以前、女王卑弥呼の「卑」という字は、中国人が蔑んだ意味の漢字を充てたんじゃなく、「卑弥呼が自ら<卑>という漢字を選んだ」との仮説を出していました。
・<前回の続き> 崇神天皇の諡号はそのまんま卑弥呼だった件(崇神天皇=卑弥呼説)
こういうことが関係して。
それで、やっぱり卑弥呼という字は、卑弥呼自身が選んだ漢字なのではないか、そう思わされる情報がまだありました。
ひとまずは、紀元前4世紀の段階で、倭人の中で徐福の民の存在がいかに大きかったかについて。
○いつも助かっております
倭人の中に溶け込んだ「徐福の民」
どうやら倭人の中には秦の始皇帝の元からわかれた、徐福の民がいるらしい。それが分かるのが「後漢書」でした。
会稽の海外に東鯷人あり、分れて二十余国と為る。また、夷洲および澶洲あり。伝え言う、「秦の始皇、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れ敢て還らず。遂にこの洲に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東治の県人、海に入りて行き風に遭いて流移し澶洲に至る者あり。所在絶縁にして往来すべからず。
「後漢書」(中国正史日本伝(1)より
弥生時代後期は、西暦1世紀の段階でも、日本列島の人口はわずか30万人以下だったそうな。徐福の民は数万家にも増えていたとあるから、当時倭人が東鯷人と言われた頃の人口は、3割から半数近くが、徐福の民の末裔だった可能性がありますね。
日本人の遺伝子を見れば、中国大陸の遺伝子が出てくるのは当然なことでした。
中国では「小指の爪が割れているのは真の漢人だ」という言い伝えがあるそうですが、日本人でもこの特徴持ってる人はいっぱいいますね。俺もそうですけど。
厳密にいうと漢人とは「殷人・周人」あたりのことでしたが、漢人は漢代の頃以降に匈奴など遊牧民族と融合しているので、本来の漢人と言えない遺伝子になっていたりするようですね。現代の中国人も嘆いていました。
倭人こと東鯷人は、夷洲(倭)および澶洲(朝鮮)という2つの地域に住んでいました。これら2つの地域に、徐福の民が上陸したというわけです。
徐福の民の流れが、倭の当時の王権に入って、邪馬台国王家に受け継がれている、これも必然ですね。
安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。
「後漢書」(中国正史日本伝(1)より
ここに登場している帥升については、以前こんな記事かいてました。
・お酒を入れる容器 徐福の「畐(とっくり)」
・お酒を飲む・測る容器 帥升の「升(ます)」
徐福の「畐」はお酒を入れるとっくり、帥升の「升」はお酒を入れる容器、
それで徐福の子孫が帥升であるという、血縁関係を表しているのだと、そういった解釈でした。倭国王帥升(帥升等)は、自らが徐福の末裔と名乗ったんですね。それを反映させた漢字が用いられたと見ることができますよね。
女王卑弥呼の中の徐福
では卑弥呼の中に除福がいるのか?と考えました。いました。
「呼」これは人に声をかける時の言葉ですが、「学研漢和大字典」によると古訓は「ヨハフ」「ヨフ」なので、徐福を「余福」と表記した場合に対応していたのです。
・余(ヨ)福(フク)
・呼(ヨ) フ
同字典による「除」の解字を見れば、「余」は「↑型のスコップ+ハ印(左右に開く)とあるじゃないですか。古代にも鋤というスコップみたいな農具はあったんです。
だから卑弥呼がしゃもじ、徐福がスコップということで、ここでも似た役割の道具で合わせていることがわかりました。
「福」は祭壇に畐(お酒)をささげる様子を描いた漢字で、さいわいを表しているわけなのですが、「酒」と書いて「み」と名のりで読めるわけなので、卑弥呼の「み」にはお酒の意味もあるのかもしれないです。
ちなみに卑弥呼の墓説のある箸墓古墳も、徐福に関係していました。なぜなら「除」の古訓に「ハシ」があるから。とすると箸墓とは「徐墓」で、徐福の技術を継承した意味なのか、それとも徐福の末裔としての卑弥呼を崇め、墓に名付けたのですかね。
女王壱与の中の徐福
女王壱与は本来の漢字を壹與と書いて、これは臺與と書くこともあり、簡略化して台与と書いています。要するに
壹與・壱与 いよ
臺與・台与 とよ
女王壱与の漢字と読みには2種類の解釈があり、いよ、とよ、どちらが正しいかの結論は、学会では出ていません。
こちらの女王についても、徐福の存在を取り出すことができました。
「学研漢和大字典」によると、「壹」とはもと「壷+音符の吉」で「口を結んでなかにいっぱいに詰めた壷」のことだとか。
すると容器だから、徐福の畐(お酒)のとっくりの容器繋がりですね。お酒というのは「水+酉」で、「酉」は「酒壷」のことだそう。
そうするとやはり壱与の「壹」と徐福の「畐」は、容器とお酒の繋がりがあるようでした。
臺=台は「うてな、見晴台」という意味になるので、徐福とは関係なくなってしまいますね。だから徐福との関連を考慮すると、本来は「壹與=壱与」が正解な気がしました。しかし「いよ・とよ」は両方共使っていたというのが当方の見解です。
「與=与」は解字によると、2人がいっしょに物をもちあげるさま、神輿を担ぐみたいな意味合いで使われるようです。すると「もち上げる」はスコップの「すくい上げる」や、しゃもじの「すくい上げる」機能に通じていることがわかります。
壹與という名前はお酒の壷を担ぎ上げる、神事に関係しているように見えます。
徐福の「福」が、「祭壇に畐(お酒)をささげる様子を描いた漢字」なのと、ぴったり同じですね。これは偶然じゃなく、意図的に壱与の中に除福の情報が込められている、そう考えて差し支えないことです。
女王壱与の中の徐巿(じょふつ)
もう一つ気になること。それは徐福の別名が「徐巿(じょふつ)」なことからも、壱与との関係が見えることでした。
巿(ふつ)は市(いち)との見分けがつかない漢字です。
巿 ふつ
市 いち
拡大しても差異がわからず。ちょっと、ふつのほうが小さいようです。
巿市←(左がふつ、右がいち)
これらの読みをみれば、何故壱与と徐巿は繋がるのかは明らかです。
壱与→壱 いち
徐巿→市 いち
要するに、徐巿の巿(ふつ)の字を市(いち)に置き換えて、壱与の壱(いち)と読みを合わせているという、まどろっこしいことをして、徐福との関係性を持たせているのですね。
これは同時にですね、紀元前4世紀の段階で、市という漢字にたいして「いち」という訓読みが充てられていた可能性が出てくるのですが。漢字を使いこなして倭語も知った、徐福の民の成せる技ですよね。
(1)・壹與を「巿與(ふつよ)」と漢字を当てて書く
(2)・徐巿を「余巿」と書く
(3)・余巿(よふつ)を逆から読めば「ふつよ」になる
(4)・余巿(よふつ)⇔巿與(ふつよ)で相対的な関係になっている
こんな感じで、壱与と除巿は切っても切れない水みたいな関係になってたんですね。
まとめると
こうなる。
今回は分かりやすかったほうだと思いますが、理解不能だったらすいません。
これも拙著「封印された叡智の回復」の続巻に、加えたいと思いますので。
とすると最初に紹介した、
・<前回の続き> 崇神天皇の諡号はそのまんま卑弥呼だった件(崇神天皇=卑弥呼説)
同じようにして解いている、このへんの仮説も、あんまり無視できないと思いますが。
ちなみに、以上は「天皇家と大和民族の大陸起源説」というかんじで、ぶっ飛んだ仮説に含まれたごく一部という感じはしています。
このへんに詳しいです。
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