たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

イザナギ神話に旧約聖書の「十の災い」が入ってるとかいう日ユ同祖論

前回

モーセの出エジプトと「イザナギの出黄泉」は同じだった

の続きっぽい。 

 

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十の災い - Wikipedia

 

前回は「イザナギの逃走劇とは、モーセヘブライの民の逃走劇(出エジプト)に等しい」という結論を導きました。

つまり先祖の逃走があってこそ、今の世界があるということでした。「逃げるが勝ち」というのはもしかしてイザナギモーセが起源なのかもしれないなと。

人が物事から逃げると嘲笑する風潮っていうのは、勝者の理論かもしれないですが、神様は弱者の立場を応援する傾向があったわけなのでした。

それにしても日ユ同祖論とは、「英単語が漢字に置き換えられたようなもの」ではないかと。漢字化していても、調べれば中身が似たものだとわかってくるみたいな。

 

さて、イザナギの逃走劇が、モーセ率いるヘブライ人(イスラエル人)の出エジプトであるとしたら、それの前後に起きている出来事も同じで然るべきでした。

だからエジプトで起きた「十の災い」も、イザナギの描写に含まれているのではないかと。

 

○いつも助かっております

 

 

  

十の災い

  

災いの内容について

 

出エジプト記に記載されており、概要は以下の通り[1]。

なお、理由は定かではないがローマ時代にこれらを説明しているフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』と偽フィロンの『聖書古代誌』といった本の記述では4番目の災いに当たるものがヘブライ語の記述とも七十人訳聖書の「犬蝿」とも異なり、「様々な種類の野獣」としている[注釈 1]


1.ナイル川の水を血に変える(7:14-25)
2.蛙を放つ(8:1-15)
3.ぶよを放つ(8:16-19)[注釈 2]
4.虻を放つ(8:20-32)
5.家畜に疫病を流行らせる(9:1-7)
6.腫れ物を生じさせる(9:8-12)
7.雹を降らせる(9:13-35)
8.蝗を放つ(10:1-20)
9.暗闇でエジプトを覆う(10:21-29)
10.長子を皆殺しする(11章、12:29-33)

十の災い - Wikipedia

 古代エジプトモーセとアロンが、神の杖を使って見せた神業というのはこんな感じでした。魔法、魔術といわれるものですが、日本神話でも魔法的な描写はかなり多いようです。

では記紀神話に、モーセらが起こした「十の災い」が、そのまんま入ってるかと言えば、何処にも入ってませんでした。

ちゃんちゃん。おわり。

・・・しかし記紀神話からは、何か十の災いに似通った流れみたいなものは、感じ取れて来るので、まだ終わらせません。

 

 

旧約聖書の十の災いの分類

 

まずエジプトで起きた十の災いを分類してみます。十の災いは、生物の大量発生、気象現象、疫病などに大別できることがわかります。

 

・生物の大量発生系: 2蛙、3ぶよ、4虻、8蝗(いなご)

・気象現象系: 7雹、9暗闇

・病気系: 5家畜の疫病、6腫れ物

・その他: 1川の水が血に、10長子皆殺し

ということに。

目立って生物の大量発生系の神業が最も多く、とくに昆虫が3つを占めていました。気象現象や疫病も複数ありました。

その他、川の水が血になるのは、自然現象に含められるかもしれません。近頃も世界のあちこちで、水が赤くなる現象が報告されてますが、それは有害な工場排水だったり、なんらかの物質の化学反応だったり、生物由来の現象(赤潮や生物の大量死に寄る血液)だったりするわけです。

エジプトの長子だけを皆殺しにしたというのは、自然のチカラでは不可能なことですが、単純な子供が死ぬという話に置き換えれば、病気に含めて良いかも知れないです。

 

これらに似た現象が、記紀神話イザナギの黄泉下りの記述から、出てくるかどうかを探しました。

 

 

苦難

紀元前2,000年頃、エジプトにはヘブライの指導者ヨセフがいました。ヨセフの兄弟と一家は飢饉に苦しんでいましたが、実り多いエジプトへ移住することで飢饉を逃れて当初は優遇され、苦しみと無縁になりました。しかしヨセフがいなくなって数百年後、彼らは奴隷となってこき使われていました。その子孫のモーセ が、時のファラオと対立する場面は、彼らの苦難の歴史を表しました。

それに対して、イザナミが死んだ後、イザナギが黄泉の国へ追いかけて行くと、魑魅魍魎の親分と化したイザナミが。2人が出会う出来事は、イザナギにとっての苦難であり、これらを以てモーセらの苦難に対応させたのではないか考えられました。

なにしろその後、両者とも苦難の地から逃げているのだから。

 

 

生物の大量発生

記紀神話を読んでいくと、最初に昆虫の文字が登場するのは、国生みの時の「蛭児・水蛭子」ですが、これは神の名に蛭が使われているのでした。

明確に「昆虫が昆虫のままに登場する」場面は、イザナギが黄泉の世界に入ってからの場面です。

日本書紀」によれば、腐ったゾンビと化したとイザナミの体には、うじが湧いていたと書いています。これにより「生物の大量発生」が表されていました。

 

気象現象

イザナミは、八種の雷神を体にまとっていたと書いてあります。雷という気象現象で、旧約聖書の十の災いの雹が降る出来事に対応しているようです。どちらも雨雲、積乱雲など雲から発生する気象現象です。あるいは「様々な種類の野獣」とは雷神により表されているかも。

 

疫病

イザナミの肉体は腐って虫がわき、まるで疫病の患者の成れの果てみたいな姿でした。これが、十の災いの各種の疫病発生に対応していました。

 

暗闇

イザナミは、地下空間の暗闇のなかにいました。ここで十の災いの暗闇の要素に対応しています。

 

不思議な神技

モーセとアロンは、ファラオに対して、神の杖を用いて十の災いという不思議な技を見せつけました。それに対応させていると見られるのが、イザナギイザナミから逃走する時の描写です。

 蔓草の飾りを投げて葡萄に变化させ、爪櫛を投げて筍(たけのこ)に变化させ、放尿して大河に变化させたなどの魔法の数々で、ゾンビの泉津日狭女軍団から逃げ延びました。

 

 

禍事

 

ここまで読んでみて、「10個ないじゃん」と思ったかもしれないですね。

しかしここは10個とかそういう数で数える出来事じゃなく、全てを1つとして捉えたほうがいい出来事かもしれません。

エジプトの古代名としては、ミスルだとかケムトなんていう呼び名もありました。「旧約聖書」では古代エジプトを「ミツライム」と呼んでいました。

それで十の災いは、原語では「makot mitzraiym」と表記し、英語ではPlagues of Egypt(エジプトの疫病)と呼ばれています。10という数字を用いず、全ての災いを、ひとつの出来事としてひとくくりにしているからです。だから日本で言われているところの「十の災い」とはニュアンスが違うのです。

 

マコト・ミツライム(疫病 エジプト)というのは、なにか日本語的な響きだと思いました。なぜならマコトは「誠」「実」であり、ミツライムという地名も何か日本神話に似た響きを見い出せるから。美豆良、御稜威、見辛い、忌む?

マコトは濁らせればマゴトですが、これは「禍事(まがごと)」を縮めたような響きをもっています。現代人は「禍々しい」と畳語(繰り返し語)でしか使われない「禍」は、日本の古代にあっては「災い、災厄、不幸」の意味で使われました。

疫病と言えば悪性の伝染病のことで、これを古代の日本では禍事の要素に含めて、恐れられていました。

 

要するに比較してみれば、

古代エジプト語 makot(疫病=禍事)

日本語     magoto(禍事=災い、疫病)

というふうに、両者は似通った意味合いを 備えていたのですね。もしかして古代エジプト語が日本語の中に入っているんではないか、そういった仮説に関わる見方です。

とすると古代の倭人の髪型「美豆良(角髪)」というのも、ミツライムの髪型だったから美豆良と言っていておかしくない気がしました。なにしろ古代エジプトの王族や、イスラエル人は、美豆良みたいな髪型をしていたのだから。

 

 

 話の流れの一致

 

ではこれまでのまとめ。話の流れが一致しているところを、答え合わせ。

旧約聖書

日本神話

 

1ヨセフがエジプトへ行く 

1伊弉冊(イザナミ)が黄泉へ行く

 

2ヨセフの兄弟がエジプトへ行く

伊弉諾イザナギ)が黄泉へ行く

 

3両者はエジプトで出会う 

3両者は黄泉で出会う

 

イスラエル人が奴隷になる

イザナミが黄泉に囚われる

 

5十の災い(疫病や不幸)

イザナミの体の状態が疫病や不幸を表す

 

モーセと民のエジプトからの逃走

イザナギの黄泉からの逃走

 

7葦の海の奇跡

7ここでイザナギが生み出した神々の名に、葦の海の奇跡が描写されていた(前回の記事)

 

8新天地(シナイ半島)にたどり着く

8日向の檍原にたどり着き、禊ぎ祓いをする

というふうに旧約聖書のヨセフからモーセまでの物語が、イザナギの出来事に一致するのではないかと。これは日ユ同祖論的に言えば、日本神話は旧約聖書の形を変えて、取り込んでいるという話になりそうです。

しかし日本に入り込んだ他の大民族の神話や、日本列島の出来事や地名と一体化しているために、分かりづらいものに なっていると。そういった気がしています。

 

 

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モーセの出エジプトと「イザナギの出黄泉」は同じだった

死ぬほど苦しくなって、もうそろそろ黄泉から醜女のお迎えが来るのかと思っていたら、あれよあれよと3週間生きてます。

ということで、黄泉言えばイザナギイザナミのことを思い出したので、ちょっと日ユ同祖論ネタで。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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The Ten Commandments (1956 film) - Wikipedia

 

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イザナギイザナミに習合された大陸神話

 

かねてより日ユ同祖論では、日本の神代の世界に、旧約聖書の世界観までもが習合されていると言われてきました。 

そこでこんな等式が成り立つのではないかと。

神世=日本列島の出来事+大陸の伝承や祖先の出来事(旧約聖書含む

中央アジアにあった、素戔嗚命と八岐大蛇退治の神話

 

イザナギイザナミというのは特に「イザ」の名を持つことで、イザヤのことだとかいう説があったりしました。しかし名前が似ているだけで、事績の一致は乏しかったのです。

 実際には、イザナギイザナミに習合された大陸の登場人物は、以下のような方々でした。

 

イザナミが黄泉(冥界)へと降っていく神話は、よく指摘されていますが、シュメールのイシュタル(イナンナ)の冥界下りとよく似ているのでした。

さらにイザナギが黄泉から帰還し、左目から天照大神、右目から月読命、鼻から素盞嗚命が生まれた件は、中国の道教の神である盤古の神話そっくりそのままであるし。

ほかにも大陸各地の神話が、イザナギ神話の中に組み込まれていました。たとえばカグツチから見いだせるニムロドだとか。

バベルの塔の建設者ニムロドが日本神話に居るのでは1

 

そしてイザナミの中には、旧約聖書の主役のひとりだった、モーセが含まれていました。その場面とは、出エジプトにつながる下りです。

 

 

出エジプトと出黄泉の流れ

 

 旧約聖書の、出エジプトの出来事は、以下の構成でした。

エジプト脱出

ヤコブ後のエジプトにおけるユダヤ人の状況(1章)
モーセの物語(2章 - 4章)
・ファラオとの交渉と十の災い(5章 - 11章)
・民のエジプト脱出と葦の海の奇跡(12章 - 15章)
シナイ山への旅(16章 - 19章)

出エジプト記 - Wikipedia

ヘブライ人(イスラエル人)はエジプトで奴隷としてこき使われて不満が鬱積しているなか、モーセが誕生。モーセはエジプトのファラオと対立し、神から授かった杖で十の災いを起こし、エジプトを脱出するときには海を真っ二つに割いて海底を進み、シナイ山へと向かうのでした。

 

一方で「古事記」や「日本書紀」のイザナギの記述を見ても、出エジプトなんかあるわけないと、そう考えてしまいますね。

 

黄泉の流れ(日本書紀

イザナギが、死んだ妻イザナミの後を追って黄泉へ入る

・黄泉のイザナミに再会すると、腐った死体だったので逃走した

・怒ったイザナミは冥界の鬼女(黄泉日狭女)8人を放ってイザナギを追わせた

イザナギは不思議な力を駆使して逃走する

イザナギは黄泉平坂で出口を塞ぎ、イザナミと別れた

・穢れたと言って日向の檍原で禊祓いをした

 じっと見ていると、浮き上がってくる接点がありました。巧妙に、「日本書紀」のイザナギの記述に隠れているようでした。

 

 

十戒 (字幕版)

 

 出エジプトと出黄泉の比較

 

 

まず、ゾンビみたいな気持ち悪い黄津日狭女(よもつひさめ、古事記では黄泉醜女)が、イザナギを追った場面。

怒ったイザナミは冥界の鬼女(黄津日狭女・よもつひさめ)8人を放ってイザナギを追わせた

 これが、出エジプトの時に、ファラオが軍隊を出してモーセヘブライの民を追跡した出来事と、重なり合うようでした。

しかもこの時、イザナギは、「海を渡った」ことを示唆させる魔法を使っていました。

一説では伊奘諾尊(いざなぎのみこと)は大樹に向って放尿された。これが大きな川となった。黄津日狭女がこの川を渡ろうとする間に、伊奘諾尊はもう黄泉平坂につかれたともいう。

日本書紀 (上)全現代語訳p27

 ほーにょー。

 

そして、イザナギが黄泉平坂に到達して、もう一歩で地上に出るというところです。

するとここで、呪怨の伽椰子が知性を残したかのような黄泉大神(イザナミ)と、イザナギが対峙することになりました。

この時にイザナギは色んな神を生み出すのですが、この神々の名を見た時に、モーセ出エジプトの代表的なシーンが脳裏をよぎりました。

 

 黄泉でイザナギが生み出した神々

1・岐神(ふなとのかみ)・・・杖から生まれた

2・長道磐神(ながちわのかみ)・・・帯から生まれた

3・煩神(わずらいのかみ)・・・衣から生まれた

4・開囓神(あきくいのかみ)・・・猿股(褌)から生まれた

5・道敷神(ちしきのかみ)・・・履(くつ)から生まれた

6・道返大神(ちかえしのおおかみ)・・・ふさがる磐

 

これらの神の名が、モーセが起こした海が割れる奇跡に対応しているようでした。

ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。葦の海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた。しかし、後を追って葦の海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ[14]。

モーセ - Wikipedia

 

 この「葦の海を渡った出来事」が、先ほどの「日本書紀」の神々の名前として集約してあったので、解読してみます。

 

(1)・まず杖から生まれた岐神により、モーセが杖を天に掲げた場面を表していました。

ここではモーセ役がイザナギで、追うファラオ軍がイザナミと黄津日狭女軍なのであります。

(2)・帯から生まれた長道磐神が、モーセの杖により、海が割れて出来た、細長い道筋を示していました。

(3)・煩神の煩いとは心を悩ませること。海に出来た長い道を見て、当然ながら人々は煩いを見せます。

(4)・モーセと民は、ぽっかりと開いた海の道に囓(食)われるように、歩き始めたので、ここで開囓神の名が出てきました。

(5)・靴から生まれた道敷神は、まさに海の道を靴で踏みしめて歩く様子でした。

(6)・道返大神は、塞がる磐。つまりモーセ一行は海の道を渡り切ると、道がふさがり、ファラオ軍は海に飲み込まれました。この出来事は黄泉日狭女 が道返大神を超えてこなかったことで示されていました。 

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というふうに、イザナギが生み出した神々の名に、モーセの海の奇跡が封印されていたようではないですか。ほーにょーの出来事と合わせて。

 

 

出来事と人物の対比

 

ということは、イザナギが向かった黄泉とはエジプトのことである可能性が高くなるようです。ここで登場する場面や人物を対比してみれば、

イザナギ・・・・・・・・モーセ

黄泉・・・・・・・・・・エジプト

敵対するイザナミ・・・・敵対するファラオ

追う黄津日狭女・・・・・追うファラオ軍

黄泉平坂・・・・・・・・葦の海

イザナギが生んだ神・・・海の割れる奇跡

 こんなふうにバッチリ対応したではないですか。

 

ではモーセとアロンが神の杖によって起こした、「十の災い」も、日本のイザナギ神話の中に存在するのでは?という点も気になってきました。

 

 その点は、まだ生きてれば次回に。

 

 

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倭のシンメトリーな配置から見えてくる倭国の構造

 

心臓の動悸、息苦しさが感じられることがあるので、重曹水に加え、クエン酸水をガブガブ飲んで、血液を浄化しているこの頃。

そんな中で邪馬台国について考えていました。そしたら、そういえばそうだったと思いだしたことがあり。

 

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倭の諸国について

 

もう何十回と読んだかわからない、「魏志倭人伝(中国正史日本伝(1)石原道博編訳、岩波文庫)」を改めて熟読してました。

そこにはいつ眺めても変わらぬ、倭の諸国の紹介文があり、こんな国名が登場しています。

 

女王国の範囲(30国)

1・狗邪韓国(金官伽耶

2・對海国(対馬

3・一大国(壱岐

4・末盧国(松浦)

5・伊都国(糸島)

6・奴国(儺県)

7・不彌国

8・投馬国

9・邪馬臺国(邪馬台国

10・斯馬国

11・巳百支国

12・伊邪国

13・都支国

14・彌奴国

15・好古都国

16・不呼国

17・姐奴国

18・對蘇国

19・蘇奴国

20・呼邑国

21・華奴蘇奴国

22・鬼国

23・為吾国

24・鬼奴国

25・邪馬国

26・躬臣国

27・巴利国

28・支惟国

29・烏奴国

30・奴国

 

女王国以外(4国)

31・狗奴国

32・侏儒国

33・裸国

34・黒歯

この並びについては、もう1,000年以上も、誰彼となく飽き飽きするほど目にしているはず。だけど未だに、どれが何処にあった地名なのか、人によって解釈は違って、諸説あって定まり切らないらしいです。

 

 
新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫) 文庫  – 1985/5/16 

 

かぶってる 

 

この国名の並びは、ちょっと見ただけだと、各地の国名を、適当な感じで表記されているように見えます。しかし今回は、ちょっと違う視点を持つに至りました。

そうじゃなく、実は一つの法則の上に成り立っているのではと考えてみました。というのも、 

 6・奴国

 30・奴国

6と30に、奴国がふたつ、あるではないですか。これは国名を間違ってダブらせたというより、実際に同じ奴国が、離れた場所に2つあったことを意味しているようです。

2つの奴国の支配者や中枢の権力者も、同一だった可能性すら伺わせます。分家というか支店というか、移転地というか。鎌倉時代で言えば、甲斐国の武田氏と安芸国の武田氏みたいなものなのかと。

しかしこうした「かぶり」は、調べてみると奴国だけじゃないようでした。

 

文字の一致する倭の諸国

 1・狗邪韓国(金官伽耶)9・邪馬臺国(邪馬台国)12・伊邪国 25・邪馬国

 8・投馬国 9・邪馬臺国(邪馬台国) 10・斯馬国

 5・伊都国(糸島)15・好古都国

 6・奴国(儺県) 14・彌奴国 17・姐奴国 19・蘇奴国 21・華奴蘇奴国 29・烏奴国 30・奴国

 11・巳百支国 13・都支国 28・支惟国

 2・對海国(対馬) 18・對蘇国

 18・對蘇国 19・蘇奴国

 7・不彌国 16・不呼国

 16・不呼国 20・呼邑国

 22・鬼国 24・鬼奴国

 1・狗邪韓国 31・狗奴国

 こんなふうに、同じ漢字でかぶってる国が、けっこうあるのです。これは、単純に同じ発音の漢字を当てているだけであろうかと。無意味なのだろうかと、考えてみたくなりました。

この中で、完全に一致、または2文字以上が一致する国があります。

 

 9・邪馬臺国(邪馬台国) 25・邪馬国

 6・奴国(儺県) 30・奴国

 邪馬が2つ、奴国が2つ。

これがなんか、ヒントだと思いました。左右対称、シンメトリー的な。

 

 

対称的に考える

 

だから倭の諸国の全てを、狗奴国も含めて対称的に考えてみると、見えてくるものがあるのではないかと、そう思って、ピーナッツをかじりながら検討を重ねました。そしてこんなふうになった。

 

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鏡合わせのシンメトリーのようにして、反対側にも同じ国の並びがあるように見えます。これはおそらく、偶然でこんな対照的な並びが、完成されてるわけがないです。

魏志倭人伝の国名の並びというのは、適当じゃなく、全部計算ずくだから、こんなシンメトリー的な名前の位置関係が、見事に出来上がっているんじゃないかと。

 

 

邪馬は首都で狗は番犬

 

邪馬台国倭国の首都」

これは揺るぎない史実だったのですよ。それを踏まえると、

 両端に対称性をもたせて邪馬を配しているのは、「東西に邪馬という首都が2か所あった」ことを意味していると、そう考えられますね。

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狛犬 - Wikipedia

 

同じく両側に「狗(犬)」が配されているのは、これは一種の番犬的で、阿吽の狛犬的な役割を見い出せますね。阿吽の狛犬とは、一角獣(ユニコーン)と獅子(ライオン)の一対のことです。

1番めの狗と31番めの狗という、狗のシンメトリーの位置関係。

狗(犬)が倭国の両サイドに配置されて、ワンと吠える。まさに神社の本殿と狛犬の関係です。

いわば狗は、邪馬台国の番犬なのでしたが、その番犬のはずの狗奴国が、飼い主邪馬台国に噛み付いている状況が、「魏志倭人伝」には記してあるのですが。

奴国については、この倭国の集権国家全体の、シンメトリーな事実関係を補足する目的で、あえて対称の位置に同一名を記しているかのようです。 

 

 

邪馬台国が2つあったこと

 

前回の記事で、三輪山が2つあり、邪馬台国は第1邪馬台国と第2邪馬台国があったと書いていました。これは「邪馬台国東遷説」では至極一般的な仮説ではあるのですが。

魏志倭人伝」の、国名の並びの中に、シンメトリーな位置関係を利用して、「首都が2つ」な状況が表されているとしたら・・・うちの屋根同様にえらいこっちゃな感じになるかと。

 

 

18番目の真実

 

もう一度、シンメトリーな構造図の中央に目を移してください。

「對蘇国」

これは現代的な字になおすと「対蘇国」のことです。

対・・・一対の関係

蘇・・・よみがえる

要するに、対蘇国がシンメトリーのど真ん中に入っているのも偶然じゃなかったです。

倭国は対称的な一対の関係であること、邪馬台国は移転して蘇る国であることを、對蘇国の名で、明らかにしてるようなものではないかと

 

そういえば俺の人生みたいに酷い屋根ですが、予算が少ないので、とりあえず崩壊しそうな屋根は、DIYで直そうかと思っているこの頃です。

 

前回の記事

卑三輪だったかもしれない卑弥呼と三輪山の地形から求める邪馬台国の所在地

 

 

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卑三輪だったかもしれない卑弥呼と三輪山の地形から求める邪馬台国の所在地

最近邪馬台国はやっぱ奈良の纏向だったみたいなニュースを目にしました。

邪馬台国論争「新たな段階」纒向遺跡で発見続々 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

でもまだ日本中を納得させるような流れには、なってないのでは。

 

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卑三輪

 

「古代人の名は地名を含む場合がある」という発想。

これはもう20年近くも前、江上波夫著「騎馬民族国家」を呼んで始めて知りました。この書物自体は意外と古く、初版が1967年だったので、自分がオギャーするより、10年も前です。

古代人の名に地名が入ってる例としては、

神日本磐余彦(日本)

倭迹迹日百襲姫命(大和)

御間城入彦(任那

壱与(伊予)←(伊予国

みたいなの。

 

じゃあ卑弥呼は・・・?

卑弥呼の名前が、所在地を表していると考えるのは、決しておかしくないことです。

ちなみに個人的な立場では、卑弥呼朝鮮半島の倭の拠点から渡ってきたという話で固定化して戻すことができません。

なぜなら朝鮮半島馬韓倭人地には、卑弥呼と名前が同じ、「卑弥国」があったから。

倭国の本拠地の変遷(推定) - たっちゃんの古代史とか

ここは心臓に負担がかかるからなのか、保守的な古代史研究者の皆さんが、避けるところです。

 

それで、それに加えて、卑弥呼さんの魂から、こんな発想を呼び覚ましてみました。 

まず卑弥呼の「呼」の字が気になったので、調べてみた。すると、

「呼」

よぶ

上古音「hag(ハ)」

中古音「ho(ホ)」

(学研漢和大事典)

弥生時代には、卑弥呼は「ひみこ」じゃなかったかもしれないというのは、どっかで聞いたことがありました。本来の音は「ピミハ」であると。

この「呼」は、とても重要な情報なのですよ。

 なぜかというと、卑弥呼三輪山と切っても切れない関係にあったことの、強めな証明になるから。

 

卑弥呼の名前は「ピミハ」と呼んでも正解だったとしますね。

するとこの中には、「ミハ」が含まれているじゃないですか。

これ、「三輪(ミハ)山」のことですよ。

卑弥呼は卑三輪だったというわけで。

 

 なにしろ卑弥呼天照大神倭迹迹日百襲姫命と同一視されたりしますが、両者とも三輪山と密接な関与があるからですね。倭迹迹日百襲姫命のほうは、三輪山大物主神と婚姻までしていたので。

要するに卑弥呼三輪山と切っても切れない関係だったので、三輪の音を込めて、卑三輪=卑弥呼にしていると、そんな想像ができますが。

 

卑弥呼とその側近は漢字の読み書きを使いこなしたというのは、「魏志倭人伝」から読み取れました。倭の邪馬台国の女王に対しては、魏の使いが幾度となく、詔書(公的文書)を卑弥呼に手渡しに向かっているのだから。

魏志倭人伝」には三輪山の名は出てこないけれど、卑弥呼の名前に三輪山が含まれている。これは漢字を使いこなした邪馬台国の中枢の、聡明さのほどが伺えますね。

 

卑三輪である卑弥呼は、三輪山と切っても切れぬ。

ならば奈良の三輪山のそばに邪馬台国があり、卑弥呼ちゃんがいたのだ。

・・・と言って確定かと言えば、そうじゃなかったです。

 

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三輪山 - Wikipedia

・・・・・・・・・・

 

 分身した三輪山

 

関係ないですが、子供の頃、文金高島田は分身した高島田なのだから分身高島田なんだと思っている頃がありました。あと野球の盗塁のことを「透明」と言っている同級生がいて、意味が分かりませんでした。比較的にどうでもいい話でした。

話を戻すと、奈良の三輪山のそばに邪馬台国があり、卑弥呼ちゃんがいたと断言できないのです。

なぜかと言えば、三輪山奈良盆地の1か所だけじゃなく、もう1か所、あったから。

 

それは福岡県の筑前町の、大三輪山

三輪山という名は、奈良の三輪山の、三輪(みわ)と大神(おおみわ)の2つを兼ね備えています。しかも祭神も似通っていました。大物主と大国主は同一視もされますが、それぞれの三輪山で祀る神は、大物主、大国主だったのです。

・奈良 三輪山  大神(おおみわ)神社  祭神大物主神

・福岡 大三輪山(おおみわ) 大巳貴神社 祭神大己貴命(大国主神大物主神

というふうな一致を見せていました。

それからこの福岡と奈良の両地域は、古代の数十もの地名が、そっくり瓜二つなことでも知られます。安本美典著「天照大御神卑弥呼である」で指摘されていましたが。

というふうに、東西の三輪山は、不思議と名前も祭神も同じなわけですが、同じなのはこれだけじゃなかったです。

 

見た目まで。

 

全国には郷土富士と呼ばれる山がいくつもあり、それらは富士山をモデルにして、富士に似た形だから我が村の富士山だ、郷土の富士だというわけでした。

しかし三輪山というのは、全国に数えるほどしかないです。そのわずかな三輪山のうち、主要な2つがなぜか外観と、周囲の地理的な特徴、地名までも一致を見せていました。以下の写真はグーグルマップのストリートビューからですが。

 

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両方共、西側からの角度にすると、こんなふうに似通って見えます。

・中央にこんもりとした三輪山

・背後は山岳地が広がる(筑紫山地笠置山地)

・手前に平野、田畑が広がる(筑後平野奈良盆地

・左側に同じくらいの高さの山々が連なり

・右奥にうっすら山並みが見える

というふうに。

これでしかも

・周辺地名が一致している

三輪山が見える範囲に大規模遺跡が存在する

ここまで揃うと、無関係なわけがないです。無関係とかいう人は、豆腐の角で頭ぶつけて死ねないと思い込んでる人みたいな人ですね。豆腐は凍らせると釘が打てるほど硬くなるという事実を抜きにして話さないでください。

古代の人々は、まったく似通った構図の地形を見つけて、三輪山と名付けているというわけで。日本全国に三輪山があるかもですが、名前に加えて地形まで一致するのは、福岡の筑前町三輪山と、奈良の桜井市三輪山だけです。

 ここまで一致させていると、三輪山とは、地形などの地理的な条件面が重要だったのではないかと。

 

 

邪馬台国の東遷の跡

 

これは簡単にいえば、どちらか一方が最初の三輪山であり、もう一方が忠実にコピーした、2番手の三輪山なのは確実です。

本来の三輪山を元に、似た地形を見つけ、三輪山と名付け、その新三輪山の周囲に同じ地名をとことん名付け、そっくり土地の移動を完了させたのであると考えられました。 

なんでこんなことしたか?それは邪馬台国天皇家倭国を統一したあとに、東方に支配地を拡大し、拠点を東遷するための「首都機能移転」が目的だったから。個人的には「邪馬台国東遷説」押しです。

福岡の大三輪山が、卑弥呼が祭祀をした大物主の三輪山であり、最初の邪馬台国が、筑後平野上にあったろうと勝手に予想しています。

 

さらに言えば、2番めの奈良の三輪山の主は、女王壱与だったのではないかと想像できるわけなのですが。

 

・福岡の三輪山のそば

最初の邪馬台国(すでに発掘されている有名な遺跡)

祭祀場:大三輪山

国家の斎主:卑弥呼

 

・奈良の三輪山のそば

移転後の邪馬台国纏向遺跡

祭祀場:三輪山

国家の斎主:壱与

 

福岡の邪馬台国候補地は、すでに発掘されているし、その地元でも邪馬台国だとか卑弥呼の里だみたいに宣伝してますね。果たしてそこはどこでしょうか。

おそらく奈良の纏向を中心とした邪馬台国は、女王卑弥呼の死後から、女王壱与の居城として機能しはじめたのではないかと。想像ですが。

邪馬台国論争は、新たな段階に入ってきました(かってに)。

 

 

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確かに蛇オタな卑弥呼から導かれる居城の情報

 

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ラー - Wikipedia

 

今回は卑弥呼と蛇の繋がりから見えてくる、卑弥呼の生活や居城の様子についての想像。

 

それにしても、引っ越して1年以上経過したけれど、相変わらずドドーンと爆音が飛んでくる。自衛隊の演習の音というか、旅客機が飛ばす秘密の衝撃波というか・・・。

それで隣のおばさんが、この騒音は俺が叩いて出してる音とか決めつけるような話を聞かせてくる。さらに壁やら床やらを叩き返し、音真似をし、ドアをバーンと閉めまくる。

ここ数日はとくに倦怠感がすごく心臓チクチク。息苦しく、昨日はノックダウンした。猛攻にやられてる俺。

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卑弥呼の蛇

 

卑弥呼の名前には、色んな意味が込められてるのだった。

ひとつには蛇。

蛇は古語では「へみ」。だから卑弥呼は「へみこ=蛇子」だったということです。

 

蛇というのは古来より水の属性をあらわす動物、水の精霊でした。

干支での蛇は「巳(み)」であり、「水(み)」が同じ音なのも、水道の蛇口を蛇の口といって、水と蛇が結びつくのも、偶然じゃなかったです。

人は蛇を嫌っても、常に蛇にお世話にならざるを得ないというわけでした。古代人が決めた宗教的な思想が、脈々と知らず知らずのうちに、21世紀まで受け継がれてました。

 

卑弥呼倭迹迹日百襲姫命の蛇

 

卑弥呼の別名が「日本書紀」での倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)であるとかいう仮説は、ずっと根強いです。

ならば、卑弥呼もまた、蛇神との深いつながりをもっていた事になりますよね。

倭迹迹日百襲姫命の「日百」は「ひも」は「紐」ですが、これは「縄(くちなわ)」と同じで、蛇をあらわす言葉でもありました。

卑弥呼倭迹迹日百襲姫命は、「ひみ」「へみ」「ひも」という音で蛇を表していて、名前にも関連が見い出せたわけです。

日本書紀」で、倭迹迹日百襲姫命は、蛇神の大物主と、夫婦になったわけなので。そうならば、卑弥呼自身が、蛇神と婚姻したという話でした。

 

 卑弥呼と太陽と蛇

 

しかも卑弥呼は、太陽神=天照大神とも同一視される人でした。

太陽は水と相反する無関係なもの同士だから、太陽に蛇は無関係と思ってしまうところです。

しかし古代世界では太陽と蛇もまた、一対の関係を持っていました。古代エジプトの太陽神ラーの太陽円盤は、蛇のウロボロスの形で囲まれた姿であったように。

古代エジプトでは、太陽の永続性を、永遠の輪廻の象徴であるウロボロスで示しているのですかね。

 

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ウロボロス - Wikipedia

 

そういえば卑弥呼の名前も、「ひ(日)み(巳・蛇)子」と解釈できてしまいます。こうすると、卑弥呼の名前というのは「太陽と蛇」がワンセットだったとか。

だから卑弥呼の蛇は、お日さまの輪っか、つまりウロボロス型の蛇の目紋だったと考えられます。卑弥呼はまるで、エジプトの古代の思想を受け継ぐ女王かのよう。

そうすると「へみ」という言葉自体も、もともと太陽と蛇が一体化している言葉だったかもです。「日巳」で蛇。

 

卑弥呼と神と蛇

 

そもそも神という言葉も「かみ」なので「み」に関連付けているように考えられます。

神様が蛇だって?とか思われますが、実は伊弉諾と伊弉冊は、中国の蛇神の伏義・女媧や、メソポタミアのニンギシュジッダに対応する神格を持っているのですよ。

伊弉諾と伊弉冊が、天の御柱の回りを回転するのは、蛇神が螺旋をあらわすことに対応していました。イザ凪とイザ波というのも~~~で海水面の蛇を表しているわけなのです。

本来は「翼ある蛇」だった斐陀国は、金印の委奴国と同一の民。のちに匈奴の攣鞮氏が入り込み飛騨になったかも

 

天皇家卑弥呼が蛇に固執したが故に、漢や魏から受けた金印紫綬もまた蛇の形でした。中国の皇帝は、倭の女王は蛇神信仰をしていたと、知ってたわけなのです。

 

そうこう考えを巡らせていると、ふと思ったのです。

卑弥呼はあらゆるところで、蛇神に祈祷し、蛇神で占い、蛇神によって呪詛をかけ、蛇神とエッチなこともした蛇オタだったのだと。それら全てが鬼道の一部で、人々を惑わせたのであると。

それならば、蛇オタな卑弥呼の衣服、家具、雑貨、住居・・・全ては、蛇グッズで満たされていたのではないかと。それは居城も含むのではないかと。

 

 卑弥呼の居城も蛇

 

そういえば、蛇神大物主に関係してみても、やっぱり蛇だらけなのがわかってきますよ。

神大物主神が住まう処は、三輪山。これは別名を御諸山(みもろやま)といってましたが・・・。

三輪山=巳(み)輪山」「御諸山=巳(み)諸山」で、どっちも蛇と水に掛け合わせている言霊「み」を頭文字としました。

 

ということは、卑弥呼の周囲のすべてが、「蛇神に纏わるものでなければいけない」のではないかと。

そう考えると、卑弥呼の居所もまた、蛇をコンセプトにしているものだった可能性が見えてくるのですよね。

 

個人的に卑弥呼と同一視しているのが、崇神天皇でした。崇神天皇とは、卑弥呼が男装した姿だったのではないかと。天照大神が男装していたのだから、当然です。

そういえば、崇神天皇諡号は「御間城(御真木)」であり、やはり頭文字が「み(巳・水)」。

崇神天皇の居城の名は「瑞籬宮(水垣宮)」であり、これも「みず(蛇・水)」を意図しているのですよ。

この諡号と居城の名「み」は、完全に蛇と水を意図したものなのであり、卑弥呼大物主神と、全く同じで、無関係なわけがないのです。

 

それで、はたと気がついたのでしたが、卑弥呼の居城の形状というのも、いうなれば「蛇の目、ウロボロス」でなければならないのだと。

そうすると自ずと可能性は見えてきました。

 

1・卑弥呼の居城は水の「蛇の目」、水の輪っかに囲まれている

2・可能性が高いのはどこかの弥生後期の円形の環濠集落

3・卑弥呼の居城は水と蛇を冠する「瑞籬宮(水垣宮)」

 と、ここまで想像してみました。

では卑弥呼の居城探しは、蛇の目型をしている、環濠集落を中心に見ていけばいいのではないかと。

それでは奈良県桜井市金屋にある、磯城瑞籬宮で決まりではないか、と思ってたのですが、いまの奈良県の瑞籬宮伝承地は、環濠集落遺跡ではないことがわかっています。

じつは卑弥呼がいた、真の瑞籬宮があった場所は、奈良盆地じゃないのです。

 

つづく。

   

 

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かごめ歌とひふみ祝詞の日ユ同祖論

 

今回はかごめ歌について、気づいたことがあったので、それについて。

  

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まだまだ謎の籠目歌 

 

かごめ歌とはこんな歌詞。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ

このかごめ歌、古来より伝わっているのは、

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 

ここまでだそうな。以下の、

鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ

この部分は江戸時代以降にくっつけられたと。

 

じつはこの籠目歌、もしかすると弥生時代から存在したかもしれないという話なのです。

何故かと言うと、天照大神が、天の岩戸に入って、その後に岩戸から出てくるという神話に似ているから。

 

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天岩戸 - Wikipedia

岩戸神話

素盞嗚命がまだら馬の皮をはいで、御殿の屋根を壊して、天照大神の部屋に投げ入れた。天照大神は機織り機で怪我をして、怒って岩屋に閉じこもって出てこなくなった。その結果国中が常闇となり、夜も昼もわからなくなった。

そこで八百万の神は天の安河のほとりで、天照大神をどうやって外に出すかを相談した。

思兼神は常世の長鳴き鶏を鳴かせ、天手力雄神を岩戸の脇に立たせ、天児屋命太玉命は天の香具山の榊を掘り、八尺瓊五百筒の御統と八咫の鏡とぬさをかけて祈祷をした。天細女命は岩戸の前で神がかりになって踊った。

天照大神はこれを聞いて、どうして天細女命はこんなに騒ぐのかと不思議に思って、岩戸を開けて外を見た。そのときに手力雄神天照大神を引き出し、八百万の神は、もう岩戸に入らないように言って注連縄を引き渡した。

 

この天の岩戸神話と、籠目歌を照らし合わせると、 

籠目歌の歌詞 (天の岩戸神話で解釈)

 

かごめかごめ (囲め囲め)・・・天照大神を囲む八百万の神

籠の中の鳥は (岩戸の中の天照大神は)

いついつ出やる (いついつ出やる)

夜明けの晩に (夜明け=太陽=太陽神=天照大神

 

という話になり、籠目歌は天の岩戸神話のシチュエーションになってくるいうことでした。

と書いてたら地震が・・・。

 

で、天の岩戸開きのとき、天児屋命は「ひふみ祝詞」と唱えたと伝わっていました。

 

ひふみ祝詞

一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)

  

先代旧事本紀

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大人の伊勢神宮

 

十種神宝との関連

 

天照大神が岩戸に入って闇に陥ったのは、一回死んだことを意味し、岩戸から出てくるのは蘇ったことを意味するという解釈もあります。

ということは蘇りの秘術みたいなものを使った、または表現している可能性があるのですね。日本には古来より、死人を蘇られる神宝が存在していたので。

 

石上神宮に、十種神宝(とくさのかんだから)と呼ばれるものが伝わってました。

 十種神宝(とくさのかんだから)とは、『先代旧事本紀』の天孫本紀(巻3)に登場する天璽瑞宝十種(あまつしるし-みずたから-とくさ)を指す。記述によると饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降りする際に、天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。

 

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

  • 「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
  • 「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

十種神宝 - Wikipedia

 要するに天照大神が天の岩戸に閉じこもったとき、ひふみ祝詞を口にしたということは、天照大神が既に死んでいたので、十種神宝で蘇らせたという意味合いが出てくるのですね。

 

 そこで以前の記事でも取り上げた、日ユ同祖論のことなのですが。

 

「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とうぉ」

は、若干のなまりを考慮するなら、つぎのようなヘブル語として解される。

「ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たゔぉ」 

・・・(中略)すなわちこれは、

「ハイアファ ミ ヨツィア マ ナーネ、ヤカヘナ タヴォ」

と発音され、

「誰がその美しいかた(女神)を出すのでしょう。彼女の出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」

の意味なのである。(中略)もともと完璧なヘブル語なのである。そしてその内容は、コヤネがアマテラスを洞窟から誘い出そうとして言った祝詞の場面に、まさにピッタリしている。

日本語の数詞「ひい、ふう、みい、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお・・・」得体の知れない何か - たっちゃんの古代史とか

 

八百万の神が、天照大神を導き出す時の状況と、ひふみ祝詞をヘブル語解釈した意味が、とても似通っているのですね。

 

これを籠目歌の歌詞とも比較してみると、

「ハイアファ ミ ヨツィア マ ナーネ、ヤカヘナ タヴォ」(誰がその美しいかた(女神)を出すのでしょう。彼女の出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう)

 この部分が、「籠の中の鳥はいついつ出やる」に対応しているってことなのです。

 

まとめると、

・籠目歌(女神はいつ表に出るのか)

・天の岩戸神話(女神を表に出す出来事)

・ひふみ祝詞(女神を表に出すヘブル語)

この3者が実は同じものであった可能性を、改めて発想できました。 

 

 

 

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ウンサンギガは月に居るか

うーさーぎー美味し、かーのーやーまー

と思ってた頃がありました。ウサギを焼き肉にしてチリソースで食べた人が、その美味しさを後世に伝えようとしたのであろうと。全然違ってすいませんでした。

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ウサギが月にいる

 

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Moon rabbit - Wikipedia

 

月のうさぎ。

この説話の起源はかなり古く、紀元前3世紀の古代インドの「ジャータカ(本生譚)」という仏教経典の中に登場してるとか。

月になぜ兎がいるのかを語る伝説にはインドに伝わる『ジャータカ』などの仏教説話に見られ、日本に渡来し『今昔物語集』などにも収録され多く語られている。その内容は以下のようなものである。


猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

月の兎 - Wikipedia

ウサギはみすぼらしい老人(帝釈天)のために、自身を犠牲に捧げたという、見知らぬじじいのためにそこまでするかという話でした。帝釈天もウサギが火に投身するところを止めないとか訳わかりません。

 

 

帝釈天

 

帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。天主帝釈・天帝・天皇ともいう[1]。バラモン教ヒンドゥー教ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にも見られるインドラ(梵: इंद्र、इन्द्र)と同一の神。

 四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城(喜見城)に住むとされる。

帝釈天って、須弥山の頂上にいたらしい。 

その帝釈天が、ウサギを月に昇らせた、と。これはちょっと後ほど関係する話が出てきます。

 

 

インドのウサギ

 

インドのヒンディー語では、ウサギをカルゴーシュというとか。

インドのサンスクリット語では、ウサギをシャシン、シャシャーンカと言うそうです。

月の兎 - Wikipedia

 

 

 シュメールの月

 

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Sumer - Wikipedia

 

実は、古代には世界の幾つかの場所に、月にまつわる土地があったのです。なかでも世界最古の月を象徴する場所といったら、ウル。

シュメールの中心都市で、ウル王朝の拠点になった都市だったとか。

中東のティグリス川とユーフラテス川から、パレスチナ地方にかけて、「肥沃な三日月地帯」と呼ばれますが、これは近代になってからのよび名だそうです。

 

ウルがなぜ月の街かといえば、月の神ナンナを崇める街だったから。かの有名なアブラハムも、ウルの出身でした。

 シン (Sîn) は、古代メソポタミアで信仰された月の神(男神)。シンはアッカド語の名前であり、シュメール語ではナンナ (Nanna)。「ナンナ」はアッカド語ではナンナルと呼ばれる[1]。

シン (メソポタミア神話) - Wikipedia

このウルのシンボルの月は三日月だったので、現代人が中東の一部を「肥沃な三日月地帯」と呼んでいる言葉も、運命的に当たってたようです。

シュメール自体も太陰暦という、月の満ち欠けを元にした暦を使ってたくらいだから、相当月の神の信仰は厚かったようです。

 

 

日本のウサギ

 

日本語でウサギとは、辞書を引いても別の呼び方は存在していません。兎はウサギ、ウサギは兎でしかないのです。しかしこんな説もあり。

ウサギ目の哺乳類。ウは兎、サギは兎の意の梵語ササカ(sasaka舎舎迦)とする説や、(以下略)

うさぎとは - 世界宗教用語 Weblio辞書

 インドのサンスクリット語を、わざわざ輸入して名付けているとかいう説ですが。

 

日本語のウサギについては、アイヌ語と起源を同じくする可能性は見えます。

・ウサギ 日本語 usagi u-sa-gi

・イセポ アイヌ isepo i-se-po

というふうに音が対応しているので。

 

 ウサギについては、餅つきに関係しているという話があります。 餅つきとは、臼を使って、餅を突くわけなのですが、ここで

・ウサギ usagi

・臼   usu

 

・月   tsuki

・突き  tsuki

「ウサギと臼」、「月と突き」の音が、それとなく掛け合わせてあることがわかります。 つまり「月のウサギ」と「餅つきの臼」は、なぜかセットでなければならないようです。

 

 

 烏孫月氏

 

古代に東トルキスタン地域で、ウサと月が合わさっていました。

烏孫月氏。この2国は常に隣り合わせな関係でしたので。

月氏を月とするなら、烏孫は臼で、月のウサギが餅つきをするという話は、もしかして烏孫月氏のことではと考えたりしました。

  

 

 ウサギとウンサンギガ

 

月の神ナンナを崇めたシュメール人ですが、彼らは自らをこう呼び表しました。

ウンサンギガ

 

ウンサンギガ・・・ウサギガ・・・ ウサギか!\(^o^)/

 

シュメール人がウサギみたいなウンサンギガだったというのは、なにか気になる話です。

月の神を崇め、太陰暦という月の満ち欠けを使った彼らは、文明を完成させた状態で突如として歴史上に現れたそうです。数千年後、忽然と消えてしまったのでした。そこで気づくこと・・・。

 

ウンサンギガはシュメール人・・・

ウンサンギガは月を暦に使う人々・・・

ウンサンギガは月の神を崇める人々・・・

ウンサンギガは月の民・・・

  

ウサギが月にいる・・・

ウンサンギガはウサギ・・・

ウサギの語源はウンサンギガ?・・・

 

 

帝釈天は須弥山にいた・・・

須弥山はシュメールなのか・・・

帝釈天はシュメール山にいた・・・

シュメールの帝釈天は、ウサギを月に昇らせた・・・

 

ウサギは月にいる・・・ 

ウンサンギガは月にいる・・・

シュメール人は月にいる・・・?

 

 ということで、ウサギことウンサンギガこと、シュメール人は、月の住人かもしれませんよ。

帝釈天が月に昇らせたウサギ、月に魅入られた民、シュメール人

なにしろウンサンギガは、もともと太陽系を支配した神々アヌンナキが作り出した民なのだというし。(え・・・)

 

 

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奈良・明日香村 酒船石遺跡の正体は「天皇家の血統の視覚的表現」だった件

この酒船石遺跡の話は、最近じわじわと閃いて考えることができたので、公表することにしました。

ところで本日は腹痛、肋間神経痛、めまい、腕のしびれ、動悸、立ちくらみ。朝からぜんぶ来たので、ぐったりしながらのまとめ作業。


○いつも助かっております

 

 

 

斉明天皇と須弥山

 

斉明天皇は、聖徳太子と同じ6~7世紀時代を生きた天皇

このかた、インド発祥の須弥山信仰に熱心な様子でした。

斉明天皇2年(656年・63歳)
 香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。
この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された[6]。

斉明天皇3年(657年・64歳)
7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。

斉明天皇5年(659年・66歳)
3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。

斉明天皇6年(660年・67歳)
石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応。

斉明天皇 - Wikipedia

いまも奈良の明日香村には、斉明天皇が作らせたという、須弥山の噴水(レプリカ)が立ってたりしますね。 

覩貨邏人、蝦夷、粛慎、大陸人やら外国人やらが日本に上陸するたび、斉明天皇は須弥山を作って饗応した、つまり美味しい食事や酒を出してもてなす、宴を開いたのです。

斉明天皇道教に熱心だったという話ですが、この時代、中央アジア人やら、ペルシャ人やらが、多数日本に来ていたのです。ヒンズー教キリスト教ユダヤ教のことも知ってたはずですね。

斉明天皇は、大陸人など遠方からの使者を特別扱いで饗応して、一々諸国の最新情報や歴史的な話を聞き出したことが想像できます。 

 

ちなみに須弥山とは。

古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり、この世界軸としての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教ヒンドゥー教にも共有されている。

インドで形成された宗教のうち、とりわけ仏教が中国や日本に、ヒンドゥー教インドネシアなどに伝播するにともない、この世界観も伝播した。ジャワ島にはスメル山という名の山もあり、別名はマハ・メル山(偉大なるメル山を意味する)である。

仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん、Cakravāḍa)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

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須弥山 - Wikipedia

斉明天皇は大陸の方に、心が行っちゃってたのです。

 

 

神と亀

 

古来より中国では四神といって、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武が守護しているという思想があったんですが。

青龍は竜

白虎は虎

朱雀は鳳凰

玄武は亀と蛇

なんですよね。つまり古代中国の思想では、

玄武とは亀であり、水の神であり、亀とは神獣、神なのであると。

千鶴万亀(せんかくばんき)と、目出度い象徴にして万年生きると言っているので、やっぱ神の領域だと考えてたのですかね。

 

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玄武 - Wikipedia

 

古代インドでも亀はやはり神獣で、それどころか、この大地を支えているのは巨大な亀と蛇と象であるという世界観が、まことしやかに信じられてたのです。世界樹ならぬ、「世界亀」っていう。

 

 

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World Turtle - Wikipedia

 

現代人で、科学のみを信奉する人には、古代人の思想は理解できないですが・・・。

 

この世界亀が、どうも中国の玄武と同じではないかという感じ。

なぜかというと、中国では四神と共に、四霊という、4匹の瑞獣も存在するのですが、そこに霊亀と呼ばれる巨大な亀さんがいるからです。

 

この霊亀は、蓬莱山という、不老長寿の仙人の住まう山を、背負った姿なのです。

インドの大地を背負った世界亀と全く同じ発想。

 

玄武(四神)・霊亀四霊)と蓬莱山・インドの世界亀・須弥山

この繋がりは、完全に、ある。

何しろ紀元前の秦の徐福は、蓬莱山を求めて倭へ向かい、富士山は蓬莱山とされてきた歴史的経緯があったのだから・・・。

須弥山が日本に入っているなら、おそらく、「亀は神」という思想も、同時に入ってきてるはずです。

浦島太郎が亀を助けたら竜宮城に行ったという昔話とか・・・。

 

そういえば古代エジプトには顔面が亀そのものな、神様もいた。要するに亀は神に通じる。これは世界中で共通するところでした。

 

 

日本の神と亀

 

すると日本語で、古来より亀がカメと言われたのと、神がカミと言われているのは関係があるのではないかと。

神 kami

亀 kame

こうやって並べてみると、発音がにてます。「亀は神なのだ」という世界で育まれた思想と比較すると。やまとことばの中の、神と亀が似てるのは、完全に関連してると考えるのですが。

 

それにしても、どうも神武天皇のことが思い出されてきます。

何故かと言うと、神武天皇は神武東征中、「速吸門で、亀の背に乗る棹根津彦に道案内をされて東に向かった」ので。亀に関係する天皇なのです。

そして神武天皇自身の諡号を見れば、

天皇

倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

この発音は「カム」なので、

神 kami

神 kamu

亀 kame

神も亀も大差ないのですよ。

昔は漢字なんか使わなかったので、kami、kamu、kame

誤差の範囲だったのでは。要するに神武天皇は、なぜか亀に関連付けられていますね。

 

 

神武天皇と玄武

 

話は四神の玄武に戻るのです。

玄武というのは、古来中国で擬人化もされていて、その姿や属性は「武神」だったのです。玄武という架空の動物が、神武に関連づいてくるのがわかります。

玄武・・・四神・亀の姿・武神

武神の逆は神武

神武・・・神武・神倭伊波礼毘古・亀に導かれて東征

 というふうに、神武天皇に対応するのが、玄武であるというのは、完全にわかってきます。あるいは斉明天皇は、実際にこう考えていた可能性が高いです。

 

 

亀盆栽(こけ盆栽 ミニ盆栽)(紅白のギフトボックス入り)

 

瓢箪

 

ひょうたんの中には別世界がある。これは古代人類の共通した発想だったとか。

 ヒョウタンは中国の兄妹始祖型洪水伝説、イースター島マケマケ神話など人類誕生の神話や伝説にかかわる。中国では、ヒョウタンの中に別世界があり、道教の八仙の一人鉄拐(てっかい)仙人はその霊気で不老長寿を保つとされた。漢方医のシンボルに使われ、かつて魔除(まよ)けや御守りにされたのも、その思想による。孫悟空(そんごくう)がヒョウタンの中に吸い込まれたり、「ヒョウタンから駒(こま)が出る」という日本の諺(ことわざ)も、ヒョウタンの中に別世界があるとの考えに基づく。なお、「ヒョウタンから駒」の諺は、ヒョウタンから米が出る『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』のスズメの恩返しや、『今昔(こんじゃく)物語』の僧の実力競べが基になった「ヒョウタンからコメ」から派出したとの見方もある。ヒョウタンの名は、『和漢朗詠集』の「瓢箪屡空(しばしばくう)」から広がったとされる。これは『論語』で、顔回(がんかい)の清貧を表す「一瓢の飲」「一箪の食」の瓢と箪(飯盛り器)を、誤って瓢箪と重ねたことによる。古名はひさご、あるいはふくべ。
 世界各地で土器に先だつ歴史があり、生活に深く結び付き、神話・伝説に登場し、儀式や儀礼、呪術などにもかかわり、ヒョウタンは文化に値する意義をもつといえよう。[湯浅浩史]

ヒョウタン(ひょうたん)とは - コトバンク

なんでここで唐突にひょっこり瓢箪が出てくるのか、というのは、、奈良県の明日香村の酒船石遺跡、亀型石造物に関係してるかもしれないからです。

瓢箪により仙人は不老長寿のちからを持ったとか、蓬莱山的なことが書いてあるので、瓢箪が亀や神に関係しているのは明らかです。

こんな視点を保持保持しつつ、では奈良県明日香村の、酒船石遺跡の石造遺物のほうを見てみます。

 

 

明日香村の酒船石遺跡

 

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明日香村は行ったことないですが、ここは亀石やら、亀型石造物やら、亀にまつわる土地でした。

酒船石遺跡 - Wikipedia

この時代、遠く中東のペルシャの石工がやってきていました。石造物はペルシャ人が作った、または影響したと言われます。

明日香村公式サイトによると、亀型石造物とは、斉明天皇の時代の遺跡であり、天皇が祭祀をおこなった場所だと考えられるとのことです。 

 

まず酒船石遺跡のなかで、亀型石造物を中心とする祭祀遺跡全体は、いくつかの要素が気になります。

・石積みの湧水施設

・湧水施設と小判型石造物をつなぐ木樋

・小判型石造物

・亀型石造物

・周囲の石畳

・全体が階段状につくられている

これらがすべてが渾然一体となって、天皇の何かを表現してるわけです。

 

当時、斉明天皇が祭祀施設や水路やらを、奈良盆地に作りまくっていたので、人々は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と揶揄してたらしいです。この亀型石造物と一連の遺跡は、斉明天皇が作った狂心の渠の一部ではないかとも言われます。

 

これの正体ですが、個人的には、こう考えました。

 

 

天皇家の歴史を現す酒船石遺跡の湧水施設

 

簡単に言えば、日本神話で伝わる天孫降臨から、天照大神の誕生、日向三代、神武東征、その後の天皇家のたどった道筋。

天皇家の血統の視覚的な表現だったと。そう感じとれました。

その理由。

 

(1)

まず、酒船石遺跡の断面図を適当に描いてみたのが、こちら。

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横から見れば、こんなふうになっているのです。これが西暦656年ころに作られました。

 

 (2)

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南側が高台になっていて、北に向かって低く作られています。水を下流に流れ下らせて、それを眺めてなにかをするのが明らかなり。

 

 (3)

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これは言い換えれば、水の流れが過去から現在を表しています。

一番右から左まで、ちょろちょろ~っと流すと、途中の木樋(きどい)を通り抜け、小判型や亀型の石造物に水が溜まりつつ、流れていくのに時間が必要です。

だから石造湧水施設のほうが過去、石畳の左端が現在。

 

(4) 

天皇家が祖神とする天照大神の別名が、大日孁貴(おおひるめのむち)だと「日本書紀」に書いています。

大日孁貴こと天照大神は、太陽神であるにかかわらず、伊弉諾と伊弉冊により地中から生み出され、天御柱を通って天にのぼりました。

この出来事を斉明天皇は、石造湧水施設の「地下水の湧き上がる塔」で表しました。要するに右端の湧水施設は、天照大神が天にのぼる足がかりとなった、天御柱(あめのみはしら)です。

斉明天皇の和風諡号に「日足」とあるのも、天照大神=日神の足がかり、つまり天御柱のことではないかと。

 

(5)

石造湧水施設のところが、明らかに一段高くなっているのは、高台によって高天原を現すためです。そこに淤能碁呂島と天御柱があって然るべきというわけ。

 

(6)

木樋の区間で、天照大神の治世の流れを表しました。

 

 (7)

天照大神の孫である、日向三代のさいしょの瓊瓊杵尊が、葦原の中つ国の日向の高千穂峰へ降りました。

この出来事を水が木樋を伝って、小判型石造物に注ぐ様子で表しました。

小判型石造物は、本来は旅の船の形であり、真上から見ると「日」の形になっています。

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これは天照大神日向三代の神々と、神武天皇、そして斉明天皇が、「日」を司る者だったから。

天照大神・・・日の神

日向三代・・・日の神

邇邇芸命(ににぎのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を合わせて日向三代という。

神武天皇・・・日の神の子

斉明天皇・・・天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 日の天皇

小判型石造物は、言い換えれば「日向三台」ってダジャレも利かせてました。

 

(8)

流れた水は、やがて亀型石造物に流れ込みます。日向三代のあとは神武天皇で、水神である玄武=武神を配し、武神を逆さにすれば神武、神は亀、といった情報をここで表していました。

 この亀に水が注ぐことにより、天照大神から日向三代を経て神武天皇に至るという、天皇家の系譜が示されました。

 

(9)

亀型石造物より先の石畳の谷間を、水が流れていく

この水の流れの先が、神武天皇の後の天皇家の系譜ということになり、斉明天皇の時代が現在にあたります。

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 瓢箪で須弥山を現す

 

ところで瓢箪が、どのへんに関係しているかと言えば、これ。

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木樋と、小判型石造物と、亀型石造物を縦に並べると、ひょうたんがぶら下がってる形になっているのですね。瓢箪のなかの異世界を現すのか、瓢箪をざっくり切り分けたときの、断面かのよう。

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これ、単なる瓢箪というわけじゃなくて、亀の上に水を入れた船があり、さらに上に宮殿が乗っかってる用に見えないですか。まさにこの角度からは、須弥山や世界亀の形も見ることができるのでした。

やはり斉明天皇は、須弥山や世界亀のことも、これにより表現したであろうと。

 

角度を2か所で変えて見ることで、別のものが見えてくると、そういう2way的な高度でおしゃれな発想だったわけですね。 

 

 

亀型石造物の正しい使い方

 

最後にに、斉明天皇の思考に同調し、亀型石造物の正しい使い方を発想してみました。

 

1・亀のお腹の、下流側の穴に栓をする

栓は、本来あったはずですが、失われているようです。亀のお腹はどう見ても、水を溜める構造になっているのだから、溜めなきゃいけないのではないかと。そうすることで、瓢箪の2つの空間に水が溜まってるように見えます。後部の出口は完全に閉じるのでなく、隙間から水が流れ出るほどゆるい栓。

 

2・塔から水を流す

水を流してこその過去現在や、血統を表せます。あるいは人に例えて、花びらなどを一緒に流しました。水が流れて、下の日の舟のなかに溜まり、亀の中に溜まり、さらに下流の石畳のなかを下ります。

 

3・解説を交えて観賞する

縦から横から、2方面から観賞します。言葉じゃ伝えられないから、視覚的に示すことをコンセプトに、斉明天皇はこれを作らせました。歴史を忘却した人々に対してや、外国人に対しては、解説を挟みつつ鑑賞されたはずです。

 

こうしておよそ1,360年ぶりに、天照大神から斉明天皇までの血統を視覚的に表し、同時に須弥山と世界亀をも表現するという酒船石遺跡の叡智が、明かされたというわけです。

   

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問題児だけが悪いわけじゃないと認識できる今日この頃

拝啓、問題児です。

きのう半年ぶりに、コンビニエンスストアという場所に行きました。お店という場所自体に出向くのも半年ぶりくらいというほど、インドア派を極めています。インドアだけにカレー料理も美味しく頂いているこの頃です。

そしたら、コンビニのレジで蓄膿症のこと考えすぎて、お金を支払ったのに商品受け取り忘れました。

店員が外まで持ってきてくれ、事なきを得ました。しかし気づかなかったら、商品受け取らずに帰宅して、人生が終わってるところでした。

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ところで問題児って、トラブルメイカー、厄介者、疫病神、元凶。いろんな言い方ありますけども。

時代も場所も人種も問わず、いつも「問題児がそもそもの原因だ」って、誰もが思い込んでますでしょ。

「こいつさえいなければ」とか、「あの人のせいで不愉快だ」とか。そう言ってみんなで嫌がらせ、イジメ、追い込みかけてるみたいなことしちゃう場面は、日常にないですか。

ちくしょ~何で俺のことばっかり、俺のことばっかり悪く言うんだ!などとピーナッツをかじりながら荒ぶる人生でした・・・。

このたび問題児がおこがましくも、その「問題児の周辺の問題点」について、考えてみました。

1・解決してあげない

2・知ってて教えない

3・圧力かけて悪化させる

4・間違った解決法を教える

 

 

○いつも助かっております

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1・解決してあげない

実はその問題児の問題を、解決できる方法を知っている人がいるらしいです。いろんな問題について。

だけど、彼らは問題児の問題を、何故か解決してあげようとしないです。それなのに、問題児を嘲笑する言葉は常に口にしているような感じがします。

そういう人々は、だいたい自己責任論を押し通している感じもしますよね。実際は他者の影響が問題を作っているとしても。

そうして問題は解決されることなく、継続していくわけなのです。

 

2・知ってても教えない

問題の解決はできないけど、原因や状況は知ってる人はいますよね。でも彼らは本人に、原因やいまの状況を教えてあげることをしないらしい。

とことん問題点については無視して、問題児に対する文句は口にされるばかり。そうして問題児の問題は継続して行くだけなのですが。

 

3・圧力かけて悪化させる

とことん人をからかったり、圧力かけたりする人、いますよね。そんなの大規模にやられたら、ストレスだらけで、問題児の抱える病気や精神的な問題も悪化してしまうだろうに。

でも彼らはどんどん圧力かけまくってる。アナログで、ネットで。

彼らはイジメや嫌がらせや間違った解釈で問題を悪化させ、問題児に心の病を蔓延らせたいらしいですね。

解決してあげれば圧力掛ける必要はないのに、なんで解決してあげないで、圧力をかけるほうを選んでいるのだろうか。継続はもちろん、どんどん悪化する一方ですよ。

 

4・間違ったほうに誘導する

問題児が問題解決しようと試してみた方法は、まったく効き目がなかったりするのです。それでも間違った解決法を伝授したり、間違った方に誘導した人がいたりするのです。

それは善意からなのか、悪意からなのか。ともかく人の誘導により、問題児の問題が継続するじゃないですか。

 

 ・・・・・

こんな感じですが、如何だったでしょうか。ちょっと気になる問題児の周囲の環境で、思い当たる節はないですか。

 

たとえば俺の場合

・病院で蓄膿症をちゃんと診察・治療されず悪化した

・病院で意地悪されてトラウマになり行けなくなり悪化した

・問題点を客観的に指摘してくれる人がいなかった

・家族から的確な人生プランや問題修正の提案がなかった

・各方面から極悪過ぎる意地悪が執拗に継続され続けて悪化した

・そうして人生の全てが嫌になった

・俺の問題児なとこだけクローズアップされた

 

こういう過程があって、諸問題をこじらせましたが、俺を問題児扱いする人は、問題児化したまでの一連のプロセスは考慮に入れないのです。あいつが悪い、あいつが悪いと、壊れたレコードみたいに一辺倒で。

何故かいつも俺が失敗した、やらかしただの、結果だけがわんわん鳴り響くらしいですね。理不尽かと。

それにしても何でこんなに、問題が悪化する要素が全部揃ってんのだろうかと、陰謀を考えてしまう理由がここにあります。

 

 

ピタゴラス®問題集                                                 

 

何故世間は問題児を解決したくないのか?

世間的には「問題児だけが元凶だ」「問題児の自己責任だ」という風潮や認識が根強いかもですね。しかし実は、問題児の周囲の環境が明らかに変で「問題児の周囲の人々も問題児だった」なんてことは日常的かもしれないです。

問題をさっぱり解決するどころか、悪化させる環境が整っているのが、問題児の周囲だったりするんですよね。

そもそも彼らが問題児の問題点を解決しないのは、単純に面倒だったり、かかわり合いになりたくない理由もありますが。

しかし問題児のことを観察して面白がったり、執拗なイジメ・嫌がらせの対象にして面白がったりする人もいますね。サイコパス的な悪どい感性も、世の中には蔓延っているのも実際なんじゃないかと。 

 

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今後目の前に問題児が発生しましたら、問題起こした人の自己責任として見るだけとか、問題児だけをバッシングするだけにしないであげてください。

 

・問題児の周囲でどういったプロセスで問題児が発生したか。

・執拗にいじめたがる人も問題児じゃないか。

 

この視点も踏まえていただきたいなと。

以上、問題児でした。

   

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応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードした説

わたくし誰が見ても普通の人じゃないので、今後の行動についても、これまで通り、常軌から外れがちですので。

 

ところで応神天皇については、「外国の王がやってきて、応神天皇として入り込んだ」「天皇家応神天皇んところで百済王朝になった」という説があるのです。

これについても、保守的な人は、そんなのあるわけないと鼻で笑っていますよね。でも、鼻が通りそうになる重要な記述が「日本書紀」には残ってました。

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誉田御廟山古墳 - Wikipedia

 

○いつも助かっております

 

 

 

神功皇后と皇室の対立

 

神功皇后が新たに子を生んだとのニュースがでたのは、百済から七枝刀をプレゼントされた4世紀後半。神功皇后の義理の息子である坂皇子と、異母兄弟の押熊皇子は、皇位を奪われると考えて義理の母に戦をしかけるのです。結局坂皇子と押熊皇子は戦いに負けて、妙な死を遂げてしまいました。

この話、なんか変じゃないですか。なんで新たな子が火種となっているのかと。

かご坂皇子 - Wikipedia

 

胎中天皇

 

応神天皇の出自については、神功皇后新羅出兵のとき、お腹の中に15ヶ月もいてから、筑紫国の宇美で生んだとかいう変な伝説がありました。「宇美で生みました」とかいう、むかしのダジャレ付きで。

応神天皇は、胎中天皇という変な異名も持っていました。「たいちゅうてんのう?」いや、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)。

 

神功皇后の妊娠期間が、15ヶ月というのは普通じゃないです。どんだけ居心地が良かったのかと。

むかしは2倍暦年とか言って、「1年を2年にふくらませる暦」が用いられたのも事実と考えられています。だから神功皇后の話についても、2倍暦年を用いてるんじゃないかって話もありです。

しかしこれ意外に、ある1つの仮説によって、説明するには十分な感じがしました。

 

応神天皇は2人いた

 

それは簡単に言ってしまうと、神功皇后が生んだ子供は2人いたんではないか?という話で済ませられます。

新羅から倭に戻る2年か3年の間に、応神天皇のほかに、半島のほうでもうひとりの子を生んでいる。

だから、2人の赤ちゃんの妊娠期間を合わせて、15ヶ月としているのであると。

 

 実はこのことを示唆するんじゃないかという記録が、15ヶ月のほかにも、「日本書紀」のなかにあるんですね。

応神天皇が即位した直後の、「日本書紀」の話。

「ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名付けて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けたという」

日本書紀」(上)全現代語訳p210より

 応神天皇こと誉田別尊は、去来紗別神(いざさわけのかみ)と言う謎の神と、名前を入れ替えたって話。

つまり応神天皇が子供の頃、

応神天皇と全く同格な人物がもうひとりいた。両者は入れ替わっている、そういった事がわかるのですが。

 

去来

  1. 去ることと来ること。行ったり来たりすること。ゆきき。往来。「心中に去来する思い」
  2. 過去と未来。

去来(きょらい)の意味 - goo国語辞書

この時、1人の神がやってきて応神天皇となり、元の応神天皇が神となって去ったのだと。だから2人の応神天皇兄弟が「去来」していると。想像ができるのですよ。

 

こっそり入れ替わってしまった知られざる人物が、皇族の新応神天皇として血筋を担っていくわけなのです。

 

金官伽耶に去来した応神天皇

 

・元の去来紗別神はどこから来て、新たな誉田別尊になったのか。

・元の誉田別尊は、新たな去来紗別神となって、どこへ行ったのか。

この2つの謎の回答は、両方共に、「金官伽耶に去来した」と回答するよりないです。

 

 最初、「応神天皇百済に去来したんではと考えてたのですが、どこを切っても金太郎飴ならぬ金官伽耶飴でした。

伽耶 - Wikipedia

 

金官伽耶とは

元々倭人加羅と呼んでいた地域で、今の韓国の慶尚南道あたりです。対馬のすぐ西北のあたり。

ここはかつて倭人の拠点があった土地でした。金官伽耶より遡れば、インドのサータヴァーハナ朝の王女と婚姻したという首露王の時代。さらに遡れば倭の最北端だったという狗邪韓国、弁韓、紀元前に辰国と言われた場所でした。

ぶっちゃけ言うと、金官伽耶王朝は、天皇家の神話と同じ形態の神話を受け継いでいました。だから、天皇家の血筋だったようです。加羅人の言葉も、研究によれば倭語の亜種であると言われています。

 

2人の応神天皇が、金官伽耶に去来した。その証拠は、応神天皇諡号の中にあります。

 

倭王讃こと応神天皇の実在年代

 

日本書紀」で応神天皇は111歳、「古事記」では、応神天皇は130歳としているので、普通に考えたら長過ぎます。2倍歴年で当たってるあ考えることができます。

応神天皇は実際のところ、4世紀末から5世紀前半ころ、実在したんじゃないかとされます。

それは「宋書倭国伝の永初2年(421年)や「梁書」に登場する倭国王讃と同一ではないかという見方を元にすれば。

倭王讃の時代は、西暦430年台まで続いたと、「宋書」からわかります。倭王讃国史書に登場は421年、425年、430年、438年。

おそらく倭王讃応神天皇とは、390年台から430年台ころまでの人です。

 

応神天皇諡号が現す金官伽耶王との繋がり

 

誉田別尊(ほむたわけのみこと)というのは、古事記では「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」と書くのです。

 

じつはここで、金官伽耶王のほうにも注目したいと思いました。

応神天皇が在位したまったく同じ頃、金官伽耶の王様はこんな名前だったから。

 

金官伽耶王=伊尸品王(いしひんおう)

 いしひんおう~?

 これだと分かりづらいですが、

金官伽耶 伊尸品王 品

倭国王 応神天皇品陀和気命 品

応神天皇の和風諡号とは、「品」の字で合ってますね。なんで同じ時代の王が、同じ名前なのかってのは、偶然で済ませれば簡単です。

 

金官伽耶 伊尸品王 346~407年

倭王讃品陀和気命)390年台~430年台(推定)

 しかし見てわかるように、伊尸品王は応神天皇よりかなり年上です。入れ替わってるのはこの2名じゃないです。

 

伊尸品王の息子だった坐知王と、品陀和気命の両者が、トレードしていると見ています。

 

坐知王と品陀和気命の共通点

 

この両者は、完全に同じ時代の統治者でした。年齢的にも容姿的にも、もしかして似ていたのではないかと。

 金官伽耶 坐知王 407~421年

 倭王讃品陀和気命)390年台~430年代(推定)

 

気になるのは、神の称号。

品陀和気命は、漢風諡号では応神天皇というのですが、坐知王は、「神王」と呼ばれてたのです。

金官伽耶 坐知王 

倭王讃 品陀和気命 応天皇

神が付く王や天皇は、神武天皇崇神天皇神功皇后(神功天皇)、応神天皇くらいで、、すごく少ないです。

金官伽耶の方を見ても、神が付く国王は、坐知王意外には見当たりませんでした。

この2人が同じ時代にいるというのが、まず怪しい点。この坐知王が去来紗別神だったのではないか?と。

 

 あとは去来紗別神(いざさわけのかみ)の名との関係です。

 坐知王は、大和言葉で発音すれば「坐(すわり)知(とも)王(みこ)」

・坐というのは「いざ」のざ。

・坐は「すわる」「すわ」。

「去来紗別(いざさわけ」にふくまれる「ざさわ」が、「坐(ざ・すわ)」には入っているな~といった感じです。それでやっぱり敦賀応神天皇が出会った去来紗別神というのは、金官伽耶の坐知王だったのではないかと。

 

 

日本現代怪異事典

 

人人

 

あと、応神天皇こと倭王讃の漢字と、坐知王の名前でも。

讃の字には、「夫夫」が入ってますが、これは「人人」にもなりますね。

一方で坐知王の「坐」は、「人人」と書くのですね。中国史書「宋書」など見ても、両者の同一人物説が補強されるのです。

 

応神天皇と坐知王は両者「とも」の王

 

応神天皇は別名を「大鞆和気(おおともわけ」と言ったのです。鞆(とも)とは手を守る防具のこと。腕っぷしが立派だったからとか、後付の理由が付いています。これは「ほむた」と呼んで、応神天皇諡号「誉田(ほむた)」を別の言い方にしたもの。

しかしこの鞆(とも)、完全に重要なキーワードでした。何故かと言うと。

応神天皇 鞆(とも)

・坐知王  知(とも)

両者とも、「とも」が入っているのですね。これも神と同様、偶然じゃないなと。両者とも「とも」と呼ばれる人だったのです。

 

母親の名前

 

応神天皇の母親は、神功皇后ですが、本名を気長足姫尊、息長帯比売命(おきながたらしひめ)というのですね。息長というのは姓名で、息長宿禰王の娘です。

だから神功皇后の本名は「たらしひめ」です。もっと突き詰めれば、「たらし」

 

それで、気になるのは金官伽耶の、坐知王の母親の名前でした。母は「貞信」といったのですが、詳しいことは何もわかりません。

 この人物の名前もどうも、妙に神功皇后に似てる要素が入ってるなと。感じ取れたのですが。

たらし Tarashi

貞信  Teishin

これ、たらし姫が訛って、たーし姫、て-し姫、漢字で書いて、貞信姫になったような、印象を受けるのですよ。

国が違うと、言葉も特有に鈍るので、そのへんで分かり辛いのであると。カラオケが、アメリカでは「キャリオキ」になっちゃうみたいな話。

 

勿論想像にすぎないですが。貞信とは、金官伽耶で記録された神功皇后なのではないかと。

つまり神功皇后は、仲哀天皇なき後、こっそりあちらで金官伽耶伊尸品王と関係が出来上がって、去来紗別神こと坐知王を生んで、貞信と記録されたんですね。

 

ここまでのまとめ

 

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偶然でこんなに一致するわけ、ないですから。

 

年代が一緒で、珍しく神が付く王であり、ともの名で一致し、品の名で父親と一致し、入れ替わったという去来紗別神の名に近く、母親の名前も似てた・・・。

ということで、応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードしたんではないかと。そういった可能性はあるかもと。

金官伽耶天皇家同様に、天津神系の神話を保持する王族でした。神功皇后金官伽耶にそそのかされ、金官伽耶王と自身の子である坐知王と応神天皇をトレードすることで、両国の政略的な関係強化をはかったのであると、そんな感じかもです。

 

そうすると、麛坂皇子と押熊皇子が、義理の母の神功皇后に牙を剥いた理由は。

金官伽耶天津神系の天皇系の国でした。それに坐知王は神功皇后の息子。であるにしても、金官伽耶という部外者的な坐知王を、応神天皇に入れ替えようとする神功皇后の陰謀に対して、皇族側は猛反発したんですね。で、反乱の先頭にたったのが坂皇子と押熊皇子皇。いわば皇族側の抵抗戦争だったのかと。

しかし結局、全ては、百戦錬磨で天照大神の威光を背にする、神功皇后の思い通りになってしまいました。

 

すると、こういうことなのですが。

1・倭の仲哀天皇神功皇后の間に、誉田別尊が生まれ、

2・金官伽耶の伊尸品王と神功皇后の間に、坐知王が生まれ(新羅出兵の時)

3・誉田別尊と坐知王(去来紗別神)の兄弟は、金官伽耶王と神功皇后の意向でトレードした

4・だから神功皇后と皇族による戦争が起こった

5・その後の天皇金官伽耶系となった

 

まぁ、全部想像ですけど。応神天皇兄弟の入れ替わりが、実現している要素は揃っているかと思います。

  

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