言えば「顕微鏡」。辺津鏡は顕微鏡。

 

つまり十種神宝は、近代に発明されたような道具と、同じ性能を持ってたのではないかと想像してしまいますが。特に沖津鏡は航海に用いる望遠鏡のような、そんな風に思いました。

しかしまさか、饒速日命の時代(神武天皇の頃と同一時代、神武天皇が実在なら紀元前660年~西暦3世紀まで諸説ある)にハイテク機器があり、それが現代まで伝えられてるとかいうことになりますけど。

 

そういえば住吉神社のご祭神の、住吉三神と呼ばれる三柱の神様の名前も興味深いです。

底筒男命

中筒男命

表筒男命

 

3つの筒。この3柱の神様は、神功皇后を助けた海の神、航海の神だそうな。

航海に必要なのは、航路の先に障害物がないか、見通すこと。つまりこの3つの筒を一つに組み合わせると、やはり望遠鏡になるのではないか。

と深読みしましたが。

 

 

古語「つつ」

 

古語でつつというのは、空にきらめく星のことだとか。月を「つく」と言うのと、星を「つつ」と言うのは関連するのですね。

特に住吉三神はオリオン座の、三つ星に対応するということです。

ウィキペディアオリオン座の項には以下のようにあった。

日本では三つ星として知られるδ星、ε星、ζ星はそれぞれ、表筒男命中筒男命底筒男命という住吉三神とされることがある。 沖縄では、オリオンのベルト部分にあたる3つの星を「黄金三星」(こがねみつぼし、クガニミチブシ)と呼び、神が住む星とされている。

ウィキペディアオリオン座

 

「筒(つつ)とは、円筒形状であり、星のことである・・・」

そうするとやはり住吉三神の正体が、航海で星を観測するための望遠鏡との仮説は、かなり信憑性が高まると言えそうなのですよ。(2014年6月19日追記)

 

まーそもそも十種神宝については、「ゆらゆら振るうと死人も蘇る」程の奇跡を起こせるという、怪しげなオカルトチックな伝説がつきまとってくるのです。

何やら旧約聖書のアレみたいな印象が拭えないのですが・・。

日本古代史の大いなる謎。果たして・・・(ー_ー)。

 

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明帝国の歴代皇帝( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )

明帝国の歴代皇帝を知っていますか。『中国歴代皇帝人物事典』っていうのがありまして、そこに絵が掲載されています。

これです。

 

一番右が成祖、14世紀の明の皇帝。

右から左へ順番に時代を経ていって、一番左が15世紀後半の皇帝の憲宗。

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 『中国歴代皇帝人物事典』より。

 

お顔が、よく似てたのでした。

おわり。

 


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紀元前2000年に描かれた機械的な壁画

これは1937年、ウズベキスタンのフェルガナの洞窟で見つかった、紀元前2000年に描かれたらしい壁画。

一説に12000年前の遺跡だとか・・・紀元前2000年といえば日本は縄文時代のこと。

 

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では壁画をちょっと見てみよう

 

以下のサイトより引用しています。

http://www.bibliotecapleyades.net/esp_uzbekistan.htm より。

フェルガナの宇宙飛行士と題されてます。

 

空飛ぶ円盤。

 

仮面ライダー

 

106-107

 

今の機械文明というのは、何番目の文明なんだろうか。

ところで左の三つ目の人物の手は、仏教で言う所の「九品」の中品ナントカの形だとすると、釈迦が生まれたのは紀元前438年頃らしいので、この壁画は学者が考えているより新しい?仏教壁画という可能性もありそうです。

そういえばキリスト教のイコンでもこの手の形が見られる。それとも九品の手の形は紀元前2000年に遡るということでせうか。

 

しかし仮面ライダーの起源が、ウズベキスタンにあったとは。

 

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白髪山の秘密(前方後円墳矢印説)

日本各地の白髪山・白髪岳

この山々が何故、白髪山と名付けられたのか。特に記録が残されていないので、長い間意味不明でした。

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白髪山古墳から謎の解読

 

白髪の爺さんがいたから白髪山なのか、程度の推測しかできません。しかし前方後円墳矢印説では、白髪山の謎が解けてしまいます。

解読するには、清寧天皇陵と治定されている「白髪山古墳」を調べます。

 

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『「天皇陵」総覧』より。

 

この測量図から導かれた前方後円墳の中心軸を、遠方へ伸ばします。

すると

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青い線が中心軸の延長線です。

その先には白髪山がありました。

白髪山古墳は、白髪山を示していたということです。

 

さらに緑色の線は、白髪山古墳・白髪山・白髪岳を結びつけたライン。

見事に線上に並んでいます。

 

これはつまり白髪山古墳の被葬者(清寧天皇)が、幼い頃から白髪だったために、「白髪武」という諱を名付けられたことを、古墳の方角と山の名で明確にしているのです。

 

前方後円墳矢印説により、これまで判別が不能だった、全国各地の前方後円墳の真の被葬者を導き出すことが可能です、

被葬者の魂が救われることに繋がるということかもしれないです。

この古代倭人が残した未知なる叡智発見の詳細は、今後も随時解説します。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記(2014年10月15日)

前方後円墳矢印説については、井上赳夫氏の著書「増補・日本古代史の謎は解けた!」で「前方向法則」として登場しています。

 

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変な地名「(その他)」

地図に表示された地域を余すところ無く探索する「全検索法」は、たしかドイツのUボートか何かが始まりだったとか記憶しますが・・・検索しても出てこない件。

個人的にグーグルマップの全検索は、訳あって3年ほどやってますが、たまに変な地名を見つけます。

 


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たとえば(その他)

 

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ここ→http://goo.gl/maps/NBs2g

 

その他(そのほか)。

なんだこりゃ。( ゚д゚)、・・・・おわり。

 

 

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【前方後円墳矢印説】大仙古墳は仁徳天皇陵だった・・・大仙古墳編(2022年改訂版)

 

原稿が8割方まとまって来た所ですが、いろいろ考えていたら何か鬱になって来ました。今回は前方後円墳矢印説で解明する大仙古墳の被葬者について、かいつまんで取り上げます。

 

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大仙古墳のデータ

大阪府堺市堺区大仙町

全長486m。

5世紀前半の築造。

被葬者治定:仁徳天皇

大仙陵古墳 - Wikipedia

 

仁徳天皇の事績

 

・大鷦鷯尊の誕生時、産殿にミミズクが飛び込んできて、武内宿禰応神天皇に吉兆であると話した。

仁徳天皇の異母弟に速総別(はやぶさわけ)、その妹女鳥王(めどりのみこ)。

仁徳天皇諡号は「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」で、『学研漢和大字典』によれば、鷦鷯とはミソサザイ(サザキ)という、雀に似た小さな鳥を意味します。

諡号「大鷦鷯」は、鳥を2匹繋げている特殊な名前。

古事記諡号は「大雀命(おほさざきのみこと)」で、やはり鳥。

・仁徳紀では、幾つもの鳥に関する歌が詠まれている(日本書紀

・百舌鳥の由来は鹿の耳にモズが飛び込んで死んだところから(日本書紀

仁徳天皇 - Wikipediaなどより

 

以上のように、仁徳天皇は鳥と繋がる天皇だったようです。

これが古墳の謎を解く上で重要でした。

 

 

調査結果:前方部方面

 

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まず大仙陵古墳の中心軸を測って、その線をまっすぐ延長していくのです。

すると、線上に仁徳天皇と、鳥に関係する地名が連続すると判明します。これが前方後円墳が個人情報を指し示すという、前方後円墳矢印説です。

(これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」です)

 

まず、和名抄の郡郷名があれば、ある程度古い地名と判明。しかし八幡神社の創始は欽明天皇の時代(571年)らしいということで八幡神社は除外する・・・というふうにこれらの見つけた地名の中から、後世の建物をどんどん削っていく・・・。そして結局仁徳天皇の時代にすでにあったであろう地名を残していくと、こうなったわけですが。

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大仙古墳が築かれている大鳥郡の百舌鳥耳原から、→鶴田町→鳳南町(鳳)→鶴山台→黒鳥町(黒鳥天満神社)といった並びがあり。

一直線上に幾つもの鳥の地名が並んでいるのは、仁徳天皇にちなむようで意図的な配置と言えます。

鶴田町と鶴山台は何時の時代の地名なのか判別不能で、それ以外はすべて奈良時代以前からの古地名でした。

 和歌山県内では、鳩羽山→且来八幡神社八幡神社は、鳩を八幡神の御使い・シンボルマークとしていますので。

八幡神とは仁徳天皇の父、応神天皇のことです。

さらに

→幡川(鳩)→鳥居→雲雀山→衣奈八幡宮(鳩)→、高坪山(鷹)

といった感じで、仁徳天皇にちなむ鳥の地名が続いていくわけです。

 

 

調査結果:後円部方面

 

大阪府内では我孫子(アヒルの子)→鶴見区常磐町(朱鷺)→音羽町(鳥の羽)→高塚町(鷹)→八幡(鳩)

と鳥の地名が羅列します。

京都府内を見れば、羽束師志水町、羽束師坐高御産日神社→羽束師鴨川町→上鳥羽→鷲尾町。

京都の鳥羽は、昔から山城国紀伊郡鳥羽郷があったことに由来していました(和名抄より)。

 

滋賀県内では、比叡山延暦寺の北方に「比叡山鳥類繁殖地」。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば、1930年に天然記念物の指定、「各種ノ鳥類殊ニ有益小禽類ノ蕃殖地トシテ関西地方ニ於ケル著名ノモノナリ」。これは偶然なのかもですが。

そのさきに、高島市高島(鷹)。

 

福井県内では敦賀市(鶴)→鵜甘神社→八幡神社→鹿谷町西遅羽口→高尾岳(鷹)と鳥の羅列。

石川県白山市両白山地中に鷲走ヶ岳→鷲走谷→八幡神社(鳩)→高倉山(鷹)→烏帽子山、高尾山(鷹)→八幡神社(鳩)→鷲岩→正八幡大神宮(鳩)→八幡宮(鳩)→護国八幡宮(鳩)→八幡宮(鳩)→八幡社(鳩)がありました。

これは偶然とは言え無いのです。

 

 

調査結果:東側の造出し方面

 

仁徳天皇陵の造出しが応神天皇陵を示すのは、親子関係を表すものかもしれません。

 

 

まとめ

 

鳥の名を連続させることで、大鷦鷯尊(仁徳天皇)の御陵であることを示すものと結論付けました。

古墳築造年代が、やや合わない?仁徳天皇陵は上石津ミサンザイ古墳ではないか?いいえ、間違いなく大仙古墳は仁徳天皇陵であろうと考えます。

 

 

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【前方後円墳矢印説】磐余若櫻宮を示す神功皇后陵・五社神古墳編

日本書紀』にある、神功皇后が葬られた狭城盾列陵は、奈良市山陵町の五社神古墳(ごさし)に治定されます。全長273m。4世紀末の築造。

 

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京北班田図

 

西大寺に伝わっていた奈良時代の地図『京北班田図』に「神功皇后山陵敷地」の名が記載されており、これを元に文久三年(1863年)に五社神古墳が神功陵と治定されました。

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『「天皇陵」総覧』より。

 

五社神古墳の中心軸を測り、そこから線を前方部方向へ伸ばしてみます。

すると完璧に、神功皇后の宮殿「磐余若櫻宮」に遭遇します。

 

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五社神古墳の前方部が磐余若櫻宮を指しているのは、この古墳が神功皇后陵であることを後世に示すためと考えられます。

五社神古墳は入門レベルです。

他の古墳の場合には、例えば律令制時代の郡・郷名と、延喜式式内社をよく調べ、照らし合わせないとわからないものなどもありました・・・。

 

このようにして原稿にまとめてます。

天皇陵の中の前方後方墳、上八角下方墳、皇族、貴人の前方後円墳、または中心軸を導き出せる古墳の中で、被葬者名が伝わっているもの60~70基程度、全て調査しました。

しました所、恐らくもう前方後円墳とは、被葬者に繋がる何らかの対象物を指し示す、矢印の役割ということで間違いがなさそうです。

あとは、死ぬ前にどこかの偉い先生に見て頂いて、感想をいただこうと思ってます。

 

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百済の王仁(和迩吉師)は山東半島の琅邪王氏だった

王仁(わに)といえば応神天皇百済から招聘し、孔子について書かれた「論語」などを携えて日本に来た学者です。百済から来たと記紀にあるので、一般的には百済人だと考えられます。しかし・・・

 

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百済(韓国)に居なかった王仁

 

じつは韓国に王仁の記録書物は、全く存在しないらしいです。日本の記録を元にし「日本に先進文化を伝えてあげた韓国の偉人」として祀っているとか。韓国に王仁の記念碑を建てたり、何の手がかりも無いのに、王仁墓を作って自治体の史跡扱いとなっているとか。

一方で韓国では、「日本書紀」の任那日本府の記録は出鱈目だとか言ってました。自分に都合のいい王仁の記録は祀り上げているのに。まぁ俺王仁の親戚じゃないし、どうでもですけど。

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王仁 - Wikipedia

 

 

琅邪王氏の王仁

 

ところで、「邪」の一字だけで、元は山東の琅邪郡を指すとか。これは手元の辞書にあるのですが。

琅邪郡とはもともと琅邪王氏の土地でした。邪王氏の系図の中に、「王仁」という名前が見えます。

王仁と同名の人物が、琅邪王氏には居た」

ということですよ。時代は違いますけど。

琅邪王氏が書家であるのを踏まえ、名前が同じ人が一族に居た。となると、「倭に渡来した文人和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」ということですよ・・・。

 

そういえば和迩氏といえば、そもそも渡来系と見られるのに、孝霊天皇の子孫を自称してるということです。

和迩(wani)が王(wan)を元にした名ということであれば、やはり大陸系の名を反映してると見れそうです。

 

琅邪王氏の初代は「王吉」で、wan-kichiと読めば和迩吉師(wani-kishi)の名前とそっくり。この王吉は後漢時代の政治家で、「論語」など五経を好んで読んでたということです。

王吉   wan-kichi

和迩吉師 wani-kishi

 

新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」で皇帝だったとか。

ますます琅邪王氏の王吉の流れが、王仁に直結している可能性が見えてきました。

 

すると王仁百済人ではなく、中国の山東半島の琅邪王氏との仮説に、信憑性が高まりましたね。韓国人にとっては、衝撃的な考察?

 

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美豆良(みずら)の謎から解く日本人のルーツ

美豆良(角髪)と書いてみずらと読む。これは古代の倭人の髪型でした。今回はみずらについて。


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みずらは色んな種類があった

 

埴輪でよく見られる髪型です。倭人の髪型は色んな種類があってバラエティ豊かな中でも、美頭良は倭人の一般的な髪型のひとつとして定着してたようです。

古い形では「耳の前に髪の毛を束ねる、又はもみあげを伸ばしてコヨリ状にひねって垂らす形」で、その後飛鳥時代には「紐で八の字型に結った形」となり、奈良時代以降は流行りが廃ったのか、美豆良は消滅してしまいました。

 

埴輪の頭部の形状を種類ごとに分類してみました。ここにあるものがすべてではないかもしれません。

 

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このみずらとは一体何なのか?

ξ ゚д゚ξ

 

ルーツは大陸にあるのか

 

縄文時代(2万年前~紀元前300年頃)から受け継がれてきた、日本独自の髪型?しかし縄文時代の数多くある土偶からは、美豆良を全く確認できませんね。

つまり美豆良が弥生時代以降に誕生した髪型であることが分かります。日本独自の髪型なのに、縄文時代には無かった?

 

これはWikipediaにあるDNAのハプログループの順番を、入れ替えたものです~。

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 遺伝子学については全くの素人で、全くの低学歴ですけども、なんとなく分かりますね。HAN(漢族)=中国人、韓国人、アイヌ人、アンダマン人、日本人、チベット人の順に並べ替えてあります。

青い枠で囲ったところが、民族を代表する遺伝子のハプログループです。中国人と韓国人はO3が最も多くなってます。

日本人、アイヌ人、チベット人、アンダマン人が「D」が最も多いですね。

 

アンダマン人というのは東南アジアとインドの間のベンガル湾に浮かぶ、アンダマン諸島の人々のことですよ。

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なんで日本人は、日本に近いところに遺伝子が似ていなくて、遠い国の人と遺伝子が近いのか、不思議ですね。

日本の偉い学者さんは、定期的に「日本人の遺伝子は韓国人に最も近い」なんて発表するんですよね。これも、なんでか不思議ですね。

ブームを無理やり作ろうとする人は学問の研究にも取り入って、目の前の調査結果すら、変容させてしまおうとするのですかね。

 

で美豆良の話に戻りますと。つまり古代のチベット人なりどこかの国の人が、美豆良という髪型の文化を保有しているということにでもなれば、日本人のルーツが見えてくるんですよね。

弥生時代以降に登場した美豆良の起源がどこにあるか。

まずは倭の近隣諸国、特に古代の韓国には、美豆良文化があったかどうか?が気になるところですね。

 ・・・・無いですね。

百済はどうか知りませんが、新羅高句麗、こういった古代国家の人々は美豆良という髪型は好んで無かったみたいですね。

 

下はベゼクリク(中国新疆ウイグル自治区)の壁画。

mediaevalmusingsより

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上のサイトによると、ソグディアナ人らしいのですが、ベゼクリクの位置的に見て、5世紀のこのあたりは高車、突厥烏孫、エフタルなどが入り乱れてた地域だったので、断定はできませんですね・・・。右は日本の人形塚古墳と島田一号墳からみつかった倭人の埴輪。完全に一致?

(画像引用サイト ハニワな日Glich news

 

次は古代のチベット人のご先祖様。 

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これは520年代の中国梁朝の頃に描かれた「蕭繹職貢図」の、鄧至(とうし)の使節を描いたもので、ウィキペディアから引用した画像です。

鄧至は羌族だからチベット人のご先祖の一種ということにもなりそうですが。見事な美豆良が見えますね。日本とチベットはDNAだけでなく美豆良でも一致してたんです。

 

次に、アフガニスタンのmundigakの遺跡で見つかった紀元前1500年の美豆良。

http://www.cemml.colostate.edu/cultural/09476/afgh02-02enl.htmlのサイトの写真です。

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アフガニスタン北部で紀元前1500年というと、いまから3500年前のことで、この付近はアーリア人の土地でした。

つまりアーリア人が日本の古墳時代と同じ髪型をしてたってことになると、なんか奇妙な感じがしますね。

顔の下で紐が結ばれてるのも、古墳時代倭人の服装とそっくりですね。なんでですかね。それとも年代が間違っててバクトリアの埴輪だとすると、ベゼクリクの壁画と年代が近くなるのですけどね。

 

 

シルクロードで繋がったみずら

 

倭人の美豆良と同様の髪型をもってた民族を表すと、こうなります。シルクロードで繋がってたんでしょうね。

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で、美豆良っていうと日ユ同祖論の研究者の方は、イスラエルユダヤ人の髪型ペイオトのことだとか言いますね。それでユダヤ人が日本へ渡った証拠の一つだとか。

日ユ同祖論はスタート地点のイスラエルと、ゴール地点の日本だけに注目してしまう傾向にあると思われるので、こうした中継地点について、もっと研究して欲しいです。

髪型が一致しただけで、倭人のルーツがユーラシアの遠方の民族と言い切るのはどうか?

たぶん日本のプロ・アマの古代史研究者はみんなそう思いますが、遺伝子と古代の髪型という2つの要素が合っている、少なくとも日本とチベットで確認できるという点は無視できないんではと素人ながら思います。

おわり。

 

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前方後円墳は矢印だった

前方後円墳矢印説の概要公開

 

全国の津々浦々にまで巨大な威容を誇らしめ、またはひっそりと佇んでいる、数多くの前方後円墳

前方後円墳の正体とは、従来より弥生時代末期以降の権力者の埋葬施設、権力誇示のためのモニュメント、地域の目印、そういった目的があることは知られてきました。農作業が出来ない時期の公共事業といった意味合いも、あるのかもしれません。

・・・ところがある日、武蔵の国のどん底で、どん底でもいいやと思いつつ、追っかけ回され覗き見され、馬鹿にされつつ、それでもお茶をすすり、くつろいでいたワタクシが思いついたところでは、前方後円墳には

 

「被葬者にとって思い入れの強い場所を指し示す矢印」としての目的が含まれているようだなと、そのように感じ取った次第なのですよ・・・。

これは一部の公開としますが、詳細な検証結果は後日に発表することになると思いますよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

以下に記載される記号について、簡単に解説を行います。

● は古代の天皇が埋葬されたとされる前方後円墳

◯  は皇后が埋葬されたとされる前方後円墳

━━のラインは前方後円墳の中心軸から前方部方向へ伸ばした、まっすぐな線。

□はその線上に近い場所にある、それぞれの人物の宮殿や出身地、または思い入れの強い場所。

・数字は歴代天皇の順番。

・全ての前方後円墳の中心軸に線を引き、前方部へ向けて線を引いてあります。

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これまでに前方後円墳が矢印であるとの指摘は無かったとすれば、従来の古代史研究の常識には無かった仮説の提唱となるのかもしれませんが・・・もし既に提唱されている場合は、教えていただけると助かります。

(で、これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」とおなじ理論であると知りました。)

 

以下に記すのは、これまでに僅かに調査と研究を進めてきてたどり着いた結論の一部です。この内容は、今後出版予定となっています。

 

 (これは井上赳夫氏が『日本古代史の謎は解けた』で主張するところの「前方向法則」であると知りました。一応消さずに残しておきます。)

 

 ・神功皇后陵から線を引くと、神功皇后の居住した「磐余稚桜宮」伝承地へ寸分の狂いも無く到達する。

 ・応神天皇陵から線を引くと、応神天皇の居住した「難波大隅宮」伝承地へ寸分の狂いも無く到達する。

 ・垂仁天皇陵から線を引くと、垂仁天皇の生まれた「磯城瑞籬宮」伝承地、居住した「纏向珠城宮」伝承地へ到達する。僅かに5度~7度の誤差が出ているだけ。

 ・垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵から線を引くと、「纏向珠城宮」伝承地と、父・丹波道主命の名前を冠する「丹波市町」の近くを通過する。誤差5~7度だけ。

 ・雄略天皇稜から線を引くと、雄略天皇の居住した「泊瀬朝倉宮」伝承地の近くへ到達する。誤差にして10度だけ。

 ・継体天皇陵から線を引くと、継体天皇の居住した「磐余玉穂宮」伝承地の近くへ到達する。誤差にして6度だけ。

  ・仲哀天皇稜から線を引くと、敦賀の「気比宮」へ到達する。他にも多数当てはまる

 

というわけでした。

誤差が発生するのは、前方後円墳の矢印が、特定の一箇所だけを指し示しているわけでは無いからだと見られます。たとえば大和三山大神神社も含め聖所全域をさしているとも考えられるので。

誤差が10度以内だと、古代の「たぶんあのへん」という情報を元にした測量のレベルからすれば問題の無い水準と思われます。

 


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