たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

鳥取県の梶山古墳の「イクトゥスの壁画」が表す、天皇家がユーラシア大陸を横断した記録

人間が一生に受けるストレスは、平均で1000ポイントだとしますね。

俺は1日で100ポイントを超えた日が過去に何度かあり。

それは自宅前で、中学校の複数の生徒の集ストによって大絶叫爆撃の雨霰を受け続けた日々であるとか。

出先で何故か自分を見失って混乱し、右も左も何していいかもわからなくなった日だとか。原因不明の臭いに悩まされた時だとか。・・・。

そんなことが色々と積み重なって、俺の人生40年でストレスは1000万ポイントは溜まっていますよ。早くポイント交換で豪華商品を貰いたい、この頃。

追い込みが加速して、もうこのままココに居ると殺される勢いなので、ちょっと寿命を伸ばすために4月には転居をする予定です。

 

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梶山古墳

 

知らない人のほうが多そうなこの古墳、実はかなり重要な古代の情報を秘めているのではないかと。それはずっと追い求めている、「天皇大和民族の中東起源説」を示す、ちいさな証拠みたいなものではないかと。


梶山古墳(かじやまこふん)は鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。1978年(昭和53年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目され、1979年(昭和54年)に国の史跡に指定[1]された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。

 

・石室と彩色壁画

石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築している。石室の全長は9メートルほどで、幅60~80センチメートルあり、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートルほどある。前室部の高さは2.1 メートルほどで、石室の中では最も高い。

石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子供の遊び場となっていたが、1978年(昭和53年)5月、梶山古墳を訪れた同志社大学教授・森浩一により、彩色壁画であることが確認された。後になって、石室奥壁の壁画のことを地元の小学生が作文に書いていたことも分かった。

壁画の主題である魚は体長53センチメートルで、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印である。

・被葬者

被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)(おみおう)であるとの説が有力である。

八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。

 

梶山古墳 - Wikipedia

 梶山古墳についてはこのサイトが詳しいです。

http://yz-t.com/bunbun/kokufu/kajiyama/kajiyama.html

 

サイトの現地の案内板の写真から、写し取った梶山古墳の彩色壁画の様子。

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こんな奇妙な壁画があるとか。

これはおそらく「絵文字」として機能してるに違いない。 

 

ウィキペディアでは、この壁画は道教の思想と関連すると結論付けて紹介されてますね。しかし、これは絶対に道教だけに関係すると、決めつけちゃって良いんですか。

俺の見方によれば、魚にはイクトゥス(ジーザス・フィッシュ)が関係するので、別の見解が浮かんでくるわけなのですよ。まぁこれは追々分かってきます。

 

 梶山古墳の被葬者は「皇族の麻積王(麻続王)」だった。

というところから、この壁画は個人の思い入れあるモチーフを描いたか、はたまた天皇家に関係するモチーフを描いた可能性がありますね。

 

冒頭で、私的な移住の話を出しましたが。

古代の天皇家率いる大和民族の豪族集団が、広大なユーラシア大陸を、西の端から東の端へ渡って移住してきたのであるというこの仮説は、このブログで当初からのテーマのひとつになってきました。

梶山古墳の壁画によっても、この仮設は証明されることです。

 

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では壁画に何が書いてあるか、意味を解きたい欲求がスゴイですが、この梶山古墳の彩色壁画の解釈は、すでに5年前くらいに出していました。

 

△について

 

卑弥呼を象徴する数字と三角形から導かれる「女王卑弥呼は天皇だった」

この記事で、「△=ミカド=帝=天皇」を意味する記号であると書いています。 

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 3つの角があるから、ミカド。

超安易な発想ですが、たぶん文字を使わない昔の倭人は、こうしたいろんな記号を絵文字として機能させたのは確実です。または漢字を使うことを避けた皇族も、あえて記号に意味を込めたんです。

これは三位一体の神を表すのだとか、いろんな解釈があります。

 

縄文時代にはペトログリフという文字があったらしいです。

神代文字もよく話題にのぼりますが、神代文字の殆どは江戸時代以降に創作された傾向が見えるとか。なぜなら神代には8母音あったはずなのに、いま伝わる神代文字は5母音のものばかりが残っているから。5母音化して以降に創作された神代文字が、いま蔓延っているわけですが、全部が捏造というわけでもないとか。

縄文時代ペトログリフでは、

◎=太陽

D=月

~=蛇

みたいに解釈がされます。なるほど~と頷けるような、極めて単純な記号を絵文字として使っていたと。それは縄文時代あとの弥生時代でも継承されていて、古墳によく描かれているのを見かけます。

現代人でも実は絵文字は使っていますね。ネットのSNSでは顔文字で感情を表したりとか。

 

そもそもミカドって、いつからミカドって呼ばれ始めた?という答えは、おそらく弥生時代以降のこと。

ヨセフ・アイデルバーグの説によると、ミカド(帝)= ミガドル(高貴なお方)。

神言語ヘブライ語と日本語の共通点多すぎ!!日本人のルーツは“失われたイスラエル10支族”ユダヤ人なのか!?籠目文、鳥居、君が代、共通点他にも多数… |

 個人的には日ユ同祖論を含めて、大陸各地の発祥のものが融合しているのが日本文化や日本語の正体であり、天皇という家系そのものが同様だと認識しているので、日ユ同祖論的な解釈も断然アリかと。するとミカドは弥生時代天皇家大和民族が渡ってきたのと一緒に、倭へともたらされた言葉なのかと。

 

彩色壁画で、左と右に2つ、△があるというのが注目点。

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◎について

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倭ではいにしえより、◎印は太陽を表しているのは明らかで、これはエジプトと倭の共通した文字(記号)でもあります。

日本は日の丸の国旗を用いていますが、日の丸の中央の赤い丸は、天照大神を表しているということは、知らない人もいるかもですが。

つまり現代日本人も、◎という絵文字を太陽の象徴として継承して来ているわけですよね。

 

とすると梶山古墳の壁画では、太陽もまた左右に2つあるということになって、これは奇妙だということ。

大友克洋の「アキラ」で、「アキラがふたつ」現れた場面が思い起こされてしまいました。

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魚について

 

単刀直入に言えば、これは道教じゃなくてキリスト教における、イクトゥスです。個人的にはそう解釈します。

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イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。

英語では、イクサス (ichthys, ichthus[ˈɪkθəs][1]) のほか、ジーザス・フィッシュ (Jesus Fish) やクリスチャン・フィッシュ (Christian Fish) とも呼ばれている。

 

頭文字の符牒

イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。

 

古代ローマにおける用法

ミラノ勅令以前のキリスト教徒は、迫害や処刑されるおそれがあったため、信仰を公にできなかった。そのため、 隠れシンボルとして次のように用いられたといわれる。まず、1人の人間が明らかにランダムな直線や曲線を砂の上に描き、その線のうち1本を円弧にする(イクテュスの半分)。もし、もう1人が地面に線を何本か描き足す中でイクテュスの形を完成させれば、2人はお互いがキリスト教徒であると確認できた。

また、キリスト教ユダヤ教の流れを汲む宗教であるため、当初は偶像崇拝を禁止していた。そのため、3 - 5世紀頃の初期キリスト教美術では、イエスやその信徒を表す場合には魚やヒツジなどの動物に置き換えて描かれた[2]。

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イクトゥス - Wikipedia

 

梶山古墳の壁画の魚は右を向いているので、進行方向は右向きだろうなと。

そして右を向いた魚の進行方向と、壁画上部の「曲線文」が関係していました。

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曲線文について

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ぱっと見て、何だかわからないものが目の前にあるとき、人は今まで人生で培った知識をフル回転させて判断しますが。東洋史を中心に研究した人が、道教に関係すると言ったり、曲線文は龍を描いた四神の青龍だ、みたいな発想してもまた遠く外れてはいないです。

でも梶山古墳の壁画の曲線文は、はっきり言えば「地図」が正解なのではないかと。こんな単純な線のちずがあったとして、伯耆の国(鳥取)の狭小な範囲なのか、日本列島かと考えますが、違いました。

 

これはユーラシア大陸の「シルクロード」を表しています。

個人的に天皇家大和民族は、西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジア烏孫月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って倭に到達したと考えていて、過去記事もこんなのがあります。

関連記事

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

 

この梶山古墳の地図というのは、妄想している経路とぴったり合うものなのではないかと。

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 西のミカドと輪(倭人)は、シルクロードを経て、東に移転しているんですよ。

それを2つの△と◎と魚の進行方向とシルクロードの地図で表した、っていうことです。

出発点となるのが西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジア烏孫月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って、さいごに倭に到達してます。

 

これと同じものが、実は福岡県の珍敷塚古墳をはじめとして、全国の古墳壁画にも描かれているのですが。それは次回。

 

梶山古墳自体が、日ユ同祖論が正解であることをあらわす回答の一端であることが、分かってきますよね。 

でも日ユ同祖論を熱心に否定するひとは、この解釈も捏造だとか歪曲というかもしれません。このことを証明するのは難しいですが、被葬者と伝わる麻績王と梶山古墳自体の存在からも、「天皇大和民族の中東起源説」は見えてきます。

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麻績王について

 

 この古墳の被葬者は麻績王(麻続王)が有力とのことで、ウィキってみると、


麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子天智天皇の太子)、美努王橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]。

万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。

なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。

麻績王 - Wikipedia

親子ともども波乱万丈といった感でした。このかたも、もしかすると大勢に責め立てられて、ストレスは軽く1000万ポイント超えているかもですね。

麻績王(麻続王)は、麻績(麻続)と書いて「おみ」と読ませているのは、当て字というわけです。直感的には近江国滋賀県)の生まれに因んで、「おみ(近江)の王」なのではと発想しますが。

 

「麻績」は、別の読み方をすると「マシャク」。

マシャと言ったら、メシア(マーシアハ)のことだとしたら。

要するに梶山古墳の壁画に何故、ジーザス・フィッシュ(イエス魚)が描かれているかの説明が付くわけなんですよね。

梶山の梶という1字は、「神に捧げる神聖な植物」ということだったので、やはりキリスト教に関係している地名、それが梶山だったのでは。

 

古代に俺の妄想のセンサーを飛ばしてみると、

 

近江のほとりで生まれた麻績王(おみのおう)は、

景教ネストリウス派キリスト教)の信仰者となり、

自らの名を「マシャ=メシア=救世主」として、異教を熱烈に信仰し、

日本の国政に影響させようとしたために、

「麻続王に罪あり、因幡に流した」等と、一家ともども流刑させられ、

鳥取に自分の墓(梶山古墳)を造った時に、

神に捧げる神聖な梶の木の名を取って梶山とし、

自らの信仰であるキリスト教の印「イクトゥス(ジーザス・フィッシュ)」を密かに描いて信仰をあらわし、

憚って誰も口にしなくなった、天皇家の先祖の辿った道筋(古代中東からシルクロードを経てやって来た)を描いた

 

という話は想像しただけです。

こう考えると、なぜ壁画にジーザス・フィッシュ(イエス魚)があるか、被葬者の名前がマシャ(救世主)なのか、全ての辻褄が合ってくるわけなので。

 

そうすると、梶山古墳装飾壁画について、学者が「中国の道教の影響を受けた壁画だ」と結論づけていることについて、違和感を感じるしかないということんですよ。

まぁちょっとだけ「これはアリだな・・・」と思ってくれたら、それが積み重なって、「天皇大和民族の中東起源説」や日ユ同祖論が真実の日本史の根幹にあることを、多くの人が認識できるようになって行くかもしれないなと。

 

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かつて奈良盆地にあった大和湖の本来の名はイシク湖だったりして

ユーラシア大陸諸民族が想像以上に、大きく倭へ影響を与えていると言っても、なかなか俄には信じられなかったりしますね。日本人は子供の頃から日本文化は日本固有で日本独自で唯一無二だと思い込まされてきましたし。

でも中央アジア、とくに中央アジア烏孫の存在を匂わすヒントは、たしかに奈良盆地に残されていのですよ。

そして今回は、奈良盆地に「イシク湖」があった件について。

 

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大和湖(奈良湖)

 

その昔、弥生時代の後期末期の頃まで、奈良盆地には巨大な湖がありました。

それは歴史的には「大和湖」とか「奈良湖」と命名されているそうです。かなりマイナーな存在。

以前に作った地図があったと思い出して、探したら2012年の記事にあった。

古地名図(畿内編)

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大和湖は関東地方でいえば、今は殆ど見る影も無くなっている「見沼」という巨大湖と存在感を重ねることができそうです。

見沼はいま「見沼田んぼ」となって、首都圏で数少ない広大な田園地帯になってますが。

奈良県の大和湖の跡地も、昭和時代までは田んぼや池や集落があるばかりでしたが、いまや盆地内全体の都市化が進み過ぎて、面影もほぼ少なくなったとか。

奈良県は田舎というイメージがあったのに、食料自給率は47都道府県でも下位のほうで、それだけ都市化してしまったとか。

 

でも奈良盆地には何故か小さな池が無数にあり、実はそれらが、かつての大和湖の跡を示しているようです。

たとえば大和湖の北端にあたる、大和郡山市のあたりでは、かなり残ってるのでは。

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こんなふうに。新木町のあたりは特に集中してます。

 

大和湖全体の地図をもう少し詳しく見てみる。

大和湖が広がっていたのは、ちょうど奈良盆地の中央部の西側。大和川曽我川、葛城川、竜田川、富雄川などの幾つもの川が合流している地点。

地域名でいうと生駒郡、葛城郡、磯城郡のあたりになる。

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Flood Mapsは海水面が上昇したらどこまで水が行くか、様子が分かる地図。これをもとに作ってみた、大和湖の想像図。

 

奈良盆地に巨大な湖があったのは、盆地という山に囲まれて水が溜まりやすい地形だから不自然ではないことでした。

奈良盆地には海水棲生物の縄文貝塚が無いということだし、地震時にも特に塩がにじみ出るという害も無いので、大和湖というのは海水面が上昇してできたのではなく、山の水が溜まったことによる淡水湖ですね。

そしていま、奈良湖のあたりの地名を調査すると、湖に良く見られる地名が幾つか見つかるんです。

 

・北浦・・・広陵町の北浦の「浦」とは、海や湖の入江や浜辺を現す言葉なので、いま大きな湖がない広陵町に、浦があったことは大和湖の存在を伝えているよう。

・保津・・・田原本町の保津の「津」とは港のことで、川がないのに港ということは、かつての大和湖の港を現すのかと想像。

磯城・・・磯城郡の「磯」とは岩の多い海岸をいう。

やはりむかし湖だった情報は、てんこ盛りなのでは。

 

何故に大和湖が消滅したかといえば。

奈良盆地という人が居住しやすい平地の開発を行った弥生人がいました。生駒山地に流れる大和川の岩盤を掘削し、湖の水を抜くことによって土地を増やして開発を進めたという説があり。

ほか、農業で自然と土砂が湖を埋めたという説、しぜんと川が開削されて水が抜けたという説があるようです。

 

本当の湖の名称を見つける

 

この大和湖がむかし、何という名前だったのかは、完全に不明で、いま暫定的に奈良湖とか大和湖と呼ぶのです。

別に大和湖や奈良湖で良いじゃないかと思われますが、古代にあったものを探るのが歴史を研究する人の本能というものですし。

ヒントは磯城郡。大和湖のあった地域は、古墳時代律令制度のころから、広域的に「磯城郡」があったことから、湖のほんとの名称を想像するこては可能でした。

磯城郡は当初の名を式群、磯城群といって、昔から式上(しきじょう)・式下(しきげ)、あるいは城上(しきじょう)・城下(しきげ)などと名称が変遷しました。

城の1字だけでシキと読むようです。

 

想像によれば、当初の大和湖は、磯城湖という名前に近い名称だったのではないかと。

では磯城郡と大和湖の範囲を重ねてみる、すると大和湖中心部と磯城郡域はぴったり重なることがわかりました。

次に奈良湖の周辺にシキという地名がないかを探してみます。するとこんな感じになった。

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不思議とシキ系地名が奈良湖を取り囲んでるではないですか。

 

磯城(シキ)、城上(シキノカミ)、城下(シキノシモ)、信貴山(シギサン)、椎木(シギ)志紀(シキ)、石切(イシキリ)、石木(イシキ)、石上(イシカミ・イソノカミ)、石川(イシカワ)、新木(ニキ=シキ)。

 

この大和湖を中心とした場所だけ、シキ、イシキ系の存在感ある地名で取り囲まれてますよね。なんでだろ。イシキだけに意識高い系なのだろうか。

 

なんか中央アジアイシク湖的な音が見えてくるのですが。

イシク・クル


イシク・クル(ウイグル語:Ysyk-Köl[1]、キルギス語:Ысык-Көл、ロシア語: Иссык-Куль)は、天山山脈の北、キルギスの北西に在る内陸湖。イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記される。イシク・クル州に位置しており、この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている[2]。

古称は熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)。唐代の詩人岑参は、「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮。海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥。」と詠んでいる。

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イシク・クル - Wikipedia より

 

熱=トルコ語で「イシ」

 

イシク湖トルコ語で「熱い湖」の意味があるので、古代から中国語表記は「熱海」になってるんですね、

世界で「熱海」があるのは、キルギスと日本の共通点なんですが。これも、「日本雛形論」にリンクしているようで意味深。

試しにトルコ語で調べてみたら、トルコ語の「イシ(isi)」は日本語では「熱い」という意味だった。さっきの奈良盆地の地図みると、大和湖は「石」の地名で取り囲まれています。

大和湖がイシクであることを表すために、「石」という漢字を用いていると考えることができるわけです。

 

結論は大和湖=イシク湖だった

 

結論としては、やはり大和湖とは、キルギスイシク湖を日本列島に置き換えた存在、大和湖をイシク湖と呼んだ権力があったということではないかと。

広い目で見れば中央アジアだけでなくユーラシア大陸全体の地名が、日本列島に移植され、漢字表記されていると見て良いと思いますが。

そうしたことを行った理由は、「中央アジア人を含むユーラシア諸国の人々が、倭人の中枢にいたから」ですね。

 

中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ

魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった

 

大陸と日本をリンクさせた日本雛形論の思想が、弥生時代後期から倭人の権力者のなかにあったのだと。こんな仮説は、なきにしもあらずというか、あっておかしくないですね。

磯城郡志紀郡信貴山のシキというのは、イシク=イシキのイが抜けた地名だろうし、石切や石木はそのままイシク湖の地名を漢字に置き換えたんですよね。

 

実際、奈良県あたりの地名と、烏孫キルギスの地名を比較すると異様に似かよったものが見えてきますし。

 

奈良県中央アジアの地名比較 

奈良 中央アジア

磯城 イシク

石切 イシク

弓月岳 弓月国

宇治 ウジ(突厥による烏孫の呼び名)

宇智 ウジ(突厥による烏孫の呼び名)

太秦(ウズマサ) ウズ(烏孫=ウズ)ウズベキスタン

橿原(カシハラ) 月氏

河内 月氏

大阪 サカ

 サカ

 

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

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これにイシク湖を加えておきたいです。 

 

関連記事

日本の神武朝は「中央アジアの烏孫の昆莫王朝」と同一視できることのまとめ

 

ほか、ブログ内検索やグーグル画像検索で「烏孫」を検索すると関連記事出てくるかと。

 

 

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「思考盗聴は存在しない」という一般論は本当かどうか検証

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画像:Brain–computer interface - Wikipedia より

 

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裏の先端科学技術

 

戦後あるいは戦前から、人類の「裏の最先端科学技術」は、すでに21世紀初頭のレベルに達していたとか。

今現在、秘密裏に開発が進んでいる未公開の技術レベルは、20~50年先に進んでいると見ていいらしい。いろんな知識人が、そんなこと言ってます。

つまり俺が生まれた1977年の段階で、人類の最先端技術レベルは、既に21世紀レベルか、それより遥か先まで進んでいたと見ていいのだと。

この理論でいうと、2017年の段階で、ようやく何十年も前に開発された技術が、いま公表され出しているということになるのですね。

UFO、人造人間、ロボット、バイオテクノロジー、病気治療、火星到達、タイムトラベル、スターゲイト、ワープ航法、思考読み取り、人間リモコン・・・

表向き、こうしたものは現時点ですべて初歩的な技術レベルだったり、完全に実現するのは遥か先の未来だ、あるいは不可能だ言われ、闇雲に信じる人がいたりしますね。

でも実際にはほとんど完成している水準であったりして、世界中の権力者はこれらの大部分に関わったり利用したり、できちゃってるのだとしたら?

(極秘裏にUFOに乗って楽しんでいたりして)

そうした存在をいち早く公開して「ネタバレ」して見せていたのが、ハリウッド映画を始めとしたSF作品やアニメなのだとしたら。

そういえば戦前の白黒写真や映画で、今の時代の携帯電話・スマホみたいなものを操作している人が写ったりしてるのがいくつもあるとか。巷ではそれをタイムトラベラーだなんて言い表したりします。しかしこれも実は、現在の通信技術に匹敵するものが、すでに戦前に存在したことを、写真や映画の中で仄めかししていると考えることもできますね。あるいは本当にタイムトラベラーなのか。

タイムトラベラー - Google 画像検索

 

思考盗聴について

 

思考を読み取る「思考盗聴」は、一般には存在しないと言われていますね。なぜかわからないけれど、必死に否定をする人もたまに見かけます。

集スト参加者は「こちらの考えていることを口にする・考えていることを話の種にしてからかって見せる」という行動を頻繁に取っているということです。

集ストされている人は、その半数近くが、思考盗聴は実際にあることだと考えているようです。スマホに、集ストターゲットが思考した文章が受信され、見られていることは想像がつく話。俺自身も思考盗聴は存在すると考えているほうです。

 

思考盗聴に関連する国家的な人体実験が存在したことを知っていますか。

漫画やテレビアニメや映画では、昔から「他人の思考を読み取る場面」が不自然なほど、頻繁に登場していたのを知っていますか。

しかも、近年は思考を読み取れるというニュースが相次いでいました。

 

1949年

1984年 (小説) - Wikipedia

イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説。1949年刊行。

あらすじ

市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

 

1950年

MKウルトラ計画 - Wikipedia

 

1974年

CIA文書に書かれているマインドコントロール計画の隠蔽事実(思考盗聴・電磁ハラスメント・マイン)|国際連合の地下に核爆弾情報

1974年までに、スタンフォード研究所が、磁気脳造影装置上の被験者の種種の脳波を相関し、特定の命令群により、心を読み取ることができるコンピュータシステム[80]を開発している

 

1976年

小松左京「ゴルディアスの結び目」

サイコダイバー・シリーズ - Wikipedia

この作品の中核となるアイディアはサイコダイブである。これは、人の精神に潜り込み(ダイブし)、対象の持つ記憶情報を入手すること、対象の隠されたトラウマを発見すること、そこから派生して精神操作まで行うことが可能という技術である。「テレパシーのような超能力ではなく、素質と専門知識をもった人間が専用の機器を用いて行う科学技術である」という前提

 

1988年

ドラえもんのひみつ道具 (さ) さとりヘルメット- Wikipedia

さとりヘルメットは、「さとりヘルメット」(てんとう虫コミックス39巻に収録)に登場する。このヘルメットをかぶると、テレパシーによって半径30メートル以内の人間の考えを読み取る(悟る)ことができる。

 

1999年

コフィンシステム - Wikipedia

 

2010年

インセプション (映画)- Wikipedia

ドミニク・コブ(通称ドム)とアーサーは、標的の無意識に侵入する軍の実験段階の技術を用いて、標的の夢から重要情報を引き出す、「引き出し人」と呼ばれる産業諜報員(産業スパイ)だった。

インテル、人の思考を読み取るソフトウェアを披露--最先端技術の研究で - CNET Japan

 チップメーカーのIntelは米国時間4月7日、マンハッタンで開催された同社イベント「Tech Heaven」で、かなり制限された状況下ではあるが、脳波を読み取ることにより、人の思考を知ることのできる、開発中のソフトウェアをデモした。

さまざまな単語に対する脳のパターンをコンピュータで解析した後、被験者らは、2つの新しい単語のうちの1つを思い浮かべるよう求められた。そしてコンピュータにより、先ほどの脳スキャンの結果に基づいて、被験者がどちらの単語を思い浮かべているかを判定させた。今回の実験では、コンピュータによる正答は10件中10件、つまり正答率は100%であった。

 

2012年

日本発!ブレインマシンインターフェース新時代 医学書院/週刊医学界新聞(第2959号 2012年01月02日)

 

 2016年

頭の中で考えてることを読み取り言葉にするデバイスが実現間近(米研究) : カラパイア

“思考”で複数のドローンを同時に飛ばす技術が公開される | ROBOTEER

映画『マインド・エスケープ』あらすじネタバレ結末と感想(85点) | MIHOシネマ

マインド・エスケープの概要:人の心を、コンピューターを使って読み取る、という禁断の領域に手を出した2人の天才の行く末を描いたサスペンス映画。原題は「LISTENING」。監督はカリル・サリンズ。

 

2017年

脳の血流で全身まひ者の思考を解読、科学者らがシステム開発 | ロイター

「念じて動かす技術」BMI 難病治療の現場に広がる|健康・医療|NIKKEI STYLE

個人の思考を読み取る「脳ハッキング」に成功:米大学実験(1/2ページ) - 産経ニュース

 

ここに取り上げたのは一部だけです。

総合的に判断して、「思考盗聴は存在しない」は、事実を誤魔化すための、フェイクニュースということではないかと。

巨大な組織によって、何十年も前から思考盗聴は実用化され、無線でスマホで受信できるほどに高度化し、基本的には監視や娯楽のために悪用されているのでは。

スーパーコンピューターの演算能力が当初の何万倍にもなっているし、わかりやすいところだと、PCのHDD容量が1970年代はメガバイト級だったものが、2000年代にはギガバイトになり、現在はテラバイトになるといった飛躍を遂げているなど、コンピューターのスペックの高度化を踏まえると、2017年の思考盗聴技術は、20世紀よりずっと完全なものになっているはずです。

解決方法は、思考盗聴を世界的に禁止にする条約が制定されるか、電波の完全に遮断された家に住むか、電波の届かない地下で生活するか、死ぬかといった感じで、ちょっと無理なところまで進んでいる気がします。

 

 

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九州と畿内2つあった邪馬台国。それが後に1つとして記録された魏志倭人伝

そろそろ春の引越し予定が近くなってきました。でもすぐ疲れて寝ることが多くなり、移動が不安な感じがしますね。おいそれと何度も往復はできないし。

そもそも引っ越したら、もう今の家には戻らないという感じもありなので。

そのくらいこの家で追い込まれてきたし。自分はこの家には不要なのだと実感させられた人生でした。

 

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同時存在

 

魏志倭人伝」の侏儒と「日本書紀」の侏儒国によって、邪馬台国の位置が九州だと特定できることを伝えました。

侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所

ついでに「隋書倭国伝」や「四海華夷総図」からも邪馬台国が九州である情報が読み取れると記しました。

九州に当初の邪馬台国があったことを示す隋書と四海華夷総図

 

しかし邪馬台国のことを調べるにつけ、どうも「邪馬台国東遷説」だけじゃ説明が付かないことが多いな、と考えるようになりました。

問題になるのは

1・邪馬台国までの行程が説明できない(水行20日+水行10日+陸行1月)

2・九州に邪馬台国があったとして、奈良にも存在した痕跡が残るのは何故か

この点が難問でしたが、これを上手いこと説明し切る仮説を思いつきました。

 

もしかして、九州と近畿には「2つの邪馬台国が数百年間同時に存在した」のではないかと。いう結論に達したので、まとめておきます。

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筑紫平野にも大和国奈良盆地)にも邪馬台国があったのも事実 

従来から「邪馬台国東遷説」が正解だと思っていマス。

邪馬台国東遷説とは、九州にあった邪馬台国が、弥生時代末期の頃に奈良盆地へ移り、古墳時代大和朝廷の中心地となり、大和の名前を冠したのであるという考え方です。

その場合、九州の邪馬台国は消滅していると考えられているわけなのです。

筑紫平野の朝倉に奈良と同じ地名を膨大に発見されていることから、筑紫平野こそが邪馬台国の名残を留めている・・・。近年はそんな仮説が史実だと考えるようになりました。

 

 魏志倭人伝」は2つの邪馬台国の特徴を、1つに組み合わせている

しかし、 「邪馬台国はたった1つだ」という思い込みが古代史の真相を濁していたとしたら?という発想は必要なのではないかと。

 

 邪馬台国(やまと)と呼ばれる土地は、日本列島にはいくつか候補地を挙げられます。

1つは大和と呼ばれている奈良盆地を中心とする土地。

もう一つが、安本美典氏が指摘した、筑紫平野朝倉市の付近。

筑紫平野奈良盆地を中心とした地名が、瓜二つであること。この点を指摘したのは安本美典氏で、著書の「天照大御神卑弥呼である」に詳しくあります。

以下に個人的にも調べて、拙著に掲載した表を乗せておきます。

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拙著より

こんなふうに、九州と近畿には同じ古地名が名付けられていました。神武東征の到着地点の地名も全て、九州にも存在してたんです。すなわち筑紫平野の朝倉付近が邪馬台国だったとして、まったくおかしくない。自分としてはそうだと考えています。

 

だから、「魏志倭人伝」編者の陳寿は、九州と畿内の2つの邪馬台国を混同してしまい、2つの邪馬台国倭人伝内で融合させてしまった」可能性はあるのではないかと。あるいは、女王に頼まれて、あえて場所を判別できないように濁していると。

 

魏志倭人伝に含まれる2つの邪馬台国の情報

魏志倭人伝後漢書倭伝から、邪馬台国の情報を引き出して図にあらわしてみました。

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こんなふうに、邪馬台国Aと邪馬台国Bは同時存在し、「魏志倭人伝」では2つの邪馬台国が区別されずに融合して記されています。

 

その結果が魏志倭人伝の距離にあらわれているのですが。

水行20日、水行10日、陸行1月

これはあきらかに筑紫平野までの距離ではなくて、近畿の奈良盆地までの距離合わせていると受け取れます(実際は半分の日数で済むだろうけど)。するとあらゆる意味で無理が減ってくるわけなので。陸業については、「陸で行った場合は」みたいな感じかと。

 

 時系列を想像でいうと 

(1)2世紀末、邪馬台国が倭(九州)の朝倉にできた。

(2)3世紀以降から奈良盆地にも邪馬台国の地名が名付けられた。これは首都機能移転という意味か、副首都として

(3)「魏志倭人伝」は九州と畿内、両方に存在した首都邪馬台を区別せず、ひとつの邪馬台として記してしまった。なぜなら筑紫平野奈良盆地は、全く同じ地名だったから。

6世紀の段階まで、九州の邪馬台国は消えていない。7世紀の「隋書倭国伝」が、九州の倭の邪馬台国について書いていることがその理由。

(4)邪馬台国をモデルにして全国に国府が置かれ、地名が「やまと」になったり高天原の地名を名付けたので、全国にミニ邪馬台国が無数にできた

(5)6~7世紀頃に九州の首都邪馬台を消滅させ、畿内の邪馬台に首都を一本化、大倭を大和に改名する。日本書紀古事記は、九州の首都消失について記していない。

(6)中世以降、邪馬台国の情報が失われてしまい、21世紀には邪馬台国候補地が日本全国に100以上も登場した。

 

魏志倭人伝の距離と方角は不正確ですが、東西に邪馬台国が2つ同時に存在したならば、こんなふうに説明が付く、という新説でした。

 

 

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おえかきタイム

小説を書いてるんだが、まるで人気がない。

そこに登場するキャラを適当に描いてみた。

 

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たっちゃんのWebコンテンツ | アルファポリス - 電網浮遊都市 -

 

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九州に当初の邪馬台国があったことを示す隋書と四海華夷総図

前回の記事、ちょっと修正しました。

基本的に、日本に最初にあった邪馬台国は九州であり、後に奈良盆地に移ったという「邪馬台国東遷説」を支持しているので。これを書き忘れていました。

2つが融合してる邪馬台国の話については、また今度。

 

前回

侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所 - たっちゃんの古代史とか

 


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とにかく「隋書倭国伝」は九州の邪馬台を記録した

 

九州にあった邪馬台国について、もう少し情報を補足します。 

卑弥呼の頃の邪馬台国の場所が九州であることを、知る要素は、他にもあったわけなんです。その辺をもっと考えていこうかと。

古文書と成立年代

・魏略(3世紀前半)・・・魏志倭人伝の元になっている書物。逸文のみ。

魏志倭人伝(3世紀末)・・・卑弥呼の頃の倭について最も詳しい。著者の陳寿は倭を実際に訪れていないとか

後漢書倭伝(5世紀中頃)・・・魏志倭人伝より先に書かれ始めたが、完成は魏志以後。

・隋書(7世紀)・・・7世紀以前の倭について分かる。

・晋書倭人伝(7世紀)・・・壱与についての記述が含まれると見られる

旧唐書(10世紀)・・・かなり後になって書かれたが、倭国のことが含まれる

ほか。

これら全部、岩波文庫の「中国正史日本伝1~2」で見れます。どれも倭国のことを書いている貴重な書物です。

 

「隋書倭国伝」は邪馬台国研究では注目度が低いほうですが、じつは日本列島の地勢を知れる一文があるんです。

「其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」

中国正史日本伝(1)p128

翻訳

「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち魏志のいわゆる邪馬台というものである。」

中国正史日本伝(1)p95

これは明らかに倭の首都が邪馬台国だった頃を、書いているとみられるんですが。

ここで言っている「下」というのは、この訳文では「日本列島の西方は標高が低い」という意味で使われていました。

実際に日本列島は西日本は高い山が少なく、東日本は日本アルプスや富士山など3,000メートル級の山々が連なっているわけなので。

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原文や翻訳文だと分かりにくいですが、実はこの一文に「邪馬台国が西方にある」という情報が、含まれているのではないかと。

これです。

其地勢東高西下都於邪靡堆

 

「西下都於邪靡堆」の一文を解釈すると、「西の低地帯に邪靡堆の都を置いた」と言う情報までもが、含まれているのではないかと。

しかも日本の古墳時代の頃からの律令制時代、九州(筑紫島)がなんと呼ばれていたかというと「西海道」。

なのでこの「西下都於邪靡堆」という一文が、邪馬台の位置は九州だと結論づけてる可能性はあるのですが。

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倭の時代を描いた「四海華夷総図」も女王国は九州なことを示唆

 

 そもそも倭国というのは、「2つを合わせた存在だ」というのが根底にあるのは間違いないところですよ。

九世紀の「旧唐書倭国日本伝」でこんな記述があり。

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、 日本は元小国、倭国の地を併せたりと

中国正史日本伝(2)より

倭国と日本国を併せた。それはおそらく「九州と本州」を併せたという意味ではないかと。実際そういう絵図が残ってますし。

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四海华夷总图 - 维基百科,自由的百科全书

 

この「四海華夷総図」は1532年、中国が明(ミン)朝だった頃に描かれたもの。

倭と九州に分かれて描かれていますが、

・日本国とあるのが本州

・倭とあるのが九州

で間違いないですね。

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北海道、本州、九州、沖縄、というふうに日本列島の主要な島々が全部揃っているし、小琉球(台湾)の名もあるし。九州はぐるっと45度回転させた感じで。

これは前述の、10世紀に編纂された「旧唐書」の記述をもとに作られている地図と見て良いかと。

 

日本の歴史上で国号に「倭国」が用いられていたのは、7世紀までのことでした。670年に日本に改名したことが「新羅本紀」にあるとか。

日本 国号の由来 - Wikipedia

 

ちなみにこの「四海華夷総図」は、正距方位図法らしい。

どこでも方位図法

という正距方位図法を作成できるツールがあり。これを元にして「四海華夷総図」と比較すると、こんな感じに。

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正距方位図法だから、九州や本州の向きが傾いているというわけ。地中海も同様に。

 

図上の倭=九州ならば、九州の中心都市は邪馬台国だったことになるわけですが。この地図は「倭と日本が別れていた7世紀以前の日本」を描いたものであり、九州に邪馬台国があったことを、物語っていますよね。

隋書では「阿蘇山あり」ともあることから、九州邪馬台国のそばに阿蘇山があることも物語っているではないかと。

 

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ということで倭の女王卑弥呼のいた邪馬台国が九州にあったという情報は、昔の中国の記録から読み取れたわけなのですが。

でもこれは、日本列島で最初の邪馬台国が3世紀前半の九州にあったという意味で、3世紀後半以降には、近畿の奈良盆地へと、邪馬台国が東遷しているという仮説を支持しています。これは、以前からあったものでした。

邪馬台国九州説 -邪馬台国東遷説  Wikipedia

 

こうした情報を元にして、従来とは全く別な発想も可能になってきました。それが「2つが融合してる邪馬台国の話」ですが、これはまた後ほど。

 

 

 

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この街の特異な地下神殿と竜宮の館

(2022年追記。この記事のあと引っ越しました)

この街(埼玉県K市)と俺の秘密を、想像力を使って少し開示します。

 

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洪水

 

最近、なんだか「洪水」というキーワードが、頭の中を巡るようになった。わけなんですよ。

それは旧約聖書のノアの時代の大洪水であるとか、ノアというのはシュメールの神話に登場するウトナピシュティムと同一人物なのかとか。

モーセがアロンの杖により海水を操作して敵軍を沈めたのは一種の人為的洪水かとか、それは「日本書紀」でいえば山幸彦が使った潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠しおふるたま)という洪水をもたらす道具と似たものであるとか。

そういえばアトランティスが沈んだというのは要するに南極大陸の出来事で海水の洪水がやがて凍りついて氷床になったという出来事で、基本的にはノアの箱舟と同じ出来事を別視点でかたってるのがアトランティス伝承なのかーなどと考えていたことが、複合的に影響してたわけなのやら、何なのやら。

そんな中で、アメリカでダム決壊危機とかいうぬーすがあって、なんかタイムリーだなと思った次第なんですよ。

日本で洪水と言えば東日本大震災津波もありましたけど、記憶に新しいのは2015年9月に茨城県常総市で起きた大洪水ですね。「平成27年9月関東・東北豪雨」という正式名称らしいです。

これの原因になったのは台風18号温帯低気圧となり、そこへ台風17号がぶつかってきたために、上空に長時間も継続して発生した雨雲でした。

24時間に300ミリを超える大雨が降り続き、鬼怒川の堤防が決壊して大洪水状態になっていました。その時なぜかヘーベルハウスだけが耐えたとかニュースになっていて、「ハーイ」とかいくらちゃんの声が自動再生されていました。

そう言えば春日部も、中心市街地が冠水して地下道は水で埋もれていたとか。俺はあの時、自宅に引きこもって、仕事とかブログ執筆などしてたんでは。あのときの雨雲レーダーの雲の状態は、その場に留まる長大な竜の如くに南北にあまりに巨大で、異常な印象を受けたとは記憶しています。

 

神殿

春日部には「神殿」と呼ばれる施設があって、それにより「平成27年9月関東・東北豪雨」の水害もある程度は防がれていたのですが。

ところで神殿とは、一般的には天の神に最も近い場所のひとつで、天から神が降りてくる依代を置く場所、神のそばで祈りを捧げる所、なんていう目的を為すところであるわけなんですよ。日本で言うと、神社の社殿とは神殿そのものです。

そんな神殿を冠する施設が、春日部には存在しているんですよね。

何故なのだろう?って考えたことはありますか。

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世界最大規模の地下河川である「首都圏外郭放水路」の調圧水槽が、神殿と呼ばれているものの正体でした。

首都圏外郭放水路は全長6.3キロメートルあり、江戸川のそばに作られた長さ177m✕幅78mの調圧水槽空間は、巨大な59本の柱によって支えられてるとか。水を取り込む5本の立坑は、直径30メートルで深さ70メートルの巨大さだとか。こうした巨大な構造物が、近所の国道16号線の地下に作られてるわけなんですよ。これによって埼玉県東部一帯が洪水から守られているわけなんですよ、ご苦労さまでした。

建設が始まったのは1993年11月。俺が体調に異変を起こしてまともに生きられなくなった時期と重なっていました。

首都圏外郭放水路 - Wikipedia

 

竜Q館

それで以前から1つの疑問というか、疑惑の対象物になっていたのが、春日部の神殿の上にある「竜Q館」のことです。

これは地下神殿の地上の附属施設であって、一般的には資料展示室として使用されていてるらしいです。行ったことはないのですが、内部はなにか「鍵(🔑)」みたいな形で仕切られているようで、意味深でもあり。

名前の由来は「春日部東部の庄和地区に伝わる火伏の龍の伝説と、AQUA(水)のQ」だということでした。ということなのだが、どうもしっくりこないんですよね。

 というのも、「おほもと」という宗教団体の根幹を為す、出口王仁三郎が明治から大正期に著した「大本神諭」という書物の影が、この神殿と竜Q館にはチラつくようだったので。

大本神諭をチラっと読んだことがあるなら、なんとなく分かるワケなんですが。おほもとを信仰してはいないですが、どうも日月神示と関連があって興味深いのですよね。自分にも関係してるようで。

 

何故かと言うと、「大本神諭」には「竜宮館」という建物が登場しているからなのです。おほもとの竜宮館と、春日部の神殿と竜Q館の存在とリンクしているというのは、偶然ではないような気がしたわけなのですよ。

 

そこで、大本神諭の竜宮館とは、いったい何の役割があるのかを調べてみた。 

王仁三郎データベース(王仁DB ベータ版)- 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト

によると、ヒットしたのは202件。どうやら大本神諭だけではなく、出口王仁三郎に関係する書物には、かなり登場してるようだったのです。

検索結果をいくつか抽出してみると、

・綾部の大本の龍宮館高天原

・世界には昔から無かりた事が、綾部の陸の龍宮館の元の宮から出来るから

・龍宮館には大望な仕組が為て在るぞえ

・地の高天原なる陸の竜宮館

艮の金神国常立の尊の御魂が竜宮館高天原に現はれて

艮の金神国常立之尊竜宮館の地の高天原の神屋敷

・竜宮舘の地の高天原に変性男子と女子とが現はれて

・出口の屋敷が竜宮館高天原と相定まりて

・綾部の竜宮館(大本)を出発し

だいたいこういうことらしい。

綾部というのは京都府綾部市のことで、大本の発祥地を竜宮館というらしい。

京都の綾部の竜宮館は、日本神話で天神の集う高天原の地上版なのであり、艮金神(うしとらこんじん)こと国常立(くにとこたち)の尊(みこと)が降りてくる場所であるというのが、創設者の出口なお出口王仁三郎らの認識でした。

実際に国常立という神様が降りてきて、「世の立て替え」というものが起きているなら、人類は未曾有の危機に直面していておかしくないですが、まだ立て替えは起きていなくて、これから起こるのだという感じで受け取って良いのかもですが。これはたぶんヨハネの黙示録にも似た啓示であると考えていいんですよね。

 

これに関連して、大本の流れを組む「日月神示」は、戦時中は多くの政治家がこぞって信じていたとか。

竜宮というのは、実は日月神示にも登場しているので、ちょっと集めてみる。

・十柱とは火の神、木の神、金の神、日出之神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ

・世に落ちておいでなさる御方一方、竜宮の音姫殿御守護遊ばすぞ。この方、天晴れ表(おもて)に現われるぞ

・海の御守護は竜宮の乙姫様ぞ

・竜宮の乙姫様グレンと引っ繰り返しなさるのだぞ

・竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも分かるまいがな、びっくり箱の一つであるぞ。北が良くなる、北が光るぞ
・竜宮の乙姫様が神力天晴れぞ。金神殿お手伝い

 

日月神示全文掲載 上 つ 巻 42帖〜1帖

おそらく大本の竜宮館と日月神示の竜宮とは同じですね。大本では教祖の出口王仁三郎が、自身を「変性女子」と言っていますね。自身を「竜宮の乙姫」にならぞえているからこそ、出口王仁三郎のいる場所を、竜宮館と呼んでいると考えられました。

 

ところで話は変わり、日本の地名は数珠つなぎ構造になっていて、九州の地名、近畿の地名、関東の地名など、同一系統の地名の連続であるというのが、拙著の電子書籍の骨子だったのですが。

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九州に対応するのは、中央の近畿であり、関東でありということになり、

京都の竜宮館に対応しているのが、埼玉の春日部の竜Q館だった・・・

ということになると、考えていいわけなのですが。これは意図的なものか、偶然や運命的にそうなったかは分かりませんが。

 

すると、

・なんで春日部に大本や日月神示の思想が入っているのか?

首都圏外郭放水路を建設した政府が、大本の思想を持っていることになるのだが

・春日部高天原に、国常立尊を降ろす場所を作った理由とは何か?

・それが何故に洪水施設なのか?

・単なる洪水対策施設なのか?もっと広大な地下空間が造られているのでは?

・そもそもナニモノが何のために?

 

などと、色々疑問が出て来るわけなんですよね。

 そもそも、春日部にはこんな謎があり。

 皇居宮殿と、この街の市役所が同じ経度上にある謎

 

春日部市の市政がはじまったのは1954年(昭和29年)でしたが。

春日部は、戦後からずっと、日本では特殊で特別な街だったんですよね。なんでなのか。

 

ウェルズ

ここで何故か思い浮かぶ、H・G・ウェルズの予言

(原文)
Almond blossome in the spring sunshine.
Fuji-Yama gracious lady.
Island treasure home of lovely things,
Shall I never see you again?

H・G・ウェルズの予言 | 予言・予知に関する研究

翻訳はしないでおこう。 

 

出口王仁三郎は言っていましたね。型の大本・・・

「大本で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こる」

 これが、神殿と竜Q館のある春日部にもあてはまっているかもしれないとすると・・・。あ。その時、1つの本の表紙絵が、俺の脳裏に再生されるのでした。

 

とある書物

本棚にあった一冊の書物を手に取った。以前は何気なく中身を読んでいただけなのに、今ではなにか狂気のメッセージを暗示する本に思えてくる。

奥付やウェブページで調べると、本の紹介ページの数字が目に飛び込んでくる。平成16年6月10日発行、50周年、103p、30cm、当該情報資源を採取・保存した日2016年10月3日。平成16年といえば、俺が体の異変を起こし露頭に迷いヒキコモリ人生をスタートした時期だった。

表紙の絵は、今になって見直してみれば、なにか抜き差しならぬ暗示がこもっているようで意味深だった。

下方に広がる黄金の大地と、中央に流れる黄金の川は、きっとこの街、そして代表するあの川の流れだろう。

真っ暗闇が市街地を包み込んでいる中で、黄金の朧月がぽっかりと空中に浮かんでいる。

よくみれば中央の黄金の川の手前には、荒れ狂う大波小波が迫っていた。ここは東京湾から40km以上も離れた内陸部のはずなのに。

そんな闇の景色のなかで、薄紫の藤の花だけが、静かに咲き乱れていた。

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何か闇が全体を支配しているなかで、綺麗に浮き立つものがある。そんな黙示録的な陰鬱な趣向の絵を、何故めでたい50周年の本の表紙にしたのだろうか。備えあれば憂いなし。などと言うことわざが、不意に浮かんでは消えていった・・・。まぁ俺の暗澹たる人生を暗示しているとしたら、この表紙もありですけど。

 

 

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侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所

魏志倭人伝」の「侏儒」から、

女王卑弥呼のいた邪馬台国の位置が分かるかもしれないんです。

 

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ところで侏儒ってなに?というところから始まります。

焦僥人

山海経』の大荒南経には、焦僥、僬僥(しょうぎょう)、海外南経には周饒(しゅうじょう)と呼ばれる小人たちが住んでいると記されている。焦僥・周饒はともに「侏儒」(しゅじゅ)という言葉が変化したものであり、「小人」ということを示す同一の呼び名であると考えられている。この事から焦僥人と周饒人は同一のものであると見られる。『外国図』には、焦僥人たちは強い風に吹かれると飛ばされてしまうことがあったと描写されており、強風が吹くと体をしっかり伏せてこれをまぬがれているという。

小人 (中国の伝説) - Wikipedia

侏儒は、 中国で紀元前からの小人の名称だということ。

 

そういえば倭人の意味は、

背が曲がってたけの低い小人の意。

「学研漢和大字典」より

 なので、倭人も小人で、侏儒の一種だったんですけどね。いまや日本人のほうが、中国人より平均身長で上回っているとか。

 そういえば焦僥の「」は、饒速日命の文字にも似てますね。

 

この侏儒が、「魏志倭人伝」に出てくる。

魏志倭人伝の侏儒

女王国の東、海を渡る千里余、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺

「中国正史日本伝(1)」岩波文庫より

 三、四尺って、90センチ~120センチてことなわけだが・・・。

女王の千里の東に、侏儒国があるんですよね。

図にするとこうなる。

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こういうことで、女王国の中心都市が邪馬台国です。

 

そして侏儒って、「日本書紀」にも登場します。

神武天皇の時代の侏儒
「高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相似(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづ)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城と曰(い)ふ。夫(そ)れ磐余(いはれ)の地の旧(もと)の名は片居(かたゐ)。」

日本書紀 岩波文庫」(p236)より

奈良盆地の高尾張邑に土蜘蛛がいて、侏儒と似ていた。神武天皇軍は網を使って襲って殺したとか。その後葛城とか磐余という地名がつけられたと。

ここで土蜘蛛(侏儒)は、襲撃されて抵抗した様子もなく、全滅したんですかね。

とにかく土蜘蛛が侏儒ということが判明。

情報を図に展開してみると、

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日本書紀」の侏儒の位置付けはこうなる。

まあ神武東征の舞台は、個人的にはユーラシア大陸での天皇家の祖先の出来事と、日本列島での卑弥呼軍の東征をあわせているんだろうな、と考えますけど。それはさておき。

 

 ここから重要なのは、この2つの書物の侏儒を結びつけたり、いろんな想起できるものを全部呼び出してみるということ。

神武天皇の出発地は九州の日向である

卑弥呼(ひみこ)の名は日向(ひむか)ににている hi-m-k

・日向とは九州全域を指す名だった(肥前・肥後の元の名は健日向豊久士比泥別)

・女王国の本拠地は邪馬台国である

神武天皇紀では、侏儒は奈良盆地にいる設定

・すなわち魏志倭人伝の「女王国の東の侏儒」は奈良盆地

・「旧唐書日本伝」に「日本国は倭国の別種なり」

・女王国と侏儒国のあいだには、千里と表現されるおおきな海がある

日本書紀饒速日命が向かった先は奈良盆地だった。饒のつくりは侏儒の別名「焦僥・周饒」ににている。

 

こういった細かい情報を集めてまとめる。

すると結論は、なんだかんだでこうなった。

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 侏儒が奈良盆地にいるということが、2つの書物で表されるのだから、女王国の東の海とは瀬戸内海でしかないですね。

すると邪馬台国の位置は、瀬戸内海で隔てられた九州か四国か、という選択に迫られます。が、卑弥呼の名前がひむかであり、九州の名前がひむかであると考えると、女王国と邪馬台国の位置は九州一択で良いのではと。その後邪馬台国は東の奈良盆地へと東遷をしているという、いわゆる「邪馬台国東遷説」支持してますけど。

 

 距離が千里というのは、適当な感じもあり、魏志倭人伝」の距離は、投馬国以降は女王国の国土を、中国に対して大きく見せたいっていう虚栄心が働いてるのかもしれず。

魏志倭人伝は侏儒の位置については、正確に表していましたね。女王国の東(本州の近畿)の南(奈良盆地)と。

 

侏儒という存在からみちびいた場合、女王国の邪馬台国は、九州にあるしかないってことでした。

 

ところが・・・

 

 

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バベルの塔のニムロド ぱーと3 実はニムロドは正義のシュメール王だったかも

バベルの塔の建設者ニムロドが日本神話に居るのでは1

バベルの塔の建設者ニムロドが日本神話に居るのでは ぱーと2

 

ネットを見てたら、「トランプ大統領はニムロドを自称してる」とかいう話が出ていました。知らなかったです。ニムロドが、ギリシャ神話ではゼウスやアポロと似たものとされることから?

予期せずニムロドのことを書いてました。まぁ歴史単純な歴史研究ですので。

 

・・・・・・・・・・・・・・・
○いつも助かっております

 

 

 

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Nimrod - Wikipediaより

 

バベルの塔は「崩壊した」として有名ですよね。

でも実は「旧約聖書」の原文では、「バベルの塔の崩壊は描かれていない」んですね。一体どういうことか・・。

そしてノア家の内乱とも言えた、アブラハムとニムロドの敵対ですが、その後のニムロドはどうなったんだろう。

実は正と悪の両面で記録が残されるニムロドの探求で、見えてくるものがあり。

 

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アブラハムとニムロドの生きた時代は紀元前2100年頃?

 

とりあえずニムロドが生きていた時代は何時だったか、調べてみました。

 ニムロドの時代を知るなら、同じ時代のアブラハムの実在年代を調べればいいというわけで。ウィキペディア年代記を調べてみる。

紀元前2100年代

紀元前2100年頃

・中国最古の王朝である夏を禹が建国した(紀元前2070年説もある)。 河南省偃師市二里頭遺跡を代表とする二里頭文化I期( - 紀元前1700年頃)が夏の初期に相当するとされている。

ウルク王ウトゥ・ヘガルがエンニギの戦いでグティ王ティリガンに勝利。 グティ時代は終わりグティ人はメソポタミアから駆逐され、以後記録からは消滅する。

・現存する最古の法典「ウル・ナンム法典」が編纂される。 ウル第3王朝のウル・ナンム在位中(紀元前2115年頃 - 紀元前2095年頃)の頃とされる。


紀元前2100-2050年頃

・ウル遺跡のジッグラト「エ・テメン・ニグル」が建設された。

 

紀元前2090年代

紀元前2094年頃

・ウル第3王朝の王シュルギが即位( - 紀元前2047年頃)。 この王によりニップルから出土した粘土板文書『シュルギの自賛』が書かれる。

・紀元前2091年 - アブラハム、イサク、ヤコブによる族長時代が始まった。

 

紀元前21世紀 - Wikipedia

というふうに、アブラハムの実在した年代は、紀元前2100年ころということになってるらしい。日本だと縄文時代といったところ。

あ、この記事の1と2の仮説を踏まえると、「日本の記紀神話は、紀元前2100年以前のことまでも記録してる」に等しいわけなのですが。日本列島だけじゃなく、中東のことまでもごっちゃにして。そう考えると記紀神話ってスゴイと思うわけですが・・・。

アブラハムの実在年代としては、別の説では紀元前18~14世紀頃説もあって、確定しないとか。

ちなみに天地創造正教会では紀元前5508年で、ほかの説でもおおむね紀元前6000~紀元前4000年の間ということになってる。

天地創造 - Wikipedia

 

バベルの塔は崩壊していなかったかも

旧約聖書・創世記」のバベルの塔の物語の後半を、今一度見てみる。
主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
 
つまりバベルの塔は、崩壊してはいなかった。民族拡散の原点として描かれてたわけなんですね。
ただ後の時代の伝承によって、崩壊の場面は付け加えられているようです。この点は以下の翻訳文でう。
 
 
ではニムロドはどうなったか
旧約聖書」ではニムロドのその後については、何にも書いてませんが、英語版ウィキペディアには、ニムロドについてこんな膨大な記述があり。

Nimrod - Wikipedia 

これをグーグル翻訳したので、ちょっと読みづらいですが。(ここはすっ飛ばしていいです)

 

伝統と伝説

Kitab al-MagallまたはRolls Book of Rolls(Clementine文献の一部)として知られている初期のアラビア語の作品は、Hadâniûn、Ellasar、Seleucia、Ctesiphon、Rûhîn、Atrapatene、Telalônなどの町をNimrodが建て、 Reuが163歳の時に王として、そしてPelegが50歳のときにNisibis、Raha(Edessa)、Harranを建てて69年間治世を築いたことを明らかにした。さらにNimrodは黒い布と王冠を空に見た。 "彼は織機を作ったササンに頼んで、そのような王冠を作るように命じました。彼は、王冠を着用した最初の王であると言われています。 "この理由から、それについて何も知らなかった人々は、王冠が天から彼に下ったと言った。その後、ニムロッドが火の礼拝と偶像礼拝をどのように確立したのかを記し、ノアの第四の息子であるバニターとの3年間の礼拝を受けました。

Recensionines(R 4.29)、Clementinesの1つの版では、ニムロッドは、ニネベの創始者であるギリシャの歴史家Ctesiasに最初に登場する伝説のアッシリア王のニーナスと同等です。しかし、別のバージョンでは、ホミ(H 9:4-6)、ニムロッドはゾロマスターと同じように作られています。

(中略)

 

しかし、エフレム・ザ・シリア(306-373)は、ニムロッドが正義であり、タワーの建築家に反対しているという矛盾した見解を関連づけている。同様に、Targum Pseudo-Jonathan(日付不確定)は、Nimrodがメソポタミア南部でシナルを離れ、メゾポタミア北部のアッシリアに逃げたというユダヤ人の伝統を述べている。なぜなら、神が4つの都市で彼に報酬を与えたタワーを建設することを拒否したからです。アッスリヤ、バベルのものを取り替える。

Pirke De-Rabbi Eliezer(833頁)は、ニムロッドがアダムとイブの衣服を父親のクッシュから継承したことで、彼は無敵になったというユダヤ人の伝統を語っています。ニムロッドの当事者はその後、ヤペテ族を敗北させて、普遍的な支配権を獲得しました。後で、エサウアブラハムの孫)は、待ち伏せ、斬首され、ニムロッドを奪った。これらの物語は後に16世紀のシーファー・ハヤシャルを含む他の情報源にも現れます。ニャロッドにはマルドンと呼ばれる息子がいて、さらに邪悪であったと付け加えられています。

9世紀のイスラム教徒の歴史家、アル・タバリによる預言者と王の歴史の中で、ニムロッドはバビルに建てられたタワーを持ち、アッラーはそれを破壊し、その後人類の言語、旧シリア語は72言語に混乱します。 13世紀の別のイスラム教徒の歴史家であるアブ・アル・フィダ(Abu al-Fida)も同じ話をしており、アブラハムの祖先であるアブラハム家父は、この例ではヘブライ語を元の舌にしておくことが許可された10世紀のイスラム教徒の歴史家Masudiは、タムを建てたNimrodを、Shemの息子、Aramの子、Mashの息子にして、彼がNabateansを500年以上支配したと付け加えた伝説を述べています。その後、マズディはニムロッドをバビロンの最初の王とし、偉大な運河を掘って60年を支配したと述べています。他の場所でも、彼は占星術を導入し、アブラハムを殺そうとした人として、カナンの息子ニムロッドを言います。

 

アルメニアの伝説では、アルメニア国民の祖先であるHaykは、Van Van近くの戦いでNimrod(時にはBelと同値)を破った。

ハンガリー伝説の「エンチャント・スタッグ」(より一般的にはホワイト・スタッグ(FehérSzarvas)またはシルバー・スタッグ(Silver Stag)として知られています)、ニムロド王(メノルトとも呼ばれ、「ニムロッド・ザ・ジャイアント」または「巨大ニムロドノアの「最も邪悪な」息子、カム(伝説、伝説、いくつかの宗教、そしてカムやカームの名前を持つ人と国の歴史的資料がたくさんあり、圧倒的にその意味は否定的です)は、先祖ハンガリー人の全国と共に、バベルの塔の建設を担う巨人でもあります。その建設は、大洪水の事件の201年後に始まったと思われます(ノアの箱舟の聖書の話を参照)ニムロドはエビラトの地に移り、そこで妻エネは双子の兄弟ハンナーとマジヤールを誕生させました。別名マゴール)。父親と息子は、3人全員が驚異的なハンターだったが、ニムロッドは特に典型的な、有能で伝説的なハンターとアーチャーである。 HunsとMagyarsの歴史的に証明された復活弓と矢は、Nimródに帰属しています。 (SimonKézai、Gesta Hungarorum、1282-85)にあるLászlóKúnの個人裁判所司祭。この伝統はAntal Endrey博士によると、ドイツのものと同様、中世のハンガリー・クロニクル20以上にも見られる。 1979年に出版された記事)。

Nimród、Hunor、Magorの2人の息子がそれぞれ100人の戦士を抱え、Meotis Marshを通ってWhite Stagに続き、彼らは壮大な動物を見失った。ハンナーとマゴールは、アラン人のダル王の二人の娘と、誘拐された仲間たちを見つけました。ハンガリーの伝説ではHunorとMagyar(別名Magor)がそれぞれHunsとMagyars(ハンガリー人)の祖先であった。 Miholjanecの伝説によれば、ハンガリーのスティーブンVは、テンションの前に「Enchediで生まれた偉大なNimrodの孫、Bendeuciの息子、Attila:神の恵みによってHunsの王、Medes、Goths、Dacians、世界の恐怖、神の惨状を訴えています」

ニムロッドは、フリーメーソンの歴史のいくつかの非常に初期のバージョンで、彼は兄弟姉妹の創設者の一人であったと言われています。フリーメーソンの百科事典によると、古い憲法における工芸の伝説は、Nimrodを石工の創設者の一人と呼んでいます。したがって、ヨーク・ミシシッピ州の第1号で、私たちは次のように読んでいます。「あなたがバベルの宮殿を作ったとき、最初にメイソンが大いに尊敬され、ニンロートと呼ばれたバビロンの王はメイソンであり、メイソンを愛していました。しかし、彼は現在の儀式では考えません。

Lemminkäinenの助手としてFinnish Kalevalaで考えている悪魔Nyyrikkiは、いくつかの研究者や言語学者によってNimrodと関連付けられている[11]。

 

悪のニムロッドと正しいアブラハム

 

聖書にはニムロッドとアブラハムの間の会合は言及されていませんが、ユダヤ人とイスラム教の伝統によると、両者の対立が起こったと言われています。いくつかの物語は、善と悪の対立の象徴と見なされる激しい衝突で、そして/または多神教に対する一神教の象徴として、それらを一緒に持っていきます。一方、いくつかのユダヤ人の伝統は、二人の男が会って話し合ったとしか言いません。

K. van der Toornによると、 P. W. van der Horstによると、この伝統はPseudo-Philoの論文で最初に証明されている[12]この物語はタルムードと中世のラビの書物にも見られる。[13]

いくつかのバージョン(Flavius Josephusのように)では、Nimrodは神のものに対する彼の意志を立てる人です。他の人では、彼は自分自身を神と宣言し、その主題によって崇拝されます。時には彼の父親であるセミラミスは、自分の側で女神として崇拝されました。 (Ninusも参照してください。)

星の中の看守はニムロッドと彼の占星術師に、偶像崇拝に終止符を打つアブラハムの差し迫った誕生を伝えます。したがって、ニムロッドはすべての新生児の殺害を命じる。しかし、アブラハムの母親は畑に逃げ出し、秘密裏に誕生する。若い頃、アブラハムは神を認め、彼を礼拝するようになりました。彼はニムロッドと向き合って、彼に偶像礼拝をやめるように顔を合わせると、ニムロッドは彼がステークで燃やすよう命じた。いくつかのバージョンでは、Nimrodは世界で一番大きな焚き火でアブラハムを燃やすために、被験者に木を4年間集めました。しかし、火がついたとき、アブラハムは無傷で歩きます。

いくつかのバージョンでは、ニムロッドはアブラハムに戦いに挑戦します。ニムロッドが巨大な軍隊の頭に現れたとき、アブラハムはニムロッドの軍隊を破壊するガットの軍隊を作ります。いくつかの口座はニートや蚊がニムロッドの脳に入り、彼の心から追い出す(ユダヤ伝統はエルサレムの寺院を破壊するローマ帝のタイタスに割り当てられた神の報復)。

いくつかのバージョンでは、ニムロッドは悔い改め、神を受け入れ、神が拒否する数々の犠牲を提供します(カインのように)。他のバージョンでは、ニムロッドは、アブラハムに譲歩的な贈り物として、いくつかの口座がニムロッドの息子のように描写されている巨大な奴隷エリエザーを与えています。 (聖書はまたエリエゼルをアブラハムのマジョモモと言いますが、彼とニムロッドの間には何の関係もありません)。

 

さらに他のバージョンでは、ニムロッドは神に対する反乱、あるいはそれを再開しています。確かに、メソポタミアを離れてカナンに定着するアブラハムの決定的な行為は、ニムロッドの復讐からの脱出と解釈されることがあります。アブラハムの誕生の前に、多くの世代のタワーの建造物を正式な場所とみなすアカウント(聖書やジュビリーなど)。しかし、他の人たちでは、ニムロッドがアブラハムとの対決で失敗した後で、後の反乱である。さらに他のバージョンでは、Nimrodはタワーが失敗した後も諦めずに、鳥が駆け抜ける馬車で、天国を直接襲撃しようとします。

その物語は、モーセの誕生(殺害を命じられた助産師を持つ無実の乳児を殺す残酷な王)と、火から無傷で現れたシャドラク、メシャク、アベドネゴの功績から、アブラハムの要素に帰属します。したがって、ニムロッドは、2つの典型的な残酷な迫害の王 - ネブカデネザールとファラオの属性を与えられています。いくつかのユダヤ人の伝統はまた、彼の祖父が彼を殺そうとしたポーランド人と一緒に、ヘロドトスによる誕生をしたキュルスと彼を識別しました。

また、Qur'anには、名前で言及されていない王と、預言者Ibrahim(アラブ人、 "Abraham")との間に対立が見られる。イスラム教徒の解説者は、ニムロッドをユダヤ教の資料に基づいて王に任命します。イブラヒムの王との対決では、前者はアッラー(神)が命を与え死を与える者であると主張する。王は死刑判決を受けた2人の人を連れて来る。彼は1つを解放し、他の人を殺す、彼はまた生と死をもたらす点を作ることに貧しい試みとして。イブラヒムは、アッラーが太陽を東から持ち上げることを述べて、彼に反論します。王はそれから困惑し、怒ります。

ニムロッドは、最終的に悔い改めているかどうかにかかわらず、ユダヤ人とイスラム教の伝統に象徴的な悪人、偶像崇拝者と独裁者の象徴であった。現在までのラビの書物では、彼はほとんど常に「ニムロッド・ザ・イヴル」と呼ばれています(ヘブライ語:נמרודהרשע)。

ニムロッドは、Baha'i宗教の主要な神学的研究であるKitáb-i-Íqánを含む、バハイの聖典のいくつかの場所で名前が挙げられています。そこでは、ニムロッドが「夢を夢見て」、彼の執事が天国の新しい星の誕生を意味すると解釈したと言われています。その後、「アブラハムの到来」を宣言する土地にヘルダルが現れたと言われています。バム(バハイ信仰の牧師)の初期の書物の1つにニムロッドも言及されています。神の力の例を挙げて、彼は次のように尋ねる。「過去に、アブラハムはニムロドの力を勝ち抜くために、無慈悲に見えるにもかかわらず、アブラハムに起きたことはありませんか?

アブラハムがニムロッドと対立したという話は、学術論文や宗教論文の枠内にとどまらず、また著名な文化にも影響を与えました。注目すべき例は、カスティーリャ王アルフォンソ王Xの治世の間に明らかに書かれた、ラディーノで最も有名なフォークソングの一つである「クンド・エル・レイ・ニムロッド」(「ニムロッド王」)である。 「ニムロッド王が畑に出たとき/天と星を見たとき/ユダヤ人の四分の一の聖なる光/彼の父アブラハムが生まれようとしていたときの印」歌は残忍なニムロッドと救い主アブラハムの奇跡的な誕生と行為によってもたらされた迫害の詩的な記述を与える。 (完全な原文と英訳はLadino Wikipediaの記事に掲載されています)

 

イスラム語の物語

イスラムの物語によれば、アブラハムはニムロッドと一連の話し合いをしているようです。[19]クルアーンは、「神が王国を授けたので(すなわち、彼は誇りに思っていたので)、アブラハムと主張している人を考えなかったのですか?」[20]アブラハムはこう言います。死を引き起こす。王は答えます、 "私は生命を与え死をもたらす" [20]。彼は一方を解放し、他方を非難する[21]。それでアブラハムは、「確かに、神は東から太陽を上げ、西から持ち上げる」と言いました。[20]これによって王は彼を追い払い、レバントに向かいました。クルアーンではニムロッド氏の名前は明記されていないが、イスラム教徒が「キング」と言及している。ムジャヒッドによれば、「4人が地球、東と西、2人の信者と2人の不信者を支配した.2人の信者はソロモンとダル・カルナインであり、2人の信者はネブカドネザルとニムロッドであった。 "[23]

ミドラシュラバ版のテキスト

次のバージョンのアブラハム対ニムロッドの対立は、ユダヤ人の聖書の主張の主な編集物であるミッドラッシュラバに現れます。これが現れる創世記に関わる部分(第38章、第13章)は、6世紀から現在までに考えられています。

(...)彼は[アブラハム]をニムロッドに渡した。 [Nimrod]は彼に言った:「火を崇拝しなさい!アブラハムは彼に言った:「私は水を崇拝して火を消すか?ニムロッドは彼に言った:水を礼拝する! [アブラハムは]彼に言った:もしそうなら、私は水を運ぶ雲を崇拝するでしょうか? [ニムロッド]は彼に言った:雲を崇拝する! [アブラハムは]彼に言った:もしそうなら、私は雲を散らす風を崇拝するでしょうか? [Nimrod]彼に言った:風を礼拝する! [アブラハムは]彼に言った:そして私たちは風に耐える人間を崇拝するでしょうか?あなたは言葉に言葉を積み重ね、私は火のなかに伏します。私はあなたを捨てて、あなたが弓をあげる者に来て、それからあなたを救いましょう!
 
ハラン[アブラハムの兄弟]がそこに立っていた。彼は[自分自身に]言った。私は何をするだろうか?アブラハムが勝利したら、私は言うでしょう:「私はアブラハムの信者です」とニムロートが勝った場合、「私はニムロッドの信者です」と言うでしょう。アブラハムが炉の中に入って生き残った時、ハランは尋ねられました。「あなたは誰ですか?彼は答えました。「私はアブラハムです!」彼らは彼を連れて炉に投げ入れ、腹が開き、彼は亡くなり、彼の父テラッハを前にしていた。
 
[聖書、創世記11:28は、ハランがテラハを前にしていると述べていますが、詳細は記されていません)。

以上、Nimrod - Wikipedia から要点を抜き出してグーグル翻訳した結果でした。

 

ニムロドは、アブラハム側からすれば悪の存在でした。旧約聖書を中心として語られる場合、ことさらにニムロドを悪人と決めつける傾向にあるわけですが。

ニムロドの側からすれば、ニムロドこそが正義だったんですね。このことは、イラクの近隣の諸民族の伝承としても残っていたようです。いろいろ知らないことが多すぎました。

 

 正義と悪は、立場によって変わるもの。

 

日本人からすれば正しい行いでも、中国人から見れば悪いことだと認識されてしまうみたいな。右翼と左翼の対立みたいな。

 

 

ウィキペディアの英語版からわかったニムロドの特徴

 

 上記のウィキペディア英語版からまとめると、ニムロドはこんなふうな人だった。

 

・ニムロドの系譜は、ノア、ハム、クシュ、ニムロド

・ニムロドはバベルの塔の建設者

・ニムロドは悪い人としても正義の人としても記録されている

・ニムロドは神に認められた王だった

・ニムロドはアブラハムと対立した

・ニムロドは神と対立したのでユダヤキリスト教では悪魔と形容される

・ニムロドはシュメールの無数の町を建設し国土を繁栄させた王さま

・ニムロドはシュメール、アッシリアバビロニアなどいずれかの国王

・ニムロドは世界で初めて金の王冠を頭に付けた

・ニムロドは拝火教ゾロアスター教の開祖

ニムロドはアダムとイブの衣服を父親のクシュから継承した

・ニムロドはハンガリー人の祖先の建国者

・ニムロドは巨人だった

 
バベルの塔の物語を知っていても、バベルの塔の建設者のことは、なんにも知らなかったです。日本人でもキリスト教徒でも、ほんとうのニムロドのことを知っている人は、少ないかもしれないです。
 

 ニムロドの正体は、シュメールからバビロニアの複数の王のイメージを習合されている王さまみたいな感じなのですね。具体的に誰かという疑問については、複数の仮説が合ってどれかというのは決められない感じでした。

だから日本の記紀神話カグツチと同じですね。カグツチにも複数の別名があり、複数の神や人物を習合している様子が見られるので。日本神話では、イザナギを絶対的な神として描く必要があり、ニムロドが入ってるカグツチを徹底した悪として描く必要があったのかと。

  

 

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バベルの塔の建設者ニムロドが日本神話に居るのでは ぱーと2

順調ならば4月に引っ越して、ヒキコモリ生活を始めようというところ。

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日本神話の全てが、中東やヨーロッパ神話の移植とは思わないです。日本固有の神話が、日本列島に色々あるはず。

でも確実に、日本神話の中にはアッチの神話が入っているんですよ。

だから中東神話を、中東からの視点じゃなくて日本視点で見れてしまう。日本神話を解き明かしていくことで、中東や日本の歴史が、多角度的に鮮明に見えてくる、というわけなのではないかと。

この記事が執筆されたタイミングがアレですが、たまたまであって悪意は無いので。

 

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○いつも助かっております

 

 

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1の続き。

 

バベルの塔の建設者ニムロドは、日本神話の中にも入り込んでいたという話。

これがホントだとすると、おそらく旧約聖書の叡智が、日本へもたらされてることが確定できる要素のひとつになります。「日本書紀」編纂以前の古墳時代飛鳥時代には存在したんですかね。

 

バベルの塔の話を要約すると、

(1)・ノアの方舟の後、バベルの塔の建設のために人が集まった。建設者代表は「火の男ニムロド」。

(2)・煉瓦をつくろう。火で焼こう。石の代わりに煉瓦、漆喰の代わりにアスファルトで建設しはじめた。

(3)・塔の先が天に届くほど高い。

(4)・神がバベルの塔を知って不快に思い、言葉を散らして会話できないようにした(塔の崩壊)。

 

(A)・ミドラージュによれば、火の男ニムロドが、アブラハムの弟ハランを焼き殺した(殺害状況)。

(B)・ということで、ニムロドは神とアブラハムの敵として認識された(敵対)。

 

 これが実は日本神話の中にもあったんですよね。

 

え?こんな話は日本神話に無い?いえ、ありました。

それはどこかというと、「火の軻遇突智神(かぐつち)」のシーン。

 カグツチ

カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。 

神話の記述

神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。

カグツチ - Wikipedia

 

カグツチには、ニムロドが習合されてたのですよ。どういうことなのかを解説。

まずカグツチの名前から見てみる。

 カグツチの名前

・火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)古事記

・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)古事記

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ・加具土命)古事記

軻遇突智(かぐつち)日本書紀

・火産霊(ほむすび)日本書紀

こんなにあり。

ぶっちゃけ神の別名が多すぎる場合、1人の神に、複数の違う出身の神を習合してるのが明らかではないかと。これが日本神話の構造の一つ。

カグツチの場合も、複数の別の火神が習合しているんではないかと。カグツチを構成する神の1人が、「旧約聖書」のバベルと火の象徴ニムロドということです。

 

でも上記の名前リストに、ニムロドっぽい名前がない、おかしい。

 ではやっぱり漢字の一字一字に、バベルの塔とニムロドの話を込めているのか。と思って「学研漢和大字典」で調べました。

 

・ 軻遇突智の漢字の意味と解釈

 ①むりに押し込んで車の軸をはめる。車がきしるさま。②轗軻とは事の思うように運ばないさま。③軻峨とはごつごつして高いさま。

バベルの塔は「無理に建てたが思うようにいかなかった象徴」であり、「ごつごつして高い」が当てはまっていますね。

遇 ①あう AとBがひょっこりあう。②相手と関係しあう。[解字]逢は両方が近づいて頂点で出あうこと。(逢と同系)

バベルの塔では「大勢が出会って建設を始めた」、「頂点で神と出会ったこと」が当てはまってるようですね。

突 ①つく つき出る。平面から急につき出す。ある部分だけ高くつき出たさま。②ぽんとつき出しているさま。③つき出たもの「煙突」

バベルの塔は「突き出た塔」なのでそのまんま。

智 ①さとい 物事をずばりと会得したり、あてたりできる。知恵や術にすぐれている。

 これは何かと考えたのですが、「ニムロドがバベルの塔を立てる知恵や術にすぐれている」を言うのかと。

全体としてみてバベルの塔のことを表す漢字ばかり並べられていたんですね。

8万字以上あるという漢字のなかで、バベルの塔の特徴に合う漢字だけが4文字並ぶのは、果たして偶然の一致なのですかね。

 

 ・迦具土の漢字の意味と解釈

 火之迦具土

  ①ひ 物を燃やして光や熱を発するひ。⑥火のような怒り。かんしゃく⑦火で焼いたり煮たりすること。[解字]もと𤈦(やけてなくなる)毀(形がなくなる)などと同系のことば。

ニムロドは「火のように怒りハランを焼き殺した」のであり「バベルの塔は形がなくなった」のであるので、あっているのですね。ここまで一致すると、もしかすると「火」という漢字自体、バベルの塔を表したのかもしれませんね。

 接続詞。

 ①行きあう。であう。一説に解脱するさま。【迦・膩色・迦王】西暦2世紀頃、インド北方および中央アジアの一部を領有した王。

バベルの塔では「人々が出会って建設をはじめ」、「神と出会った」んですよね。インド北方の王の名前を出すことで、舞台がユーラシア大陸の西方だったことを印象づけているようです。

 ①そなわる・そなえる おぜんだてがそろう。⑤ともに

 バベルの塔は、「崩壊のお膳立てがそろった場所」なのですね。とするとバベルの塔の崩壊は、最初から決まってたんですね。

 ①つち ⑦五行の一つ。方角では中央、色では黄色、時では夏の土用、味では甘、内臓では肝に当てる。⑧星の名、土星。⑩土盛りをして土地の神をまつったもの。⑪はかる[解字]土を盛った姿を描いた象形文字

 バベルの塔は中央に位置し、黄色い土色であり、夏の時期に完成したんですかね。土星というのは英語で「サタン」のことです。バベルの塔の建設者ニムロドが、欧州ではサタンと呼ばれていたことと、奇妙に一致してますね。「土」という漢字もバベルの塔を元にしている可能性がありそう。

 という風にここでも、バベルの塔に関係する漢字が使われていました。

 

 

 カグツチを斬った武器「天之尾バベルの剣」

 イザナギカグツチを斬ったのですが、「古事記」を読むとその時の剣の名称が出ていました。「天之尾羽張剣(あめのおはばりのつるぎ」。

「羽張(ハバリ)」って羽根を張った剣みたいですが、音だけ取ればバベルですね。

羽張 ha-ba-ri

バベルba-be-l

ニムロドが集合されてるカグツチ神。彼を斬った剣に、バベルの塔の名前をなづけていたのですね 。バベルの塔の場面とわかりやすいように。天はシュメールのアン神や、エジプトのアメン神のこと。 

そしてこの剣は別名を「伊都之尾羽張剣(いつのおはばりのつるぎ」といったのですね。アブラハムの後の世代がイスラエルを建国したので、この伊都とはイスラエルのイス(伊都)のことなのではないかと。

 

 バベルの塔の物語とカグツチの物語を比較

ココまで来たら、バベルの塔の物語がカグツチの物語と、整合しているんではないかと分かってきますね。では最後に両者を比較。

 

1・舟のあとに塔

バベル1・ノアの方舟の後のこと。バベルの塔の建設のために人が集まった。建設者代表は「火の男ニムロド」。

カグツチ1・イザナギヒルコを葦舟で流し、あるいは天の鳥船を生んだ後のこと。バベルの塔の意味を持つ、カグツチが登場。

 

2・塔の材料の提示

バベル2・煉瓦をつくろう。火で焼こう。石の代わりに煉瓦、漆喰の代わりにアスファルトで建設しはじめた。ちなみにバベルの塔では、上まで水を汲み上げた(塔の材料の提示)

カグツチ2・イザナミカグツチを生むと、イザナミは病に陥った。そのときに金山毘古神金山比売神(金・鉄)、波迩夜須毘古神、波迩夜須比売神(土)、ミツハノメノ神(水神)、ワクムスヒ神(瓶神)を生んだ。(塔の材料の提示)

 

3・完成した塔の様子

バベル3・塔の先が天に届くほど高い。(完成した塔の様子)

カグツチ3・迦具土の「土」は「土を盛る」。軻遇突智の「軻」は高い、「突」は「ぽんと突き出たさま」。イザナギが持っていた剣は別名「十拳剣」で、長い剣の意味。「長い剣=高い塔」を示唆する。完成した塔の様子)

 

4・塔の崩壊と部族の拡散

バベル4・神がバベルの塔を知って不快に思い、言葉を散らして会話できないようにした。バベルの塔から、世界に民族と言語が散らばった。(塔の崩壊と部族の拡散)。

カグツチ4・イザナギカグツチを不快に思い、体を3段(あるいは5段)に斬って殺した。カグツチ神の体が散らばり、様々な日本の神が生まれた。(塔の崩壊と部族の拡散)

 

ミドラーシュの要素A・殺害状況

バベルA・火の男ニムロドが、アブラハムの弟ハランを焼き殺した(殺害状況)

カグツチA・火の神カグツチが、イザナギの妻イザナミを焼き殺した(殺害状況)

 

ミドラーシュの要素B・敵対

バベルB・ニムロドは神とアブラハムの敵対者として描かれた

カグツチB・カグツチイザナギの敵対者として描かれた

 

まぁ、こんなふうに、ほとんど完全に一致してたんですよね。世界の民がひとつから多数に分かれていく瞬間を描いた、バベルの塔・ニムロドと、カグツチの神話の内容は。

 

誰も気づかなかったのは、名前が違っていることや、表現方法が異なっていたせい。そして「旧約聖書」と記紀神話に共通する要素なんかあるはずない、という先入観のせいでしょうかね。

 

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