栃木県下野市(しもつけし)といえば、最近原稿の執筆をしているなかで、古墳の測量図を送っていただくなどあって、個人的に興味を持った街でした。
以前、下野市で考古学上の重大発見があったので、それを取り上げます。
○いつも助かっております
下野市と機織り機
下野市は、甲塚古墳(かぶとづか)、下野国分寺、天平の丘公園など、見どころが多いです。
下野市の名の由来は江戸時代まで栃木県は下野国(しもつけのくに)だったことに由来します。下野国はもともとは下毛野国(しもつけのくに)と書いて、毛野氏の領域だったところ。『日本書紀』で崇神天皇の皇子、豊城入彦命が東国へおもむき毛野氏の祖となったとあります。
『古事記』及び『日本書紀』で、神代に天照大御神の忌機屋(神聖な機織殿)で、機(布)を織る女性「機織女(はたおりめ)」が登場してます。
この機織りが、下野市に密接な関係を持っていたのです。
この神代の時の機織り機は、通説では弥生時代から古墳時代後期まで用いられた、単純な形式の機織り機「原始機(げんしばた)」の種類ではないかという。復元図があり、こんなのでした。
で、その後6世紀以降に大陸から最新式(?)の機織り機が導入されました。それは地機(じばた)とよばれる木組みの機械でした。こんなの
ちなみに大陸の中国やインドでは、紀元前から機織り機が存在してました。
中国では紀元前後には提花機(ていかき)または花機(はなはた)とよばれる特殊な織機で錦(ブロケード)を織って世界へ輸出していた。
さすが中国。4千年の歴史(?)。
この2種「原始機と地機」は今まで日本の弥生時代~古墳時代の遺跡から、部材は出土してはいましたが、使っている様子などはわかりにくかったとか。
甲塚古墳
そんな中、下野市(しもつけし)の前方後円墳である「甲塚古墳(かぶとづか)」の発掘調査で、原始機と地機を使う女性の埴輪が見つかっていたということです。
下野市のサイトに甲塚古墳についてのページがあり。
甲塚古墳は、下野国分寺跡の南西部に位置しています。全長が約85mの帆立貝形前方後円墳で、墳丘第一段目に幅広い平坦部(基壇)をもち、前方部を南に向けています。発掘調査により馬や人物をはじめとした数多くの埴輪や土器が出土しました。これらの出土した遺物から、この古墳は6世紀後半に造られたと考えられます。
さらに調べると、
下野市 - 機織(はたおり)形埴輪を公開します
日本初の機織型埴輪
と題して、機織埴輪を公開していました
http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/page000011200/hpg000011162.htm
こういう昔の様子が分かる埴輪を残してくれたのが、古代の日本人の凄いところです。
PDFファイルの詳しい解説があり、以下のとおりに書いてあります。(引用)
地機
地機は、近年の発掘調査により6 世紀前半頃(滋賀県斗西遺跡)から経巻具などの木
製品の部材が出土していることから日本でもこの頃には使用されていたことは判名していましたが、全体像は不明でした。しかし、甲塚古墳出土の人物を伴う機織形埴輪が出土したことにより、組み上がった状態での形状を示す例が皆無であった地機について、稼働状態に組んだ形の機織機の構造が明らかになった、日本初の事例です。
人物埴輪7 とした機織形埴輪は、宗像大社に「金銅製高機」として所蔵されている雛
形と細部については検討の余地がありますが、近似した構造になると考えられます。
原始機
原始機は、弥生時代から古墳時代後期頃までがおもに使用されていた期間ですが、実際に日常的にはいつまで使用されていたかは不明な点も多く、民俗例からの類推にとどまります。
原始機は経保持法により直状式と輪状式の2 つに大別できますが、この埴輪は形状的
に輪状式の原始機と考えられます。ただし、経部分は経送具下部で埴輪基台天井部に接合して、省略した表現がされており輪状を呈してはいません。
今回ほぼ完全な形で原始機をかたどった埴輪が出土したため、実際に織る状態を再現する点で、今まで類例が無い稀有な例になります。この機を織っている人物は体部が出土しておりませんが、腕が出土しており腕輪(釧)を着けていることから女性と考えられます。
機織型埴輪出土の意義
全国各地の発掘調査により、6 世紀前半頃の遺跡から機織機の部材は出土していまし
たが、いずれも木製品のため遺存状況が悪く断片的なもので全体像が判りませんでした。今回、新旧2 種類の埴輪が出土したことにより、6 世紀後半におけるこのような機
織機の存在のみならず、組み立てられた様子が甲塚古墳の埴輪によって初めて明らかになりました。
古代の機織り機の実態を知る上で、甲塚古墳の埴輪は重大な発見だったとか。この機織埴輪の出現で、埴輪の重要性を再認識。
ところで、ここに登場した「宗像大社の金銅製高機」はこれ。
ところで下野市の神社といえば
「栃木県の神社」
原稿を書く上で、お世話になっております。ここで調べたところ、甲塚古墳の近くに八幡宮が。
『日本書紀』には応神天皇の時代、百済の腆支王(直支王)が登場します。このかた、西暦405~420年の百済王なので、応神天皇の年代は5世紀初頭です。実は腆支王は中国の『宋書』にも登場してくるんですよね。
だから誉田別尊=応神天皇と腆支王の年代が、西暦410~420年前後で重なっているというのは、合っている気がします。まぁもう少し、具体的に年代を出せるのですが。それは後ほど・・・。
で、応神天皇の頃、5世紀初頭は、当初はまだ「原始機」の時代でした。
でなんで八幡宮が気になったかというと、応神天皇は「八幡神(やはたがみ)」ともいわれてましたので、気になったのです。
(A)「十四年春二月、百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉った。真毛津という。これがいまの来目衣縫(くめきぬぬい)の先祖である。この年、弓月君が百済kらやってきた」(日本書紀(上)全現代語訳・宇治谷孟)
(B)「十五年秋八月、上毛野君の先祖の荒田別・巫別(かんなぎわけ/別名鹿我別命)を百済に遣わして、王仁を召された」
(C)「三十七年春二月、呉(くれ)の王は縫女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四人を与えた」
(D)「四十一年春二月二十五日、(応神)天皇は明宮で崩御された。(中略)この月、阿知使主らが呉から筑紫についた。このときに宗像大神が工女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。(中略)あとの三人の女をつれて津国に至り(中略)この女たちの子孫がいまの呉衣縫・蚊屋衣縫である」
ということで、応神天皇の時代に大陸から衣縫女がやってきて、おそらくこの時に大陸の最新式の地機が入ってきたのではと思われます。
すると応神天皇が八幡神というのは、本来は、「機織りの神」も含まれるところはあったのですよね。
先ほどの宗像大社の地機「宗像大社の金銅製高機」は、応神天皇の時に、呉の国(南宋、中国南朝の東部)から来た兄媛が日本に持ち込んだものと同じタイプだったかと想像します。
そういえば栃木県の鬼怒川は、むかしは「衣川」と言ったとか。なんか機織埴輪と衣が繋がるのが気になります。
で、毛野氏の荒田別、巫別が登場してます。このふたかたは豊城入彦命の四世孫(玄孫、やしゃご)なんすよね。
それで、真毛津という人が「毛」の人なので、もしかすると「毛野国」の下野市の甲塚古墳のあたりに入ってきたのかもと。甲塚古墳の機織り機の埴輪は、百済の真毛津をはじめとして、呉の兄媛、弟媛、呉衣縫・蚊屋衣縫、このへんから来ているのではと想像してしまいます。
まぁこういうところで、下野市の甲塚古墳の機織埴輪と、『日本書紀』の応神天皇条の記述と、栃木県の毛野氏と下野市が、色々つながって来たという話になりました。
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