たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章を試し読み2と3

電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章を試し読み1 の続き。

 

○いつも助かっております

 

 

ちょっと出来が悪い電子書籍

 

「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章を試し読み。2と3。

電子書籍版は、いずれ内容を訂正予定)

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2 金属と家畜の記録から分かる神武天皇の実在性

 

神代・神武紀の記録をよく読むと、神代には牛や馬といった、家畜の記述がそこかしこに登場します。3世紀の『魏志』には「倭に牛馬がいない」とあるのに、3世紀以前であるはずの神武天皇の御宇に牛馬がいる記述は不思議です。私などは常日頃から馬鹿も休み休み言えと言われます。休憩を挟みながらお読みください。

 

神代に登場する牛馬

 

神代から神武天皇の時代にかけての家畜の記述を、全て抽出します。念のため、馬や馬具の意味を持つ漢字も見つけ出しています。

※<紀>は日本書紀、<記>は:古事記、<遺>は古語拾遺からの引用。

 

1・磤駆慮嶋(おのごろしま)<紀>

「駆」は馬を調教し走らす意味。日本神話の原初から馬系文字を用いている。

2対馬嶋<紀>

国生みで誕生した日本列島の島に、最初から馬の字があるのは何故か。「ま」の音を表すだけなら「麻(ま)」を用いて「対麻嶋」でもよかった筈なのに。

3・浮膏(うかべるあぶら)<紀>

膏とは古来の膏油のように、動物の肉の脂を指す漢字だから、牛や馬の脂も考えられる。

4・木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)<紀>

神生みで、句句廼馳の後に草野姫(かやのひめ)が生まれており、これは馬の食物が草だから馳と草を並べているかもしれない。「馳(は)せる」は乗った馬車を早く走らせる意味。

5・遠き根の国を駆(しら)すべし<紀>

伊奘諾尊が素盞鳴尊にかけた言葉。

6・熊野の有馬村<紀>

伊弉冊尊が葬られたところ。

7・其の神(保食神)の頂(いただき)に牛馬(うしうま)化為(な)る有り<紀>

月読尊が保食神(うけもちのかみ)を斬り殺すと、頭部に牛馬が生まれたという。

8・袴<紀>

伊奘諾尊は袴を履いていたし、天照大神素盞鳴尊と対峙する時、袴を履き、髪をみずらにし、武装を整え、男装した。この時の袴というのはズボンのこと。一説にズボンの起源は紀元前の騎馬民族のスキタイ族だとか。すると袴も騎馬民族起源かという話になる。ところで、縄文時代の数千年前の土偶には、どう見てもズボンを履いて変な顔をして立っている土偶が含まれるので、この袴については馬に関係無いかもしれない。

9・天斑駒(あまのぶちこま)<紀>

素盞鳴尊天照大神に対し、馬で農作業を妨害したり、馬の皮をはいで宮殿に投げ入れるなど酷い嫌がらせをした。<記>では天斑馬。

10・馬伏す<紀>

上記の天斑駒の記述と同様。

11槽(さかぶね)置きて<紀>

槽は馬の飼場の桶。水を入れる容器(『日本書紀(一)』岩波文庫)。素盞鳴尊が八岐大蛇を倒す時に、馬の桶に酒を入れて八岐大蛇を待ち構えた。

12・天駈使(あまはせづかひ)<記>

後の大和朝廷に仕えた天語連となる。宮廷の歌謡をつかさどる職という(『世界大百科事典』より)。駈は馬を調教し早駆けすることをいう。

13・牛の宍<遺>

古語拾遺に「昔在神代に、大地主神、田を営る日に、牛の宍(しし)を以て田人に食はじめき。時に、御歳神(みどしがみ)の子、其の田に至りて、饗(あへ)に唾きて還り、状を以て父に告しき」とある。大地主神とは大国主神のこと。『古語拾遺』(岩波文庫)の補注に以下のようにある。「御歳神に豊作を祈念してもてなしの食事(あへ)を献(たてまつ)ったが、その農夫は豊穣祈念に捧げられた犠牲の牛の肉を食っていた(犠牲の牛の肉属する習俗のあったことがこれで分る)ので、それを穢れとして、そのアエに唾液を吐きかけたのである」

13・白馬<遺>

上記の牛肉供物バーベキュー事件の後、御歳神は怒り、蝗(いなご)を発生させて田を枯らしたので、困った大地主神が片巫・肱巫(占い)をしたところ、「御歳神祟を為す。白猪、白馬、白鶏を献りて、其の怒を解くべし」との回答が得られ、そうして御歳神を鎮めて豊穣を取り戻したという。片巫・肱巫について、『古語拾遺』(岩波文庫)の補注によれば、片巫は鳥で占うことに思われ、肱巫は竃と米で占うこととある。神代の大国主神の時代に、牛・馬が揃う記述が存在していることになる。

14・畜産(けもの)<紀>

大国主の登場の場面に見える。これまでを踏まえると、家畜に牛・馬が含まれる。

15・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)<紀>

鞴は動物の革で作ったふいご。製鉄に用いる。天石窟の場面では「真名鹿(まなか)の皮(かは)を全剥(うつはぎには)ぎて天羽鞴(あまのはぶき)に作る」とあるので、鹿の皮か。或いは上記と同様の理由で牛馬の皮。

16・駈除(はら)ひ<紀>

大国主の国譲りの場面で見られる。駈は駆の異字体。

17・海神(わたつみ)の乗る駿馬(すぐれたるうま)は八尋鰐(やひろわに)なり<紀>

ふつう海神宮とは、浦島太郎の竜宮城のように海底にあると思われがちであるが、より現実的に捉えれば、人が鰐に乗ったり海底の宮殿に住んでいるわけはないので、地上の優れた馬を、力強い鰐に例えているかもしれない。

 

神武天皇の時代に登場する牛馬

 

神武東征の記録中にも、牛・馬が登場しているので、それを見ていきます。

 

1・仙譂(みさきはらひ)駈(お)ひて<紀>

神仙の通る時の先ばらい。転じて、天子の行幸(『日本書紀(一)』岩波文庫)。神武天皇が、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が五伴緒(いつとものお)と共に天降った時の出来事を語っている。

2・胆駒山<紀>

大阪府奈良県の境の生駒山。胆駒(生駒)は生ける馬のことだから、神武伝承に馬が関係することを示すかもしれない

3・饗(みあへたてまつ)らむと<紀>

宇陀の兄猾(えうかし)・弟猾(おうかし)の場面。饗は神代の解説に同じ。牛肉食。

4・弟猾(おうかし)大きに牛酒(しし)を設(まう)けて皇師(みいくさ)に労(ねぎら)へ饗(みあへ)す<紀>

弟猾は牛肉と酒をふるまい皇軍をもてなした。神代同様に、神武天皇の時代に牛肉食文化があったことは、『魏志』の「倭に牛馬なし」や従来の日本食文化の定説的歴史と矛盾している。

5・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)<紀>

神代の記述に同じ。

6始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)<紀>

「馭」は馬を慣らして操る意味がある。

※以上の漢字の意味は『学研漢和大字典』より)

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神武天皇実在説と日本列島の考古学調査結果の比較

 

以下に、日本の歴史をあらわした、簡単な年表を作ってみました(図2)。ここから神武天皇実在説と、発掘調査の結果が整合しているかを確かめることにします。

 

まず、神代と綏靖天皇紀に、天香具山から鉄を採っていた記録と、鍜人(鍛冶屋)の天津真浦(あまつまら)(天津麻羅)の登場により、神代~綏靖天皇の御宇に、鉄の溶炉と鍜冶場があったことがわかりました。

日本列島の製鉄の歴史としては、1~3世紀前半の大規模な鉄鍜冶工房12棟が見つかった淡路島の垣内(かいと)遺跡、広島県三原市の小丸遺跡は弥生時代後期(3世紀)の製鉄遺跡が知られ、山口県下関市綾羅木遺跡(弥生中期)では、製鉄を行った際に出る「鉄滓」が見つかっています。

倭の製鉄の歴史は、従来考えられているより古く、弥生時代中期に遡る様子です。つまり製鉄については、弥生時代の中期から古墳時代に至るまで、連綿として日本列島に存在したことになり、製鉄の記録が神武・綏靖天皇の年代を特定する指標には、ならないようです。

また、神代に広矛の記述があり、これは3世紀前半の卑弥呼の頃の、広型銅矛の形状を表したと見られます。

 

では記紀の記述内と考古学調査の比較の結果、明らかにおかしな箇所を取り上げてみます。


神武天皇実在派の主だった歴史家は皆、神武天皇の実在を3世紀以前としています。図2では、神武天皇実在派の4名の実在年代をあてはめています。上から長浜氏の前70年説。那珂氏の紀元前後説。古田氏の場合は3つの神武天皇実在年代を提示しているので、1世紀から250年頃までと幅広く取りました。そして安本氏の270年説。

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[図2・神武天皇実在説と日本列島の考古学調査結果]

 

3世紀以前とは卑弥呼の時代を含み、卑弥呼の時代は『魏志倭人伝』に「倭に牛馬がいない」と記録があるのです。つまり記紀は事実上「3世紀以前に馬あり」の立場であり、『魏志』は「3世紀以前に馬無し」となり、相反する矛盾した箇所が出てきます。

3世紀以前とされる記紀の神代~神武天皇条には、馬、馬具、牛、長鳴鶏、鉄鐸、鋺が登場しています。ところが日本列島での3世紀以前の発掘調査では、馬、馬具、牛、長鳴鳥、鉄鐸、鋺が見つからないのです。

神代の天の岩屋の場面に登場する長鳴鶏(鶏)が、大陸から実際に導入されたのは古墳時代に入ってからとされています。日本各地の遺跡から鶏骨が見つかる年代は、概ね4世紀頃からであるということです。神代や神武紀でバーベキューにされる牛の本格的な導入も、4世紀以降と言われます。

 

だから総合的に判断すると、神武天皇の時代に存在するはずのない様々なものが、神武天皇の時代に存在しているように記述してあることになります。神武天皇伝説が日本列島上で実際に起きていたと考えるには、矛盾点が多すぎて疑問符が付く事態となるわけなのです。

 

古代の物事の発生年代と、歴史書記述の一致に精度を求める歴史家は、弥生時代以前である筈の神代・神武紀に、無いはずのモノが繰り返しあったと協調されるおかしさについても、触れなければいけないと思います。

これを解決する方法は、神武東征とは物語を創作したか、或いは牛馬・鉄鐸・鋺などが揃う4世紀以降の日本列島での出来事だとするか。

それとも神代~神武天皇条とは、紀元前から製鉄・家畜などあらゆる素材が揃っていた、大陸の出来事を反映していると考えることです。

 

 

 

3 神武東征が現在地で起きてなかった証明

 

これまでの調査によって、神武天皇の記録の矛盾点が浮き彫りになりました。私は神武天皇の実在肯定派なのですが、今の段階では実在否定派と勘違いされてしまうかもしれませんが、本書を最後まで読むと私の主張が理解できる筈です。

本章の最後に、神武東征が「日本列島の上では虚構だった」最大の理由を提示します。

 

武器の出土しない奈良県

 

神武東征伝承の中で、奈良県は幾度にわたり、戦乱の繰り広げられた土地として描写があります。同時に神武紀では「細戈の千足(ちだ)る国」とあり武器が大量にあったことになっています。そうならば鉄製や銅製の鏃(やじり)、剣、矛、戈、鎧兜などの武器・防具類が、戦闘の舞台となった奈良盆地・宇陀盆地から、膨大に出土して良い筈です。ところが奈良の遺跡をどんなに調査しても、弥生時代の金属製の武器の出土は「皆無」と言って良い程の寂しい状況です。

以下の表4は、『「邪馬台国畿内説」徹底批判』(安本美典著)に記載される「西日本の鉄製武器、銅製武器の出土数」を元に作成しました。

 

神武天皇は、久米・大伴・男軍・女軍などの軍勢を率いていました。神武天皇の率いた軍隊は「皇軍」といって「軍」の字が用いられますが、『学研漢和大字典』によれば、古代の中国の兵制における「軍」の人数は12,500人と明確に定められていたようです。神武天皇皇軍は1万人単位以上の立派な軍隊という意味合いが、付加されたように見えます。

宮崎県日向市美々津町には、神武天皇皇軍が到着して行宮(かりみや)を建て、近隣の山から木を切り出し、河原で幾百もの船を建造したとの伝承があります。当時の船は大型の丸木舟型のカヌーのような、5~10人が乗り込むようなタイプだとか、或いは弥生時代に既に数十人が乗り込めるような大型の帆船もありました。岐阜県大垣市の荒尾南遺跡にある、弥生時代の方形周溝墓の溝から見つかった土器に、大型帆船の線刻画が見つかっています。幾百もの船となれば、ともかく皇軍は相当な数だったと伝えられていたようです。

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すると奈良県内で大勢が参加した戦闘に見合うだけの、大量の金属製の武器の出土が見られ無いことは、記紀の伝承と考古学的な調査の結果の乖離が激しく、明らかに矛盾していると言えます。

石上神宮に武器を集めたという記録はありますが、これを史実としても現時点で石上神宮に残る武器は大変少なく、当時の状況を確認する術はありません。

 


表5では、神武東征の戦闘が起きたと記録のある府県と、その戦闘回数(頭領の数)を表しています。

記紀の神武東征伝説を読むと、宮崎県を出発してから、兵庫県に至るまで、一度も戦闘場面の描写がありません。神社の社伝として戦闘の記録が残されているケースもありますが、今回は記紀の記録だけを参考とします。

神武軍が最初に激しい戦闘を行ったのは、長髄彦軍と相まみえた大阪。大阪の弥生時代の鉄製武器出土数は、鉄鏃40、鉄製武器合計10程度です。大阪では、ある程度は弥生時代の金属製武器の様子が垣間見れます。

その後、記紀では和歌山県で名草戸畔、三重県で丹敷戸畔と戦闘の様子が見られますが、和歌山県三重県共に、弥生時代の武器の出土は芳しくない様子。

最も激しい戦闘が繰り広げられたのは奈良県となり、9度の戦闘の記録があります。


神武天皇軍が対決した勢力の頭領の名を列挙すると、宇陀盆地で兄猾(えうかし)、奈良盆地で兄磯城(えしき)、赤胴八十梟師(あかがねのやそたける)、長髄彦(ながすねひこ)と2度目の対決、饒速日命(にぎはやひのみこと)との対峙、新城戸畔(にいきとべ)、居勢祝(こせのはふり)、猪祝(いのはふり)、高尾張邑の土蜘蛛(つちぐも)。

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記紀によれば、それぞれと戦闘行為を行ったわけなので、それぞれの抵抗勢力には、少なからず軍隊が配備されていたのです。

つまり「神武東征とは、進めば進むほど、敵軍が出現し、戦闘場面が増えていく」のです。だから実際の発掘調査の結果では、「神武東征経路の後半の地域ほど、武器の出土数が多くなっていなければならない筈」なのです。

表5で言えば、大阪府和歌山県三重県奈良県で、武器出土数が大幅に増えていなければいけないのです。

では実際に、終盤へ行くほど、弥生遺跡からの金属の武器出土数が増えているか、表6で確認してください。表6では、神武東征の出発地を始めとして、神武東征経路の順番に武器出土データを並べ替えています。

神武天皇が史実ならば、特に九州では大陸の先進的な武器を手に入れる機会があった筈です。例えば天照大神が高倉下の元にフツノミタマの剣を降らせたとあるのは、神武天皇の故郷から最新鋭の武器が送り届けられたと解釈すれば通じます。

神武東征伝説は、進めば進むほど敵対勢力が増えるので、出土する金属製武器数も比例して増えるだろうと誰もが考えます。

ところが実際には、神武東征の土地を進めば進むほど、遺跡からの武器の出土が減少してしまうとい
う、誰がどう目をかっぽじって見てもおかしいと言える、明白な結果が現れます。

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神武東征で戦闘場面が増え始めるのは大阪府以降なのに、実際の発掘調査では、大阪府以降、武器出土数が際立って減少していきます。和歌山、三重、いずれにしてもあまりに少な過ぎます。9度の戦闘が繰り広げられたと伝わる奈良に至っては、武器の発見が皆無と言っていい惨状でした。特に奈良県は、福岡県に匹敵するほどの大量出土地でおかしくないはずなのに、がっかりしてしまいます。

本日はおにぎりの大セールをやっていると聞いて信用し、売り場に行ったら最初からおにぎりが無い、そんな状況だったのです。

誰もが知るように、奈良盆地というのは本当に、明治以降に日本で最も発掘調査の進んだ地域です。これは、神武天皇と東征の実在性を解く上では、絶対に無視することのできない、極めて不利な材料と言えます。

 

このデータを元にすると、「神武東征とは、日本列島の宮崎県~奈良県区間では起きていなかった」と言わざるを得ないと考えます。

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図3・神武東征経路と弥生時代の鉄製武器の出土数

 

私は神武東征伝説というのは、「別の場所にあった神武伝承」を受け継いだヤマト王権の人々が、伝承された太古の神武東征のシナリオを元にして「ここを神武天皇が通ったことにするべ」と、日本列島に舞台を当てはめ、創作したのだと想像します。

この神武東征伝説の移植時期は、卑弥呼・壱与(崇神天皇)が東へ四道将軍を派遣した後、まつろわぬ者を平定した頃であり、九州と同じ地名を近畿地方に名づけていったと同時にやまとの都を東遷したと考えています。

 

日本史の研究は、新たな局面へ進むべき時が来た

 

以上の通り、考古学的調査の結果は、神武東征が現在地で起きていない、「虚構」との判定を下していました。これを元にして、神武天皇非実在として論じていくことも可能でした。

しかしながら個人的には、「神武天皇の東征のオリジナルモデルが、歴史上の別の場所に存在していた」と考えています。オリジナル神武東征伝説を、日本列島の現在地に当てはめているのです。

 

ではオリジナル神武東征はどこにあったのか、そのカラクリ仕掛けについては、本書を読み進めると分かるようになります。

さて、封印されたオリジナル神武東征伝説の正体を知るには、日本列島上にある、「もう一つの神武東征」を、皆さんは知っておく必要があります。

「え、神武東征伝説がもう一つあるだって?そんなのあるわけないじゃん」などと思ったそこのあなた。

第8章以降で、もう一つの神武東征伝説が存在したことを解説しているので、お見逃しなく。

つまり神武東征伝説とは、「オリジナル」→「前段階の神武東征」→「記紀の従来の神武東征」という変遷をたどって、記紀で完成形を見た可能性があるのです。

私みたいな引き篭もりで、駄目を寄せ集めたような者がナビゲーターになってしまって申し訳ございませんが、この後の第8章から、日本人が完全に忘れ去った、未知の世界の再発掘現場へと足を踏み入れて行きましょう。

  

※ 表4と表6について

鉄鏃・鉄製武器は『「邪馬台国畿内説」徹底批判』(安本美典著・2008年)、銅剣・銅矛・銅戈は『日本の歴史1』(井上光貞著・1973年)から引用。なお、表4は原資料を簡素化しており、安本氏の作成した表内にあるカッコ内数字を省略している。詳しくは上記の当該書籍を参照のこと。銅製武器については、1973年の資料のため、島根の荒神谷遺跡で1985年、銅剣386本と銅矛16本が出土したなど、1974年以降のデータは含まれていない。

 

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