以前に卑弥呼の鬼道の根幹に、シャーマニズムがあったことを説明しました。
しかし思考を重ねていくと、鬼道の中にあるのはシャーマニズムだけではなかったと気付くことになりました。今回は、卑弥呼の名前からわかってくる、鬼道の正体について。
鬼道の中の易経や陰陽思想
卑弥呼は本来は「卑彌呼」という表記です。
この名前、よく見ると「✗✗」が入ってるのです。コレがなにか、易経や陰陽思想に関わってるような感じがしました。
「爻(こう)」易の卦を構成する棒。
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2023年2月2日
卑弥呼(卑彌呼)の彌(み)に含まれる。
彌(あまねし)」は「すみずみまで広く行き渡ってる」意味で、易で使われる八卦や干支の方位に関わる
「彌(いよいよ)」は、来るべきした未来が実現する、予知予言の言葉
卑弥呼は易の占いを駆使し未来や吉凶を占ったのだろーか pic.twitter.com/OlA75ajc6x
「爻(こう)」というのは、易の卦を構成する棒のことでした。
「彌」は「あまねし」で隅々まで行き渡ってることなので、「八方位」に関連してる漢字だったりします。それに「爻」が絡むので、易の八卦を示す意味もあるんではないかと。
「彌」は「いよいよ」で、この言葉は「予想した未来の実現」。
だから占いのことなんではないかと。そうすると、卑弥呼は易の占いを駆使したことが考えられるんではないかと。
しかも卑彌呼という名前自体、「陰陽」を表す言葉だったりもするんです。
卑とは「いやしい」というマイナスの波動を持つ文字で「陰」、「彌」は未来を表すので「陽」。
つまり卑彌によって陰陽のバランスを取っているわけなので、卑彌呼はあえて「卑」という悪字を使っていると思いました。まぁあえて「卑彌呼」を使った理由はこれにとどまらないのですが。
鬼道の中の邪気祓い
しかも卑彌呼の漢字から、鬼道がどんなものだったか読み取れるんです。
彌の金文は「弓と日と爾」が合わさったもの
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2023年2月2日
弓は魔除けの呪具、日は珠玉で占い用、爾は入れ墨(魔除け)、合わせて多幸を祈願するみたいにある
なんか占い師、巫覡、シャーマン的な印象があり
「魏志倭人伝」で倭人は占卜し、卑彌呼は「鬼道で民衆を惑わせた」とあるから、
「彌」がぴったり
古来より易経・陰陽思想をもとにした風水では、神道と同じように邪気を祓うことが重視されていました。八卦や陰陽の模様自体が、邪気を寄せ付けないお守りとして機能してたりするとか。
「彌」の解字では、弓と爾に分けられます。
弓、弓矢とは古来より魔除けの呪具の役割があって、それは今でも神社の破魔矢だとか、流鏑馬(やぶさめ)などの神事の風習にも残ってるのです。
「彌」の古代の形は爾の上に「日」が付いた形でしたが、これが珠玉、つまり占いに使うまん丸な水晶玉だったのではないかと。
しかも爾は本来は「入れ墨」の意味があり、入れ墨とは魔除けとして機能するものでした。それは「魏志倭人伝」に「入墨をして蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける」とあることにあって明らかです。
卑弥呼の弥=彌
爻・・・易の卦
あまねし・・・隅々まで行き渡る=八方位・八卦
いよいよ・・・予想した未来の実現=占い
弓・・・魔除けの弓
日・・・珠玉(水晶玉)=占い
爾・・・入れ墨=魔除け
卑と彌・・・陰(卑しい)と陽(彌=いよいよ)
鬼道の中の神仙思想と西王母信仰
邪馬台国が最初は筑紫にあったことは、卑弥呼の名でも表されてるのではないかという仮説は、以前に紹介しました。
卑彌呼を分解すると「由千弓爾呼」であり、「千弓爾」がちくじ、つまり「ちくし」なのであろうと。
名前に地名が入ってれば、どこに住んでたのかまるわかりですよね。つまり卑彌呼という名前は、とことん考え抜かれたものだったようですね。
筑紫の第1邪馬台国が東に移転して、奈良に第2邪馬台国ができました。これが「邪馬台国東遷説」です。筑紫は奈良と同じ地名だらけというのは、「天照大御神は卑弥呼である」(安本美典著)にもあるとおりです。
福岡の筑前町に大己貴神社があって、ここでは大国主神を祀ってるのですが、神功皇后が大三輪社を建てたことが始まりだと言います。
この土地は古来より三輪村でしたが、大己貴神社の背後にある山の名が、大三輪山だと伝わっていました。
見た目も奈良の三輪山に瓜二つだったりするのです。大国主神は三輪の大物主神と同一存在ともされてましたので、祭神も一致していたことになります。
実際には三輪山の地名が一致するのは、神功皇后以前からだと思われます。卑弥呼の時代から三輪山であり、大神(おおみわ)神社の前身が大己貴神社にあったんではないかと思いますが。
三輪山とは崑崙の写し鏡であって、おそらく西王母信仰の中心地であったことは以前の記事でまとめてましたが。
大物主とは「おうも」であり、西王母(おうも)そのものだったのではないかという解釈になります。
そうすると筑紫の大三輪山あたりに卑弥呼の邪馬台国があって、そこで徐福も信仰した神仙思想、西王母信仰があったのは確実です。卑弥呼の鬼道の中に、これが混ざり合っていたと考えるわけでした。
鬼道の中の西洋の信仰と呪術
鬼道の要素は、シャーマニズム、易経、陰陽思想、神仙思想、西王母信仰などを含んでいましたが、さらに西洋信仰や呪術も、鬼道に含まれたという感じがしてしまいました。
その最たるものは原始キリスト教です。
卑弥呼の名前はフィリポに似ているので、関連付けられているような気がします。フィリポは卑弥呼より前の1世紀にいた十二使徒の1人で、イエスの弟子でした。
卑弥呼の「卑」が「いやす」なのは「イエス」を元にして、卑弥呼の名前全体をフィリポに関連付けたんではないかと思ったのですが。
そのへんは倭人が船で遠方に乗り出す時、持衰(じさい)という人を犠牲にして救いを得るという風習を取り入れていたことからも、わかったりするのですが。
持衰とはジーザスであると言う説がありまして、ジーザスとはイエス・キリストのこと。キリストが人々のために犠牲になったという話を元に、持衰の風習が作られたんじゃないかと。
また大物主神とは蛇神で医療神なのですが、その大元には古代ギリシアのアスクレピオスの杖があったのではないかと思います。
アスクレピオスの杖とは紀元前16世紀に、モーセとアロンが持っていたアロンの杖と同一存在とも言われ、古代ギリシアで医療の象徴となったものです。アスクレピオスの杖を元にして大物主神の象徴とし、倭の文化や鬼道の中に取り入れたようです。
こんなふうに卑弥呼は大陸の多くの呪術や宗教を、鬼道の中に取り込み、それが神道の基礎になったんじゃないかなと考えています。
ぽちされでたすかりま
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