七支刀って知ってますか。
あれ、とても不思議なかたちしてますが、実は銘文が刻まれていたりするのです。実はそこに、従来の定説とは違った情報が、入ってるんではないかと思ってるわけなのです。
七支刀とは
「日本書紀」の神功皇后の条を見ると、七支刀を百済王から贈られたみたいな話があります。その後は長らく、奈良の石上(いそのかみ)神宮に保管されていたんだとか。
それで七支刀の銘文は割とボロボロなところがあり、贈られた年代などの肝心な情報は読み取れなくなっているのです。
七支刀の銘文
表
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
(泰■四年十一月[1]十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作)
裏
先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
(先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世)
こんなふうになっていました。
七支刀の年代「泰■四年」は東晋の「太和四年」のことで、西暦369年だとか言います。まぁ「泰」は「太」と音は同じだけれど、字が違うのは如何なものかという話もあり。
他の説では「泰」の字で合っている、西晋の「泰始四年」(268年)、劉宋の「泰始四年」(468年)だとの説もあったりするんですよね。
「日本書紀」を見ると、神功皇后の時に肖古王が登場してるのですが、肖古王と言えば卑弥呼の頃(200年前後)の肖古王か、350年前後の近肖古王のどちらかなわけですが。
前者なら泰■は泰始四年に近く、後者なら太和四年が合ってることになるようです。
そういえば、神功皇后の子である応神天皇の条に、385年頃の王である辰斯王、392年頃の阿莘王が登場しているのです。だから個人的には泰■四年とは太和四年で、369年が正解だろうと思っています。この理由は他にもあるのですが。
369年頃の百済王は諸説あるのですが、近肖古王、近仇首王、枕流王あたりではないかと言われています。
ちなみにウィキペディアにある、宮崎一定氏の解釈
「泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥」
じっくりと銘文を調べたのですが、「永年大吉祥」というのは、どう見ても実際には書いてないですけどね・・・。
七支刀の銘文を見たら、「過去に百済でこんな刀、作ったことなかった」みたいに書いてるのです。
するとこの時に七支刀の形を作ったのには、明らかに意味があったんです。このかたちと名前によって、当時の百済王の存在を現しているんではないかと。
つまり「七支刀の百済王の名前が入ってる説」ですが。これを検証してみることにします。
一番に目をつけたのは、近肖古王でした。
この王は事実上で百済の最初の王だとか。中国の「晋書」に「余句」の名で登場していて、年代が割と特定されています。西暦346~375年頃の百済王だったのではないかと。
そうすると369年はぴったり当てはまってますね。しかし別の王だとの説もあるので、証拠がないといけませんでした。
それで七支刀に、近肖古王の名が含まれるんじゃないかという個人的な仮説です。
七支刀と近肖古王、ぜんぜん違うじゃんってことですが。
七支刀
しちしとう
ななつさやのたち
きんしょうこおう
たしかにパッと見た印象は違いますね。
しかし七支刀の中に、近肖古王が含まれているような気がしました。
支 さや
肖 さや
肖は「さや」と読むらしいです。
どっちも「さや」で、合わせているんではないかと。七支刀と書くことで、近肖古王が贈ったとわかるように。
だから7つの支(さや)がある剣を作り、「ななつさやのたち」と命名されてるわけです。
あと地名。近肖古王は369年に、北朝鮮の黄海南道白川郡の雉壌城にいたとか言うのですが。
雉壌 ちじょう→ちじ
近肖 ちかしょう→ちし
七支 しちし
これは「ちし」で名前を合わせているんではないかと。雉壌は「ちじ」だし、近肖を「ちかしょう」として頭文字を繋いだら「ちし」ですし。
つまり七支刀の中に近肖古王と、拠点だった雉壌城の名を含めているのであろうと。
369年に近肖古王が雉壌城にいたから、その記念に名前の発音を合わせて、369年に七支刀を作ったのではないかと。
息長帯比売命 おきながたらひめ
気長足姫
息 おき
気=氣 怒る おこ
近肖古王 きんしょおこ
神功皇后は諱(いみな)が息長帯比売命、気長足姫だったのですが。
気は「氣」とすると「怒る」意味もあるらしいです。ようするに神功皇后は「おき」「おこ」なのです。
そのため近肖古王が「おこ」を含んでいるのは偶然じゃないみたいですよね。名前を合わせているんですかね。
あと銘文になんか「奇生聖音・・・」とあるのですが、これは翻訳機使ってもちょっと意味が通じない感じでした。
ということで、これ実は名前の一部で「百済王世子近肖」のことではないかと
百済王世子寄生 ・・・寄生(きしょう)
百済王世子近肖 ・・・近肖(きんしょう)
実は、「百済王世子寄生」までが百済王の名前を現すところなんです。
寄生と近肖、漢字は違いますが、発音はだいたい合っていますし。これは泰和と太和の違いみたいなことです。
ヨモギの葉っぱ、見たことありますか。
こんなのです。なんか七支刀に似てますね。
中国の繁体字「蕭(しょう)」は、簡体字にすると「肖」なんですね。これは第二次大戦後に中国が漢字の簡素化を進める際に生まれたらしいです。
奇しくも近肖古王の肖とほとんど同じになりましたが。古来からある肖と、中国の簡体字の肖はまったく別物っていうことでした。
古来からある「蕭」って、ヨモギの意味がある漢字だったみたいですが。
そうすると七支刀がヨモギの形をして、近肖古王の「肖」がヨモギであるということになるんですよ。何か偶然が重なり一致していて、運命的なものを感じてしまいました。
あと七つの剣先をもつ七支刀は、魔除けの役割だというのです。古代イスラエルの魔除けの祭祀具メノラーと、形状も魔除けの役割も似通っているんですよね。
メノラーが東洋に伝わり、ヨモギとかけ合わせて作った可能性もあるかと思いました。
神功皇后伝承を歩く〈上〉福岡県の神社ガイドブック
七支刀を作ったのは倭王だった件
歴史家先生によると、七支刀は百済が作って倭王に献上した、あるいは百済王が晋で鋳造してもらい、百済が倭王に献上したのが通説らしいすよね。
しかし銘文を見ると、気になることがありました。以下はウィキペディアにあった、銘文と解釈です。
「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」
「先世以来、未だこのような刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せることにした。それ故に、倭王が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示されんことを。」
これの、「故為倭王旨造」または「故為倭王旨造傳示後世」の部分をグーグルで翻訳してみるのです。
すると、
「故為倭王旨造」
「だから日本の国王が作った」
「故為倭王旨造傳示後世」
「そのため、日本の国王が後世に伝えるために作ったものです」
どう見ても「故為倭王旨造」を翻訳すると「七支刀を作ったのは倭王だ」となるのですが・・・?
「百済が作った、百済王が作った」とは翻訳できないですよね?グーグル翻訳でやってみてください。
なんか歴史の通説と、本文の意味が全然違ってしまいましたが、なんでだろう。ほんとは「倭王が作った(神功皇后が百済の近肖古王に作らせた)」が正解ナノではないかと思いました。
そうすると「七支刀銘文」と「日本書紀」の記述は違ってることになり、舎人親王は銘文本来の意味を無視してるんですね。
七支刀銘文「七支刀は倭王が作った」
しかも歴史研究者の定説も、なんか韓国に都合が良いような解釈してる感じですね。
ほんとは「倭王が作った(百済に作らせた)」のに、長い間ずっと「百済が倭王に与えてやった」ことにしているわけだし。
まぁこんなふうに、七支刀の銘文を見ると、「日本書紀」や歴史研究者の定説は違っているのは明らかなのです。議論の必要はあるかと思いました。
ぽちされでたすかります
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