邪馬台国 の検索結果:
…の「歴史から消された邪馬台国の謎」や、中国の歴史書から情報をまとめてみました。 この図に表示されただけが全てではなく、他にも色々あったのですが、特筆すべき出来事だけを掲載しています。 汗人の大移動 朝鮮半島の付け根に、楽浪郡がありました。鮮卑の檀石槐は、東へ向かい、魚をとるのが上手い「汗人」を、内陸の遼西郡の老哈河のほうへ数百戸も強制移住させてしまいました。 この汗人、実は三国志集解という書物で、倭人の別名であると記されてます。汗人=倭人だったんです。 で、楽浪郡に「満番汗・…
ここで、改めて邪馬台国の位置について、考えてみたいと思います。 全国に邪馬台国候補地は、おそらく100箇所以上あるとみられるのですが、その大部分は日本列島内に位置付けられて考えられていますけれど、海外に邪馬台国の場所を求める見方も少なくないです。その中には日本列島からは、かなりの遠隔地に答えを求める見方もあります。アマチュア古代史研究者も含めて、回答が一致しないのが邪馬台国の位置付けということですが、その中で、記・紀との整合性と遺跡発掘調査を踏まえて、最も有力な候補地とされて…
…て「イワキ」です。已百支と葦分は共に、イワキと読むののかもしれないです。 10斯馬国(シマ)………杵島郡や、島原、鹿島の辺りに、「島」が付く大きな地名が集中していることから、この付近が斯馬国かもしれません。 以上の解釈を元にすると、邪馬台国は筑紫平野ということになってきますが・・・。私見に過ぎませんけれど。 次のパート5では、この仮説を図で表します。後回しにした判別が難儀な国がいくつかありますが、それらが何処に当て嵌まるのかが、図にすることで分かってくると思います。5に続く。
…えます。(A)・記録された順序道り、国同士を線で結んだ時、線が交わらないこと(1番狗邪韓国から9番邪馬台国のように) (B)・古墳時代以降の律令制下での国名・県主・国造・郡といった、古代の「比較的大きな自治体の枠組みを表す地名」と、魏志倭人伝の国の名称が一致していること。 (C)(B)を踏まえて、三十一国の地名には、郷や村といった、群より小さな単位は含まれていないことを前提とする。 これらを踏まえ、魏志倭人伝に登場する諸国を、自分なりに明らかとしてみたいと思います。3に続く。
…韓国から卑弥呼のいた邪馬台国までの行程は、方角と距離で示されていますが、邪馬台国以降に記録される諸国については、陳寿が耳にして漢字に当てはめた、当て字の地名が並んでるだけです。三十一国それぞれが、具体的に何処にあったのか、正確な発音がどのようなものであったか、共に不明瞭となっています。 一説には全国各地の律令制時代の国名や国造の名に、対応してるとも言われますし、九州や西日本の各地に三十一国を当て嵌めるという解釈もあって、人の数だけ解釈も増えてしまい、判然としません。 三十一国…
…大和(ヤマト)とか、邪馬台国(ヤマタイ)に良くにてますね。 ヤマテイと読むのかもしれません。これが大和や邪馬台と同源の地名で、倭人が住んでいたのではないかと想像できます。鎌倉幕府の頃(14〜15世紀)に倭寇が東南アジアへ進出していったことや、16世紀からの朱印船貿易による東南アジア一帯での日本人町形成により、「四海華夷総図」に記録された耶摩提(ヤマト)が誕生していたとも考えられます。しかし日本列島が「旧唐書」の10世紀以前の地理的情報を元にして、倭と日本に別れているとことを前…
…している気がします。邪馬台国が北部九州から奈良盆地へ移転したという「東遷説」の見方で捉えるなら、九州の熊襲の球磨の勢力も移転していることも考えられる気がします。 宋書自体が書かれた時代は6世紀序盤の頃でしたが、宋書倭国伝の内容自体は西暦400年代の出来事が中心です。 「倭王・武」こと雄略天皇は、477年から502年まで、宋書や梁書に記録されてました。 卑弥呼と狗奴国の争いが起きていた247年からは、200年以上も経過している段階でも、奈良の東側を「毛人」と表していたのは、東日…
…国・不弥国・投馬国・邪馬台国・斯馬国・已百支国・伊邪国・都支国・彌奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国実際には、邪馬台国に従わない狗奴国を加えて31国あります。 また、狗邪韓国を韓国という名詞が含まれているからと、倭国から除外する見方もあるらしいです。けれどそれは間違いで、何故かというと魏志倭人伝には、倭国の北岸が狗邪韓国だと書かれているためです。3世紀当時の韓国という概…
…馬国があり、倭国には邪馬台国と邪馬国がある。 「卑離・巴利」馬韓には7つの卑離国があり、倭国にはよく似た巴利国がある。 「樂奴・華奴」弁韓には弁樂奴国があり、倭国には華奴蘇奴国がある。 「躬臣・古資」弁韓には弁辰古資彌凍国があり、倭国には躬臣国がある。魏志に記された地名だけでも、倭と韓ではこれだけ完全に一致するもの、似たものがあることが分かりました。 魏志の三韓地域に居住していた倭人の記述を元にすると、これらの地名は倭人に関わるのではないかと思われます。 特に彌烏邪馬国の邪馬…
…れらの国はそれぞれが邪馬台国の女王卑弥呼に従属する小国で、またそれぞれに個別の王を擁していました。倭国とは30カ国の連合王国だったのです。それ以前には100余りの小国に分立していたことが後漢書に書かれています。細かい国々が統合されたようです。 47都道府県をいくつかの州に纏めようとする道州制が、実現へ向けて議論され注目されていますが、3世紀以前の段階でも、現代と同じような統合と対立があったようです。唯一狗奴国だけが、邪馬台国に従わず、独立を保っていました。しかし一般的にはこの…
…、投馬国に五万余戸、邪馬台国に七万余戸と記されてます。これらの諸国は魏志倭人伝に登場する一部の国の戸数であって、当時の全国の人口を知るには至りません。けれど、それでもわかっている限り、北部九州という当時の大陸との接点を担う重要な拠点、末盧国・伊都国・奴国の3国に、合計二万五千戸余りの家があったと記録されるのは、3世紀当時の倭国の人口を推計する上で貴重な資料と理解されると思います。倭国の住宅は基本的に木造一戸建ての竪穴式茅葺き土壁の住居で、囲炉裏が中央に据えられ、恐らく二世代以…
…で、倭国の都であった邪馬台国に注目して見ていきます。邪馬台国には卑弥呼の下に、数人の人物がいたことが記されています。それぞれ、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮で、他に卑弥呼の弟で男弟と示される人物がいました。先述した通り、これには通常、二通りの考え方が通用するかと思います。1つには、これらの名は官職名であるという説。もうひとつは、日本書紀や古事記に登場する人物名に当て嵌まるとする説です。後者の場合、3世紀の倭人が記紀に記録されており、しかも中国の史書との整合性が得られることに…
…魏志倭人伝によれば、邪馬台国の南方には、狗奴国という女王国に属さない国がありました。王の名は卑弥弓呼(ひみくこ)で、狗古智卑狗(くこちひく)という官がいました。正始八年(247年)、倭の女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の軍が、互いに諍う様子が記されています。魏は倭国の大臣である難升米に詔書と黄巾を授け、倭国と狗奴国の争いに魏が介入することを示しました。この直後、どういうわけか卑弥呼は死んでしまったと書いてあります。魏志ではその死因も明らかにはされていません。この一連の出来事と、日…
…によって、日本全国の邪馬台国候補地は、長い年月をかけた綿密な発掘調査と中国正史を元にした考証が、充分に為されてきました。それでも邪馬台国の場所が正確に特定されず、畿内だ九州だ四国だというふうに意見が統一されないのは、第一に魏志や記紀の記述が極めて曖昧なことに起因するのは明らかなことのようです。魏志倭人伝の検証には限界があり、解釈はどうしても、人それぞれの主観が反映されてしまいます。アマチュアの歴史研究者の意見まで含めると、おそらく候補地は数百箇所にも上るものと思われます。その…
…います。纒向遺跡から邪馬台国の宮殿跡なのではないかとして、2009年に国内で最も注目を集めた遺跡が、纒向遺跡の建物遺構でした。南北19.2メートル、東西12.4メートルの大型建物跡を含む4棟の建造遺構等について、桜井市教委は「三世紀前半の庄内式古相段階の構築、三世紀中頃の庄内式期の廃絶」という見解で、魏志倭人伝に記された、邪馬台国時代の建造物群であるという見解を示しました。この遺跡と倭人の方位に何の関係があるかというと、この巻向遺跡の、第20次・第162次・第166次・第16…
…いました。福岡県に、邪馬台国甘木説というのがあります。安本美典氏らが提唱している説で、記紀神話との地名の一致率が高いです。邪馬台国東遷説も浮上してきます。甘木説は邪馬台国東遷説でもあります。元々倭国の首都・邪馬台国=ヤマトは筑後平野にあったものが、東遷し奈良地方に移って大和=ヤマトとなったというものです。この筑後平野の甘木を中心とした地方には、奈良とそっくりの地名が点在しているとのことです。魏志倭人伝では、奴国の南方の方角に卑弥呼のいた邪馬台国あったことについては、先日別項で…
…、倭国の当時の首都、邪馬台国が北部九州にあった場合、出雲が東の象徴と認識されたかどうか。その場合、出雲、和泉といった東に当たる地名が、何時の時代からそう呼ばれていたのかが気になります。出雲の場合は記紀の神代の時代から登場していて、この神代が実在したのか、だとしたら何世紀以前が神代なのかも気になります。線分eは奴国から、狗邪韓国─末羅ラインで明らかとなっている、南方面へと線を引いたものです。これは魏志での南北軸になっています。奴国の南に投馬国があり、その南に邪馬台国があるという…
…から)南、邪馬壱国(邪馬台国)に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月 12・女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず 13・その南(女王国の境界にある奴国の南方)に狗奴国あり、男子を王となす 14・その道里を計るに、当に会稽(中国浙江省・江蘇省)の東冶(福建省)の東にあるべし 15・女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ 16・女王国の東、海を渡る千里余、また国あり、皆倭種なり 17・(女王国の東に)また…
…うかを、検証します。邪馬台国の候補地は80カ所以上もあるらしく、日本全国が邪馬台国候補なのですが、そのなかで最も歴史研究者の推挙が多いのが畿内説。畿内には比較的、邪馬台国の条件が揃っています。魏志倭人伝に書かれた帯方郡から伊都国以降の不弥国、投馬国、邪馬台国へ至る「距離」が最も無理なく当てはまっているんではないかと言われてます。 発掘調査では巨大な神殿跡が見られますし、何より巨大古墳の築造地としては日本列島で他に比類ないほど巨大古墳の集積が顕著です。箸墓古墳や黒塚古墳、中山大…
…魏志倭人伝によれば、邪馬台国の南方には、狗奴国という女王国に属さない国がありました。王の名は卑弥弓呼(ひみくこ)で、狗古智卑狗(くこちひく)という官がいました。正始八年(247年)、倭の女王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の軍が、互いに諍う様子が記されています。魏は倭国の大臣である難升米に詔書と黄巾を授け、倭国と狗奴国の争いに魏が介入することを示しました。この直後、どういうわけか卑弥呼は死んでしまったと書いてあります。魏志ではその死因も明らかにはされていません。この一連の出来事と、日…
…墓を築造した人々が、邪馬台国と倭の中枢の人々よりも早い段階で埴輪を用い始め、その後それを知った野見宿禰が、垂仁朝で楯築のように埴輪を導入すべきと提言したということならば、話は合いそうです。ところでこの殉死という恐ろしい風習。実は倭国独自の風習ではありませんでした。江上波夫氏の著書「騎馬民族国家」のなかに詳しいのですが、これは騎馬民族的風習で、つまり北東アジアでいうと高句麗や扶余の王が亡くなった際に行われるものだそうです。 それで、その殉死はさらに、北東アジアで始まったものでも…
記事一覧 概要基本的には古代史、古代史とかの内容。 自身で考えた、思いついた発想を保存する場所として。内容は、通説から外れがち。 多くの側面からの検証を踏まえた上、できるだけ柔軟に発想し、新たな解釈を導きたいとおもいます。 古代史の分析範囲 古墳時代以前(7世紀以前)の倭国史・邪馬台国研究・北東アジア史・中央アジア史・騎馬民族研究ほか。不定期更新。 ○いつも助かっております 人気ブログランキング