たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

倭の諸国分析2

 最も分かりやすいところから、攻略していきます。三十一国の位置を特定する鍵を握っているのは、30番目の奴国と、31番目の狗奴国ではないかと考えてます。
 魏志倭人伝には「奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり」との記述があります。
 30番目の奴国と31番目の狗奴国は、倭国の中でも最も端っこの部分なのです。

 魏志からは、「奴国の南に狗奴国があった」と解釈でき、狗奴国の位置を導くことができます。この場合の奴国とは、6番の九州の福岡平野あたりにあった奴国ではなく、30番にある「2番目の奴国」のことです。
 狗奴国がどこにあったかについては、九州南部説や関東説など諸説別れますが、私見としては、東海道と関東を合わせた、東日本一帯が狗奴国だったと考えていて、これについては別項「東日本は狗奴国だったか」を参照してください。
 北関東の上野国はかつて上毛野国造が収めた地域であり、下野国はかつて下毛野国造が治めており、豊城入彦命の後裔である毛野氏の領域でした。また、毛野とは東日本一帯が毛人国と呼ばれた名残りかもしれません。これに静岡県にあった久努国造を「ku-nu」と読み、狗奴(ku-na)国の名残りであるとするところから、「狗奴国東日本一帯説」という仮説が導き出せました。

 さらに補足するなら、美濃国南部には可児郡があり、伊勢国北端には桑名郡があり、これら可児(ka-ni)郡・桑名(kuha-na)郡は久努の地域に接しており、狗奴国のクナの名残りであって、後に転訛したものと解することができます。

 奴国は、狗奴国の北部にあったと思われます。その30番の奴国は、後の「濃国」のことではないかと思います。
 中部地方には、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)といった、「濃」の国がありました。
「濃(no)」と「奴(na)」は子音が共通し、母音の違いは訛って変わる範疇ではないかと思います。美濃・信濃は「濃国=奴国」という仮説です。
 また、美濃と信濃は広大な地域であり、これほど広大な地域に奴に通じる漢字「濃」を持つ地域は、日本列島には他に無いです。
 美濃国や信濃国律令制時代の国名ですが、美濃国には元々「三野前国造」と「三野後国造」があり、信濃国には「科野国造」がありました。
 群(こおり)では、美濃国に恵那群、信濃国に伊那郡があり、これら「那」と「野」は、律令制下での「濃」で表され、それら大きな地名が中部地方に集積しているのは、魏志倭人伝での「奴」国の名残りであるというわけです。
 狗奴国にとって東海地方は、卑弥呼率いる倭国連合と対峙する上で、防衛上の最最前線・最前衛部だったでしょう。
 濃国=奴国は、狗奴国の最前線拠点である東海地方の北部に当たるので、魏志倭人伝で、「2番目の奴国の南に狗奴国があった」との記述とも、十分符号します。

 県主(あがたぬし)や国造(くにのみやつこ)の名は、古代からそのまま地名として通用していったようです。
 県主と国造を簡単に説明すると、県主は古墳時代大和王権(天皇)の中央政府から派遣され、領地を束ねた首長といったところでしょうか。
 国造は、同じく古墳時代より、元々その土地にいた豪族の首長を大和王権・天皇側に従属させ、地方を収める首長として任命したものです。両者とも、全国の地名として、中世を経て現代まで呼称が残っていることは、「和名抄」と現代地図を見比べてみても明らかです。

 三十一国を知る上で必要な要素は、次のようなものだと考えます。

(A)・記録された順序道り、国同士を線で結んだ時、線が交わらないこと(1番狗邪韓国から9番邪馬台国のように)
(B)・古墳時代以降の律令制下での国名・県主・国造・郡といった、古代の「比較的大きな自治体の枠組みを表す地名」と、魏志倭人伝の国の名称が一致していること。
(C)(B)を踏まえて、三十一国の地名には、郷や村といった、群より小さな単位は含まれていないことを前提とする。

 これらを踏まえ、魏志倭人伝に登場する諸国を、自分なりに明らかとしてみたいと思います。

3に続く。