たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

紀元前の倭人は「なまず人」だった。出雲の大国主=大なまずの国だったからだ、と納得してたら古代エジプトに繋がる

出雲の国譲り、葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定とも言われる出来事について。わかったことをひとつ。

天照大神は出雲を平定するにあたり、支配者だった大国主命に使者を送って降伏させたんですね。これが出雲の国譲り神話でした。

古事記

天照大御神高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わした。大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

葦原中国平定 - Wikipedia

 これがいつの出来事だったかは、諸説入り乱れていました。人によれば神代は縄文時代だとか、天照大神卑弥呼だから卑弥呼の時代だとかですね。

 

出雲の国譲り=狗奴国が邪馬台国に国譲りした出来事

 

個人的な仮説なのですが。

どうもこの出来事は卑弥呼の時代に起きた、西暦180年代の、「倭国大乱」と関係していましたね。

2世紀には朝鮮半島に本拠を置いた倭国、その女王となった卑弥呼が、日本列島の狗奴国攻め入って、九州に倭国を遷都したのが、倭国大乱だと思っています。

つまりここでいう出雲国とは、本州全域を支配した狗奴国のことです。「狗(い)奴(ず)」が出雲ってことで。その名は委奴や伊都などの漢字にも受け継がれていましたが。

九州に本拠を置いた倭の邪馬台国卑弥呼でしたが、本州全体を支配する狗奴国=出雲国と対峙している状態になっていました。しかし邪馬台国のほうが軍事的に圧倒的な優位は明らかだったので、本州の狗奴国は本州を譲ったわけですね。

これが、

1「記紀の神代の出雲の国譲り」

2「記紀崇神天皇の時代の武埴安彦の反乱」

3「魏志倭人伝の狗奴国との対立」

この3つは、違った人物・場面かのように書いてあるのですが、3つは全部一緒で、邪馬台国VS出雲、その後の出雲の国譲りを記録している話ですね。

倭国の本拠地の変遷(推定)

 

紀元前4世紀の倭の人々は「なまず人」だったことがわかる

 

どうやら倭人の中には、秦の徐福の民がいるらしいとわかるのが「後漢書」でしたが、ここに変なことが書いてあります。

会稽の海外に東鯷人あり、分れて二十余国と為る。また、夷洲および澶洲あり。伝え言う、「秦の始皇、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れ敢て還らず。遂にこの洲に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東治の県人、海に入りて行き風に遭いて流移し澶洲に至る者あり。所在絶縁にして往来すべからず。

後漢書」(中国正史日本伝(1)より

これは2~3世紀の女王卑弥呼より、1世紀の倭王帥升よりずっと前、紀元前4世紀頃の倭国情勢が倭人伝のなかい書いてあるのです。

個人的な推論ですが。ここに出てくる東鯷人とは、縄文系の血が濃かった頃の倭人のことですね。

 

なまず人」ってことだと、「髭もじゃ」で「魚のように海に入る」という特徴をもった、縄文人系の倭人ですのでね。邪馬台国以前、徐福の民流入以前の日本列島の様子が、わずかに記されているようでした。f:id:kl117cr233:20070410153332j:plain

縄文人の遺伝子を受け継ぐというアイヌ人の髭もじゃ。

アイヌ - Wikipedia

 

それで夷洲というのが「中国正史日本伝」だと台湾のことだと書いてますが、夷(ゐ)なので夷=委=倭のことじゃないかと思われました。倭は別名を「タイ国」とも呼ばれた時期があったし、ヤマタイのタイと鯷(テイ)の関連は伺われますし。

澶洲とは朝鮮のことですね。

ここから導くに、倭人こと東のなまず人は、夷洲(倭)および澶洲(朝鮮)という2つの地域に住んでいました。これら2つの地域に、徐福の民が上陸したというわけです。

しかし、髭もじゃで水辺にいることだけが、なまず人と呼ばれた理由ではないのです。

 

大国主は大なまずだった

 

なまずという言葉は、どうも古代の日本の神様の名を思わせました。それは大国主命のことです。

彼は若い頃に、大穴牟遅命(おおなむちのみこと)という名前だったんですが。これは濁って「おおなむぢ」とも呼ばれてます。

どうやら「なむぢ」は「なまず」のことですよね。ローマ字表記すると分かりやすいです。

なまず Na-Ma-Zu

・なむじ Na-Mu-Zi

古代の日本語は、子音だけ変えずに母音はランダムになるっていう、古代の旧約聖書のヘブル語・アラム語と似た特徴があったんですね

船(Fu-Ne、Fu-Na)、風(Ka-Ze、Ka-Za)、神(Ka-Mi、Ka-Mu)、雨(A-Me、A-Ma)みたいな感じだったり。

あとは動詞の活用も同じですね。歩かない、歩く、歩くとき、歩けば、歩こうみたいな。

 大国主が大なまずだったことは、記紀からも読み取れました。例えば大国主の奥様は、みんな、なまずの住処の水に関係してました。

・須勢理毘売・・・「須」は髭という意味なので、なまず繋がり。「す」はさんずいだから「水勢」で、なまずの住む水を象徴

沼河比売(ぬなかわひめ)・・・沼と河だから同じく水辺、

・多紀理毘売(たきりびめ)・・・滝なので水辺

八上比売(やがみひめ)・・・祀られる神社が売沼神社でこれも水辺

それに、大国主といっしょに国造りをした「少彦名命」は、海のむこうから葦舟に乗ってやってきたので、やはり海や水を象徴している神様でした。

 

紀元前4世紀の頃の日本列島は、髭もじゃで水辺で漁をいとなむ、大国主=大穴牟遅=大なまずの国だったので、「後漢書」は倭人に「鯷(なまず)」の一字に集約しているかもしれないんですよ。

大国主がどうしてなまずなのかについては、これを明確に証明できる情報が、記紀にはちゃんと書いてあるので、後で説明はいります。

 

要石は地下の大なまずを押さえ込む結界

 

日本では何時からなのか知らないが、「地底の大なまずが暴れているから地震が起こる」なんて言いますね。

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大鯰 - Wikipedia

昔は大地震が起こるのは、地底の竜が暴れるからだとも言われたそうですが、江戸時代からはなまずのほうが主流になったとか。竜と大なまずは、同じ立ち位置なのは間違いないですね。

その大なまずを押さえ込むために、「要石」と呼ばれる石の杭を打ち込んで、大なまずを押さえ込んだとか言う話は、誰でもどっかで聞いたことある話です。

これは実は、東関東の茨城の鹿島神宮や、千葉の香取神宮が発祥地でした。2つの神社には要石と呼ばれる石が地面に置かれているのです。他にも全国に、大なまずの大地震を鎮める要石があるそうです。

ウィキペディアを見ると、

鹿島神宮の祭神武甕槌大神は、大鯰を要石で押さえつけることで地震を鎮めるという。ただしこれは要石が鹿島神宮にあったことによる後代の見付で、武甕槌大神は本来は地震とも大鯰とも無関係である。

大鯰 - Wikipedia

というふうに、鹿島神宮では、武甕槌大神(たけみかづち)が大なまずを要石で押さえ込んだとあり。しかし武甕槌は、地震や大なまずと関係ないと書いてあります。

香取神宮の要石については、ウィキペディアにこうあり。

要石

要石(かなめいし)は、境内西方に位置する霊石。形状は凸型。

かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていた。要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として現在にも伝わっている。鹿島・香取の要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。貞享元年(1684年)に徳川光圀が神宮を参拝した際、要石の周りを掘らせたが根元には届かなかったという[26]。なお、鹿島神宮には凹型の要石があり、同様の説話が伝えられる。

香取神宮 - Wikipedia

香取神宮の祭神は経津主大神(ふつぬし)でしたので、大なまずを押さえる役割をしている神は、武甕槌とあわせて2柱いたとわかるんですね。

ここでもう、歴史に興味のある人は分かってしまいましたね。この2柱の神は、大なまずと無関係じゃないってことに。

 

出雲の国譲りと要石と大なまずの関係

 

「武甕槌と大なまずと大地震は無関係」とか言っていた、従来の説がありました。

しかしこれは、かぼちゃの種は食べられないと決めつけて、ゴミで捨てちゃうみたいな話です。もったいないし、種は食べられるんだし、もう入れ替えたほうが良いですね。

何しろ大国主=大なむぢ=大なまずに、国譲りをさせる主役を果たしたのが、要石を打った鹿島神宮の武甕槌、香取神宮の経津主、この2柱だったのだから。

大国主は国譲りのあとに幽界の主となるんですが、日本で幽界といえば地底の黄泉なのです。大なまずが地底にいるというのは、まさに大国主=大なまずが地底にいることを意味するものでした。

 

ここまでの幾つか浮揚させてみた要素をまとめると、以下のようになった。

1・大国主は大穴牟遅(大なむぢ)

2・大なむぢは大なまず

3・大なむぢは地底にいる

4・古来より地震が起きるのは大なまずが暴れるからと言われた

5・大なまずに要石を打ったのは武甕槌と経津主だった

6・大なむぢに国譲りを迫ったのは武甕槌と経津主だった

7・だから後漢書倭人を東鯷人(東のなまず人)と言っている

8・紀元前4世紀のなまず人は大国主を崇める人々であった

 

こんな感じで、全部つながってきたわけですが。要石が大なまずを押さえ込むというのは、天照大神の勢力が、地を揺さぶるような力を持った大国主を押さえ込んだことの象徴だったんでsね。

いつしか大国主の話が外れて、大なまずを押さえ込む結界石としての伝承のみが残ったと、今回の調査ではそう結論付けています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし大国主の物語には、間違いなく中東や仏教関係の話が含まれているので、一筋縄じゃいかないのですよ。

例として、古代エジプト人はなまずのことを「ナル」と言ってたらしいことに、関連する話をしますね。

このなまずの名を冠している王「ナルメル王」がいまして、ナルメルを短縮化すると「ナマ」みたいな名前をしていること、そして古代エジプトでは、「なまずは冥界の牧人と話す魚」と信じられていたようなのですね。

参考 Mougo7

すると「なまずで+冥界」なのだから、冥界の主で大なまず大国主神と、まったく同じ意味合いが飛び出して来るわけなんです。

すると縄文人の中で、古代エジプトのナルメル王の流れを組む人々が、大国主王権を誕生させて、それが東鯷人とよばれる王国で20余りに分かれていたと、そう読み解けるわけなのですが。

まぁ、これだけじゃないんですけどね。

 

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