たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

邪馬台国以前は出雲が日本列島の広範囲を統治してた件

世界情勢見てると、これまでの常識や日常が、変わるというか「終わる」のは確実な気がしますね。準備ほとんどできてないですが・・・。

今回は邪馬台国以前には、出雲が日本列島を統治してた話について。

 

 

卑弥呼以前には出雲が九州~本州統治した

 

 

通説では出雲というのは、島根県の狭い領域であると言われてるのですが。

これ、間違ってるんじゃないかと想像しています。

 

日本神話には、なぜか出雲について語る時代が長いじゃないですか。

それは天岩戸事件のあと、高天原から素戔嗚尊が追放され、出雲の八岐大蛇を退治し、大国主が出雲を開拓、天照に国譲りする時代まで。やたら出雲が古代の日本各地で幅を利かせてることも分かっています。

これは「かつて倭国全体を統治したのが出雲だった」ことを意味しているわけなんです。

 

その証拠を集めました。

 

 

出雲の別名は葦原中国大和国だったと日本書紀にある

 

その証拠は「日本書紀」にもありました。

日本書紀」の神代を見れば、高天原天照大神から追放された素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したあと、大国主神による国造りについて記されています。

そこに興味深い話があるのです。

 

 

大国主少彦名命との国造りの最中に、こう言ってました。

「葦原の中つ国は元から荒れて広いところだった・・・けれども私が皆くだき伏せて、今は従わないという者はない」

「今この国を治めるものはただ私一人である」

 

そしてそんな大国主神の元に、ある日海を越えて大物主神が現れました。すると

大国主「あなたは私の幸魂奇魂です」と、大物主は自分と同一の存在であるような不思議なことを言ってました。

 

大国主が「今何処に住みたいと思われますか」とたずねると、

大物主神は「私は日本国の三諸山(奈良の三輪山)に住みたいと思う」

と答えたので、大国主は奈良の三輪山に宮殿を立て住まわせたとあります。

 

まぁ奇妙な話ですが、ここから分かるのは、

大国主神が支配した出雲とは葦原の中つ国だった

出雲の別名は、葦原の中つ国、日本国だった

大国主神は奈良に自分で宮殿を建てたのだから、奈良も出雲の領域だった

この時点で本州の統治者は大国主神ただ一人である(天照大神邪馬台国の影響力が皆無)

 

つまり「日本書紀」によれば、この時点での出雲は山陰地方のみならず、「奈良まで含む本州の広範囲」なんです。

しかもこの出雲の国造りの起きた時点では、大国主神の対立勢力であるはずの天照大神邪馬台国)の影響が無いと言っている。

つまり本州には天照大神高天原がなかった。天照大神の物語の舞台は、本州以外のところにあった、ということになるわけですが。

 

 

 

本州には出雲系地名が多い

 

出雲が本州の広範囲を統治した証拠、それを証明するのが日本の地名でした。

 

 

本州のいず(izu)、azuma、こうゆう大きな地名が各地にあるのは、出雲だった名残りだったりするんじゃないか、そんな気がしました。

九州の委奴国も出雲に似たidu的な地名であるし、本州から北部九州が出雲の支配地になってたんじゃないですかね。

 

 

4世紀の雄略天皇のときに奈良盆地にいたという土蜘蛛、国栖っていうのも、かつての出雲人の生き残りだったんじゃないですかね。

 

 

出雲の野見宿禰はわずか1日で奈良盆地に来た

 

 

むかし垂仁天皇奈良盆地にいた頃、出雲の野見宿禰が相撲に招かれたのですが、たった1日で奈良に来たと言います。

地元の伝承ではもともと出雲は桜井市だというのである。

日本書紀によると垂仁天皇の時代に、国内で初めて天皇の前で相撲が行われたとされている。当麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢が「自分より強いものがいるならぜひ戦ってみたい」と豪語しており、それを耳にした天皇が対抗できる力自慢を探させ、呼び寄せたのがこちらの出雲の野見宿禰(のみのすくね)だということである。

出雲国より「即日に招集」したという記述が日本書紀にあることから、「島根(出雲)から奈良まで即日に招集できたのか?」と考え、実は山陰の出雲ではなく、桜井の出雲から呼び寄せたというのである。

国号地名。桜井市出雲、吉備、豊前、長門 : 奈良・桜井の歴史と社会

 

グーグルで調べると、奈良の橿原市から島根の出雲市までは最短距離で357.2kmあり、徒歩での所要時間は75時間だそうで、だいたい1日10時間歩いても、7日ちょっと。

即日招集って「使者がその日のうちに本人を呼んで連れてくる」わけなので、出雲と奈良の間を往復するわけです。往復だと150時間になり、1日10時間歩いた場合の日数にすれば15日。

むかしは綺麗な道も橋も整備されておらず、遠回りになったり足元が悪かったのを考えれば、1週間じゃ済まない感じがしますが・・・・。古代人の足が速いとしてもやはり7~10日は見ておかないと。

歩いて往復で10日かかるところ、往復で1日で到着できるのは不思議ですが。

実は当時、奈良のあたりには、出雲と呼ばれる土地が広がっていたんじゃないですかね。それは、奈良が出雲人の土地だった時代があったから。

いまでも三輪山の南側の桜井市には、大字出雲という地名が残ってたりするのです。これは信ぴょう性あります。

 

 

東鯷人と二重亀甲剣花菱

 

 

3世紀の倭人について記した「後漢書」には、「東鯷人」が登場するんです。

これは倭人の別名と言いますが、実は想像すると出雲人だと思います。

東は「あずま」で出雲のことです。鯷はひしこって言うんですけど。今で言う「かたくちいわし」のことです。

「東鯷=とと」であるなら、たたら製鉄の「たた」のことで、たたら製鉄を始めた出雲人のことではないですかね。

 

あと、出雲国造の家紋が「二重亀甲剣花菱」なんですが、「ひしこ=菱甲」で亀甲剣花菱をあらわす言葉だったりするんじゃないですかね。するとこの紋様は3世紀以前にはすでにあったことになりますが。

東鯷人が倭人として書かれてるということは、倭国の統治者は出雲人だったことの証拠です。

 

 

出雲は「狭布」だった

 

 

出雲国風土記」には、出雲は狭い布のようだ、つまり細長い形だったとかいう話があるのです。

昔は宍道湖より北部が、東西に細長い島だった説がありますが。

出雲全体を見れば、上に示した地図のとおり、細長くないわけなんです。すると、出雲が狭布と言う表現は当てはまっていません。

実は「狭布」という表現は、細長い本州のことを表したんではないかと。それは出雲が本州を統治していたから。

すると古来より伝わってた国引き神話も、元々本州全体に当てはめてたのかもしれんですね。

 

 

出雲人は本州全域を統治した記録

 

沼河比売 - Wikipedia

 

本州の各地には、出雲人が開拓の主であり先祖になったとの伝承が残っています。それをちらっと見てみることにしました。

 

中国地方を支配した出雲族

兵庫県には播磨一之宮の伊和神社があるのですが、ここは大国主の国造りの最後に手掛けた土地だったとか。

出雲の国造りなのに、兵庫県まで開拓してるということで、「国造りは出雲だけ」と思い込んでる人にとっては意味不明ですね。

しかし本州の広い範囲が出雲だったならば、兵庫までも出雲の国造りに含まれていて当然てことになります。

ちなみに中国地方の山陰がわや、吉備や播磨など含む東側は、だいたい当初から出雲族が開拓した土地だったようです。

 

近畿を支配した出雲族

奈良の三輪山に移転した大物主神は、出雲の大国主神と同一存在とされています。

その大物主神から、三輪氏や賀茂氏などが現れたそうです。賀茂氏と言えば八咫烏であり京都の一之宮である賀茂神社を営んでおり、京都一帯を統治していた存在です。

 

出雲の素戔嗚尊の子である五十猛命は、紀伊国一之宮である伊太祁曽神社の祭神です。かつて五十猛命は、妹である大屋津姫命と都麻津姫命と一緒に、新羅から持ち帰った木の種を九州から順に日本中に蒔いて国中を青山に変え、最後に紀伊に降り立ったとか。この不思議な神話も、出雲人が日本中を統治した証拠のようではないですか。

 

北陸や信濃を支配した出雲族

大国主の父である天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)は、出雲から出て能登半島を平定したと、重蔵神社の社伝に記されていました。

またかつて大国主神自身も、少彦名命と共に、北陸の能登半島を平定し開拓したとの伝承が存在しています。

また大国主は高志国(新潟)にいる沼河比売(奴奈川姫)を妻にするため、出雲から当地へ旅立ったとの伝承が知られています。特に新潟の糸魚川付近に、沼河比売の言い伝えが色濃いようです。

そして大国主神の子である建御名方神が、信濃を統治し諏訪大社の祭神になったそうです。

 

東海を支配した出雲族

天照大神の子でありながら出雲に鞍替えした天穂日命は、出雲族の祖とされる存在の1柱でした。その孫である櫛瓊命(くしにのみこと)は、別名が伊勢津彦。伊勢に拠点をもっていたそうで、それが伊勢国の由来になったとか。

つまり伊勢は出雲系の土地でした。櫛瓊命は東へ去ったというので、伊勢より東側も出雲人の土地だったようです。

伊豆の一之宮三嶋大社の祭神は、事代主で出雲系です。伊豆という地名自体も、出雲を元にするような感じがします。

さらに静岡の駿河国遠江国三河国の一之宮の祭神はぜんぶ大国主神であるのは、偶然じゃなかったりするでしょう。だいたい東海地方も出雲族が開拓した土地でした。

 

関東を支配した出雲族

 

 

大宮氷川神社は、埼玉にある300社の氷川神社の総本社です。出雲の神である、須佐之男命、奇稲田姫命大己貴命を祀っています。最初に紀元前の第5代孝昭天皇の頃に創建され、4世紀頃の成務天皇の時代に、出雲族が本格移住してきたと社伝にあるようでした。そのため武蔵国造は出雲国造と同族であるとか。武蔵は紀元前から出雲人の支配下だったんです。

 

天穂日命の曾孫である身狭耳命は、関東の国造の祖となった人物でした。

身狭耳命が祖となった国造は相模(神奈川)、武蔵(埼玉・東京)、総(千葉)、常陸(茨城)の4国。武蔵国造・上海上国造・下海上国造・相武国造・千葉国造・伊甚国造・菊麻国造・安房国造・新治国造・高国造があります。

国造の多くは崇神朝以降、景行天皇成務天皇の頃に設置されたとか。その実年代としては3世紀~4世紀の頃ではないかと。(天皇陵の年代などから考慮すれば)

伊勢国風土記」ではこの人物の時に初代の神武天皇がいたというのですが、各天皇の古墳年代(3~4世紀)より神武が後になってしまうので、神武天皇に関わる逸話は後付されたようです。

 

鹿島神宮天照大神から派遣され、東国を平定した経津主命を祭神とするところ。

境内には要石があり、大ナマズを押さえつけていると伝えられています。大なまずとは「大穴牟遅(おおなむじ)=出雲の大国主神」のことで、大穴牟遅が統治してた国を、経津主命が押さえつけたことの象徴である感じがしますね。

すると常陸も、かつては出雲の範囲だったことが分かるわけですが。

 

北部九州を支配した出雲族

以前にお知らせした通り、委奴国=伊都国とは出雲の土地だったのであり、官吏が出雲の神々の名を踏襲した名前になってたりしたのでした。

伊都国は全国の隅々まで監視を行う「一大率」の拠点でしたけども。その代表者が伊都国人だったのは、彼らが出雲族であり、本州の出雲族のことを良く知ってるからこそであろうと思うわけです。

 

 

出雲の歴史を時系列で並べると

 

縄文時代(紀元前7世紀以前)

弥生時代(紀元前7世紀以降)

出雲(東鯷人)が倭国(九州北部~本州)を統治し国造りを始める

弥生時代前期~後期)

※もし大国主神が徐福と同一人物なら紀元前3世紀~

邪馬台国が台頭、北部九州を統治。出雲と対立(2世紀末から)

出雲の国譲り=倭国大乱(2世紀末~3世紀前半)

邪馬台国崇神天皇卑弥呼)の本州統治(3世紀前半)

邪馬台国が筑紫から奈良に遷都(3世紀前半)

こんな感じかと想像するばかりです。

 

大国主の時代には、日本列島に覇邪は大国主だけしかいなかったって「日本書紀」にありますし。ぶっちゃけ邪馬台国卑弥呼崇神天皇は、後から日本列島に乗り込んできた勢力だったと思いますが。それ考慮してこんな感じになりました。

出雲と邪馬台国のルーツがどこにあったか、それについても記紀神話を見ればわかりますが、そのへんは過去の記事だとか見てください。

 

 

ぽちされでたすかりまs

 

 

 

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