たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

奈良・明日香村 酒船石遺跡の正体は「天皇家の血統の視覚的表現」だった件

この酒船石遺跡の話は、最近じわじわと閃いて考えることができたので、公表することにしました。

ところで本日は腹痛、肋間神経痛、めまい、腕のしびれ、動悸、立ちくらみ。朝からぜんぶ来たので、ぐったりしながらのまとめ作業。


○いつも助かっております

 

 

 

斉明天皇と須弥山

 

斉明天皇は、聖徳太子と同じ6~7世紀時代を生きた天皇

このかた、インド発祥の須弥山信仰に熱心な様子でした。

斉明天皇2年(656年・63歳)
 香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。
この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された[6]。

斉明天皇3年(657年・64歳)
7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。

斉明天皇5年(659年・66歳)
3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。

斉明天皇6年(660年・67歳)
石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応。

斉明天皇 - Wikipedia

いまも奈良の明日香村には、斉明天皇が作らせたという、須弥山の噴水(レプリカ)が立ってたりしますね。 

覩貨邏人、蝦夷、粛慎、大陸人やら外国人やらが日本に上陸するたび、斉明天皇は須弥山を作って饗応した、つまり美味しい食事や酒を出してもてなす、宴を開いたのです。

斉明天皇道教に熱心だったという話ですが、この時代、中央アジア人やら、ペルシャ人やらが、多数日本に来ていたのです。ヒンズー教キリスト教ユダヤ教のことも知ってたはずですね。

斉明天皇は、大陸人など遠方からの使者を特別扱いで饗応して、一々諸国の最新情報や歴史的な話を聞き出したことが想像できます。 

 

ちなみに須弥山とは。

古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり、この世界軸としての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教ヒンドゥー教にも共有されている。

インドで形成された宗教のうち、とりわけ仏教が中国や日本に、ヒンドゥー教インドネシアなどに伝播するにともない、この世界観も伝播した。ジャワ島にはスメル山という名の山もあり、別名はマハ・メル山(偉大なるメル山を意味する)である。

仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん、Cakravāḍa)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

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須弥山 - Wikipedia

斉明天皇は大陸の方に、心が行っちゃってたのです。

 

 

神と亀

 

古来より中国では四神といって、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武が守護しているという思想があったんですが。

青龍は竜

白虎は虎

朱雀は鳳凰

玄武は亀と蛇

なんですよね。つまり古代中国の思想では、

玄武とは亀であり、水の神であり、亀とは神獣、神なのであると。

千鶴万亀(せんかくばんき)と、目出度い象徴にして万年生きると言っているので、やっぱ神の領域だと考えてたのですかね。

 

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玄武 - Wikipedia

 

古代インドでも亀はやはり神獣で、それどころか、この大地を支えているのは巨大な亀と蛇と象であるという世界観が、まことしやかに信じられてたのです。世界樹ならぬ、「世界亀」っていう。

 

 

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World Turtle - Wikipedia

 

現代人で、科学のみを信奉する人には、古代人の思想は理解できないですが・・・。

 

この世界亀が、どうも中国の玄武と同じではないかという感じ。

なぜかというと、中国では四神と共に、四霊という、4匹の瑞獣も存在するのですが、そこに霊亀と呼ばれる巨大な亀さんがいるからです。

 

この霊亀は、蓬莱山という、不老長寿の仙人の住まう山を、背負った姿なのです。

インドの大地を背負った世界亀と全く同じ発想。

 

玄武(四神)・霊亀四霊)と蓬莱山・インドの世界亀・須弥山

この繋がりは、完全に、ある。

何しろ紀元前の秦の徐福は、蓬莱山を求めて倭へ向かい、富士山は蓬莱山とされてきた歴史的経緯があったのだから・・・。

須弥山が日本に入っているなら、おそらく、「亀は神」という思想も、同時に入ってきてるはずです。

浦島太郎が亀を助けたら竜宮城に行ったという昔話とか・・・。

 

そういえば古代エジプトには顔面が亀そのものな、神様もいた。要するに亀は神に通じる。これは世界中で共通するところでした。

 

 

日本の神と亀

 

すると日本語で、古来より亀がカメと言われたのと、神がカミと言われているのは関係があるのではないかと。

神 kami

亀 kame

こうやって並べてみると、発音がにてます。「亀は神なのだ」という世界で育まれた思想と比較すると。やまとことばの中の、神と亀が似てるのは、完全に関連してると考えるのですが。

 

それにしても、どうも神武天皇のことが思い出されてきます。

何故かと言うと、神武天皇は神武東征中、「速吸門で、亀の背に乗る棹根津彦に道案内をされて東に向かった」ので。亀に関係する天皇なのです。

そして神武天皇自身の諡号を見れば、

天皇

倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

この発音は「カム」なので、

神 kami

神 kamu

亀 kame

神も亀も大差ないのですよ。

昔は漢字なんか使わなかったので、kami、kamu、kame

誤差の範囲だったのでは。要するに神武天皇は、なぜか亀に関連付けられていますね。

 

 

神武天皇と玄武

 

話は四神の玄武に戻るのです。

玄武というのは、古来中国で擬人化もされていて、その姿や属性は「武神」だったのです。玄武という架空の動物が、神武に関連づいてくるのがわかります。

玄武・・・四神・亀の姿・武神

武神の逆は神武

神武・・・神武・神倭伊波礼毘古・亀に導かれて東征

 というふうに、神武天皇に対応するのが、玄武であるというのは、完全にわかってきます。あるいは斉明天皇は、実際にこう考えていた可能性が高いです。

 

 

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瓢箪

 

ひょうたんの中には別世界がある。これは古代人類の共通した発想だったとか。

 ヒョウタンは中国の兄妹始祖型洪水伝説、イースター島マケマケ神話など人類誕生の神話や伝説にかかわる。中国では、ヒョウタンの中に別世界があり、道教の八仙の一人鉄拐(てっかい)仙人はその霊気で不老長寿を保つとされた。漢方医のシンボルに使われ、かつて魔除(まよ)けや御守りにされたのも、その思想による。孫悟空(そんごくう)がヒョウタンの中に吸い込まれたり、「ヒョウタンから駒(こま)が出る」という日本の諺(ことわざ)も、ヒョウタンの中に別世界があるとの考えに基づく。なお、「ヒョウタンから駒」の諺は、ヒョウタンから米が出る『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』のスズメの恩返しや、『今昔(こんじゃく)物語』の僧の実力競べが基になった「ヒョウタンからコメ」から派出したとの見方もある。ヒョウタンの名は、『和漢朗詠集』の「瓢箪屡空(しばしばくう)」から広がったとされる。これは『論語』で、顔回(がんかい)の清貧を表す「一瓢の飲」「一箪の食」の瓢と箪(飯盛り器)を、誤って瓢箪と重ねたことによる。古名はひさご、あるいはふくべ。
 世界各地で土器に先だつ歴史があり、生活に深く結び付き、神話・伝説に登場し、儀式や儀礼、呪術などにもかかわり、ヒョウタンは文化に値する意義をもつといえよう。[湯浅浩史]

ヒョウタン(ひょうたん)とは - コトバンク

なんでここで唐突にひょっこり瓢箪が出てくるのか、というのは、、奈良県の明日香村の酒船石遺跡、亀型石造物に関係してるかもしれないからです。

瓢箪により仙人は不老長寿のちからを持ったとか、蓬莱山的なことが書いてあるので、瓢箪が亀や神に関係しているのは明らかです。

こんな視点を保持保持しつつ、では奈良県明日香村の、酒船石遺跡の石造遺物のほうを見てみます。

 

 

明日香村の酒船石遺跡

 

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フリー素材の宝庫 カルタゴギャラリー

 

明日香村は行ったことないですが、ここは亀石やら、亀型石造物やら、亀にまつわる土地でした。

酒船石遺跡 - Wikipedia

この時代、遠く中東のペルシャの石工がやってきていました。石造物はペルシャ人が作った、または影響したと言われます。

明日香村公式サイトによると、亀型石造物とは、斉明天皇の時代の遺跡であり、天皇が祭祀をおこなった場所だと考えられるとのことです。 

 

まず酒船石遺跡のなかで、亀型石造物を中心とする祭祀遺跡全体は、いくつかの要素が気になります。

・石積みの湧水施設

・湧水施設と小判型石造物をつなぐ木樋

・小判型石造物

・亀型石造物

・周囲の石畳

・全体が階段状につくられている

これらがすべてが渾然一体となって、天皇の何かを表現してるわけです。

 

当時、斉明天皇が祭祀施設や水路やらを、奈良盆地に作りまくっていたので、人々は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と揶揄してたらしいです。この亀型石造物と一連の遺跡は、斉明天皇が作った狂心の渠の一部ではないかとも言われます。

 

これの正体ですが、個人的には、こう考えました。

 

 

天皇家の歴史を現す酒船石遺跡の湧水施設

 

簡単に言えば、日本神話で伝わる天孫降臨から、天照大神の誕生、日向三代、神武東征、その後の天皇家のたどった道筋。

天皇家の血統の視覚的な表現だったと。そう感じとれました。

その理由。

 

(1)

まず、酒船石遺跡の断面図を適当に描いてみたのが、こちら。

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横から見れば、こんなふうになっているのです。これが西暦656年ころに作られました。

 

 (2)

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南側が高台になっていて、北に向かって低く作られています。水を下流に流れ下らせて、それを眺めてなにかをするのが明らかなり。

 

 (3)

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これは言い換えれば、水の流れが過去から現在を表しています。

一番右から左まで、ちょろちょろ~っと流すと、途中の木樋(きどい)を通り抜け、小判型や亀型の石造物に水が溜まりつつ、流れていくのに時間が必要です。

だから石造湧水施設のほうが過去、石畳の左端が現在。

 

(4) 

天皇家が祖神とする天照大神の別名が、大日孁貴(おおひるめのむち)だと「日本書紀」に書いています。

大日孁貴こと天照大神は、太陽神であるにかかわらず、伊弉諾と伊弉冊により地中から生み出され、天御柱を通って天にのぼりました。

この出来事を斉明天皇は、石造湧水施設の「地下水の湧き上がる塔」で表しました。要するに右端の湧水施設は、天照大神が天にのぼる足がかりとなった、天御柱(あめのみはしら)です。

斉明天皇の和風諡号に「日足」とあるのも、天照大神=日神の足がかり、つまり天御柱のことではないかと。

 

(5)

石造湧水施設のところが、明らかに一段高くなっているのは、高台によって高天原を現すためです。そこに淤能碁呂島と天御柱があって然るべきというわけ。

 

(6)

木樋の区間で、天照大神の治世の流れを表しました。

 

 (7)

天照大神の孫である、日向三代のさいしょの瓊瓊杵尊が、葦原の中つ国の日向の高千穂峰へ降りました。

この出来事を水が木樋を伝って、小判型石造物に注ぐ様子で表しました。

小判型石造物は、本来は旅の船の形であり、真上から見ると「日」の形になっています。

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これは天照大神日向三代の神々と、神武天皇、そして斉明天皇が、「日」を司る者だったから。

天照大神・・・日の神

日向三代・・・日の神

邇邇芸命(ににぎのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を合わせて日向三代という。

神武天皇・・・日の神の子

斉明天皇・・・天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 日の天皇

小判型石造物は、言い換えれば「日向三台」ってダジャレも利かせてました。

 

(8)

流れた水は、やがて亀型石造物に流れ込みます。日向三代のあとは神武天皇で、水神である玄武=武神を配し、武神を逆さにすれば神武、神は亀、といった情報をここで表していました。

 この亀に水が注ぐことにより、天照大神から日向三代を経て神武天皇に至るという、天皇家の系譜が示されました。

 

(9)

亀型石造物より先の石畳の谷間を、水が流れていく

この水の流れの先が、神武天皇の後の天皇家の系譜ということになり、斉明天皇の時代が現在にあたります。

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 瓢箪で須弥山を現す

 

ところで瓢箪が、どのへんに関係しているかと言えば、これ。

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木樋と、小判型石造物と、亀型石造物を縦に並べると、ひょうたんがぶら下がってる形になっているのですね。瓢箪のなかの異世界を現すのか、瓢箪をざっくり切り分けたときの、断面かのよう。

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これ、単なる瓢箪というわけじゃなくて、亀の上に水を入れた船があり、さらに上に宮殿が乗っかってる用に見えないですか。まさにこの角度からは、須弥山や世界亀の形も見ることができるのでした。

やはり斉明天皇は、須弥山や世界亀のことも、これにより表現したであろうと。

 

角度を2か所で変えて見ることで、別のものが見えてくると、そういう2way的な高度でおしゃれな発想だったわけですね。 

 

 

亀型石造物の正しい使い方

 

最後にに、斉明天皇の思考に同調し、亀型石造物の正しい使い方を発想してみました。

 

1・亀のお腹の、下流側の穴に栓をする

栓は、本来あったはずですが、失われているようです。亀のお腹はどう見ても、水を溜める構造になっているのだから、溜めなきゃいけないのではないかと。そうすることで、瓢箪の2つの空間に水が溜まってるように見えます。後部の出口は完全に閉じるのでなく、隙間から水が流れ出るほどゆるい栓。

 

2・塔から水を流す

水を流してこその過去現在や、血統を表せます。あるいは人に例えて、花びらなどを一緒に流しました。水が流れて、下の日の舟のなかに溜まり、亀の中に溜まり、さらに下流の石畳のなかを下ります。

 

3・解説を交えて観賞する

縦から横から、2方面から観賞します。言葉じゃ伝えられないから、視覚的に示すことをコンセプトに、斉明天皇はこれを作らせました。歴史を忘却した人々に対してや、外国人に対しては、解説を挟みつつ鑑賞されたはずです。

 

こうしておよそ1,360年ぶりに、天照大神から斉明天皇までの血統を視覚的に表し、同時に須弥山と世界亀をも表現するという酒船石遺跡の叡智が、明かされたというわけです。

   

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